種田山頭火と自然 ― 海を中心にして ―     

 

   一

 種田山頭火が流行するという現象は、昭和五十年代に一度あって、今度の平成初頭で二度目らしい。小説になり、ドラマになり、漫画になり、百貨店で特別展示会があったり、その句の特性からCMのコピーに転用されたり、様々な形でメディアに登場しているように思われる。ところで、その受容のされかたは、先のメディアのほか、その典拠となっている山頭火の著作集と周辺の関係者達の書いた伝記が一般に流布している(注1)。典拠であるゆえに現在の世に言われる山頭火像はそれらの出版物に負うところが大きい。結果的にそれらの出版物の真偽の程は先送りにされてメディアに受ける人物像がまず広められたという印象がある。その為か種田山頭火の実像と虚像という問題が扱われ最近事実考証的内容の本が数冊出された(注2)。こういう経過は文学者の中では何も種田山頭火一人のことではないが「俳人」と言われる人々の中では異色であろう。そこで本稿では先に指摘した典拠としての山頭火の著作及び各伝記と、その後の出版物の間にある誤解の一つを示し、その為に埋もれていた山頭火の人物像の一端を明らかにしていこうと思う。その誤解とは、山頭火の自然観についてである。例えば金子兜太氏の次のような指摘、

 飲む水から象徴としての水へ ― 水は、この二重構造を孕んで山頭火の内部に定着する。これは酒の功徳というものかもしれない。さらに言えば、山頭火の海嫌いも、水との生理的(肉体的)繋がりに根がある、(中略)やはり水への親しみは飲む水であり、それを静かに湧かす泉や井戸、湛える水たまり、せいぜい沼、小湖、あるいはせんせんと流れる小川 ― だったにちがいない。海は親しみでなく対峙する気分を呼んだのだろう(注3)。

もう一つ、高橋悦男氏の指摘は

 しかし、山頭火は自然のすべてが好きなわけではなかった。自然の中でも、海は彼は嫌いであった(注4)。

とし、その原因が波ではないかと述べている。いずれの指摘も、山頭火は水を好み水にまつわる句も多いが、海は嫌いである、という内容なのだ。両氏の指摘の根拠となっていると思われるのは、山頭火の残した日記のはじめの頃の記述である。

 ようやく海の威嚇と芋焼酎の誘惑とから逃れて、山の中にくることが出来ました。秋は海よりも山に、山よりも林に、いち早く深りつつあることを感じます。(昭和五年十月十五日)

 山頭火が世に受け入れられる上で重要なキイである酒の誘惑がからむのと、この日記は一般的に世に出ている山頭火の著作集の最も早いところにある部分だから否応無く目立つ。そこで山頭火は海嫌いということになるのだが、実際はそうではない。以下、それについて述べる。

   二 

 一章で引用した記述をあわせて、山頭火がその海嫌いの気持ちを書いた部分を、日記からすべて抜き出してゆくと、次のとおりである。

  私は海の動揺よりも山の閑寂を愛するようになっている。(昭和五年九月三十日)

  現在の私には、海の動揺には堪えられないものがある。なるたけ早く山路へ入ってゆかう。(昭和五年十月二日)

  やうやく海をはなれてきた。明日はまた海近くなるが、今夜は十分山気を呼吸しよう。(昭和五年十月八日)

  ようやく海の威嚇と芋焼酎の誘惑とから逃れて、山の中にくることが出来ました。秋は海よりも山に、山よりも林に、いち早く深りつつあることを感じます。(昭和五年十月十五日)

  しかし山また山の姿はうれしい。海を離れて山にはいったといふ感じはよい。(昭和七年一月二十七日)

  大村湾はうつくしい。海に沿うていちにち歩いたが、どこもうつくしかった。海も悪くないと思う。しかし、私としては山を好いている。(海は倦いてくるが山は倦かない)(昭和七年二月二日)

