映像と言語と虚子俳句 橋本 直
「明治二十九年の俳句界」において、正岡子規はこの年の特筆すべき俳句の特色として河東碧梧桐の句を「印象の明瞭なる句」と評し、その碧梧桐の写生的句風を称揚した。「印象明瞭」については「其句を誦する物をして眼前に実物実景を観るが如く感ぜしめるを謂ふ。故に其人を感ぜしむ処恰も写生的絵画の小幅を見ると略々同じ(『子規全集』第四巻五〇三頁)」と説明した。この時期、子規は中村不折と画における写生論についての対話を交わしたことで、俳句にそれを転用可能であることを発見しこれを世に問おうとする意図があった。碧梧桐の句を自分の思想に適う映像的な句とみて、新しいものとして高い評価をしたのである。そして、俳句という文字記号で成り立つ詩形を読んでリアルな映像が浮かぶことが重要だというのである。
さて、とき現代に至っても句会の席などで俳句を評するとき、映像やイメージがすぐに浮かぶということが、その作句のスタイルに関係なく、誉め言葉として用いられることが多々ある。果たしてその根拠はなんなのだろうか。映像とつながることがわかりやすさであったり、読み手に感動をひきおこすということ、すなわち、俳句においては映像言語が詩性を持つということなのであろう。例えば子規は素人でもリアルな絵を見ると感動することを引き合いに出して説明している(前出五〇六頁参照)。この百年は映像の世紀とも呼ばれる。百年の記憶を画面で見ることが出来る世紀である。言葉と映像が同時に存在する時代であったことと、子規の写生以来の俳句は無関係であったとは言えまい。世の詩型のなかで、その短さ故に言葉と映像がもっとも相互作用しているのではないかと思われる俳句という詩型は、映像が文化的背景としてあることによって俳諧の発句とは大きく変容した。そして読み手は、いつのまに俳句を先程述べたように映像を引き合いに出す誉め言葉をあたりまえのように使うようになった。はたして映像は歴史的連想を凌駕したのだろうか。
冒頭の話に戻ろう。碧梧桐の句に対し、虚子の句は「主観的時間の句」「人事句」と評されている。二人のデビュー当時の特徴はそうであったかもしれないが、しかし、記憶に残る虚子の句にはむしろ映像喚起能力の高い句が多いのではないか(引用は『高濱虚子全俳句集』〈毎日新聞社・昭55〉による)。
遠山に日の当たりたる枯野かな(明33・12「ホトトギス」)
桐一葉日当りながら落ちにけり(明40・10「ホトトギス」)
金亀子擲つ闇の深さかな(明41・10「ホトトギス」)
白牡丹といふといへども紅ほのか(大14・8「ホトトギス」)
流れ行く大根の葉の早さかな(昭4・5「ホトトギス」)
たとふれば独楽のはぢける如くなり(昭12・4「日本及日本人」)
去年今年貫く棒の如きもの(昭26・12「ホトトギス」)
思いついたままに抽出したが、これらの句はそれぞれにその場面、瞬間のイメージが具体的/漠然と浮かんでくる感じがする。そして、これらの句の季題や言葉には歴史的連想は強く働いてはいない。もちろん、これ以外に分類される代表句も多くあるが、高浜虚子の秀句の特徴の一つにその映像喚起力をあげてもよいのではないか。 虚子自身もこの俳句の言葉の映像性については後々まで子規と同じようなことを言っている。
俳句は宿命として絵画と甚だ似通ったものである。絵画が色や線で形を表すと同じく、俳句は文字を以て景色や事件を現すのである。(「虚子俳話」(昭27・1「玉藻」)
俳句の写生といふ事は四季の万物の相を見て、その中からある映像を取出して来る事をいふのである。(中略)それ等〈引用者注・・・作者の心がとらえた植物が生い茂る庭の相のこと〉の中から或る朝顔なら朝顔ををとらへて来て(作者の心が朝顔に感動して)そこに一つの映像が生れる。これが写生である。(『虚子俳話』東都書房・昭33、39・40頁)
これらの話は俳句を作る/指導する立場で語られている。先の子規の引用は批評的立場で語られており俳句界で二人がやろうとしたことを反映して興味深い。が、時代の差による言葉の選択の差こそあれ、まずは俳句において映像のリアリティに価値がおかれていることに大差はない。
明治三十年代からの文芸雑誌を見ると、『文章世界』や『太陽』などで日本や世界の文豪の肖像写真が次々と紹介された。後の白樺派の人々などは敏感に反応し、自らの雑誌に取り入れている。また、志賀直哉の作品には、この時代の様子が見て取れる。『大津順吉』(大1)で、主人公は、知り合ったある娘と肖像写真の交換をし、自宅には銅版写真の額を飾り、写真付の演劇雑誌を読みふける人物である。写真は、流通し不特定多数の人に見られるものとなっていた。また、明治二十年代後半からはじまった活動写真すなわち今日の映画の興行はやがて世に広まっていった。この時代は映像が文化の中で急速に民衆に共有されるものとなっていったのである。
これは子規が自由に動き回れた時代にはなかったことである。実際には見たことがない人や物、風景でも、映像なら見たことがある。そのような経験が始まったのが、まさに、子規の晩年からであり、虚子の活躍する時代であり、現在へと通じる事態であった。
養老猛司氏によれば、漢字はもともと映像的でありアルファベットやハングルとは異なる。さらに、そこから派生したかなもその映像言語としての性質をある程度保持していると思われ、現代の俳句はそれを抜きには存在しない。我々は、過去に見た経験のある景をもとに、句の語とその記憶とを結びつけることで解釈をしている。しかし、映像で見た景の記憶が混ざることによる映像合成のような作用が必然的にこの中に含まれている。そして、クリステヴァ風に概念規定をするなら、あらゆる映像言語は引用のモザイクとして構築されている。映像言語はすべて、いくつかの別な映像を吸収、変形したものであるはずだ。
先の碧梧桐は晩年、ルビ俳句を作るに至る。
簗落の奥降らバ鮎はこの尾鰭る(昭6)
これは漢字に当て読みを含めたルビをふり俳句を読ませるものであり、複雑になった現代を表現する為のものとして考え出されていた。が、要は文字の量を増やして一句内の記号の量を増やしているに過ぎない。従ってふつうの俳句を読むようにはいかず、映像を浮かべる前に大小の文字を追い漢字の意味とルビを組み合わせて解釈する手間がかかる。そのことによって瞬時に映像が浮かぶという俳句の利点を捨てた詩形となっている。これに対し虚子は一方で伝統回帰を強調しつつも、先鋭に言語の映像性を活用し続けた作家と見える。
秋風や眼中のもの皆俳句(明36・10「ホトトギス」)
この句には、対象を視覚でとらえ言葉に置き換えることと、それを読んだ読者がその映像をイメージすることへの堅い信頼と自信、それによって自由に句作することが可能であるという強力な自負が見えると思うのだが、如何なものであろうか。
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