「日本派」の展開 ―静岡「芙蓉会」について(1)― 橋本 直
一、はじめに
良く知られているように、正岡子規の俳句・短歌革新の活動は、一方では、加藤拓川ら同郷の親族、そして後輩である高浜虚子や河東碧梧桐らを中心とする、濃密な人間関係が核となってささえていた。そして、もう一方の核として、子規が新聞雑誌に持論を展開し続けることで得た人々、読者の支持があった。前者だけの活動であったならば、マイナーな作句集団に過ぎない。彼らが俳句の近代化を成し遂げるには、大勢の支持が必須であった。しかし、従来の研究においては、後者は単なる「読者」として片づけられているのではないだろうか。つまり、それら「読者」としての子規の支持者達は、近代小説における作品の所有者たる作家とそれを享受する読者、受身な、生産者に対する消費者のようなものと見なされたままなのではないか。しかし、それは近代俳句における作者と読者の関係にはあてはまらない。なぜなら、俳句における読者は、そのほとんどがまぎれもない「作者」でもあるからである。ゆえに、俳句における作者と読者の関係は、批判的であるにせよ肯定的であるにせよ、元の俳論や作品の何らかの形での継承となっていく性質がある。つまり、子規本人の主張を機軸としつつ、その影響下に作句活動を展開した人物達と、それに反対する人々とのせめぎ合いの中で、日本派の俳句が勢力を伸長していったはずであり、子規の俳句革新運動が、直接子規とは関係のないところで、多くの作家でもある読者達に、どう受けとめられ、どのように展開していったのかということや、その結果が子規達にどう跳ね返っていったのかも含めた総体を「日本派」の展開として考えるべきものではないだろうか。さらにいうなら、近年古典権威化すら指摘される子規の俳業に対し、より相対的視座をもたらし、最終的には近代俳句における作者と読者の関係論とでもいうべきもののを提示できるのではないかと考えている。
まず、本稿では、最も早くホトトギス系の衛星雑誌を創刊した団体である「芙蓉会」の活動を追い、「日本派」の運動が、具体的にはどのようなものであったのかを明らかにする端緒としたい。
二、「平民文学会」と「芙蓉会」
「芙蓉会」の人々は、虚子や碧梧桐のような子規の身近にいた人物ではない。東京にいなかった彼らは、基本的には子規の主張をメディアを通じて受け取り、その結果多様な展開を見せた。中心メンバーであった加藤雪膓(千里坊)は、子規に頼まれた訳でもなく、日本派の俳句革新の一翼を担い、静岡において活発な活動を展開した。そして、子規を生涯の師と仰ぎつつも、後には独自の理論をもつ自由律俳人となった。彼らの拠った「芙蓉会」は、実質的な活動期間は五年ほどで、その成立には、二系統の流れがあった。明治二十八年に加藤雪膓、關縹雨、渥美渓月ら静岡県立師範学校で同級であった学生達と静岡民友新聞の藤田紫亭を中心とする人々によっておこされた「芙蓉会」と、明治三十一年十月に久保田桂川(のち九品太)、鈴木破竹らによって結成された「平民文学会」とである。この両者が合流して後に創刊されたのが『ホトトギス』の衛星誌としての『芙蓉』(第二巻第一号)であった。結成は「芙蓉会」が早かったが、雑誌を創刊したのは「平民文学会」が先であった。以下、それぞれに検討したい。