  私はここで落ちつかう。ここなら落ち着ける(海を好かない私でも)美しすぎる―(昭和七年四月一日)

 たしかに海を嫌っているが、これらの記述をみてみると、山頭火の海嫌いの記述が、昭和五年九月三十日から、昭和七年四月一日までのごく短い期間であることがわかる。またこの時期の山頭火は、私生活において、ちょうど定住を試み、失敗するのに重なっている。それを年譜からみてみると次の通りである。

  昭和四年 ― 三月、ほぼ三年の長きに渡る行乞放浪の旅から一時熊本の妻サキノ(戸籍上は離婚)の所へ帰り八月まで滞在するが、九月再び行乞の旅へ出る。

  昭和五年 ― 一月から九月まで再びサキノの所へ帰るが、九月より再び行乞の旅。十二月、熊本へ帰り独居自炊の生活を開始

  昭和六年 ―  ガリ版刷個人誌『三八九』発行で自らの生計を立てようとするが、第三集で挫折し、五月部屋を引払いサキノの所へ寄寓する。十二月、再び行乞の旅へ。

  昭和七年 ―  六月初めから八月末まで山口県川棚温泉に長期滞在、結庵を工作したが失敗。九月、山口県小郡町に「其中庵」結庵。

 このように、先程の海嫌いの記述と、幾度かの定住失敗の間の放浪とが重なることがわかる。さらに、その頃の人間不信を示す記述が日記から次のように見出される。

  人間に対すれば憎愛がおこる。自然に向かえばゆうゆうかんかんおだやかに生きておれる(昭和五年十一月七日)

人間不信の記述なのだが、海嫌いというなら、この場合の山頭火のなかの自然には海が入ってこないことになる。先にあげた一連の日記の記述からすると、そのようにうけとれるのだが、それならば、なぜそうまで海を毛嫌いするのかが問われねばなるまい。それ以外の自然のなかでは「おだやかに生きておれる」ということになると、山頭火にとっての海とは、特別な何かがあるのではないかと思えてくる。山頭火にとっての海とは「人間に対す」ることと同じような存在だったのであろうか。

   三

 山頭火の海嫌いを示す日記の記述がある時期に集中していることと、それ自体に何か問題がありそうであることを述べてきたが、その問題に移る前に、山頭火が実際は海嫌いではなかった事を明らかにするために、彼の日記の海嫌いを示す記述のある時期の、その前後の時期で山頭火が海に対してどういう思いを抱いていたのかを確認しておきたい。山頭火は、昭和五年九月九日以前の日記を焼き捨ててしまっている。そのため、残された俳句や書簡から確認することになる。そのうち、海を詠んだ俳句から特に注目すべきものを拾ってみると、彼が同人として活躍した雑誌『層雲』(注5)に、以下の句が見出せる。

  @海見れば暢ぶ思い今日も子を連れて (「海見れば 十八句」 大正三年)

  A我とわが子と二人のみ干潟鳶舞ふ日 (「海見れば 十八句」 大正三年)

  B叫ぶ男あり夜潮ゆらめくのみの暗さ (「海辺独唱 二十句」 大正四年)

  C我が足跡なが ゝ と海は濁りたれ (「我が足跡 十句」 大正四年)

  D海は濁りてひた ゝ 我に迫りたれ (大正四年)

  E風は気まゝに海へ吹く夜半の一人かな (大正四年)

  F一日物いはず海にむかえば潮満ちて来ぬ (大正四年)

  G波とゞろ雲にひゞきて落ち着かぬ日かな (大正四年)

  H潮満つまゝに夕雲の崩れ落ちつきぬ (大正四年)

  I海は堪えて暮れ残る蝉がいらだゝし (大正四年)

