俳句における「自由」 〜加藤雪腸を中心にして〜
一、はじめに
加藤雪腸は明治八年静岡の生まれ。明治二八年に正岡子規に入門し、以降子規のみを師と仰いだ。明治三二年に在職していた静岡師範の仲間を中心に、俳誌「芙蓉」を主宰創刊している。これは日本派の中で「ホトトギス」に次ぐ早さで、子規の郷里愛媛をのぞく新派の地方への広がりとしては最も早いものの一つ。題字は正岡子規、表紙絵を下村為山が描いている。一年ほどの短命であったが、部数三〇〇に達したと言う。明治末頃から一時短歌に力を入れ、大正に入り独自に「自由俳句」と称する、いわゆる自由律俳句に転じた。大正一五年「曠野」創刊。昭和七年に交通事故で急逝。 このように、雪腸の句業を概観すると、河東碧梧桐と同じ系譜に連なるようにみえる。しかし、碧梧桐が虚子と共に子規と同郷で、濃密な人間関係の中で早くからその才能を期待され、「日本」選者をつとめるなど、一時にしろ子規の跡目を継いだに比し、静岡にあった雪腸はいわば一地方俳人に過ぎず、子規とは数回会い、後は手紙のやりとりなどしただけである。それにしても、共に子規の敷いた俳句革新のレールの上を走って行ったのは同様であり、その結果季題と定型を捨てて自由律をとったことでも共通している。それでは、共に手を携えて活動したかと言えばそうではない。特に「三昧」以降の碧梧桐には批判的で、一碧楼の「海紅」に寄稿するなどし、対抗意識が強かったように思える。 また、自由律俳壇の中にあっても、荻原井泉水の「層雲」、中塚一碧楼の「海紅」とは違う独自路線を進んだ上、事故で急逝した不運もあり、後代に有力な理解者、継承者を持たなかった為か、その名を知られているとは言い難い。例えば、雪腸の句作の中断期に編まれたものではあるが、子規後の日本派同人を中心に編まれた「明治一万句」(明治三十八年 今井柏浦編 博文館)に一句も入集していない。次に、虚子編の「現代日本文学全集38現代俳句集」(改造社 昭和四年)は明治の宗匠俳諧から自由律まで目配りした俳人が百七十人が並ぶにもかかわらず、雪腸の名はない。また、自由律俳句および俳人の歴史を概観するに好適な上田都史の「自由律俳句とは何か」(講談社 平成四年一月)にも、雪腸の名はない。 つまり、いわば保守革新双方から黙殺された格好であるわけだが、本論では俳句における「自由」を視座にその史的意義を問うてみたいと思う。
二、子規との関係
子規と雪腸が最初に関係をもったのは、雪腸の回想と子規全集所収の書簡から、雪腸に返書した明治二八年十一月二四日付けの書簡から、この時であることがわかる。この時のやりとり以後、雪腸は子規門となったと言うことになろう。子規は謙遜しつつ「俳句等文学は生来の横好に候へば御稿御送付被下候へば拝見の上処々により愚評可仕候これ許りは病気中とはいへとも差支無之候」(十一月二十四日付け書簡)と言い、その後に「俳諧七部集」など十五冊の推薦図書を列挙し、自作六句を書いている。 この年雪腸が子規に師事した動機は、前年発表した「俳諧大要」によるものと思われる。子規は当時最新のメディアであった流通する活字出版物を最大限に利用してのし上がった人物の一人であるが、雪腸もまたその感化を受けた一人であった。 明治二十八年の子規は激動期で、日清戦争従軍記者として大陸に渡り、後に脊椎カリエスとなる病を得て帰国し須磨で静養、松山で漱石のところへ奇遇。さらに十二月には虚子との道灌山対談があった年である。病の子規は多忙であった。 また、雪腸の子規句会への初参加は明治三十年春(日付不明)で、両者の他に愚哉、碧梧桐、四方太、春風庵、三川、牛伴が出席。二回の運座の記録があり、雪腸の句とわかるものは、一回目の運座中「桜」の題で、「散る桜木の間に見ゆる羅生門」。春風庵(地)、愚哉(並)選。ちなみにこの時の高点は子規で、「上野に遊ぶ」題で「大仏を埋めて白し花の雲」(三川、雪腸が天、四方太が並選)「蚕」題で「信濃路や宿かる家の蚕棚」(四方太、碧梧桐、愚哉が天)という具合であった。 これ以降確認できる数回のやりとりの中で特筆されるのは、明治三十三年、病の進行した子規が転地療養するため静岡の興津に越そうとする計画を思い立った際に、雪腸らが家探しに奔走したことである。この時碧梧桐が現地へ実地見聞に行き、実現一歩手前まで行ったが、周囲の反対と金銭面からの理由で断念している。雪腸はそれが随分残念であったらしく、何度もそのことを書いており、また子規本人の意志でなく周囲の近親者の反対で実現しなかったと誤解している。なお、この時子規から雪腸にその労への礼としてか外国製の「写真挿み」をもらっている。なお、この一件については虚子の小説「柿二つ」に記事があるが、実の中に虚を織り交ぜたものである。また碧梧桐「回想の子規」にも簡単な記事がある。 他に「句改稿」の第三回蕪村忌(明治三十二。子規庵句会最大の四十二名を集めた。)に参加した記録がある。 このように、寝たきりの子規から見れば、子規庵に来る人々を中心に交際をせざるをえない訳であるから、雪腸は後から加わったが雑誌なんぞもだし地方にいて頑張っている弟子の一人、というくらいの位置づけであったろう。しかし、雪腸は子規の死後彼なりにその衣鉢を継ぐ気概があったことは汲み取れるのであり、自由律へ転じた後も含め二度の子規句碑建立を行い、顕彰に努めている。また彼が子規の書いたものから吸収したものは少なくなく、彼の俳論のバックボーンになっていることは間違いない。しかしながら、まさに子規の〈書いたもの〉によって感化された雪腸は、子規と同じ武器を持って戦い破れざるを得なかった。以下若干の検討をしてゆきたい。
