荻原井泉水の季題観  〜山頭火のバックボーン〜

   よく知られているように、種田山頭火の俳句は「自由律俳句」と呼ばれるものである。その提唱者は雑誌『層雲』主宰、荻原井泉水であった。井泉水は碧梧桐の新傾向俳句派における理論家で、共同して『層雲』を創刊(明治四十四年)したが、大正初年にはいって新傾向派が季題を棄てないことを批判し独自の路線を進んだ。山頭火の投句は、大正二年からのことであり、『層雲』創刊からそう時間を経ていない頃である。  井泉水が明確に季題の廃止を体系化し論じた文章は「自然の扉と一つの鍵」(大正三年六月)である(注:引用文は『我々小さき泉より』(大正十三年刊)所収)。井泉水は明治四十五年の虚子の俳壇復帰を強く意識し対抗する戦略をとったと思われる。虚子は言うまでもなく有季定型の「守旧派」であり、井泉水にとっては格好の相手であったろう。文の題にある「自然の扉」とは「自然」と書いてある「扉」であり、そして部屋の中は「俳句界」そして「一つの鍵」とは「俳句」のことである。そして、暗に虚子らを指すと思われる、雑駁な実生活を嫌い趣味を求め自然の中にこもる「此の部屋の凡ての人」はこの鍵の使い方を解っていないと言う。一言で言えば、季題という約束事は本当の自然ではなく、先人の決めた狭い枠(部屋)の中に閉じこもることだという喩えである。  

 俳句は季題趣味を詠ずるものである、俳句は十七文字の文学である、といふ風な空疎な因襲と約束とに依って満足してゐる。此事が現今の俳句界に於ける根本の誤謬である。(中略)その人々の句作法を見ると、皆、題で作ってゐる、春夜、五月雨、駒迎、梟といふ類な、四季折々のものが季題として定められてゐる、季題以外のものを句に読むことが許されない、例へば春夜で句を作るとすれば、春夜とは濃艶な感じのものだといふことを知らねばならない、春の夜にはさういう趣味があるといふことが規定されてゐるからである(中略)之は自然を忠実に観ることから得られない、歳時記や類題集からさういふ因襲的な約束的な趣味を概念として覚込むことである。  

約束事を決めた俳句を井泉水は「芸術ではない、遊戯である」と断じている。このような既にある約束事、因襲の枠を壊して新しい芸術を生み出していこうとする姿勢こそ、初期『層雲』の求心力であった。さらに、因襲の改革者の先達という意味で彼は芭蕉を持ち上げ『旅人芭蕉』等の著作が書かれていくことになる。  井泉水のとった俳句革新の戦略は、因襲の破壊であり、自然そのものを写そうというスタイルは、大枠では子規の「写生」説の延長線上にあるものであるといえよう。しかし、大きな違いはその難解な自然観にある。彼はいわゆる「座の文芸」としての側面を除き、一己の自我と自然との関わりの中で俳句を捉えようとしていた。

   自然、自我、自由、此の三つの頂点に依って支へられたる実践的思想が俳句の精神である。自然はどこにあるか−自我の中にある。自我の姿とは何であるか|自由のこころである。自由の心は如何にして得られるか−自然に随う事。此の三位一体の境地に私は俳句の精神を見る(「俳句の本質」大正七年八月)  

自然と自己の一種の一体感を作品に取り込もうとすることは虚子の説にもあり、小説でも梶井基次郎の作品などに見られることだ。しかし、いずれも対象を見ているうちに自他の区別がなくなってくるという感覚的なものであるのに対し、井泉水の説では、対象を見ているにもかかわらず、それは今まで身につけた知識によって邪魔された真の姿ではないもので、自己の中から本当の自然の姿が見えてくるとするものであり、この立場からすれば、本意を持つ「季題」とは邪魔なかさぶたのようなものであったろう。  自己の中の本当の自然という、個人差のある、漠然としたものに重点を置くことは、もしかすると無いかも知れないものを信じているという意味に置いて宗教的なユニークさをもつ。この一派で井泉水本人や放哉、山頭火ら『層雲』代表作家が禅の道に入ったのも自然な流れであったとも考えられるのである。  このように、井泉水の一己の人間を自然と対置させた自然観は、俳句に持ち込もうとする限りでは非常にユニークな方法であったし、日本人における自然観の洗い直しのきっかけにもなりうる方法論であったが、結果的には、日本の伝統詩形に新しい展開を見せることは少なかった。すぐに大須賀乙字によって「其自然は本能を指すのか意志を指すのか曖昧至極」(「俳壇復古論」大正三年七月)と鋭く批判されることになる。また、その季題否定の戦略も「この迷惑論が他に影響して、季題を一定不変のものかの如く思はせた罪などは軽からぬ罪だ」(同前)と断罪している。  山頭火はこれらの論争を議論の浪費で寂しいと感じて「季題」は「自然」と呼ぶべきと言ったりしているが(「樹」大正五年十一月)、その後評論を出すようなことはしていない。彼は理論の人ではなく実践の人であった。例えば、後年の代表作  

分け入っても分け入っても青い山 (大正十五年)   

鉄鉢の中へも霰(昭和七年)

さて、どちらへ行かう風が吹く  (昭和九年)  

このような山頭火の句を見るとき、自己の意志の流れと自然の対置は看取できるのであり、井泉水の理論の影響を軽く見ることはできないのである。              

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