「かるみ」の近代序説 

                  橋本 直 

   一、はじめに

 まず、かるみについて知識的なところから整理しておこう。蕉風のかるみについての発言のうち、よく引用されるものには、「今思ふ体は浅き砂川を見るごとく句の形、付心ともに軽きなり。其所に至りて意味あり」(「別座鋪」序)や「かるきといふは、発句も付け句も、求めずして直にみるごときをいふ也。言葉の容易なる、趣向のかるき事をいふにあらず。腸の厚キ所より出て、一句の上に自然ある事をいふ也」(許六「俳諧自讃之論」)などがあり、そのかるみを辞書や文学事典の類で引くと、以下のように出てくる。

 また、引用では省略したが、井本農一氏によれば、芭蕉にとってのかるみには、初期と晩年で違いがあるということである。そして、俳句の直接の起源である発句に限れば、芭蕉が発句のかるみに言及をしているのは「三冊子」にある「木のもとに汁も鱠も桜かな」の句を「花見の句のかゝりを少し心得て、軽みをしたり」と述べたのみとされている。この「かかり」と「かるみ」については乾裕幸氏の卓見(「ことばのうちなる芭蕉」所収)があるのでそちらをお読みいただきたい。
 ここで引用した事典にいう芭蕉の「かるみ」論を「境地」と解するのか「風体」と解するのかという問題は、正否の決定というより、芭蕉自身のそれらに対する認識の布置がどのようであったかを解き明かせるのか、ということが難題ということになるだろう。
 このように、かるみはこれまでの芭蕉研究の成果を軸に、それなりに整理されており、今後も研究は様々に進んでいくだろうと思われる。とはいえ、現在唯今の俳句実作者にとってのかるみとは何か、いう視点にたつと、芭蕉の最後の境地と言われても非常に茫漠とした印象がある。仮に境地か風体かという問をおいて、かるみの概念を先の事典の引用のように理解するとしてもうかんでくる知りたいことや疑問を列挙すれば、

 @茶道など芭蕉以前に成立していたかるみとの差、芭蕉の初期のかるみと晩年のかるみとの差、許六や杉風らかるみに言及している  弟子達やしていない弟子達とでのかるみへの認識の差。

 A芭蕉の連句の付け味としてのかるみと発句のかるみとの差異はあるのか。

 B先の世代の俳諧との関係、例えば意匠を変えた談林風への逆戻りという部分はないのか。

 C例えば一茶、蕪村ら、芭蕉より後代の俳人にかるみは念頭にあったのか。あるならどう考えられていたのか。

 D近代以後、かるみはどう考えられてきたか

 Eかるみと作家の老いの問題をどうとらえるべきか

 Fそもそもかるみは芭蕉一人に帰するものか、俳人一般に普遍化できるものなのか

 Gかるみは人を感動させる俳句の美学たりうるのか

これらの疑問群も@〜Cなどは従来の諸研究をさらに丹念に追えば納得のいくものもあるだろうし、ここですべての疑問を扱うことは紙幅もなく筆者の手にも余る。そこで本稿では筆者の恣意のままにD〜Gの疑問を軸に、近い時代について稿を進めることにする。なぜなら、近現代の俳句実作者へのかるみの意義をここで確かめてみたいと思うからである。これより稿を進めるにあたって、既存のかるみを以下のように整理できないかと仮定してみる。

 A、かるみの不易と流行について

 B、流行から不易にいたることをもくろむかるみ

 C、すでに不易としてあるかるみを流行へ活かす

 D、意味のかるみ、調べのかるみ

 E、幽玄のかるみ

Aは井本氏の論から、Dは乾氏の論にそれぞれ想を得、他はそこから敷衍したものである。Bは芭蕉が言い出した時点から芭蕉の聖化・絶対化(古典化)されるまでを想定した。Cは古典としての芭蕉を前提にかるみを新しい時代に活かそうとする試みを想定した。Eはかるみを新しくする試みの行き着く様相を仮にそう名づけた。以下、この中で特にC、さらにもし可能ならEについて検討していきたい。

