第95回青年部勉強会報告

21世紀俳句の新領域を探る(19)「季語の現在─本意の変遷と生成、その未来」  

              

 季語を扱うということは、常に古くて新しいテーマ、と言うことになるだろうか。今回、そもそもの問題意識は、季語が持つ機能を、本意や、無季俳句との詩性の相違や、作品の内と外という視点からあらためて整理、確認することにあった。残念ながら実際には全てを言い尽くすことはできなかったが、いくつかの問題に焦点をあててみたい。
 まず、今さらながらではあるが、辞書レベルから引いておくと、

  き‐ご【季語】

   連歌・連句・俳句で、句の季節を  

  示すためによみこむように特に定め

  られた語。例えば、鶯は春の季語、

  金魚は夏の季語。季の詞(コトバ)。  

  季題。(『広辞苑』第四版)

とある。辞書的には単なる約束事だが、実際には俳句一句中に的確に詠み込まれれば、特有の詩的機能を発揮する語とでも定義できよう。歴史的には連歌以来、当意即妙の証として当季の語を織り込むのがよいとされてきた。それは、挨拶を重視すると同時に、通時的/共時的な詩的機能を引き出すため最大の効果をもたらすためのものであって、軛のごとく自由な表現を束縛するものではない。
 今の有季定型の句作の実践の場では、知覚の対象かつ季語でもある言葉から句をまとめていくことや、発見したフレーズと季語をまとめて一句とすることが多いのではないだろうか。
 この、季語と切れを入れるか入れないかによって、他ジャンル、特に最も近い川柳との線引きがあるともいう。寺田寅彦などは、明快かつ安直に言ってのけたが(「俳句と天文」参照)、ことはもう少し深いだろう。仁平勝は、わが国の伝統的な詩の理念はつねに大衆的な感性とあやうい壁一枚で隣り合わせだと指摘する。音数律の上では大衆歌謡(例えば唱歌や軍歌、子守歌、都々逸でもいいだろう)との区別が弱く、「短詩型」であることによって「衝立て一枚」ほどのあやうさながら、それらとは交わらせない。そして「季語の約束は、詩の言葉を大衆的な感性と同化させない方法論」(「俳句が文学になるとき」五柳書院 
1996)であるという。そう、俳句に季語を入れるということは、確かに、紙製の壁一枚ほどの差で「雅やか」な側にいたい者の選んだ戦略であると同時に、近代においては、前近代的な俗謡の無名性とは縁を切る手段でもあったはずだ。
 この点で言えば、虚子の「花鳥諷詠」は、近代人にお気軽で庶民的な「雅」志向を感じさせる上品な用語である。いわゆる「カルチャー」感覚で俳句に入ることを可能にする一方で、個性を発揮しようとすれば、常に膨大な量の類句・類型との格闘を覚悟しなければならない難しさを、まるで質の違う奥の深さがあるような顔に変えてしまう。
 さて、俳句には季語がつきものという前提にたったとき、それが伝統につらなるからだ、という言い方を目にすることが多い。それについての素朴な疑問であるが、季語がこれほど膨大な量に達したのは、子規より後の、この百年ほどのことに過ぎない。つまり、虚子が伝統がどうこう言いだした時点では、まさに、一面においてつくられたカノンなのであり、言い方を変えれば、近代に入って、季節感のある言葉をありったけ「伝統」の枠の中へ放り込んできた。従って、江戸以前の季語と、以後の季語ではその重みに明らかな違いが存するはずであるが、実際問題として、俳人はそんなに厳密な区別をしているのであろうか。たとえば、明治以降の季語には伝統がない、とか。「万緑」が草田男の入れた季語であるのは確かだが、漢籍からとっているという意味で古典文脈に連なるから例外だ。しかし、極端な例としても、「ラグビー」や「プール」「クリスマス」に詩的伝統なんかあったものではない。その重みの差異は「伝統」の中でどう解消されているのかを、「伝統」重視でかつお話のわかりやすい俳人に直接教えを乞うてみたいと思っている。
 最後に、季語は俳句に絶対に必要なものなのかどうかについて。ちょうどその問題に関わる「無季俳句の可能性」というテーマのディスカッションが、今回の勉強会より二日後の三月二十一日に、神奈川大学の高校生俳句大賞の授賞式の席で行われたので、筆者がその席での出席者の発言をまとめたものをここで一部引用させていただく(宇多喜代子、大串章、金子兜太の審査委員三氏と復本一郎教授の司会)。
金子兜太氏

 季語は美しい日本語であり、それは大前提だが、絶対に使わなければいけない、という限定の根拠はない。五七五の詩型の生理として季語がないと、良い句が生まれにくい、ということはあるだろうが、そればかり追求するのは功利主義である。

宇多喜代子氏

 無季で作るのはしんどいもので、年をとるとやりにくくなる。季語でなくても、主になる言葉があれば良い。無季有季を制度やテーゼにすると二項対立になってしまう。

大串章氏

 有季の句があってはじめて無季句がある。有季に限定すればたしかに狭くはなるが、深く有季に徹することで気づくこともある。

季語の有無が功利主義となるかどうかは作家や結社の志次第だが、俳句が、なんらかの座によって常に成り立っていくものであるならば、それぞれの座が信じるローカルルールがどのようであっても良いではないか、と思う。その座の集合体が緩やかに混在し、且つ、他の座のやり方が、自分らのやり方と反するからといって、有益な論難はしても決してお互いを排除しない。そのような認識がもてる集団の総体を俳句の世界だと思いたい。未来においては。

 

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