■種田山頭火作品の世界 山頭火の句集(概説)  第七句集『鴉』(昭和十五年七月)     橋本 直

      一、はじめに  

 第七句集『鴉』は、他の六句集と同様、経本仕立の私家版折本(縦約十八cm、横約七cm)で、昭和十五年七月十五日印刷、同二十五日の発行であり『草木塔』よりおそい。この間の事情は後に引用する大山澄太の証言以外は未詳であるが、実質的にこの『鴉』が山頭火生前最後の句集ということになる。表面が『鴉』、裏面が木村緑平の第六句集『雀』(七十一句)の合冊形体となっている。扉に自筆の献句があるが、献句は一冊毎に異なるようである。巻末に以下の跋文がある。

  三年ぶりに句稿(昭和十三年七月─十四年九月)を整理して七十二句ほど拾ひあげた。/それだけを第七句集として、緑平老の句集に便乗させてもらつた。まことにありがたいことである。/所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守らう。/緑平老と共に本集を澄太兄に捧げて、いつもあたたかい情誼に感謝する。/(昭和十五年二月、御幸寺山麓一草庵にて、山頭火)

なお、この跋文は『草木塔』では合冊に関わる記述を削除されている。

      二、作品並びに作品の背景

 跋文にある句稿の書かれた期間、山頭火は満五十五歳から五十六歳である。身辺の特筆すべき出来事とそれに関わる所収句を拾うと、十三年七月四日に長男健に初孫が誕生しており「防空管制下よい子うまれて男の子」の句がある。八月二日から九日まで徳山、北九州へ旅しこの時初孫と対面。十一月末に小郡の「其中庵」から湯田の「風来居」へ引っ越した。その際の句「一羽来て啼かない鳥である」。翌十四年一月、第六句集『孤寒』発行。三月三十一日から五月十六日まで京阪神、愛知、静岡、長野をまわる。この時念願の井上井月の墓参を果たしているが、高遠での句「なるほど信濃の月が出てゐる」等は入集しているものの、井月墓参時の作句四句は選んでいない。この時の旅行に関する句は集中の二十句を占める。九月末に「風来居」を引き払って四国に渡り、朱燐洞墓参や四国巡礼の旅の後、十二月に「一草庵」結庵ということになる。なお、句集の結びの句は「九月、四国巡礼の旅へ」と前書きし「鴉とんでゆく水をわたらう」である。  従って、おおよそ本句集は「其中庵」居住の末期から、「風来居」を去るまでの間の句を「一草庵」時代に整理したものということになろう。この間世情は日中戦争の拡大とともに国民精神総動員運動が始まっており、山頭火のような生活をするものは仲間の援助がなければ厳しい状況であった。

 次に奥付についてである。「昭和十五年七月十五日印刷、同二十五日発行/発行人 大山澄太 印刷人 三宅正義/(舌代)山頭火翁供養として米二升、酒一升又は赤味噌一貫目等を物納の人に此の句集を贈呈します。松山市御幸町御幸寺境内一草庵宛」とあり、「舌代」以下の文は、大山澄太の発案である。大山は第二句集以来のよき友人かつパトロンであり、毎回三百冊分の作成費用を中心となって肩代わりしている。「山頭火句集についての思い出」(『複刻版種田山頭火句集』)の中で「定価は実費の七十五銭とした。奥付には定価を入れず「舌代」として(中略・・・先の奥付)今にして思えば、三十代の私がよくも世帯じみたことを考案したものだ。実は時々三円、五円を握らすと、彼はすぐ呑みあるいて消費してしまう。そこで句集にして、著者から主として「層雲」の誌友に贈呈すると、乞食坊主からただでは貰えないので、少くとも一円、あるいは二円、人によると三円くらいの送金がくる。そうなると、ぽつりぽつりなので、米塩の資になるに違いないと思ったからである。(中略)表は『鴉』うらは緑平の『雀』としたこともあった。そんな時には紙代は緑平さんが負担してくれ、私は印刷、製本代だけですむのであった。」と、その間の様子を回想している。この証言から、『鴉』の作成費用は大山・木村の折半だったことがわかる。句集発刊は山頭火の生活の応援の為であり、本稿冒頭に述べたように、『鴉』発刊が『草木塔』よりも遅くなっている事情もその辺にあるかと思われる。