「平民文学会」は久保田桂川(九品太)らが明治三十一年、十七歳の時に創設した会である。機関誌として『平民文学』を創刊した(注1)。会を持つに至った経緯や趣旨は、創刊号が未発見の現段階でははっきりしたことは言えないが、会則によれば、「本会ノ目的トスル所ハ目下平民文学トシテ最モ高尚ニシテ且ツ勢力ヲ有スル俳諧ノ真髄ヲ発揮セントスルニアリ」(『平民文学』第三号「平民文学会会規 第二條」明治三十一年十二月)とあり、おそらくは初めから俳諧中心の文学会であったと思われる。注目したいのは、この時点で彼らにとって「俳諧」が「平民文学トシテ最モ高尚ニシテ且ツ勢力ヲ有ス」と主張されていたことである。彼らのいう所の「俳諧」はどのようなものであったのかを紙面から探ると、「俳諧の連歌」の欄を五号まで旧派宗匠で地元の名士でもあった松島(七十二峯庵)十湖が担当(五号まで)しており、「募集俳句」の欄の選を、十湖(七号まで)と後述の加藤雪膓らが並行して担当する、という体裁をとっていた。また、加藤雪膓が「旧俳管見」という旧派批判の評論を載せたりしており(三号)、桂川(傾仙と署名)の記事「明治三十一年を送る」(三号)のなかで「大にしては日本派俳句の大塊とも云ふべきほとゝぎすを東京に起し小にしては新旧両派の運命を決する檻上たるの我会を東遠の一隅に生めり」というような記事も見られる。
総じて言えば、「平民文学」は、子規の俳句革新に影響されつつも、子規の否定した俳諧の連歌も掲載しているように、旧派宗匠も排除はせず、誌上でその趨勢を見きわめよう、という姿勢であった。この点について、「ホトトギス」第二巻第五号(明治三十二年二月十日発行)の「地方俳句界」記事に、
平民文学会
謹啓、本会の俳句は当地の雑誌平民文学に公に致し居り候。会員の中には旧派も交り居り候へどもやがては我国俳壇の先駆たらんことを希ひ居り候。会員は目下七十余名有之候。
と記事があり、新派ではあるが、旧派宗匠を排除しないで俳句の革新を目指す、というような立場の表明と読める。その意味では日本派というよりむしろ秋声会の理念に近く、「子規全集」第五巻の解題で尾形仂氏が『芙蓉』の解説の中で「はじめ遠江から「秋声会」(角田竹冷)系の俳誌として発刊された」と述べられているのも頷けるところである。しかし、管見では今のところはっきり秋声会系と言い切れる根拠は発見できていない。例えば、ほぼ同時期の日本派の雑誌『車百合』の亀田小蛄の回想「『車百合』について」注2には、
新聞にしても全国に俳句掲載のある紙面も尚かつ、「日本」派のものは僅かしかなかつた。その中で、地方俳誌などの興るのは容易ではなかつたがまず駿河に雪膓らの「芙蓉」が起り、次いで加賀から「虫籠」が起つたのである。明、三十一年「芙蓉」は最初秋声会と相半ばする趣味であり寄稿者もそれであつた。第二巻(明、三二)から子規先生に雪膓が接するに及び、表紙題字も先生の筆となり純「日本」派となつた。(中略)その「虫籠」の出直し改革一歩前、二年、秋十月わが「車百合」が出現したのであつて、厳格に云えば「日本」派第二位の誌歴を持つて居る
という証言があるが、「秋声会と相半ばする趣味」というのは、先ほど述べたような状況から首肯できるのだが、「寄稿者もそれであつた」という点には疑問が残る。もしかすると、散逸した創刊号に秋声会の誰かの文があったのかもしれないが、現存する号を見る限りでは、先日の通り旧派宗匠である十湖と日本派の雪膓等が同居しているだけである。また、雪膓と子規との接触は後述するように、もっと早い時期である。ここで亀田の云う明治三十一年の「芙蓉」は、平民文学会発行の「平民文学」または「芙蓉」のことであろう。正確には第一巻第八号(明治三十二年七月)までは平民文学会の発行であって、内容に曖昧な点がある。