 いずれの句も、故郷である周防灘の海において詠まれたと思われる。それぞれに、海に向かった時の自身の姿や心情を率直に表現し、完全に自由律ではないものの、後の句風を予感させるものがある。なかでも、特に@の句は興味深い。というのは、山頭火がこの句においては「海」に向かうと「暢ぶ思い」すなわち「のんびりした思い、ゆったりした気持ち」になると詠んでいるからである。この時期の山頭火は「海嫌い」とは思いにくい。そこで、この時期の「海」の句は、数的にはどうであったのか表にしてみた。比較のため、山頭火がその生涯を通じ最も多く句題とした「水」「山」とあわせ『層雲』発表句から表にしてみると次のようになる。

 表1、『層雲』発表句における「海」「水」「山」の句数および総句数(大正三年〜六年)

大正(年)   三   四  五   六    計
  海    7   31   6   1   45
  水    3    13  11   3   30 
  山    0     3    3    2     8
総句数   60   171  89  77  397 

 このように、この時期の『層雲』発表句では、「海」の句が、「水」「山」いずれの句より多いことがわかる。これは、この頃の句題に海をよく取り上げていることでもわかる。主なものをあげると、以下の通りである。

  「海見れば 十八句」 (大正三年)

  「宮島の海岸にて」 (大正四年)

  「風が海より 十句」 (大正四年)

  「海辺独唱 二十句」 (大正四年)

  「わが足跡 十句」 (大正四年)

 このような短期間に、海を題に句が詠まれることは二度とない。それどころか、題として海が選ばれることも、連作としてはほとんどなくなってしまう。以上のことから、この時期の山頭火にとって、海は身近なものであり、したがって、海嫌いであったとは言えないと断言できよう。次に、山頭火が海嫌いの心情を日記に書いてより後の、海に関する記述は、しばらく間があいて昭和八年五月十三日から見る事ができるのだが、それ以後の内容は一変している。

  富海で久しぶりに海のよさをきく(注6) (昭和八年五月十三日)

  昨日は山の青さ、今日は海の青さ、明日はまた山の青さを鑑賞する事ができる。 (昭和八年八月十日)

  朝の海がだいぶ私をのんびりさせた (昭和十一年七月十五日)

  水音の / こゝろのふるさと / 波がしろくくだけては / けふも暮れゆく / 待てば海路のよか船があった(中略)夕凪の内海はほんとうにうつくしい (昭和十一年七月十九日)

  海はひろびろとしてよいなあと思う。波に乗って波のまに ゝ 泳ぐのはうれしい。波のリズム、それが私のリズムになってゆれる。 (昭和十三年八月二日)

  早くから起きて松原を散歩する、朝の海はことによろしい。 (昭和十三年八月三日)

 ほぼ百八十度の方向転換といってよいだろう。山頭火が亡くなるのが、昭和十五年十月のことであるから、すくなくとも、昭和八年五月からその死の近くに至るまで、彼は海嫌いではないのである。

   四

 種田山頭火における自然観において海は特異な位置をしめているのではないか。これまで明らかにしてきたとおり、ごく限られた時期においてではあるが、彼は海を極端に遠ざける。その前後、つまり俳人としての活動をしていたほとんどの時期においては、むしろ海を好んでいる。ということは、なぜ、一時期だけ海を遠ざけたのか、本来これが問われるべき問題であろう。いままで山頭火が海嫌いであると思われていたのは、おそらくは本論冒頭に述べた出版物の影響である。山頭火の日記は彼自身が処分してしまったことで、途中しか残っていない。それが著作集の形で出版されているので、その冒頭部分に次々と海を嫌う記述がでてくる。それでそのまま山頭火が海嫌いであるかのように受け取られてしまったのであろう。その記述の冒頭近くで、「威嚇」「動揺」などと、大袈裟な表現を用いているため、読み手がまず山頭火は「海嫌い」だ、という読みの「枠」を持つことになったためと考えられる。では、なぜこの時期の山頭火は「威嚇」「動揺」等の大袈裟な表現を用いなくてはならないほどの大きな精神的な影響を、海から受けたのであろうか。先の章でふれたが、その原因を探り出せるはずの昭和五年九月九日以前の日記を山頭火は自身の手で焼き捨てている。このあたりに問題の原因が探り出せそうである。

