今井柏浦ノート ―『明治一万句』を中心に―        

                    

   一、今井柏浦について

 今井柏浦(玉三郎)は、『明治一万句』『俳諧例句新撰歳事記』など、明治から昭和初期にかけて子規派の俳句を中心とした類題句集や歳時記などの多数の編著書があるにもかかわらず、その仕事の量に比して経歴などの一切がよくわからない謎の人物である。例えば、『日本近代文学大事典』(講談社)には記載がなく、『現代俳句大事典』(三省堂)にも記載がない。管見では唯一『俳文学大辞典』(角川書店)に、

  俳人。生没年未詳。日本派句集『明治一万句』を博

  文館から刊行。これは明治三四年(一九〇一)から

  同三八年の句を集大成したもの。編著『新編一万句』

  『最新二万句』『大正一万句』『新修歳時記』ほか。 

  〔和田克司〕

とあるのを見出したのみであった。類題句集や歳時記を残したことから見れば、学者や文人俳人的であるが、これら俳句関連以外の業績はほぼみあたらないし、結社の主宰もしていない。著作物の刊行状況から、昭和になって亡くなったものと思われるが、未だその生没年すら不明な状況である。以下、本稿ではこの今井柏浦の仕事と、その意義について検討したい。

 

   二、今井柏浦の仕事

 管見によると、今井柏浦の編著書籍として現在確認できたのは、以下の通りである。

  @『明治一万句』    明治38年6月 博文館

  A『新撰一万句』      40年8月  同

  B『俳諧例句新撰歳事記』  41年12月 同

  C『男子東京遊学案内』   41年12月 同

  D『最新二万句』      42年6月

  E『古今滑稽俳句集』    42年9月

  F『古今女流俳句集』    42年12月

  G『類題俳句大全上』    43年9月  同

  H『  同   下』    43年11月 同

  I『最新新二万句』     44年12月 同

  J『口語新書簡文』     45年1月  同

  K『ポケット俳諧季寄』 大正 元年9月  同

               (昭和2年 資文堂)

  L『大正一万句』       4年8月  同     

  M『大正新一万句』      7年7月  同

  N『大正書翰文大全』    10年4月  同

  O『大正新俳句』      11年11月 同

  P『新俳句選集』      14年2月 修省堂    

  Q『新校俳諧歳事記』  大正15年7月  同

  R『詳解例句纂修歳事記』  15年12月 同

  S『昭和一万句』    昭和 2年10月 同

  『詳註例句歳事記大観』   6年5月  同

  『俳諧季寄』        9年 近代文芸社

このように約三十年の著述活動があり、二十冊をこえる出版物があったことがわかる。ほとんどが俳書で、其の他の数冊は所謂実用書の類である。中には『口語新書簡文』のように、様々な実用例文を入れて手紙を候文から口語文へ直すことを進めた啓蒙的な本も出しているが、これは合間合間に俳句を挟み、芭蕉の手紙を口語文に直して紹介するなど、部分的ながら俳書としての側面ももっている。また、口語への啓蒙は子規の言文一致運動との関係も考えられ興味深い。

 柏浦は博文館から多数の書籍を刊行していたことがわかるが、柏浦と博文館の関係については、柏浦編『詳解例句 纂修歳事記』(大正十五年十二月)の「緒言」に、以下のような記事が見いだせた。

  回顧すれば『新撰歳事記』の初めて世に現はれたる

  は、明治四十一年にして(中略)彼の震災のため、

  一朝にして全部の原稿三千余枚を烏有に帰し、茲に

  一頓挫を見るに至れるも大正十二年末、編者の多年

  在職せし博文館を引退したるを動機とし、再び之れ

  が改修を企て(以下略)  

すなわち、明治四十一年刊の『俳諧例句新撰歳事記』の改訂を画していたのが震災で原稿資料を消失し退職後に改めてやり直したものが大正十五年刊『詳解例句纂修歳事記』ということである。そして、柏浦は博文館の社員であったのであり、大正十二年に退職したのである。従って同社からの刊行が多かったのもうなずける。