なお、久保田桂川は静岡県小笠郡中村(現在の菊川市)の生まれ。本名久保田次郎吉。虚子門で後には九品太と号した。雪膓らに主導権の移った芙蓉会を離れ、新たに「扶桑同志会」を立ち上げようとした形跡があるが、未詳である。中学卒業後の明治三十五年に上京し帝国通信社に入社、大阪勤務を経て本社編集局長を勤めるなどしたが大正十五年に四十五歳で病没。大阪在勤中に山本梅史の「春夏秋冬」同人、東京に戻って長谷川零余子の「枯野」同人になっている。虚子編の「現代日本文学全集38現代俳句集」(改造社 昭和四年)に選入されている。この桂川の平民文学会が発行した『平民文学』が、雪膓等の「芙蓉会」との合流によって第七号より『芙蓉』に改題され、九号目から芙蓉会発行の『芙蓉』第二巻第一号となり、子規らのバックアップを受けて『ホトトギス』に準じた装丁に一新し、大々的に日本派の衛星誌として発刊されることになるのである。
「芙蓉会」は、明治二十八年に加藤雪膓(千里坊)、關縹雨(瓢雨・萍雨)、渥美渓月ら静岡県立師範学校で同級であった学生と、静岡民友新聞の藤田紫亭を中心とする人々によって結成された(発足当初は「新声会」)。この会の結成の経緯は、以下のように雪膓自身が記しており、中心人物であった雪膓の活発な活動によって、かなり早い段階から子規の影響下にあったことがわかる。
今の芙蓉会の起因と言つたら廿九年の六月の十五日でしたか(中略)小生と縹雨と渓月と光石と北雷と北天と骨城との六七人で大分俳句の面 白味が分つて来たから此の市中へ一会を開かうではないか(中略)民友社の紫亭に知らせると紫亭は其の翌日の新聞に左の如く書き立てた(中略)芙蓉会の芙蓉の二字は先年子規氏か私に菴号としてくれましたのか縹雨が新声ては秋声会に似寄るから富士に因みて芙蓉会と改めようという(後略)(加藤雪膓「俳狂巷談」『芙蓉』七号 明治三十二年五月)
以下、長い文であるので略すが、雪膓はこの他に、明治二十六年頃に一人で旧派宗匠の白兎園知来に学んでいること、その死後、二十八年ころから縹雨と雪草盧拙波(雪草蘆拙叟)につき、徐々に同志が増えたが、この宗匠は人間的信頼を欠き、そのころ宿舎にあった日本新聞の子規の連載の方に惹かれ、以来日本派に鞍替えしたこと、突然に子規へ自句の添削を乞う手紙を出し返事をもらったこと、それによって他の会員も続々と虚子や鳴雪へも手紙をだすようになったこと、静岡民友新聞も元々旧派宗匠の玉兎右園魯秀が受け持っていたのを雪膓が働きかけ自身の担当に変えさせたことなどを書いている。
正岡子規が「獺祭書屋俳話」を「日本」に連載したのは明治二十五年六月から八月で、翌年には出版。「俳諧大要」の連載は同二十八年十月から十二月で、同三十二年一月に出版されている。「日本派」の短詩型文学革新運動はこの二つの連載から始まったのであり、雪膓の先の証言から、連載中の「俳諧大要」を静岡師範の宿舎で読んで子規に関心をもったことがわかる。
雪膓が最初に子規と関係をもったのは、雪膓が子規に出した俳句の添削依頼の手紙への返書(明治二十八年十一月二十四日付け)から、この時期以前であることがわかる。明治二十八年の子規は、日清戦争従軍記者として大陸に渡り、後に脊椎カリエスとなる病を得て帰国。須磨で静養後松山で漱石のところへ奇遇し、十二月には虚子と後継問題で道灌山で対談をしている。子規の俳句革新開始の時期と、雪膓が俳句を始めた時期とがほぼ重なっていることや、旧派宗匠の実体を経験上知っていた上で子規の俳論に惹かれていることには注目できよう。子規は未知の人物である雪膓の突然の俳句添削の依頼に対し、謙遜しつつ「俳句等文学は生来の横好に候へば御稿御送付被下候へば拝見の上処々により愚評可仕候これ許りは病気中とはいへとも差支無之候」と答え、後に「俳諧七部集」など十五冊の推薦図書を列挙し、自作六句を書いている。