      三、校異

 『草木塔』と各折本句集の間には多くの校異が見られるが、『鴉』所収句については、八句の変更がある。(注1)他の句集の場合はすべて『草木塔』の前に出版されているが、『鴉』は『草木塔』より後の出版であり、どちらを決定稿と見なすかは問題が残る。そこで、ここでは『草木塔』との異同と成立までの過程についていくつかの検討を加えておきたい。(なお、以降混乱を避けるため、折本版は『鴉』、『草木塔』所収版は「鴉」というように表記することをことわっておく。)

 『鴉』七十二句中十六句が昭和十三から十四年の『層雲』発表句と同句か類似句であり、『山頭火全集第二巻』の「句集・総集編」所収の同時期の句に七十一句までが一致・類似する。管見ではまったく類似が見つけられなかったのは七十一番目の「月は澄みわたり刑務所のまうへ」一句のみである。この句については、「風来居」からほぼ真東の方向、山口へ行く途上に刑務所があることと、句の内容および句集がほぼ作成時間順に並べてあることから考えると、十四年九月湯田における最後の作句中の一と推定される。

 さてこの「句集・総集編」昭和十三年の項に「十三年七月ヨリ十四年九月マデ」と一隅に記された、紙縒で十五枚の印刷紙を無造作に閉じた「句帳らしきもの」百三句が一括して掲載されている。記述が句稿中の句の作句期間とすれば『鴉』跋文と同じである。百三句中数句は第六句集『孤寒』所収句であるが、三十九句が『鴉』冒頭から三十九番目の句と一致または類似する。同時期の『層雲』発表句との一致または類似は二十三句でその為に集めたものとは思われず、『鴉』の四十番目の句以降はすべて湯田を離れた後の句であることから、この「句帳」は「風来居」時代までの句を整理した『鴉』のプレテクストとみて差し支えないだろう。

 次に、『鴉』とこの「句帳」に共通する三十九句の改稿の有無を確認すると、仮名遣いの変更や「ママ」の付いたものも入れると十四句ある(「鴉」は十六句)。例えば「まいまいしづか湧いてあふるる水なれば」は「鴉」で「まひまひ〜」であり、「句帳」では「まいまいひそか〜」と仮名遣いは共通し「しづか」が「ひそか」となっている。また、「働いても働いてもすすきッ穂」は「鴉」は「働らいても〜」だが「句帳」では「働いても〜」で『鴉』と共通するものの「すすきの穂」と末尾が異なる。「空襲警報るいるいとして柿赤し」は「鴉」では「るゐるゐ」となっているのに対し『鴉』「句帳」間では異同がない。「焼いてしまへばこれだけの灰を風ふく」も「鴉」では「〜吹く」だが『鴉』「句帳」間では異同がない。このように、「鴉」では『草木塔』全体のバランスを考えてか漢字表記や旧仮名遣いにしているが、『鴉』ではそれを行っていない傾向が見られる。

 次に一句の最終稿までの成立過程をいくつかとりあげてみたい。まず「木の芽や草の芽やこれからである」について。異同は前書きが『鴉』では「支那事変」であるのに対し「鴉」では「日支事変」。この句の初形は昭和十三年三月十二日の村尾重夫(草樹)宛書簡中の「戦ひはこれからの大地 芽ぶきだした」と思われる。文面から従軍している村尾に宛てたものと思われるが、これが「句帳」にある「萌えて木の芽や草の芽やこれからである」(前書きなし)となって最終稿となったかと思われる。次に「伊良湖岬」と前書きのある句「はるばるたづねきて岩鼻一人」(『草木塔』は「来て」と漢字表記)は昭和十四年四月二十日の日記「伊良湖岬」「岩鼻ひとり吹きとばされまいぞ」が初出形と思われ、「はろ〓〓たづねてきて岩鼻一人」(初出不明。昭和十四年)を経て、句集の形になったと思われる。

 なお、「句帳」以降の共通句であるが、『山頭火全集』中、十四年以降は日記中の句に十七句、句会通信、地方誌、書簡中の句に十五句の『鴉』所収句と同じか類似の句がある。  本稿は句集成立と校異に絞った概説となったが、『孤寒』以前の句との連関や、句に見られる晩年の死生観など、興味の尽きない句集といえよう。

 注1、八句の校異個々は『山頭火全句集』(村上護編 平十四 春陽堂)「資料編」の校異を参照されたい。

 注記・・・本稿執筆にあたっては、『山頭火全集』(春陽堂)および「複刻版種田山頭火句集」(日本近代文学館編 昭58・12 ほるぷ出版)の『鴉』を参照した。引用中の旧漢字は適宜常用漢字に改めた。

(はしもと・すなお 神奈川大学非常勤講師)  

〓〓は平仮名繰り返し記号

 

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