   二、近代のかるみ@

 昭和四十年代後半から五十年代にかけて、山本健吉氏は「『軽み』の論―序説―」(昭和四十九)等で「かるみ」を、芭蕉の人生論にかかわる最高の「境地」であり、俳人の指標であるとする考察を行った。それは彼の有名な俳句のテーゼ「挨拶・滑稽・即興」のうち、「即興」を再考したものであり、「即興」と「軽み」を同じ範疇においたものだ。すなわちかるみを俳句固有の性質と見て、不変の価値を見出すものである。これはいわば不易の体としてのかるみであろう。しかし、この時山本の論は、その正否をめぐって俳壇に一大論争を起こすに至った。その後この問題に関しては、決着に至らず現在に至っているようである。
 面白いのは、山本の見解を当時の実作者がほとんど拒否したことで、それについて飯島晴子氏は「保守的な側の人も革新的な考え方の人も、別に相談したわけでもなんでもないのに、『軽み』一辺倒であつては現代俳句の実作者として困ると、みんな一様に答えが出て来ているところが非常に面白い」(『俳句研究年鑑』昭和
5212月)と述べている。実作者にとって山本が推す「かるみ」は受け入れがたかったのだ。なぜなのだろうか。ここで山本の説を概観する。
 山本は、自身が俳句とは何かを定義づけた「挨拶・滑稽・即興」のうち「即興」と「軽み」を重なるものとし、ヨーロッパの詩論における「ウィット」、「エスプリ」にあたるものとみなした。さらには、俳諧・発句の方法論を超えて「人生論的問題」にもなるものだと述べている。そして、芭蕉の言う「物の見えたる光」を「生命的なものへの志向」、「ものの命の輝き」と言い換え、それを「俳句の第一の指標」と見て「「軽み」とは「いのち」の自在に嬉戯する姿なのである。」と述べるとともに、反対に「『重くれ』は『いのち』のこわばり」と述べた。
 これを結論から逆行して考えてみれば、芭蕉の晩年の詩論をいわば「名人の晩年の境地」とでも言うべき完成形と見、そこから芭蕉という一俳人の人生の営為を、一つの定規として、すべての俳人一般を見るという形になっている。そのような尺度から「重くれ」は人生の中の「若さ」に押し込められ、未完成のような扱いをうける。このような視点に、戦後俳句の闊達な議論をくぐった俳人達が、そう簡単についていくわけもなかっただろう。
 たしかに実作者の立場から見れば、山本のように「かるみ」を芭蕉の最高の境地とすることや、それを俳句の最高の境地のようにいうことは、すぐにいくつかの疑問が浮かぶ。第一章でも列挙したが、まず芭蕉がもっと長生きし、その周囲の俳人が皆「かるみ」の句風に染まれば、また違う方向へ進んだのではないかという可能性があることは否定できない。そうすると「軽み」は理念、方法の一段階に過ぎないことになる。また、「かるみ」が月並化へ安直につながってしまったり、老齢化にともなって低下する気力にあわせた平易な創作態度への免罪符のように機能しかねない危うさをもつだろう。さらに言えば、「かるみ」を最高の境地と見ることは、芭蕉一人を「古典」とし、その権威化に手を貸し、結果その威を借りるというのでは、子規の批判した月並み俳諧と同じようなものになるのではないのか。さらに進んで言えば、山本の主張は、色々な言い方をしてはいても、中心は個人の自我とジャンルの固有性とその発展拡大を楽観視する近代主義に沿った芸術観であり、ポストモダン以降批判にさらされた方法の範疇をでないように思われる。ならば、彼の視点はその枠をはみ出す多くのものを見落としてしまっている。
 山本の論考は、本人も言ったように、過程であって完成したものではなかった。つまり試論の段階でアレルギーのような反応がおき、彼のかるみ流行化の目論見は同時代には受け入れられなかった。彼の死後数年を経て、ポストモダンの文芸批評の流行の中で、以後彼のような個性の価値に乗った近代主義批評は、時代から徐々に遠ざけられけてゆくことになる。
 だがそれは、山本の主張の正否が確定したからではなかった。もしかしたら、今、山本のかるみ論は再考すべき時が来ているのかもしれない。長谷川櫂氏は近著「奥の細道を読む」で、かるみに冒頭の一章をさき、そこで山本と同じように「軽み」と老いの関係を芭蕉個人から一般人へ普遍化する書き方をしているが、それに対する反発はあまりでていないように思われる。俳壇の平均年令が上昇傾向にある今、そのような類の言説がこれからますます増えることは比較的想像しやすい。もしそのようなことになるのなら、それは俳壇の精神が高度成長期のそれより涸れてきたからかもしれない。あるいはプレモダンの顔をしたモダンへの逆戻りとでも言うべきだろうか。