翌二十九年二月二十一日付けの子規書簡では、「蕪村句文集とやら御購求可然候/本月はじめより病気臥褥致居候故何もかも御返事相おくれ申候」とある。「何もかも御返事相おくれ申候」とあることから、既に雪膓からの依頼句稿は届いていたと思われる。先の「俳狂巷談」中に、返事が来ないから一二度催促したと記されており、この子規の書簡は書籍の購入の相談にかこつけて、雪膓が出した催促への返事ではないかと推定される。また、正確な日付は不明だが、雪膓の年譜(「自由俳句管見」昭和十九 所収)に拠ればこの二九年から民友新聞の俳句欄の選者となっている。
雪腸の子規句会への初参加は明治三十年春(日付不明)で、両者の他に愚哉、碧梧桐、四方太、春風庵、三川、牛伴が出席。二回の運座の記録があり、雪腸の句とわかるものは、一回目の運座中「桜」の題で、「散る桜木の間に見ゆる羅生門」。春風庵(地)、愚哉(並)選。この時の高点は子規で、「上野に遊ぶ」題で「大仏を埋めて白し花の雲」(三川、雪腸が天、四方太が並選)「蚕」題で「信濃路や宿かる家の蚕棚」(四方太、碧梧桐、愚哉が天)であった。このような比較的早い時期からの子規との間接、直接の接触から、創刊されたばかりの「ホトトギス」にも、第二号に雪膓の作品三句「神の留守鳥居に鳩の眠りけり」「われ行けば冬の野に咲く菊もある」「乙鳥の煉瓦の家をめぐりけり」注4が掲載され、第十号(明治三十年十月三十日発行)では「静岡俳況」と題して、關飄雨が以下の記事を書いている。
俳句会の件今回加藤雪膓氏民友社(静岡)の藤田紫亭と相謀り芙蓉会開設の心算にて既に規則も脱稿致し候間不日民友を機関として続々新派俳句掲載可致候何れ発会(中略)静岡に新派俳句の流行は一昨年頃よりに有之候(中略)日本新聞にて初めて子規鳴雪両氏の名を知り遂に俳句研究の希望を抱き其批評を乞ふ事と相成次で碧虚両氏へも文通致す事と相成(中略)目下の所新派の熱は微々なるものなれど将来隆盛致す目算有之(中略)旧派は恐るべき程の熱力は無之候。
このように、合同前の「芙蓉会」は、当初から加藤雪膓が子規と交渉を持ち、「日本派」として活動を始めていたことがわかる。次に、先の「平民文学会」同様、会則を見てみよう。まず、『平民文学』第三号に明治三十一年八月十二日付「静岡芙蓉会規約」が記載されており注3、第二条で「本会の目的ハ本邦古来ノ韵文ヲ研究シ趣味的情操ノ発達ヲ期シ以テ文学的俳句ノ拡張ヲ計リ新智識ヲ交換シ交情ヲ厚フスルニ在リ」、第三条で機関誌は『静岡民友新聞』と『古能美知』となっている。
また、『静嵐』二巻二号附録として三十二年一月三十日改正「芙蓉会々則」が付いており、第二条には「本会の目的は本邦古来の韵文を研究し文学的趣味の発達を期し以て文学的俳諧の拡張を謀り新智識を交換し風交を厚ふるに在り」とあって、第三条で機関誌を『静嵐』『静岡民友新聞』『古能美知』としている。また、「注意」に事務所は当面雪膓方、民友新聞投稿は雪膓宛、古能美知投稿は縹雨静嵐投稿は桂影宛に送るよう書かれている。