  J焼捨てて日記の灰のこれだけか (昭和五年九月十六日)

  K日記焼捨てる灰であたゝまる

  Lあんまり早う焼き捨てる日記の灰となった (昭和五年十一月二十一日)

 これらの句は、焼き捨てた日記を題にしたものである。日記の灰に自分の人生のはかなさを振返っているかに見えるこれらの句であるが、その中に書いてあったことに対しての感慨をこめていることは一目瞭然であろう。焼き捨てた理由について、昭和五年九月十四日の日記には、次のように書かれている。

  単に句を整理するばかりぢゃない。私の過去一切を清算しなければならなくなってゐるのである。私もようやく『行乞記』を書き出すことが出来るようになった(中略)私の生涯の記録としてこの行乞記を作る。

 このように、山頭火は「過去一切を清算」する必要に迫られていた。日記を焼いたのは、その行動の一つであったのだ。それ以後の日記『行乞記』は、引用中にあるとおり「生涯の記録」として、死の直前まで続くのである。この時期は山頭火の生涯にとって一つの大きな節目であった。山頭火の海嫌いの源は、この時期と、本論三章で指摘した海に親しむ句を詠んだ時期との間の十数年間にあると思われる。そこで、この間、山頭火の身の上に何が起こっているのかみてみると、よく知られる一連の不幸が続く時期なのである。年譜から引用すると、 

  大正五年(三十五歳)  三月、『層雲』の選者となる。四月、種田家破産。妻子を連れ熊本へ移る。

  大正七年  六月、弟二郎自殺。この年『層雲』同人で、山頭火が慕っていた野村朱鱗洞が急死。

  大正八年  十月、単身上京し働く。十二月、祖母のツル死亡。

  大正九年  十一月、妻サキノと戸籍上離婚。

  大正十年  五月、父竹治郎死亡。

  大正十一年 神経衰弱症により職を辞す。

  大正十二年 関東大震災被災。九月末、熊本へ帰る。

  大正十三年 サキノの経営する額縁店「雅楽多」を手伝う。十二月、泥酔し進行中の市電を急停止させ、市内の禅寺へそのまま連行される。これが機縁となり禅門へ入る。

  大正十四年 二月、出家得度。三月、味取観音堂(熊本県鹿本郡植木町)の堂守となる。

  大正十五年 四月観音堂を去り、一鉢一笠の行乞放浪をはじめる。

  昭和三年  (四十七歳)四国八十八ヶ所を巡り、九月、小豆島に渡り放哉墓参。

  昭和四年  三月、一時サキノの所へ帰り八月まで滞在。九月、再び行乞の旅に出る。十一月阿蘇にて荻原井泉水と会う。年末に熊本へ帰る。(以後、昭和七年に、山口県小郡に結庵するまでは、既に二章で引用したとおり。)

 このように、その後の俳人としての山頭火に決して少なくない影響が見うけられる、一連の不幸が続く時代である。さらに、これらの不幸は、十一歳の時に母親が井戸に投身自殺したこととも重なり、ついには「清算」しなければどうしようもない程、重苦しいものとなっていたと考えられる。そして、この一連の不幸な十数年の中に山頭火の海への思いが取り込まれ、結果、彼は海を嫌う記述をその日記に記すことになる。これまで見てきたことから山頭火が海を嫌った理由について整理してみると、まず山頭火は海嫌いの記述の中でその美しさは認めながらそこから威嚇を感じており、その動揺に堪えられないと言っている。その精神の弱さと年譜にある神経衰弱で職を辞したことを結びつけることは簡単だろう。ただし、単に神経衰弱症であったが為に荒れる海を見て威嚇を感じたとか、そこから動揺を感じたとかの、直接的な意味だけではなく、それだけ繊細な神経の持ち主が苦心の放浪の後一度定住を試み、失敗して再び放浪に出た矢先に冷静に自分の感性を働かせていたとは考えにくいということである。おそらくはその頃、高ぶった精神状態であっただろう。