三、雪腸の俳論
雪腸の俳論を一言で言えば、碧梧桐や井泉水と似て非なるものといえよう。同じ子規門から出て、子規と同じく俳句を文学、詩の一種ととらえた点や、有季定型を古い拘束と考えて表現の自由を模索するに当たって、その理論武装の方法が子規の俳句革新の方法と近い点では共通するが、「自由俳句」と称し、「四句法三気息」を唱えたことが独自である。 この「自由俳句」は現在の用語で言えば、三句一章といえるものである。四句法とはいわば四節であり、起承転結を軸としているが、うち二つがひとまとまりとなる三気息ができあがる。「気息」はいわば「行」「句」「切れ」等に相当するようだが、「大自然の一部に成り切る刹那の心」(「気息論一班」昭和四年)であるという。言ってみれば彼は、切れを増やし表現の幅をかけ算的に広げることを模索していたのであり、これに伴い音数の制限はゆるやかで二十四音くらいまでを可としていた。また「気息」の概念の説明に当たっては、最初期の記紀歌謡から、ベルクソンの時間論まで視野に置き様々な説明を試みている。 先に述べたように雪腸の立場は、虚子と対立し季題と定型の尊守を打破しようとした点では碧梧桐や井泉水らと共通するものであった。しかし、本論で注目しておきたいのはそのような点ではなく、むしろ彼らの共通点にある。彼らとは虚子も含む子規以後の同じ時代を生きた「彼ら」であり、その意識の中にあって、日本という近代国家の拡大に伴って同時に膨張し始めた個人の「自由」という意識と、世界の中の日本と個人、アジアの中の日本と個人、日本の中の風土性と個人という問題意識の拡大が、その俳論に及ぼした影響は看過できない。俳人達は自分の存在と俳句に詠む対象のありようをとらえる感覚では共通項を持っていたのである。差異性ばかり論の俎上に乗せたためその点については内部で気づかれることはあまりなかったと思われるが、それを一言で言えば、彼らは文学すなわち人間の表現行為において対象となる「自然」と個人の主観の一体感を疑うことなく信じている。そしてそれこそが彼らにおける芸術表現の自由に重要な要素であった。 例えば、井泉水の俳論の核はゲーテと仏教の自然観の影響大である。自然と自己の一体を主張し、やがて「自然・自己・自由」の三位一体を唱える(この論について鈴木貞美氏は日本文学の底流にあった「生命主義」(「日本の文学概念」)に連なると指摘している)が、これと似たようなことはいろいろな作家に共通するのであり、数例を挙げれば、虚子は芭蕉の偉大さを「造化の懐に入って森羅万象と触接しこゝに大熱情大同感をもって深く天地山川の神と融合せし点に在り」(「俳人の天然に於ける同感」明治二十八年)といい、後にも「客観の事実に興味を見出すといふ(中略)俳句もだんだん修行をつんで来るに従って、自己の胸奥から湧き来る熱情と溶けあって、一つのものになってしまって(後略)」(「ホトトギス」昭和四年三月号)という。創作態度を中心に様々に批判された虚子の俳論であるが、この自然との一体感は一貫している。このような感覚は、新感覚派と呼ばれた梶井基次郎の小説「ある心の風景」(大正十五年)の「視ること、それはもう何かなのだ。自分の魂の一部或は全部がそれに乗り移ることなのだ」や、著名な志賀直哉の「暗夜行路」の結末場面に見られる、自己の身体の運命を大自然にゆだねる主人公の感覚と通底する。そして雪腸の「自由俳句」の要である「気息」もまた、先に引用したとおり「大自然の一部に成り切る刹那の心」という、同様の自然観によって支えられているものであった。
四、俳句における自由
二十世紀の彼らは、不自由な五感を超えた自由な人間の感覚意識の働きの中に、新しい可能性を見ていた。ひょっとすると超能力さえ信じ、言葉として捉えた対象のその先にある何かをとらえようとしていた。しかし、それは「個」の意識の流れの中でとらえうるとされる以上、勢い観念的な話にならざるを得ず、すべて言葉によって説明しきれるものではない。一時虚子が参禅などし、また井泉水、放哉、山頭火ら「層雲」代表作家がいずれも禅門に入っっているように、決して強くはない日本における個の主体の意識の自由の模索は、一方でとことん個をつきつめることを求めつつ、同好の士の集団内の共感に安住する態度を許すことになり、また一方で仏教のような宗教的、哲学的要素を強めていくことは避けがたいものであった。その意味で雪腸の「自由俳句」とその俳論はまた、かつての師匠の子規のようにいくら言葉を尽くそうとも、メディアにのせたくらいではその理論によって追随者を増やすほどの「宗教性」を得ることはできず、歴史の中に消えていく運命であった。そして俳句はなおも子規の利用したようにメディアを利用しつつも、結社という人間同士の直接交流の中で存続される「座」に閉じてゆくことになるのである。
(参考文献) 「子規全集」(講談社) 「定本高濱虚子全集」(毎日新聞社) 「加藤雪腸遺稿 自由俳句管見」(加藤万古 刀編集発行 初版昭和十九年 再版昭和五 十六年) ※文中の引用文は適宜仮名遣いと漢字を常用 のものに改めた。 (はしもとすなお 神奈川大学非常勤講師)
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