つまり、この時点で「芙蓉会」には自前の機関誌はなかったのであり、いわば間借りのような状況でいくつかの雑誌の俳句欄を持っていたということになる。自前の雑誌を持った「平民文学会」合同後の『芙蓉』第二巻第一号(明治三十二年五月)の会則では、「本邦古来の美文および韵文を研鑽し詩的国文の発達を期し文学的俳諧の拡張を謀り兼て趣味的情操の発展社会的娯楽の進歩を完からしめんとするに在り」とあって、月刊で『芙蓉』を出すこと、『静岡民友新聞』『静嵐』にも会員の俳句を掲載はすることが記され、実質的に機関誌が『芙蓉』に絞られている。では、当初機関誌とされた三誌における「芙蓉会」の活動はどのようなものであったのだろうか。
三、三つの機関誌
『芙蓉』を出す前の「芙蓉会」の機関誌とされているのは、『静嵐』『静岡民友新聞』『古能美知』の三誌である。機関誌ではないが『平民文学』にも「芙蓉会」会員の記事が多く掲載されている。いずれもそろった形では現存していないが、残っているものから分かることがいくつかある。以下創刊順にそれぞれに検討を加えてゆきたい。
『静岡民友新聞』は明治二十四年十月創刊。俳句欄の選者を雪膓がつとめ、「芙蓉会」消滅後も、雪膓の活動の中心の一つとなっていた。先に二章で引用した亀田小蛄の証言にもあるように、当時「日本派」の俳人が担当した新聞欄はまだ少数派であった。詳しい経緯は記録に残っていないが、先に引用した「俳狂巷談」や、以下の縹雨の記事に在るとおり、雪膓は静岡師範在学中に静岡民友新聞の幹部を説得し、それまで俳句欄を受け持っていた旧派宗匠をおいだして自ら選者になっている。
雪膓は非常に交際にたけてゐた。議論も達者であつた。余等の知らぬ間に民友新聞主筆を説破してその俳欄を受持つた。それが師範在学中の事である。
(「故雪膓君を思ふ」關縹雨『あらの』雪膓追悼号(昭和八年二月))
現在では起こり得ないことであろうが、新聞も草創期であり、雪膓が若くして非常に弁が立ち、行動的であった故に可能であったことといえるであろう。
『古能美知』注5第一号は明治三十一年五月発行。発行者は斯道会。静岡市で発行。第一号に芙蓉会の合同記事があり、芙蓉会の俳句を二号より掲載することと、課題、締切、選者などが記載されている。この時の選者は河東碧梧桐である。この号の記事(「改題之辞」)によれば『古能美知』は静岡県の神職取締所に集った者達の機関誌として国学の発展を意図して発行されたものとある。すなわち神職者の国学運動の為の雑誌という性質を持っていたのであり、内容は、和歌や物語を中心とする日本の古典文学のほかに、神職者の動向の記事などがある。この会に芙蓉会の俳句が載ることになった経緯は未詳だが、古能美知への投稿は關縹雨宛とされていたから、古能美知の関係者と縹雨との間で何らかのつながりがあったのではないかと思われる。雪膓は二号に「古能美知に俳句を募る辞」を書いているが、この後『古能美知』の俳句欄は「十七字詩」という呼称で「ホトトギス」や「芙蓉会」の誰かが選んだ新派の俳句を掲載している。
この『古能美知』で注目しておきたいのは、この第一号で既に「日本派」である雪膓の評論が掲載され、募集俳句の選者の欄に河東碧梧桐らの名がある一方で、時事欄には「今は竹の里人となむ人ありける其の人己が西洋学とやらむを自負して無法にも乱暴にも一途に和歌を排斥して我か歌界を混濁せんとし又たのみもせぬに古歌に批評を試み甚しきは己か歌をかゝげてこれ見よ顔に日本新聞に連載したるはなかゝゝに見物なりけり昼寝の暇もあらば一読し玉へ但し批評は諸君のご意見に譲り置くになむ」と、子規の短歌革新への批判的記事が載っていることである。子規が「日本」に「歌よみに与ふる書」を発表したのが明治三十一年二月十二日から三月四日までであり、これはほぼ連載終了直後の率直な反応と見て良いだろう。