正岡子規と絵
子規は専門的に絵を学んだ経験はないが、教養として学んだり趣味として描いた経験は、大まかに三期に分けることができると思われる。まず、松山時代の少年期に、伝統的な日本画の初歩を身につけた時期、次いで、上京し大学予備門に入って教養科目として洋画を学んだ時期、第三に中村不折と交流していわゆる「写生」論の発想を得てから死に至るまでの時期である。本稿ではそれぞれの時期に分けて子規の絵と画論について見ていきたいと思う。
第一期頃の子規は日本画の型を身につけ、それに従って画を描いていた。「吾幼児の美感」(「ホトトギス」明治三十一年十二月)では、幼い頃友人が絵を習っていることがうらやましく、母親に絵を習いたいとせがんだが許されなかったと回想しており、「病床六尺」(五月十二日)では「余は幼き時より絵を好みしかど、人物画よりも寧ろ花鳥を好み、複雑なる画よりも寧ろ簡単なる画を好めり今に至って尚ほその傾向を変ぜず」と述べている。子規は幼少期から絵が好きであった。絵の独習のためか、十二歳(明治十一)の時、北斎の「画道独稽古」(文化十二)一冊(画文三十五枚七十頁)を友人から借りて模写している。この書は、人物や風景などの描き方についてその運筆方をひらがなで三十一文字の歌にしたもので、歌の通り描いていれば絵が描けるようになっていた。(図@)
この他にも松山中学時代に仲間と出した回覧詩誌「雅感詩文」(明治十四)に香雲の号で図Aのような「竹」の画を描いているが、これは日本画における竹の一つの類型に嵌ったものであろう。 なお、この時期の子規に画論らしきものは見あたらない。また、明治十二年に松山城で開かれた博覧会で「葡萄ノ油絵」をみたとの記録があり(「自笑文草」)子規が油彩を見た最初かと思われる。
次に、第二期についてであるが、この時期の子規は様々な絵についての見方、考え方を養った時期といえよう。子規は明治十七年に大学予備門に入ったが、松井貴子氏によれば、子規はこの時に教養科目で西洋画のいろはを学んでいる。(注1)その影響が表れていると思われるのが、「竹の里歌」の明治十八年七月に藤野古白ら友人と連れだって厳島に参詣しているとき戯れに宿の前の芭蕉をスケッチしたもの(図B)である。「水くきのつたなき跡を後の日にけふのやとりの形見とや見ん」と画賛をつけている点は日本的だが、葉の陰影をはっきりさせようとする意図が見られ、予備門で学んだ洋画の手法で描かれたものではないかと思われる。
また、学校の課題作文(漢文)ではあるが、はじめての日本画と洋画の比較論が明治十九年に書かれている。
欧之画尚緻密尚功麗以誇其迫真而至古与雅絶無之也我国 之画反之其写真不及彼而其古雅勝彼遠
(「読本朝画人伝 即題」明治十九年)
洋画は緻密、功麗で迫真を誇るが、古風や雅致といった伝統的な美感が感じられず、日本画は真を写すには洋画に及ばないが、古雅の点では勝っているとするものである。このあと、これは過去の日本画の話で、今の日本画は迫真も古雅もないと批判している。子規の画論は不折との論争で考えを改めるまでは、おおむねこの考え方であったとみてよいのではないか。
この論に沿って子規の考えがあらわれているのが、明治二十三年、上野の美術展覧会で北斎の「西瓜図」をみた次のような印象である。
北斎の画きし西瓜を半切せし上に白紙を張り赤色の神にしみたる処は如何にも真に迫り西洋画も三舎をさけんと思はれたり、思ふに此趣向ハ西洋画より得しにはあらざるか、北斎はいまだ西洋画を見るに及ばざりしか。
(「筆まかせ 第三編」四月一日)
子規はこの絵を見て「真に迫り 西洋画も三舎をさけんと思はれたり」と述べ、その描写の迫真性に感嘆している。「西洋画も三舎をさけん」という物言いは、後に子規自身が言うところの「頑固なる日本画崇拝者」(「墨汁一滴」六月二十六日)であるところを読みとることができるかもしれないが、ここはそのあとに西洋画の影響の元に北斎の画が成ったのではないかという分析をしている姿勢に注目したい。やはり、先ほどの課題文と同じように「迫真」性では洋画の方が勝るという認識が前提になっている。つまり、子規はこの点においては不折らの影響を受ける以前からすでに自明のことであると考えていたことがわかる。また、子規はこの時期に下村為山と邦画洋画優劣論をやって、負けたつもりはなかったと回想しているが(「画」「ホトトギス」明治三十三年三月)おそらく、そのよってたつところは日本画の「古雅」の面であったろう。後に不折に対しても「油絵につきては絶対に反対しその没趣味なるを主張」(「墨汁一滴」六月二十六日)したというが「没趣味」とは「古雅」がないということではないかと思われる。
ところで、この時期の子規の感じていた洋画の長所である「迫真」性に名称を与えたものが後の「写生」の骨格と考えてもよいのではないだろうか。不折と出会って後に子規は「洋画の長所は写生にあり」(「棒三昧」『日本』明治二十八年)と言うようになったが、既に先に挙げた課題作文で子規は洋画は真に迫り、日本画は真を写すについては洋画に及ばないとも書いており、「写生」という言葉を用いていないだけで、内容は同じことを言っている。つまり、不折との論争で子規の認識が変わった点は、洋画については元々もっていた考えのより理論的な肉付けで、日本画についてはその長所と思っていた「古雅」に対する認識の変化ということだったのではないだろうか。
