子規の句会について
一、はじめに
今年は子規の生誕一四〇年である。もし彼が百歳の長寿を保ったなら、私が生まれた頃まだ彼は生きていることになる。それくらいの時間の間に彼の手によって近代俳句が生まれ、今に繋がったわけだ。では子規は、どんな句会をやっていたのであろう。『子規全集』第十五巻には、明治二四年から三五年の間に行われた合計一五八回分の句会稿が収録されている。もちろん実際にはこれがすべてではないだろうし、一期一会の座の雰囲気など再現すべくもないが、彼の仲間達の証言により、句会の様子をある程度知ることができる。まずは、今に通ずる句会の「いできはじめ」の頃の様子をちょっと覗いてみようと思う。
全集で記録に残るもっとも古い句会稿は、明治二四年八月三一日。「岸の細波」と題されている。書式の都合か「会者」は正岡子規、武市雪燈(子規の誌友)、河東可全(碧梧桐の四兄)、高濱虚子、河東碧梧桐、柳原極堂、竹村其十(伽羅男。碧梧桐の三兄)とあるが、これは紛らわしい。「解題」や年譜をあわせ見ると、松山の虚子宅で行われたもので、当日は子規と極堂、其十は参加せず、欠席投句や後日句評を入れているものである。はじめは「連俳」で、武市雪燈と河東可全の二名で発句は雪燈「あいさつを二度言ふときやかりのこゑ」脇を可全が付け「まかき取りまく朝かほの花」第三を雪燈「空も様二百十日のちかつきて」と続いていく。どういう経緯かわからないが、歌仙で言えば初裏の六句目まで詠んで中断しており、なぜかいないはずの子規の句が初裏二句目にあって「羽おりたゝんで行く太皷医者」。そのあと、虚子、碧梧桐らも加わって新たに歌仙が巻かれていくから、経験者がお手本を示したというものか。面白いのは評の書き込みで、例えば雪燈の発句に対し、虚子が「『あいさつはとぎれてそらに雁のこゑ』としてはいかにや」と評せば、子規が「此句の方がいくらかよし」と書き込んでいる。同郷のよしみか万事この調子で、初心の虚子も遠慮がない。この頃、当たり前のことながら、題詠や雑詠で連句の形式の句会が行われた。それしかなかったのである。
二、「競吟」の時代
全集解題によれば、子規は二五年末まで句会の作法を知らなかった。鳴雪の回想「吾々の俳句会の変遷」(『ホトトギス』大正二年六月)によると、それぞれが勝手に句作して互いに批評しあっていたという。そんな明治二五年の句会の方法で目立つのは、「競吟(せりぎん)」という方法である。先述の鳴雪の回想によると、「何分間と言ふ時間を定めて置いて、其の間に幾句でも題に従つて多数を作つて其の多きを誇り、又多き中に善き句の多きを誇るといふやうなことをしてゐた」という。確認した限りで記録に残る最も古い競吟は同年七月一五日。会者は子規、碧梧桐、虚子である。お題は「梅干」「雨乞」「打水」「昼顔」「風薫る」。それぞれ制限時間は不明だが、「梅干」で子規は七句、碧梧桐は三句。虚子は一句。「雨乞」で子規六句、碧梧桐五句、虚子三句。「打水」で子規四句、碧梧桐三句、虚子四句。「昼顔」で子規四句、碧梧桐四句、虚子三句。「風薫る」で子規五句、碧梧桐五句、虚子四句を詠んでいる。句数からいって一題五分程度であったか。それぞれの題における高点句を抄出すると、
梅ほすや庵のぐるりは日のさかり 碧梧桐
子規、虚子とも二点。
「俳句分類」の賜物だろうか、「栗刈て庵のぐるりや初月夜」(木因)と付記がある。類想があることもわかった上で善しとされていたようである。
雨こひや天にひゝけとうつ太鼓 子規 碧梧桐、虚子ともに一点。
雨乞にまた出て来たり雲の峰 虚子 子規二点。
打ちあけた水風蘭に届きけり 子規 碧梧桐、虚子とも一点。
打水にくづれし月の若葉哉 虚子 子規二点。
うち水のあとを夕立の走り哉 虚子 子規二点。
昼かほは蝶の遊はぬさかり哉 子規 虚子二点、碧梧桐一点。
ひるかほののなりなからに暑さ哉 虚子 子規、碧梧桐ともに一点。
とま舟の行方を風に薫りけり 虚子 子規、碧梧桐ともに一点。
並松のみさき廻りて風薫 虚子 子規二点。