さらに第四号になると、「近来新機運漸く革り来りて改新の影稍見え初めたるは大に吾人が意を強くするに足れり然れとも彼の一時喧しかりし鉄幹の和歌亦近時竹の里人と名乗れる人の和歌の如きは改新にあらずして寧ろ破壊なり(中略)竹の里人のに至りては殆んど児戯に類せりといふべし(中略)新俳句の出来損ねたるもの然らずんば漢詩のある句を直訳したるに過ぎず」と無署名の記事が載り、同じ号に加藤雪膓が書いた「千里坊の帳面」が、「当今に得難きの詩人たるを思はずんばあらず」などと俳句、短歌の革新運動を進める子規に心酔した内容であることにたいして「此の論たる千里坊其の人乃所説なれば読者此を一読して直ちに余輩の所論と思ふことなかれ」と編集者が注記をしている。
子規自身は「欧化主義に反対したる余勢を以て、其主義を鼓吹する上から国文を振興しよう」(「子規言行録」明治三十五)と考えてはいたのであり、伝統的な文学について改めて見直しをしよう、ということでは同じ立場ともいえようが、「古能美知」の人々はその構成員からしても明治の過剰な洋化にたいして懐疑的批判的であったと思われ、子規の方法が伝統破壊で、かつ洋学の応用であるという点で、埋めがたい溝が生じていると思われる。したがって、短歌と俳句の違いはあるが、日本派である「芙蓉会」との距離もまた、自ずと離れていったと考えるのが妥当であろう。先述の『芙蓉』第二巻第一号(明治三十二年五月)の会則では、それまであった『古能美知』の記載が消え、そのころには関係が絶えていたことが分かる。また、「芙蓉会」との関係が途絶えた後、『古能美知』第二巻一号(明治三十三年一月二十四日)には、「鯉鱗行」と題して旧派の人物の作と思われる連句の歌仙が連載され始めており、子規の和歌批判への批判から、日本派の俳句批判に遡及した結果、あえて旧派俳諧が掲載され始めたとも考えられる。もしそうだとすれば、子規死後の虚子の連句再評価が始まる前に、いささか時代錯誤的な洋化に対する保守層の反動ともいえる行動をここに見ることができる。
『静嵐』注6は同志倶楽部発行。静岡。創刊年未詳。現存する最も古い号である第二巻第二号は明治三十二年二月二十三日発行。小説、論説文、新体詩、和歌、俳句、漢詩、随筆、雑文などで構成され、文学の総合誌を目指していたことがわかる。各作品には編集者の寸評がついている。また、久保田桂川も、ここでは小説や随筆を発表している。会則(同志倶楽部々則)の第二条には「本部は普く文学の志想を発達せしめ且つ交誼を永遠に維持せしむるを以て目的とす(以下略)」とあり、第四条に「芙蓉会」会員は同時に同志倶楽部員である旨書かれている。同志倶楽部の詳細は未詳であるが、『静嵐』二巻五号では、五月十四日に春季大会合を開き、約八十名の参加者を集めた旨の記事が出ており(「静陵に於ける青年文士の会合」)盛況である。この『静嵐』においても『古能美知』と同じく俳句欄の呼称は「十七字詩」であったり、「募集発句」「募集俳句」「募集吟」などと号や選者によって異なったりしており、一定していない。また、これも『古能美知』と同様に雪膓が俳句の選や評論活動を活発に行っていて、「千里坊鬼語」(第二巻第三号から五号まで連載。三号は未発見)で旧派宗匠批判をして子規について論じ、芙蓉会が日本派であることを表明しているが、これに対して同志倶楽部の中心人物の一人であったと思われる爪東(氏名等未詳)が「千里坊君に答ふ」(第二巻第七号)を書いて反駁し、要は旧派も新派も五十歩百歩であり「われ子規日詠吟を全然旧句と呼びしものは其調格なり結構なり目に立ちて旧調なりしをもてなり」と述べ、新派の写実といっても、一家を為した大家と比べれば「軒輊掌に指すが如くなる可し」と酷評している。これに対して雪膓がどう反論したかは後の号が散逸しているため不明であるが、「古能美知」のように関係が切れることはなく、誌上で論争しようとする姿勢がみられる。「芙蓉会」は、雪膓を中心にこのような活発な議論を展開し、日本派の論陣を張っていたことがわかる。