  私は海の動揺よりも山の閑寂を愛するようになっている。 (昭和五年九月三十日)

 この日記の記述は、その高ぶりを鎮めたいという意識の反映であるといえよう。次に、もう一つの理由として、山頭火にとって海は故郷を想起させるもので、それを避けようとしたのではなかったかということが考えられる。なぜならば、まず一つには山頭火の故郷防府は海沿いの町であり、彼が思春期を過ごした中学は、その防府の港町である三田尻にあったことを考えれば、彼の持つ故郷のイメージのなかに海が組み込まれているのはごく自然のことであろう。また既に三章で指摘したとおり、『層雲』に載った山頭火の初期の句から見るかぎり、彼は決して海を嫌っていないのであり、むしろ彼の生活に密着した存在であったということができる。さらに、破産して出郷した後故郷を詠んだ句に次のものがある。

  M海よ海よふるさとの海の青さよ (大正六年)

 このように「ふるさとの海」を詠んだ句、つまり海と故郷が結びつくのであり、この句以後、昭和五年九月まで山頭火は故郷を詠んだ句を残していない。そしてその昭和五年九月の句というのも海と故郷との句なのである。

  N波の音たえずしてふる郷遠し (昭和五年九月三十日)

 これらのことから、山頭火にとって海は故郷を強く想起させるものであったと思われるのである。山頭火にとっての故郷の思い出は年譜で見たとおり一連の不幸が続くものであり、以前触れたとおり、彼はそれまで書いた多くの日記や俳句を捨て去ることでその「過去一切」のものを「清算」しようとしたのである。ところが、故郷との結びつきの深い「海」は彼にその「清算」を許さず、過去の思い出を思い起こさせてしまう作用があったと思われる。その為海からの「威嚇」を感じ、「動揺」にも耐えることができないと大袈裟な言葉を用い、実際にしばらく海から遠ざかろうとしていたのではないだろうか。

    五

 前章で山頭火の海嫌いの原因について考えられることをあげてきたが、彼が海を嫌っていた期間が、ごく短い期間であったことは既に触れたとおりである。それでは、彼はいかに海からの「威嚇」や「動揺」を克服していったのだろう。それはそのまま故郷に対する意識の変化でもあるのだが、その山頭火の故郷に対する意識の変化に関しては既に脇谷英勝氏による指摘がある(注7)ので、ここでは深くは触れないこととして、事実関係のみ記すと、山頭火がそれまで避けてきた故郷を次々に句にしたり日記に書き始めるのが昭和五年前後からであり、その後、彼の故郷に対する意識の変化の一つの到達点といえる記述が、昭和七年十二月十五日発行の「三八九」復活第四集に「故郷」という題で記される。それは次のようなものである。

 家郷忘じ難しといふ。まことにそのとほりである。故郷はとうてい捨てきれないものである。それを愛する人は愛する意味に於て、それを憎む人は憎む意味に於て。(中略)しかしながら、身の故郷はいかにともあれ、私たちは心の故郷を離れてはならないと思ふ。自性を徹見して本地の風光に帰入する、この境地を禅門では『帰家穏座』と形容する。ここまで到達しなければ、ほんとうの故郷、ほんとうの人間、ほんとうの自分は見出せない。(中略)私は今、ふるさとのほとりに庵居してゐる。(中略)ひとりしづかに自然を観じてゐる。余生いつまで保つか解らないけれど、枯木死灰と化さないかぎり、ほんとうの故郷を欣求することは忘れてゐない。

 自分の故郷を真正面から見るこの故郷観の獲得によって山頭火は海からの「威嚇」や「動揺」から解放されたと考えてよいのではないか。もはや彼にとって故郷は忌まわしい記憶の地から昇華して別の存在意義を持とうとしている。したがって、海を見ることで故郷の記憶にふりまわされることはなくなったということができるからだ。昭和十四年に至っては、次のような句がある。

