子規と食
はじめに
正岡子規は短い人生を凄まじいといってよいほどのエネルギーをもって生き抜いた。子規にとって食べることはもちろんそのエネルギーの源であり、病の床にあっては少ない楽しみの一つでもあった。子規は、食欲旺盛な人であり、自他共に認めるところがあった。それは健康であった時も、病臥後も代わりはなく、病がその力を奪うまで彼にエネルギーを与え続けたようである。
病臥以前
『子規全集』をはじめ、子規に関する種々の本に彼の写真が載っているが、比較的痩せていて筋肉質という風でもなく、おおよそその風貌からは、野球がうまかったという話や、健啖家であったという話は想像しにくい。しかし、子規という人は、外見と中身が異なるタイプの典型であったかもしれない。
明治二十一年四月末、一高の寄宿舎に居た子規は、仲間と謀って寄宿生に檄文をまわし、集団で食堂で乱暴狼藉を働くという事件を起こした(「筆任勢」第二編)。首謀者の面々は退舎、停学処分になった(のち許された)が、子規もその首謀者の一人であったにもかかわらず、温和な容貌から処罰対象にもれたという。この事件は表向き日頃からの賄方への不満の暴発に見せ、実は当時の校長の教育方法や寮の管理運営が官僚的・軍隊式であったことに対する抗議デモで、この事件以後は寮の運営が学生の自主に任されたという。後年、漱石が松山中学で生徒にこの事件を語って聞かせたというから、なかなか大きな事件であったようだ。子規自身は自分が処分されなかったのが不満であったようだが、彼の若い意気が伝わる話であるとともに、また職員や教官たちのような大人から彼がどのように見られていたかがわかる。おおよそ自分たちに反抗しそうな人間には見えなかったのであろう。
ところで、この寄宿舎での食費は一日十一銭ぐらいだったと子規は記しているが、当時もりそばが一銭、天丼が三銭で、うな重が二十〜三十銭ぐらいだった(『値段の風俗史』朝日文庫)ようであるから、三食十一銭は格安とまではいえまい。中身は「朝飯の菜は味噌汁と豆位也、午餉は牛肉の煮たる者と肴を煮たる者と隔日位也 晩飯は西洋料理一皿也 之を下宿屋にくらぶれば雲泥の差ありといへども之を料理屋の料理にくらぶれば劣ることいふまでもなし(「筆任勢」第二編)」ということだから、可もなく不可もなくというところだったのだろう。子規の食欲に足りたかどうかは特に記されていない。
随筆が文庫で出ているせいか、病臥後の大食が印象強い子規であるが、もとより健啖家であり、大食いの話はいくつも伝わっている。例えば以下のような話である。
まだ、常磐会寄宿舎にゐて、時には野球のノックなどをやつてゐた健康当時、大袋に煎餅を買って来て、友達の部屋へ話しに往つたりしても、それを平らげる大株主は、のぼさん自らであつた、といふやうな話も想ひ出される。若竹といふ寿司屋によく往つたものだが、我れが食ひ残すと、若いに似合はんな、と見せしめに二人前位、楽に食うてゐた。
(碧梧桐『子規の回想』附録二「のぼさんと食物」)
非常に健啖な男で、鍋焼饂飩を十杯食うとか十二杯食うとかは度々聞く処で」
(『子規全集』第一巻月報9「学生時代の父勝田主計と子規」)
また、常盤会寄宿舎時代、上野の博覧会を見に行った日、夕食を摂って後、夜になって友人とともにそば屋に行き鴨南蛮と五目そばを食べ、さらに餅菓子を三個食べている。(「筆まかせ」第三編)さすがにそんなに食べて平気で済むわけはなく、夜中の三時に起きだして嘔吐している。
子規は後年病床にあっても同じようなことをやらかしており、どうやら癖として、勢に乗って食べ始めると止まらないところがあったようだ。病に対してはやけを起こさず慎重に対していたところがあったにもかかわらず、食については「腹八分」というようなタイプでなかったことは確かである。健康な頃の子規はあちらこちらを歩き回っているが、旅に出ても、山の中で木苺をむさぼり食う話などはすさまじい。
餓鬼の様に食ふた。食ふても盡きる事ではない(中略)もとより厭く事を知らぬ余であるけれども、日の暮れかヽつたのに驚いていちご林を見棄てた
(「くだもの」明治三十四)
明治二十六年奥羽行脚の折りのエピソードだが、山中で見つけた苺を時間も忘れて食べまくる子規は凄いとしか言いようがない。このとき子規は満二十六歳。もはや少年ではない。
病臥以後
病床にあった子規は、その短い一生の中でも最も充実した食生活を送っている。再び健康を取り戻すことはなく、余命も長くは無いということを明快に自覚しながら、そうだからこそわがままを通して御馳走が食べたいと考えているのである。食いしん坊と言えばそれまでだが、余命幾ばくもないことを知ったとたん、食欲が落ちたり、自殺をしたりするような後ろ向きの思考とは無縁に見えるこの態度は、子規の人柄に通底するように思われ、精神の健康を感じさせる。子規は自分の病の治療法についてあれこれ言われることに対し、もはや打つ手なしと断じた上で以下のように述べる。