なお、この『静嵐』二巻七号掲載の『芙蓉』第二巻第一号の広告文には、「俳諧文学雑誌芙蓉(中略)須らく目前の光景より写し初むべし其写したるは者が美文たると韻文たるとに拘らす之を本誌に投せよ(中略)本誌の本領なりと言はゞ言はむ俳句は其の清新なるを以て殊徴なりとせむか」となっており、「須らく目前の光景より写し初むべし」という文面に端的に表れているように、日本派の旗幟鮮明である。
以上のように、これら三誌は、「芙蓉会」機関誌と言いつつ、実質は間借りのようなものであったのであるが、言い換えれば、他者・他団体をどんどん自分たちの主張の場へ巻き込んでいったとも言えるわけで、「芙蓉会」は雪膓を中心に非常なエネルギーを持っていたと言わざるを得ない。活発な日本派応援活動を展開し、この後に自前の雑誌『芙蓉』を出すことになったわけであるが、おそらく、「平民文学会」に比し、桂川より年長で学歴もあり、かつ既に子規派の先輩格としてこのような活発な活動を展開していた雪膓ら「芙蓉会」が、会の主導権を握って「芙蓉会」発行の『芙蓉』が誕生したというところであったろう。最後に章を改め、第二巻以後の『芙蓉』について検討して行きたい。
四、『芙蓉』について
これまで見てきたような経過をたどって明治三十二年八月「芙蓉会」発行の『芙蓉』注7第二巻第一号は発行された。菊判四十三ページ。前身であった『平民文学』第二号から『芙蓉』八号までは、無地の表紙に発行日と雑誌名と発行者を縦書きで載せているだけであったものが、題字を正岡子規、表紙画を下村為山が担当した三色刷となり、東京版『ホトトギス』と同様の体裁となっていた。発起人として、關縹雨、渥美渓月、西ヶ谷翠石、藤田紫亭、久保田桂川、加藤雪膓の六名の名が上がっている。なお、この頃には雪膓、縹雨等、静岡師範からの参加会員はそれぞれ静岡県内に散って教師を務めている。この他、同号には会員名簿が出ており、名誉会員には「ホトトギス」の中枢を担う面々である、正岡子規、内藤鳴雪、高濱虚子、河東碧梧桐、下村牛伴(為山)、石井露月、村上霽月の七名。特別会員に数藤五城、松永芙水、國持花亭、塚田如雲、大熊春塘、草ヶ谷桃酔、天野三巒、小山枯柴の八名。数藤以外は静岡の人。数藤は一高教授で、子規に俳句の指導をうけていた。普通会員は静岡地域を中心に、北海道から台湾に至るまで幅広く百三十一名おり、この段階での会員数はすべてあわせて百五十二名ということになる。さらに三号では、特別会員が九名増、普通会員が四十名増で、順調に数を伸ばしている。装丁や名誉会員の面々を見ても「ホトトギス」直系であろうとする意図は明らかであるが、執筆も毎号子規の「ホトトギス」の有力者の誰かが執筆しており、質、量ともにそれ以前の号とは一線を画す内容となっている。
子規は「明治三十二年の俳句界」で日本派の俳社の急増を喜び、「卅二年夏「芙蓉」静岡に起り尋いで「車百合」大坂に起る。(加賀大聖寺に「むし籠」といふ小冊子あれども起源を知らず)皆俳諧的雑誌なり(中略)吾人は今各地雑誌勃興の報を得て俳壇の隆盛を卜するに止めんとす。」と記している。この記事から「芙蓉」が一番始めの衛星誌であると子規が認識していた事が分かる。この時期各地で様々な文芸雑誌が創刊と廃刊を繰り返しており秋尾敏氏の調査に拠ればこの時期、日清戦争の影響によって人心が動き俳書の刊行も一つのピークを形成していた注8。雪膓達の言動の中にはあまり戦争の気配は感じられないが、時勢に乗った形であったのは確かであった。