 そこで坪谷善四郎編『博文館五十年史』(昭和十二年 博文館)の大正十二年の「此年編集部員の異動」の記事にあたってみると、「尚ほ営業部にては十月二十六日に(中略)今井玉三郎(中略)の諸氏が退職した」とあり、彼は編集部員ではなく、営業部の社員であったことがわかった。当時の出版物のやり方として、博文館は社員として有力な文人を抱え本を書かせていたことは確かだが、よほど著名な人物でなければその社内の人員配置の詳細については未詳であるため、柏浦の身分立場について推測の域を出ないが、退職時にも営業部にいたということを考えると、おそらく文人作家の扱いではなかったと思われる。また、当時の博文館には、巌谷小波や角田竹冷などの秋声会系の名のある俳人が社員としていたはずであるが、『明治一万句』の六年後に出版される星野麦人『類題百家俳句全集』四巻にはこの両者への謝辞があるのに対し、『明治一万句』には彼らが参与した形跡はみあたらない。無名の人が成した書物にありがちの、大物文人による序文推薦文などもなく、挿画を中村不折が担当し、冒頭に鳴雪の自筆一句があるのみである。これらのことから考えると、同書は柏浦一人の手による仕事であった可能性が高い。

 

   二、類題句集『明治一万句』について

 『明治一万句』は、いわゆる類題句集で、子規の死後三年の明治三十八年の出版である。日露戦争中で、日本海海戦の後ということになる。類題句集は、近世はもちろん、明治から昭和初期にかけても多数出版され、広く読まれていた。(注1)その中で、この本が興味深いのは、以下の「凡例」文である。

「本書は子規先生仙遊後の俳壇を代表すべき唯一無二の句集なり。(中略)本書収むる處の俳句は悉く日本派同人の作に係り、其材料は明治三十四年三月より三十八年四月に至る最近五年間の『日本』『ほとゝぎす』『日本人』『太陽』其他の新聞雑誌中より、編者が嗜好に任せ蒐録せし、約五万句の中より(中略)載するところ壱千三百題に及び、特に明治の新題は悉く之を網羅したり(中略)特に子規先生の高吟を加へたるものは、作例を示して行進の為めに資せむと欲すればなり(太字は引用者による。以下も同様)」

すなわち、子規死後の日本派を集成した明治三十四年三月より三十八年四月までの句集という体裁なのである。期間的にもほぼ『春夏秋冬』(明治三十四年〜六年)の後に続くものとなっており、子規の句を特別扱いで載せているなど、日本派の句集の一つと思われるのであるが、問題は、当時の柏浦と日本派との関係がほとんど見えないことである(注2)。先にも述べたとおり、鳴雪の一句があるほか不折の挿画があるだけで、これだけでは日本派のオフィシャルな仕事として企画されたものとは思えない。おそらく、元は柏浦一人による私撰集的なものであり、「凡例」中の「編者が嗜好に任せ蒐録」(注3)とあるのはまさにその通りであっただろう。この『明治一万句』は好評であったと見えて、先の一覧にあるように柏浦はさらに、続編を刊行し続けている。以下そのうちの確認できたものから「凡例」の記述を見て柏浦の編集意図を確認しておきたい。

『新撰一万句』

「『明治一万句』の続編(中略)悉く日本派同人の作に係り(中略)明治三十八年四月より四十年六月に至る最近三年間の『太陽』『ほとゝぎす』『宝船』『日 本』『国民』其他の新聞雑誌より(中略)約二十万句中より(中略)壱千六百題に及び、特に在来の句集になき多くの新題を網羅せり」

・『最新二万句』

「『明治一万句』『新撰一万句』の続編(中略)悉く子規系に属する新派同人の作に係り(中略)明治四十年六月より同四十二年三月に至る最近三年間の『国民』『日々』『大阪朝日』『大阪毎日』『太陽』『日本及日本人』其他の新聞雑誌(中略)数十万句中より(中略)今や俳壇の群雄四方に割拠し名家星の如く巨匠林の如く斯道に遊ぶの士全国に爛蔓し俳界の隆昌正に元禄の盛時に迫らんとす」

