書評 復本一郎著『子規との対話』 橋本 直
本書は著者の還暦記念として出版されたもので、平成十年三月から十五年四月にかけて新聞や雑誌などに発表された、おもに正岡子規を中心とする五十編の文章と三つの対談から成り、巻末に業績を中心とした著者の略年譜が載る。本編は四部構成となっており、著者の言葉を借りれば、第T部は「子規との対話のエッセンス」第U部は「子規との真剣勝負的な対話から生まれた文章」第V部は「お茶の間の歓談的な対話の文章」そして第W部に対談三編(川崎展宏氏、有馬朗人氏、櫂未知子氏)となっている。詳細に読めば多くの発見や卓見が長短の文のなかにちりばめられている一冊である。
まず第TからV部について、平明な文章によって研究者のためだけではない論を書き続ける著者の面目躍如たるものがあるこれら五十編の具体的内容を詳細にふれるだけの余裕はないが、大まかにいえば、一、子規の「写生」の本質を論じたもの、二、近世俳諧を子規がどう見ていたのかについて書かれたもの、三、同時代の俳人、歌人、柳人と子規との関わりについて述べたもの、四、弟子や身近にいた人々との関わりから見た子規について書かれたもの、五、子規その人について書かれたもの、六、その他というような分類ができようか。以下わずかではあるが評者の恣意によって要約紹介する。
子規の「写生」については従来よりあるがままの風景を客観的に写すものであるような認識が一般的であるが、子規の書き残したものを丹念に読めば、実は実景を写す際に感動という形で意識の働きによる対象の焦点化がはっきり述べられており、それが旧派の陳腐さからの脱出口であると主張していた。著者はこれを「主観的写生」と呼んでいるという。(17頁「「写生」の神髄」・19頁「正岡子規の「写生」」・95頁「子規の「写生」と虚子の「写生」」・172頁「子規の写生は「主観写生」であった」等を参照)ほかにも「月並」「滑稽」「不易流行」等々のキーワードとそれらに対する子規の認識が整理され、わかりやすく述べられている。
また、子規の周辺の人々とのことのなかでは、従来あまり焦点が当たらなかった人々について紹介が面白くかつ意義深い。たとえば柳人坂井久良岐が実は門弟とはいえず、むしろ一時短歌の講師であって子規に橘曙覧の『志農布迺舎歌集』を紹介した人物だということ。また、子規の弟子であることを利用してちゃっかり子規の本でもうけようとして顰蹙を買った人々もいたこと。そして虚子碧梧桐の影に隠れて忘れられていた観のある子規の高弟佐藤紅緑の句と俳論に光を当てているいることなどなど。
他にも、多くの議論を呼んだ子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の「十四五本」の典拠の指摘などは、近年の柴田奈美氏の研究とも相まって今後の子規学の展開を示唆するものである。
第W部は一変して対談集となっている。この三つの対談について共通していることは、俳句界の現状への深い憂慮であろう。まず、川崎展宏氏との対談「子規とその時代」(初出「俳句」平成十三年九月号)では、子規とその時代についての示唆の多い対話から浮かび上がった現代の公と私の希薄による感動の生まれ難さを「ぶよぶよの時代」と表現し、有馬朗人氏との対談「正岡子規を語る」(初出「神奈川大学評論」四十三号平成十四年十一月)では、「第二芸術論」における思考の型と子規の学生時代の東大における西洋中心主義的思考の類似の指摘に始まり、退学後の子規の俳句の展開と第二芸術後の現代の俳句の展開が俎上にのっている。いまの知性が欠けうまさばかり追いかけるようになってしまった俳句への憂慮である。三つ目の櫂未知子氏との対談「正岡子規に還る」(初出「鬼」十号平成十四年九月)では、子規と弟子たちの俳句に対する志の高さ、よく勉強していることに対する現代俳人のだらしなさへの憂慮である。その一例がこの「鬼」の会であることを忘れてはなるまい。
当初、書名であるところの『子規との対話』にとまどった。「対話」しているのはもちろん著者であり、その結果を読むのが我々読者なのであるが、文体は対話調からは遠く、要はハイレベルな読書ノート集。あるいはエセーということなのかと。いままで語られてきた子規とは確かに違うものがこの一冊には多く織り込まれている。しかしこれは「対話」ではないのではないか。さらに、元の発表先が違うため手順として書いておかねばならないことであるのは仕方がないにせよ、同じ話が(結論や主要テーマはもちろん別にせよ)幾度か出てきて、それはもう聞いたよ〜、とおもわずつぶやいてしまうこともあった。
しかし、である。思うにこうだ。従来俳句に関わるものの間において正岡子規を語るとき欠けていたのは、おそらくは同時代からの視点の公平さである。多くの場合、膨大な量の子規自身の言述の他、その家族知人友人弟子たちの証言から子規像が形成されている。なかんずく「写生」ということばは、すでに自明のものとして実体化されていたような気分を生み、ややもすれば一人歩きして後代の我々の子規自身への理解をもその枠の中に嵌めてしまっているのである。本書はこのような子規観とは異なり、いまでは顧みられることの無くなった同時代の人々、たとえば批判される立場であったところの宗匠俳諧作家の著述である『発句作法指南』に耳を傾け、それと『獺祭書屋俳話』との関連を見直し、その著者其角堂機一の再評価をおこなう。あるいは子規と同じ俳句革新のベクトルをもちながらその力となり得なかった秋声会の森無黄の言葉にに焦点を当てその子規との差異を見るなど、読み進める内に幕末か明治初めの生まれの語り部の話を聞いたあとのような気分で子規と向き合うことができる、いや、させる本なのだ。
現代に生きる我々は過去にさかのぼる形で子規を見てしまう。既にできあがった価値観や人物像を無いものとして過去にさかのぼることはとても難しい。研究者でも、たとえ高度なレベルでのことではあったとしても、そのような傾向があることは否めない。著者はむしろ、近世俳諧のプロの本領として、江戸から明治へ時代を下っていくことから見えてくる子規の評価を、子規とその同時代の人々の残した言述によって行っているのである。『子規との対話』とはなるほどそのような方法のことであったかと腑に落ちたのであった。
(平成十五年九月五日発行 邑書林刊 A5判 354頁 四五〇〇円+税)