この『芙蓉』は翌三十三年六月第三巻第五号まで(計十号)出してなんの予告もなく突然終刊している。この経緯については不明な点が多いものの、子規は「消息」(「ホトトギス」三巻十一号 明治三十三年九月)に、『芙蓉』等の雑誌の相次ぐ廃刊についての記事、
近頃俳句界に於て特に報ずべきことは、地方にある俳諧雑誌の発刊に有之候。京都の「種瓢」は一号にて止み、金沢の「吹雪」は四号以後消息を聞かず、静岡の「芙蓉」は尤も世間受けよく第二(ママ)巻まで漕ぎつけながら敢なく没落致候趣、わが同趣味の雑誌にして斯く持続々と廃刊の声をきくは気の毒にも残念のことに存候。これらは皆編集員の不勉強不都合などにて止みたるには無之いづれも必死になりて立働き候後、矢尽きて討死致候次第、(中略)始めから風呂敷を大きくして無理に虚勢を張り候とも、基礎なきものは到底永続すべき筈のものにては無之、小規模にして起りたる「むしかご」「俳星」の如き雑誌の永続するにても此理はわかり可申候。
を書いており、総論的であるが、時の勢いで華々しく創刊された雑誌のうち『芙蓉』など「尤も世間受け」が良かったものの、規模を大きくし過ぎた結果、実務的にも経済的にも能力の限界がきて立ちゆかなくなったと考えているようである。また、先に引いた關縹雨の「あらの」雪膓追悼号(昭和八年二月)記事に、短くはあるが「此雑誌の為に金銭上うるさい事が多かつたと思ふ。」という、経済的に厳しかったことを伺わせる記述があり、おそらくこれが最も大きな原因であったのであろう。
以上、本稿では、静岡「芙蓉会」の活動を見てきたわけであるが、十代、二十代前半であった彼らが、子規の新聞の連載から影響を受け、頼まれたわけでもなく自分たちで独自に「日本派」の雑誌を立ち上げ、その俳句革新運動の一翼を担って活発な運動を行っていたことは軽視されるべきではないであろう。次回、さらに『芙蓉』とその会員達について論じてゆきたい。
(付記 本稿の引用文中、原文にはくずし字体のかな活字をふくむものがある。また、旧漢字は固有名詞を除いて常用漢字に改めている。)
注1・・・日本近代文学館所蔵。同じもののコピーを静岡県立中央図書館等が所蔵している。現在創刊号、第二号未発見。
注2・・・「子規全集」第五巻「参考資料」所収に拠った。初出『同人』第三十六巻第五号、昭和三十一年五月。
注3・・・雑録欄の記事「静岡芙蓉会」堰川生(この人物の姓名未詳)。
注4・・・先の二句は「かつら集」と題された、虚子が「書端の句を書きあつめ」たものの中に収められている。子規は送られてきた書簡の中の句をまとめて写していたようで、おそらく虚子がそこから選んだものと考えられる。後の一句は、この時は無題だが後に「投寄俳句」と題されるようになった募集ではない投稿俳句の欄に掲載されている。
注5・・・一号から八号までと十号以降、東大雑誌文庫明治文庫蔵〈欠号有〉、九号筆者蔵)
注6・・・東大雑誌文庫明治文庫蔵。欠号多。
注7・・・日本大学国際関係学部図書館駿河文庫蔵
注8・・・「子規の近代」(99年7月 新曜社)109〜113ページ。
はしもと すなお(神奈川大学非常勤講師 俳文学)
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