句会稿を眺めていると、いつもいつもという訳ではないが、この会は虚子が冴えており、かつ子規が高点を入れていることがわかる。子規という人は統計を取って誰が誰に点を入れる傾向があるかまで分析していたそうだから、碧梧桐と比べて虚子のほうが好みであることを既に明瞭に意識していただろう。それにしても、この「競吟(せりぎん)」という方法は、鳴雪の言葉通り分単位で制限時間内になるべくたくさん善い句を詠むということを目的とする形式だったとすれば、決まった時間内にいかに効率よく不良品を出さずに大量に生産するかということを至上の命題にした近代社会のもった性質に実によく似ている。
ここで少し伝記的事実に触れておきたい。明治二四年は子規と虚子の邂逅の年であり、子規が俳句分類をはじめた年である。子規は文科大学哲学科から国文科へ転科したものの、「脳病」で試験を放棄し旅行に出た。追試には及第したものの、翌年には落第が決定し退学を決意するに至る。その間、小説「月の都」を書いたが、小説家になることはかなわず、「日本新聞」に入社した。ひっかかるのは「脳病」である。彼の人生の転機の原因であったと言ってもいいほどである。おそらくは学業のストレスで鬱のような状態になり、勉強が手につかなくなり療養のために旅行に出かけているのであろう。のち「墨汁一滴」では以下のように回想する。
「明治二十二年の五月に始めて咯血(かっけつ)した。その後は脳が悪くなつて試験がいよいよいやになつた。明治二十四年の春哲学の試験があるのでこの時も非常に脳を痛めた。ブツセ先生の哲学総論であつたが余にはその哲学が少しも分らない。一例をいふとサブスタンスのレアリテーはあるかないかといふやうな事がいきなり書いてある。レアリテーが何の事だか分らぬにあるかないか分るはずがない。哲学といふ者はこんなに分らぬ者なら余は哲学なんかやりたくないと思ふた。(中略)哲学も分らぬが蒟蒻板も明瞭でない、おまけに頭脳が悪いと来てゐるから分りやうはない。二十頁も読むともういやになつて頭がボーとしてしまふから、直(すぐ)に一本の鉛筆と一冊の手帳とを持つて散歩に出る。外へ出ると春の末のうららかな天気で、桜は八重も散つてしまふて、野道にはげんげんが盛りである。何か発句にはなるまいかと思ひながら畦道(あぜみち)などをぶらりぶらりと歩行(ある)いて居るとその愉快さはまたとはない。脳病なんかは影も留めない。一時間ばかりも散歩するとまた二階へ帰る。しかし帰るとくたびれて居るので直に哲学の勉強などに取り掛る気はない。手帳をひろげて半出来の発句を頻(しき)りに作り直して見たりする。この時はまだ発句などは少しも分らぬ頃であるけれどさういふ時の方がかへつて興が多い。つまらない一句が出来ると非常の名句のやうに思ふて無暗に嬉しい時代だ。」(「墨汁一滴」六月十五日)
「レアリテー」が分からないことを書いたのは自分への皮肉だろう。子規は江戸の末年に生まれている。もし明治維新がなければ、あるいはあと100年ばかり早く生まれていれば、彼が「脳病」などという病を口にすることもなく、あるいはもしなにか憂鬱に苛まれ精神に異常をきたすことがあったとしても、それは「憑きもの」でも憑いたということになり、近所の坊主か神主がお払いをしたか、あるいは遠くの名のある神社仏閣へお参りに行ったか、そうでもなければ流れ者の霊媒師や祈祷師の類がお払いにきたであろう。そしてそれなりに松山藩の武士としての生涯を過ごし生涯を終えただろう。そのような「憑かれた」人は、ある日突然やってきた「近代」という時代の中で、日本は一刻も早く西洋文明に追いつかねばならないという文脈に身を置かれると、その西洋文明からやってきた最先端の「科学」である、医学によって自らを「脳病」と呼ぶことになってしまう。