・『大正新一万句』

「『明治一万句』『新撰一万句』『最新二万句』『最近新二万句』『大正一万句』に継承すべき続編(中略)例に依りて子規系統に属する全国同人の作に係り(中略)大正四年七月より大正六年六月に至る最近二年間(中略)『ホトヽギス』を中心とし、『カラタチ』『智仁勇』『太陽』等の諸雑誌、『国民』『東京日日』『大阪朝日』『大阪毎日』『京都日出』等の各新聞より蒐集せる数万句中より更に編者が優秀なりと認めたるもの(以下略)」

このように、日本派を中心とすることは一貫しており、このわずか十年足らずの間に急速に広まった俳壇の変化にあわせ、「日本派同人」から「子規系に属する新派同人」と表現がかわったり、活字メディアの発達から蒐集の対象になる新聞雑誌の種類も、最初の四種から次々に増加している。中でも興味深いのは明治四十二年初版の『最新二万句』の「凡例」で、蒐集対象の広がりとともに句数も急増し「数十万」もの句を見て集めたといい、「今や俳壇の群雄四方に割拠し名家星の如く巨匠林の如く斯道に遊ぶの士全国に爛蔓し俳界の隆昌正に元禄の盛時に迫らんとす」とまで書かれている。当時の俳壇の急速な拡充を「元禄の盛時」になぞらえているが、一方で、当時の虚子の俳句に対して下降傾向にあった意欲を反映したのか(注4)、「ホトトギス」の名がない。これは柏浦の嗜好が当時流行の碧梧桐派中心に傾いていたとも考えられるだろう(注5)

 次に、『明治一万句』における主な作者の所収句数を表にすると、以下のようになる

柏浦

八重桜

虚子

碧梧桐

鳴雪

子規

 

1

37

1

6

14

10

新年

5

20

61

89

91

130

0

0

1

8

6

20

春の雑

7

59

72

89

40

118

0

1

6

0

2

22

夏の雑

6

44

131

58

57

159

0

0

6

8

3

31

秋の雑

10

29

64

60

62

118

0

0

2

27

1

10

冬の雑

29

190

344

345

276

618

やはり圧倒的に子規の句が多く、別格である。次に碧梧桐、虚子がほぼ同数で他の諸作家より多数であり、柏浦もこの二人を認めていることは明らかである。鳴雪や、当時もてはやされた作家の一人である八重桜でもこの二人にはまったく及ばない。

 また、同書のもう一つの特徴として、雑の部の立項と、そこに子規の句を多く入れていることがあげられる。これはやや特殊なもので、季語云々ではなく、例えば、以下のように前書きのままを目次に題を立ててあるのである。

    松山堀端

  門しめに出て聞て居る蛙かな(春の部)

    須磨保養院

  人もなし木陰の椅子の散松葉(夏の部) 

    古白百ケ日

  蓮咲て百ケ日とはなりにけり(同)

    猫に紙袋の畫に

  何笑う声ぞ夜長の台所   (秋の部)

他に、「上野」「浅草」「呉港」「金州」「大連湾」「須磨」等の立項で句が載せられている。このように子規のために立てたとも言えるくらい「雑」の部立てにたいする自由度が高く特殊な構成である。また、他者の作であるが、雑の題に「戦死せし人の遺吟を整理して」「巨口手に銃創を負ひ後送宇品に着せるを聞て」「鉱毒被害地二句」「日露協商断絶」など、時事問題を表したものも多く、非常に同時代性を反映する編集ともなっている。

 

 