   三、近代のかるみA

 最晩年の中村草田男は山本健吉のかるみ論に対する熱心な反対側の一人であった。そのころの彼の発言は講演集「俳句と人生」(平成12年)の記録で読むことができる。草田男は「軽み」を「最高の境地」、「最高の目的」とは思えないとし、それが流行している状況は諦念にのった一種の「敗北主義」だとした上で、「われわれが芸術を作るというのは、もっと深い、もっと永久的な命のあり場を探って、そして身につけ、心につけ、一分一厘でもそういう世界を作品の世界の中で実現させようと考えるからです。」(「軽み」について)と述べている。このようにこの二人に限ってみれば、目指すべき俳句の「いのち/命」をキーワードとして対立していることがわかる。この時それぞれの間できちんと書いたもの、話したことを読みあった上での論争であったのかかなり疑わしいが、山本においては、一個人の至りうる理想の境地としての命であり、草田男においては、すでに存在する根源的な、永久なるものとしての命である。よく知られているように、両者の関係はとても深く長い。その二人が晩年を迎え、その晩年の俳句における生命観、境涯をもって争ったわけであるから、この点に関しては不倶戴天と言っても良いほどの相違であったと言えよう。
 また、この「俳句と人生」の巻末、「万緑編集部」の名で書かれている解説は、この「軽み」論争に多く字数を割き、山本の論が「俳壇に『おもくれ』や思想性の軽視といった風潮を生む原因となったともいえる」と批判し、「一美的範疇を、健吉が芭蕉文学の根本本質へと転化させ、その深い寂寥感と呼ぶべきものと同一視しはじめたこと、このことばかりは草田男はけっして承知しなかった」と解説し、事の本質を批評家と作家の観点の対立と捉え山本の論は「詩の出現の母体である『おどろき』とは直接なんのかかわりもない」という。そして日本人の主体の問題であるにも関わらず「わたしたちはこの問題を依然放置したままにいる。」とも言っている。
 先ほど見たように、健吉は厳密にはかるみを芭蕉個人の文学どころか、それ以降も含めて俳句そのものの根本本質の一つと考えているのであり、対立点はもっと根が深い。また山本の言説への俳人達の反応を見る限り、それが俳壇がおもくれや思想性の軽視をするようなった直接の原因とも思えない。しかしながら、詩が生まれる動機、根拠に「軽み」がその中核をしめるなどということは、大事なものを欠落した考えとしか思えず、指摘の通り現在唯今の私にも理解しがたい。
 だが、「軽み」はその理解次第では「一美的範疇」でおさまるような質のものでもない。また、この主体の問題への問いかけは、直接には先ほどの両者の俳句のいのちへの理解の相違の問題へとつながっていようが、同時に日本人論への志向を持ってもいる。それは日本における絶対神の不在と、間主体と主体との関係論へと開かれてゆくだろう。実は、このような彼らの説の運び方自体、かるみの内在する問題、いやかるみの力に導かれたが故のものではないだろうか、という気がしている。

   三、近代文学のかるみB

 太宰の戦後第一作として書かれた「パンドラの匣」では、芭蕉のかるみが重要な働きをしている。より正確には、このころの太宰にとって、かるみは重要な生きるための理念であった。

 君、あたらしい時代は、たしかに来ている。それは羽衣のように軽くて、しかも白砂の上を浅くさらさら走り流れる小川のように清冽なものだ。芭蕉がその晩年に「かるみ」というものを称えて、それを「わび」「さび」「しおり」などのはるか上位に置いたとか、中学校の福田和尚先生から教わったが、芭蕉ほどの名人がその晩年に於いてやっと予感し、憧憬したその最上位の心境に僕たちが、いつのまにやら自然に到達しているとは、誇らじと欲するも能わずというところだ。この「かるみ」は、断じて軽薄と違うのである。慾と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力して汗を出し切った後に来る一陣のその風だ。世界の大混乱の末の窮迫の空気から生れ出た、翼のすきとおるほどの身軽な鳥だ。これがわからぬ人は、永遠に歴史の流れから除外され、取残されてしまうだろう。ああ、あれも、これも、どんどん古くなって行く。君、理窟も何も無いのだ。すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。(太宰治「パンドラの匣」)

