連作俳句覚え書き            

 

 現在、俳句総合誌などで散見する「連作」という用語は、もはや一つのタイトルの作品群、くらいの意味しか持たないようであるが、かつて試みられた俳句の連作とはどういうことであったろうか。俳句史的には、まず水原秋桜子らが始め、一句では表せない内容を表現しようとする要請から生まれたものであるという。井上弘美氏は以下のように定義をされている。

  @独立している複数の作品に関連・連続性があること
  A一句の独立性の強弱にかかわらず、複数の作品によって作品世界を表現していること
      「連作俳句再考」(「俳句文学館紀要」第15号、平成20年11月)

 しかしながら、井上氏の定義のように、一個の独立した作品が連続的に並ぶことによって全体で一つの世界観が表現されるとしても、既に言葉の上では矛盾がある。独立した作品が並ぶことで一つの世界観、とは一体どういうことなのだろうか。例えば絵画にも彫刻にも、一テーマの連作はある。しかしそれも、何かのストーリーに基づいていたり、表現技法の一貫性が明瞭なものはそれと分かりやすいが、現代絵画のように、素人目にはそうと言われなければ分からないものだってある。俳句もそうではないのか。

 また、連作と非なるものとの差はどうつけられるのであろうか。例えば句集のタイトルは一つだ。そして句集評など読むと、その句集に一つの世界観が表現されているかのように書かれていることは少なくない。あるいは、俳句賞の応募作50句のタイトルも一つだ。その場合、50句なりの作品世界のなにがしかの統一性は前提条件と言って良いだろう。あるいは雑誌にのせた10句のタイトルもそうだ。これらはみな1テーマに基づく連作と言えば言えなくもないのではないか。もっと言うなら、1個人をテーマとすれば、その人物の作品はみな連作という見方だってできる。たとえその作者が否と言ったとしてもである。  

 問題は、独立しているものを関連づけ、連作として結びつけるのは、何ものなのか、ということだ。ある一つのテーマをもつ俳句の集団を作者から読者につなげて行くだけで、いま思いつくままに考えられる問題系をざっとあげただけでも、

 ・作者の意図する読みのコード  
 ・読者の読み取る読みのコード
 ・タイトルの与える読みのフレーム
 ・同時代の言語文化のコードとコンテクスト
 ・歴史的に先行するテクストとの相関関係
 ・言語の公的面と個別的面
 ・共同体内の符牒(ジャルゴン)

という風にあがってくる。では、この中の何が連作を決定付けるのだろうか。  

 まず、文芸批評や研究の水準でロラン・バルト以降のテクスト論批評を通過していても、作家の引いた読みのコード(意図)を一般読者はまず看過できないから、作者がそれを連作と言うかどうかが最大のポイントとなる。しかし、これは客観的尺度を持ち得ない理論的には実に脆弱なものだ。一方、読者の読み取るコードは多様であり得る。不勉強で歴史から実例を確認できていないが、そのような中から連作としての有力な読みが起こり、それが作者の意図も越えて普遍性をもつ可能性は否定できない。そして、たとえ連作の意図がなかったとしても、一つのタイトルは、そこに与えられれば、そこに含まれる作品の枠(フレーム)として機能してしまう。そこに連作としての読みを呼び込む穴のようなもの(あるいは、期待の地平と言っても良い)があくのは確かである。さらに、例えば、ベトナム戦争の時代のアメリカの影響を受けたいわゆるヒッピーの感覚などは、共有していない私には知識でしか理解不可能だが、そのような特定の時代や地域のみで共有される感覚が作品に連作としての色彩を帯びさせる可能性もあるだろう。これは、必ずしもそこで詠まれたわけではなく時系列的には転倒しても読みとして発生しうるものである。  

 これらのことを考えると、可能性としては読者が何者でどういう読み方をしたいのかということのほうが、作者が何者でどういう読ませる意図があるかより、読み方の改変力が強いのではないかという印象をもつ。にもかかわらず、結局の所、私の作品は連作です。と言った人の作品は連作、という前提を崩せないのならば、この連作俳句という枠自体が近代主義の所産であり、それ以上ではないのかもしれない。言い方が悪ければ、連作俳句は主体(作者)の絶対強度を是認する読者を前提とする、と言い換えても言い。  

 俳諧の発句は、「切れ」を内包することによって、表現の単線化を切断し、それによって生まれる主体の断念と読み手の連想の多様を、後に続く読者兼作者への手向けとしたものであったろう。後に続く平句の作者達は、与えられた符牒を読みとりつつ、読み替え、句に詠む。そこに自らのメッセージ(主体)をあまり露骨にあらわすことはなく、しかしなにがしかの感覚の共有者にははっきりと届くように連句はできていた。それは、厳密に言えば、そこに連衆という確固たる、信仰にも似た言葉の共有信頼関係があればこそ出来る技だったであろう。そこに「近代」がやってきて、発句が独立して俳句になったとき、同時に言葉も近代化してゆく。近代化とは、ある面で個別化し、ある面では平板化していくことだが、それは俳句にとっては、とりあえず誰でも一定水準の作品ができそうになった代わりに、中世から続いていた古典に通暁した上で本意本情に俗を絡める俳諧の言葉の約束の世界の解体がやってきたことであり、正岡子規はその引き金を引く役目をした。実際にはその後も宗匠俳諧は案外にしぶとかったが、もはや和漢の古典に通暁した俳人などほとんど居はしない。  

 逆に言えば、発句の守るべき小うるさい約束事(コード)は壊れ、ある意味市民化された。しかし、過去に於いてきたものはまったくゼロになるわけではない。連作俳句とは、その影に連句を引きずらない訳にはいかない。俳句は作者の主体を断念するところに返ってその主体が立ち上がるやっかいな形式なのだ。故に「連作俳句」は二重の意味で矛盾するのである。            

 

 

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