  O海見れば波音ききたくちょいと下車する

 もはや山頭火の意識の中にはかつての海に対する嫌悪はまったくなく、また、本論冒頭に引用した高橋氏の指摘するような波に対する嫌悪も感じられない。逆にそれをよしとしているのだ。これまで見てきたとおり、種田山頭火は決してずっと海嫌いでいたわけではなく、それはほんの短期間のことであり、本質的には一般によく知られている山や水を好んだというのと同じように、海も波も好きなのであった。ただその背後に、故郷に対する過剰な意識が働いていた間だけ、「威嚇」を受け「動揺」を感じ避けていたのであろう。

   終わりに

 種田山頭火と海との関係について、過去における誤解を解くことからこの論をすすめてきた。誤解のもとになっていたのは、二年に満たない期間とはいえ山頭火が残した日記冒頭部に極端に海を嫌う記述を残していた為にそれが著作集の形で世に出た際、非常に目立つ形になってしまったからである。種田山頭火という放浪の生涯をあゆんだ人物にとって、例えば水は生活のうえで欠かせず、また酒を飲めば欲しくなるもの、山は歩く先々で目の前にいくつもいくつもあらわれるもの、となればそれらを題とする句が多くなるのは必然であり、自然なことだ。それ故これらのものは既にさまざまの形で論じられてきていて、その内容も、大正から昭和にかけて日本の中を行乞放浪することで生涯を過ごした山頭火の人生やその自然観とはどのようなものかと問うた時、あまり矛盾は感じないが、海について考えてみたとき、その彼の変転する反応と、これまでに海嫌いとされてしまっている状況はかみあわず感じられ、整理するとこのような結果であった。とすれば、種田山頭火の自然観において、海は特異であり、彼と故郷との関係を論ずるとき、見落とせない一要素であると結論づけることが出来よう。晩年に至り山頭火は自分で死に場所を求めるにあたって、結局故郷には戻らず瀬戸内海を隔てた対岸に位置する、伊予松山での死を望み実際に最後の一年程を過ごしている。その松山から、死の数ヶ月前、最後の旅となった九州・中国地方をまわった際に故郷山口で次の句を残している。

 P六十にして落ちつけないこゝろ海をわたる (昭和十五年五月二十八日)

自嘲の句であり、「六十にして」故郷へ向かうのが今だに「落ちつけない」というのである。これまで見てきたとおり、山頭火にとっての海への意識は最後まで故郷と密接に結びついている。結局晩年に至っても、故郷へ近づくことに戸惑う思いを隠せなかった山頭火にとって、対岸の松山から故郷を思うことが、かろうじて「落ちつけ」てできたのではないだろうか。

 

 

 注1 例えば古くは『山頭火著作集』(大山澄太編 潮文社 昭和四十四年)、最近では『山頭火文庫』(春陽堂 平成二年)

 注2 『山頭火の虚像と実像』(上田都史 講談社 平成二年)、『山頭火虚像伝』(木下信三 三省堂 平成二年)など

 注3 『種田山頭火 ―漂白の詩人』(講談社現代新書 昭和四十九年)

 注4 『山頭火読本・俳句とエッセイ 五月号別冊』(牧羊社 平成元年)

 注5 明治四十四年創刊、荻原井泉水主宰。山頭火の投稿は大正二年から。

 注6 原文では「きく」に傍点付

 注7 「山頭火論 ―「ふるさと」の句を中心に―」 (『帝塚山大学論集』 昭和五十九年九月号)

 ※本文中の俳句・日記・年譜の引用はすべて『山頭火全集』春陽堂(昭和六十二年〜)に拠っている。なお、年譜のみ便宜上簡潔な表現に改めた。

 付記、初出と論の内容は変わりませんが、表現上の誤りなどには手を入れてあります。    

   

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