次に、図Cは子規が明治二十六年夏に奥州に旅行したときの記録(「はてしらずの旅中手記」)中の秋田市から八郎潟方向、寒風山・本山を眺めたスケッチである。健康なときの子規はよく歩き回っているが、風景のスケッチは意外に少ない。この絵は山に陰影をつけ立体感をもたせようとしている点や固定した視点から遠望している点に西洋画の遠近法の影響が見受けられるように思える。しかし、遠くに山、中央に林、近くに人という構図は、遠景・中景・前景という中国伝来の伝統的三部構図法的な見方からも抜け切れていないようである。 このようにこの時期の子規は画論においては決して「日本画崇拝」一辺倒だったのではなく、また、画の実践においても、いわば和洋混在のものがあり、それはそのまま明治時代における絵画文化の混乱した状況を反映したものとも言えるのではないだろうか。
最後に、不折と子規の出会って以後について見ていきたい。子規は明治二十七年に「小日本」の挿絵を依頼した中村不折と画論について議論しあううちに、専門とする俳句との共通点を見いだし画の用語である「写生」を文学理論に転用した。その経緯は、「墨汁一滴」「病床六尺」や「叙事文」(明治三十三年)に記事があり、「叙事文」の「実際ありのまゝを写すを仮に写実といふ。また写生ともいふ。写生は画家の語を借りたるなり」は子規の写生の説明としてよく引用される。このように写生を理論化した時期の子規の絵や画論はどのようなものであったろうか。
子規は「文学美術評論 写生・写実」(「ホトトギス」明治三十一年十二月)で、写生と洋画と日本画について具体的に論じている。この評論文で日本にも過去に写生はあったが、輪郭づくめのために無理がでて「理屈的写生」に落ちてしまったとし、以下のように述べる。
油絵が這入つて来ていよ写生が完全にできるようになつた。此写生は無論感情的写生(理屈的写生といふたのに対していふ)であつて、人が物を見て感ずる度合に従ふて画くから、鯉を画いても鱗を三十六枚画きはせぬ(中略)それで実物見たように出来る。これは没骨画なるがためであつて、輪郭の代りに絵の具が自然の輪郭を為るのである。(中略)此油絵は一から十まで写生するので、殆ど写生で無い者は無い。
このように子規の画論における写生とは油絵の写生であり理屈で描く写生に対し「感情的写生」であるという。その「感情」については「感ずる度合に従ふて画く」と言っている。つまり作者が自分が見た印象の深さに従って描くということであろう。これは意識して焦点化した対象を描くということであり、後の「叙事文」の「実際ありのまゝを写す」とは若干意味が異なるように思われる。前者では明らかに作者の意図としての描く対象の焦点化が含意されているのに対し、後者の物言いはすこし客観性が高いように思える。(注2)
次にどのような絵を描いたかをみよう。子規は自分の写生説に従って油絵を実践することは出来なかったが、最晩年になって不折がくれた絵の具で毎日のように水彩画を描いた。「果物帖」「草花帖」「玩具帖」などをはじめ、窓外の風景など様々なものを丹念に写している。これらの子規の画は、純粋に洋画の形式に見えるものと和洋混在のものとがある。「果物帖」や「草花帖」等の絵は非常に丹念な写生であるが、油彩の静物画のようなもの(図D)や、学名が書かれて博物学の絵の影響が見受けられるようなもの(図E)、また俳句を画賛のように書き込んだ絵もあり(図F)多様である。晩年の子規の絵はモルヒネで痛みを抑えつつ、日々の楽しみとして絵を描いていた(「病床六尺」八月六日の記事)という面が強く、体調にも左右されるから、必ずしも理論と実践を一致させてみるものではないかもしれない。図G「庭前八景・窓前」は明治三十二・三年頃描いた自宅の庭の写生画で、図Hは「草花帖」(明治三十五)中のロベリアの鉢植えの絵である。ともに不折の影響を受けて後の写生ではあるがそれぞれの巧拙は比べるまでもない。ただ、この両方の絵に共通する特徴で、子規には丸い鉢を立体に描こうとするときに、上面をやや鳥瞰的に見て楕円に描いても底は直線的に描く傾向があることが見いだせよう。理論通りに見たままを写すのなら、そのようなディテイルにもこだわると思うのだが、非常に丁寧に描いた後者でもやや不自然になっている。 この時期の子規の画は漱石が「拙くて且真面目である」(「子規の画」朝日新聞 明治四十四年七月四日)という評価が最も正当であるように思われる。
注1「子規の絵 西洋絵画と文人画のはざまで」(『シリーズ俳句世界別冊2 子規解体新書』雄山閣 平成1 0年3月、171頁)
注2松井貴子氏によれば、フォンタネージの教えに自然そのままでなく「焦点をあわせたものを精細に写す」ことがあったという「近代「写生」の系譜フォンタネージの絵画論」(「比較文学」第39巻平成8年、8頁)子規のこの考えも不折らを経由したフォンタネージの理論の影響かとおもわれる。
付記・・・本校中に引用した子規の絵はすべて「子規全集」「子規写生画」(ともに講談社)からのものである。
※諸般の都合で画は出していません。「子規写生画」や子規記念博物館の資料などで御覧ください。
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