彼らは生まれてすぐ文明開化、和魂洋才、富国強兵の為の国家有用の人材か否か、という苛烈な人生の文脈の中へ放り込まれてしまった。まして子規は松山藩という「負け組」の下級武士の子である。実力で身を立てるかしかなく、頼みになるのは自分の肉体と「脳」しかない。一個の人として決して無能ではない、いや、むしろ驚くほど明敏で有能な子規は、これに耐えきれずレールからおりることになった。この時代、結核菌に冒されることと精神を病むことは2大文明病といっていいだろう。一時期にせよ喀血し、精神を病んだという自意識をもった子規は、国家有用の人材というレールからおりる要件をともにそなえてしまったことになる。同時に、引用にあるように句作が楽しくてしょうがなくなるのである。現代の「鬱」とか、登校拒否の学生やニートと言われる人々、家の中に引きこもってゲームやネットをやって一日を過ごす人々のもっているメンタリティと、この時期の子規の「脳病」との間にそんなに大差があるとは思えない。脳病になって登校拒否をして、旅に出て句作をすれば楽しいのだ。子規は大原恒徳宛の書簡に「脳病(憂鬱病の類)」と書いている。漱石も熊本五高辞職願に「神経衰弱」と書いたという。この時期の子規にとって、俳句を詠むことは、単純な快楽であった一方で、いわば心身を守るための現実逃避でもあり、古来文人のした無為自然の境地への近道に見えていたのかもしれず、いずれにせよこの時期が彼のアイデンティティの危機であった。そんな子規が句会で「競吟」をするのは皮肉である。まだまだ大文学者正岡子規の姿は見えない。
三、運座
明治二四年には三回しか残っていない句会の記録が、明治二五年は九回になり、明治二六年には四十回にもなっている。彼の生涯で最多の句会数であり、全集の中だけで言えば四分の一をしめる。急速な増加だと言って良いだろう。この年、彼らの句会は劇的な変化を遂げた。伊藤松宇のグループ「椎の友会」から互選の運座の方法を学ぶのである。
「明治二十六年正月に、或る時子規居士が私の宅へ来て話すのは(中略)運座という方法でしたが却々面白い、遂に徹夜して今朝帰つてきたのであると言つた(中略)運座といふはどんなことかと思つたら、幾つかの題を出して、其題を紙の端へ記して、その紙を座の順によつて廻す、廻つて来た紙へ其の題の句を一句づゝ書き込む。斯くの如く一順廻ると其の題に座中の人々の句が揃ふのである。尤も其の紙を廻す時には、一句を書き込む毎に直ぐ折込んで了ふから次ぎに書く人は其の句を見ることが出来ぬので人の句を剽窃することは出来ぬのである。で、斯様にして数題を銘々が作ると、それを一枚づゝ分けて銘々が筆記して、尤も匿名にしておいて、それを互選する。」( 内藤鳴雪「吾々の俳句会の変遷」(『ホトトギス』大正二年六月))
この鳴雪の要を得た回想によってわかるとおり、今の句会の形式とほぼ同じものといって差し支えあるまい。さらに宗匠岡本半翠の句会で袋に句を入れてまわすことをやっていたことから、それを互選の運座にも応用して、いわゆる「袋回し」の方法が確立したという。清記をはさんでいないようなので、筆跡で作者がわかる難点をどうクリアしていたのか不明だが、ともかくも鳴雪は「椎の友会」から互選の運座がはじまったのだということを、時代の証言者として特に強調している。宗匠をおかないこのやり方は、若い子規達の感覚に良く合っていたのだろう。互選句会の数が増え、参加者も格段に増加した。そしてこの年、もっとも参加者が多かったのが、「芭蕉忌」である。十一月十九日に子規が主唱し上野養寿院で芭蕉二百年忌の句会を行った。句会には藪鶯、素香、桃雨、松宇、子規、紫影、爛腸、非風、飄亭、古白が参加し、鳴雪、桂山、碧梧桐、狙酔、猿男、得中、孤松、可全、虚子、五洲が欠席投句。総勢二十名ということになる。句会稿には日付の後「午前九時ヨリ上野公園外桜木町養寿院(準提観音)ニ於テ開ク」とあって、参加者の後に「当日天気晴朗空に微雲無ク樹ニ微風無シ」と記されている。当然句の数も題も多いので、主な高点句のみをあげておく。
子を抱て猿のしくるゝ岩間哉 飄亭
月の洲に足もと暗き千鳥哉 古白
初冬の梢に高し烏瓜 得中
凩や鼬顔出す倉の窓 狙酔
凩や水なき空を吹き盡す 碧梧桐
枯れ盡す祗園新地の柳かな 飄亭
これより前、十一月六日に「日本」に「芭蕉翁の一驚」を書き、二百年忌を利用し金を儲けようとする旧派宗匠を痛烈に批判した子規は、十三日から本格的な芭蕉論である「芭蕉雑談」の連載を開始している(後に『増補再版獺祭書屋俳話』所収)。