   三、まとめ 

 先に述べたように、『明治一万句』は明治三十四年三月より三十八年四月までの日本派の句集という体裁である。期間的にもほぼ『春夏秋冬』(明治三十四年〜六年)の後に続くものだが、おそらく柏浦一人の手になる非公認(あるいは黙認)の仕事である。おそらくこの本が出るまで、柏浦は当時の俳壇では全くの無名人だったのではないだろうか。今井柏浦という、今となっては全く無名といっても良い、博文館営業部の社員で、何らかの形で「ホトトギス」の関係者であった可能性のある市井人の嗜好と情熱の上に成った書物が、出版後次々に続編が編まれ、長く読み続けられたことには驚きを隠せない。また、この類題句集へかけたおそるべき情熱の継続には、柏浦自身の子規派への偏愛が強く働いていたと思われ、このような仕事がやがて子規の新派が近代俳句を席巻しつくすことをうながす一助となったと思われる。

 なお、この柏浦の類題句集の仕事は、俳諧史上から見れば近世以来さかんに出版された題や句の数の多さを売り文句にする類題句集や宗匠による選句集の流れをひく一種の私撰集と位置づけられようが、昭和初年の改造社の『日本文学全集』(昭四)、『俳諧歳時記』(昭八)の発刊あたりを境目に、このような類題句集の伝統は途絶え、出版社の企画する文学全集、鑑賞辞典、俳句年鑑へ役割を譲ることになっていった。すなわち、柏浦の仕事はその最も最後の煌めきの一つであったと位置づけられる。

 

 

(注1)筆者架蔵の『明治一万句』は明治四十一年発行の第八版である。神奈川近代文学館所蔵の同書は、大正十三年発行の第二十版であり、ロングセラーであったことがわかる。また、宮沢賢治は風耿という俳号で句を様々な形で書き留めており、以前よりそれが自作なのか他作のメモなのかが問題にされてきたが、杉浦静氏の調査によれば、柏浦の『最近新二万句』から四句抜き書きされていることが明らかになっている。(「テクストクローズアップ(20)賢治作存疑句四句」(「宮沢賢治学会・会報 第25号」二〇〇二年九月)これも柏浦の選集が比較的ポピュラーなものであったことを示す一例といえよう。

(注2)俳誌「春星」のHP内の「青木月兎の句」http://www.geocities.jp/toushun7/tsukiusa1.htmには、「『ホトトギス』誌の越後の俳人名に柏浦がある」とある。博文館の一族が越後長岡藩の出なので、何かコネクションがあったかもしれないが、未詳。

(注3)『類題俳句大全上』「凡例」には「明治を代表せる子規は勿論、碧梧桐、青々、虚子、鳴雪、橡面坊、八重桜、桜?子、乙字、六花、癖三醉、蝶衣、柑子等を撰み、古今共に月並的陳腐のものは努めて之を避け、今人中の所謂宗匠俳諧輩は言ふよ要せず子規系統以外新派と称する諸家の俳句を採らざるは、単に資料に乏しき故のみならず、編者が大体に於て趣味の一致せざるが為めにして、敢て排斥するの意にあらず。」とあって、やはり蒐集にあたっての編者の「趣味」の偏向を是認強調している。

(注4)虚子はすでに句作から遠ざかり、この『最新二万句』刊行後の八月には「ホトトギス」の雑詠欄を中断した。 

(注5)(注3)で触れた『類題俳句大全』に名前が出ている作家も、碧梧桐派が多くこれを裏付けている。

(付記)『明治一万句』における「新横題」(近代以降の季語)には以下が見出せる。(△は横題の省略等と確定が困難なもの、×は誤って掲載したもの)参考として示しておく。

  春・・・朧・紀元節・紫雲英・土筆

  夏・・・夏野・氷店(×氷餅)・ハンモック・ラムネ・夏帽子・浴衣・海水浴・水泳

  秋・・・天長節・薔薇・秋晴れ・子規忌(糸瓜忌・獺祭忌)・△生姜・△玉蜀黍

  冬・・・火事・風邪・除夜の鐘・クリスマス・芭蕉忌・一茶忌・蕪村忌・△大根

  

 

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