 一読してわかるとおり、「白砂の上を浅くさらさら走り流れる小川のように清冽なものだ」という描写は、先に挙げた「別座鋪」の「浅き砂川を見るごとく」という一節を踏んでいよう。太宰のかるみは、戦後日本人の生き方の問題としてあらわれた。彼は、戦後の便乗的自由主義や民主主義に反発、批判し、その反動として「保守」を宣言し、それは矛盾をはらみつつも「無頼派」として自覚、行動され、その理想としての「アナキズム風の桃源」の境地としてかるみを考え、作品にも登場させているのである。かるみは太宰の無頼の精神を下支えするものの一つであった。
 この作品は、異様な明るさで知られている。このように亡国の一歩手前まで行った戦後、作家の魂の虚無と開放感による一種異様なハイ・テンションと、芭蕉の「かるみ」を同様にみようとする実践が俳句の外に存在していたことは興味深い。それは太宰によって、芭蕉のかるみが戦後の日本人の精神の解放の側面へ半ば強引にせよ敷衍されているということであり、滑稽とはまさにこのようなものをいうのではないかと思わせるほどである。そして太宰の論理でいうなら、まさにかるみは戦後の時代精神の流行であるべきものだっただろう。
 ところで、太宰のこのような理解は、かるみが芭蕉の「最上位の心境」と位置づけられていることに基づく。太宰にとってはおそらく子規の言葉でも虚子の言葉でもかのような力は持ち得なかったに違いない。なぜこのような言い方が可能だったのかと言えば、なによりそれが古典としての「芭蕉の言葉」だったからだろう。それはいわば「古典」のもつ力というものだ。太宰はその「古典」としてのかるみを戦後の日本の状況と対抗する精神へラディカルに転換してみせたのである。それは不易として存在した価値を流行の場へ引きずり出すものであり、ある種のパロディであるように思われる。見方を変えれば、芭蕉のかるみにはそのような力があったとも言えよう。このようなかるみへのアプローチは敗戦直後の俳人サイドからはでてこなかったようだ。すでに見てきたように、俳壇のかるみの再評価の動きは、高度成長期になって現れることになるし、時流に対する反抗のようなエネルギーは持ち合わせてはいなかった。

 

   四、終章―かるみの可能性にむけて―

 おそらく、「かるみ」はそれだけにいくら言葉を費やそうと、説得力は生まれない。巨視的にみれば、おそらく山本が「こわばり」と呼んだ「重くれ」と不即不離の双胴体のような関係なのではないだろうか。両方者は成長の途中と結果というより、相互補完の関係にあるように思える。

 山本健吉は、どこかで〈発句〉を完全性であると考え違いしてしまったのだ。すくなくとも、現在は「軽み」などというふやけたスローガンを連呼する老大家の姿からはそう思える。そして老大家は、「軽み」などというものはしょせん、今日およそ詩の言葉が存在的に〈重み〉を持ち得なくなっている時代の鏡にうつった風景でしかないことに気づいていない。そればかりか、その鏡の作用で、たかだか時代の安全地帯かなにか普遍的な理念の場所であるように錯覚されている。いってみれば、〈悪意〉が年令相応に善意じみて、知らずのうちに、みずからあの伝説的な〈貧弱さ〉のほうへ吸収されているのだ(それこそ有季定型派に抱えこまれている)。むろん私たちは、今日の山本健吉からなにかを得ることなどとうていできないのである。(仁平勝「山本健吉論―古典主義者の〈悪意〉」〈「現代俳句第集〉1985年3月) 

山本の発言への同時代評の中で、かなり厳しい批判の一例である。仁平氏の評論は「古典」を絶対化することで「現代俳句」を軽視する山本の言説を「悪意」と呼んで批判したものだ。それは現代を擁護する仁平からすれば当然の主張であった。ここでは彼の論の正否を問おうとはしていない。確認しておきたいのは、本健吉も太宰治も、共に芭蕉を「古典」としてその価値を絶対視する視点に立っていることには違いがないということだ。そしてともにかるみをある至高の境地と見ていることも同じである。仁平は山本のそれを時代の言葉が重くなくなった反映に過ぎない「鏡にうつった風景」、「ふやけたスローガン」とにべもなく片付けるわけだが、では、太宰はどうなのであろう。そのかるみ観もまた、まさに重い時代に鏡にうつった風景であるものの、それは二重に転倒しており、そのかるみ観は、ここで仁平の言うような「ふやけたスローガン」になってはいない。そして、先の草田男が言うような、老いに伴った諦念の敗北主義でもない。かるみは、状況によってはかのようなものにも化ける。
 本来、日本の美学は、その行き着く先、言葉にしえない繊細で茫洋とした、しかし確かに感じられるなにものかをとらまえたものになりがちで、とりあえず幽玄とかわびさびとか名づけていたように思われる。芭蕉俳句の美学もその系譜に連なるものであり、従ってかるみもその系譜につらなるだろう。しかし、その理解に当たっては、どの範疇でそれを切り取るかが大きな問題であろう。実作の経験が足りないと、山本のように大切なものを見落としてしまう。また、俳句にとらわれすぎると、理解の範疇がおとなしくなってしまい、太宰のような意外性は生まれない。
 今回、これまでの理解の例を挙げ論を進める方法をとった。いきおい、人間の境涯として扱うことが多くなってしまった感は否めない。唯一草田男のところで、実作態度に関わってみることはできたが、一句一句を例出して細かい検討を試みることができなかった。その点については、他日を期したいと思う。

付記・・・本稿は、一部「豈」45号所収の「かるみ論争」を基にしている。

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