また、この年の終わり頃の十二月三日の句会では、まず互選の句会を行った後で、三回にわたって「名々宗匠」なる表題をつけて、題毎に選者を交代し選をする句会を行っている。そして各選者には「○○宗匠」と名付けてさえもいる。これはちょっとふざけていて、旧派宗匠への皮肉を感じる。他の人の選が表に出てこないからたしかに一題に限り「宗匠」の句会のやりかただが、それがローテーションでまわり、担当する題も変わるのであるから、いわば変則的互選でユニークである。各人の選に皆の注目が集まるので、その力量が試されただろう。しかし、場に出た句のすべてが見られず、選者にならなかった他の参加者がどの句を選んだかも記録に残らない憾みがあり、回覧には不向きだったためかこの方法は続いていない。所詮遊び半分でもあっただろう。
この他の方法として、題毎に優劣を判定した上で更に全体から佳句を選ぶという二重の選句を試みた句会の記録が一つ残っている。また、句会とはやや異なるが、二名で同じ題の句の優劣を判定する「句合せ」を何度か試みている(最も古い「桜句合せ」は子規が一人二役)。「日本」(明治二六年四月一日・十三日)に載ったものは、鳴雪と古白の作で判者が子規。五題で競われており、一例をあげると
左 倶利伽羅の雪やなだれん帰る雁 木曽の山人
右 帰る雁沖白う夜は風寒し 由良の舟人
の二句に対し、子規の判定は「帰る雁に越山の雪なたれを思ひつきたる疎句疎ならぬ処景色大にして面白し沖白き朧夜のさま思ひ至らぬにはあらねど先づ先の勝にや侍らん」という具合。左の文学的連想の働きやすい材の意外な取り合わせを評価しているようだ。作者をはっきりと明かしてはいないが、おそらく「木曽の」が鳴雪であろう。
明治二十六年で句会がこんなに増加しているのに、年の初めの二月二日の虚子宛の書簡では、椎の友会と合併して運座で句会をしていると、はじめは面白かったが「今は俗気紛々として少々いや気に相成申候」と書いている。しかし、子規は本気で「いや」と書いたのであろうか。全集十五巻の「解題」で和田茂樹氏はこの点に触れて、互選方式への移行を「各個人を主体とする点、さらに近代化した方式といえよう」と評価した上で、「しかし、主体の文学性に問題がある」と述べておられる。子規のいやがる「俗気」をそのように解されたが、ちょっと違う気がする。あるいは、句会の方法で「主体の文学性」を問題視すること自体にも問題はあるだろう。
この引用部分の後、子規の書簡には「小生抔ハ毎度失敗をとり申候(尤名句なき故に御坐候)右様の訳故どうしても発句に俗気を帯びてどうか高点を得たいとの念許り盛んに相成候 それ故ニ貴句及女月旭渓諸子の句を読んで大ニ其俗気なきに感し申候・・・」と続き、自分は今運座でしか句を読まないから俗気が抜けない。君は天保以降の俳書は読むな、という風に結ばれる。
そもそも子規のこの言い方も既に矛盾を自覚している。俗気は句会の所為だというが、それは則ち句を詠む動機にもなる訳で、この年の句会の数の増加は子規のやる気の証明にもなろう。それだけ句会が楽しくて楽しくてしょうがなかったのだ。だからこそ句会で点が入らなければいい気はしないし、高得点を狙う意識がでてきて俗気をもたざるをえない。
句会は楽しいが、俗気が抜けない。子規にとって句会とはアンビバレントなものであった。それはこの平成の世でもなんら変わりなく続く問題である。百年続くからにはもはや句会というものを止めない限り、「俳句」そのものの性質に根ざす「病」といっても差し支えないだろう。そして、そのような俗な性質を持つ俳句とどう向き合っていくのかという「志」が常に未来の俳句の問題としてあるのだろう。句会のもつ遊びの楽しさは大事にしつつ、その俗気を俳句界全体に蔓延させない「志」を意識すること。さすがに子規もそこまで考えないといけないほど俳句を詠む人が多くなるとは思っていなかったようだ。
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