唯一の療養法は「うまい物を喰ふ」に有之候。この「うまい物」といふは小生多年の経験と一時の状況とに因りて定まる者にて他人の容喙を許さず候。珍しき者は何にてもうまけれど刺身は毎日くふてもうまく候。くだもの、菓子、茶など不消化にてもうまく候。朝飯は喰はず昼飯はうまく候夕飯は熱が低ければうまく、熱が高くても大概喰ひ申候。(「墨汁一滴」四月二十日)
ここで「刺身は毎日くふてもうまく候」という通り、ほぼ毎日刺身を食べているし、「珍しき者は何にてもうまけれど」という要求に答えて、周囲の人々から様々なものがもたらされている。国内各地の名産品や名物料理のほか、ココア、紅茶、菓子パン、西洋料理、ライスカレー、馬鈴薯(ポテトー)、キャベツ(キャベージ)、バナナ、レモン、パインアップル、中華料理、西洋菓子(ビスケット等)、ハム、ローフなどが食前に上った記録がある。この時代、西洋から来た食品などは都会ではかなり広まっていたであろうが、まだまだ珍しいものもあった。これについては後で触れたい。
子規が随筆に記している食事の内容は、病状が悪くない時はだいたい以下の通りである。
朝・・・飯または粥三、四椀に佃煮、漬け物、牛乳ココア入り、菓子パン数個。
昼・・・飯または粥三,四椀、刺身、みそ汁、漬け物、佃煮、果物。
間食・・牛乳、菓子パン、果物。
夕・・・飯または粥三、四椀、刺身か魚料理、野菜の煮物類、漬け物、佃煮、果物。
さらに、夜食をとることもあった。これだけ見ると、こんなに食べてはかえって体がおかしくなりそうであるが、下田吉人博士が「仰臥漫録」中の九月頃一ヶ月の栄養摂取状況を分析したデータでは、一日平均二二五四カロリーという値がでており(「子規全集」第十四巻月報10「子規の病床の栄養」)、今の日本人の摂取カロリーから比較するのは間違いかもしれないが、意外に妥当な数値がでている。もっとも、この頃病床で過食をして吐くと自分で書いている(「仰臥漫録」九月二日)から、やはり以前からの過食癖が顔を出しているというところかもしれない。碧梧桐も以下のように述べている。
(病床にあって・・・引用者)いくら食ふことだけが、一日の楽しみであると言つても、あゝしてよく食べるものだ、と我れの健康者をいつでも驚かしたものだ。親子でも、鰻でも、丼一つを食ひ残すといふことはなかつた。(中略)食後には、大概果物をとつた
(碧梧桐『子規の回想』附録二「のぼさんと食物」)
子規のライスカレー
病床にあって子規は「珍しき者」を食べたがったことは既に述べた。随筆を読んでゆくと、子規の周りの人々はその病人の我が儘によく応えている。たとえば、「仰臥漫録」九月十七日の夕食に「ライスカレー三椀」とある。管見では一度きりで他には見あたらない。料理屋のメニューにはあったろうが当時はまだ、「珍しき者」の一つだったろう。
日本にカレーが入ったルートはいくつかあって、幕末の開港後イギリス船が最初のようであるが、明治維新後、文明開化の新しい食べ物の一つとして、後には軍隊食として庶民の間にも広まっていったようである。
早くは『西洋料理指南』や『西洋料理通』(ともに明治五)に製法が紹介され、一般家庭向きには『婦女雑誌』(明治二十六年五月)に「軽便料理法(風月堂米津主人考案)」として「即席ライスカレイ」が紹介されている。
即席ライスカレイ煎茶々碗に一杯のバタ ーと、葱三、四本を細かに切りたるを深き鍋に入れ、強き火にかけ、やや葱の柔らかになりたるとき、煎茶々碗に八分目ほどのうどん粉を入れ、絶えずかき廻しながらとび色になるまでいりつけて、煎茶々碗に半杯のカレイ粉(西洋食糧品店にあり)を入れ、かくて鰹節の煮汁(これ鰹節半本に御飯茶碗六杯の水にて前に拵へ置くべし)を少しづつ注ぎ入れながらかき廻し、醤油を適宜に加え、十分間ほど弱き火にかけ、味噌漉にて漉し、その汁へ湯煮したるクルマエビあるいは鳥肉を入れ、炊きたてのごはんへかけて食すべし」
和風だしであるところは今日のそば屋のカレーに近い。玉葱ではなく葱を使い、にんじんやじゃがいもは使わない。この記事の当時はまだポピュラーな野菜ではなかったようだが、子規の随筆にはにんじんやじゃがいもがでてくるので、子規の頃のカレーにはもしかすると入っていたかもしれない。実際には、料理屋から取り寄せた物を食べたのか、また珍なる物を好んだ子規のため家人が拵えた物なのかははっきりしないが、はたしてうまいと感じたものかどうか。うまいともまずいとも感想は書かれてはいないが、三杯食べたぐらいだから、食べてけちをつけていないところを見るとまずくはなかったようである。ちなみに、添えられていたのは福神漬けではなく奈良漬けであった。
おわりに
随筆として世間に発表をするつもりでなかった「仰臥漫録」には、意外なことに一度子規が自殺を図ろうとしたことが書かれている。何ごとも書きすぎるくらい書いた子規は、自殺したいという自らの気持の動揺すら率直に記していて、生きる姿が生々しくあらわれ、痛々しい。その煩悶する記事の末尾は以下のように記されている。
死ノ近キヲ知ルカラソレ迄ニ楽ミヲシテ見タクナル楽ミヲシテ見タクナルカラ突飛ナ御馳走モ食フテ見タクナル突飛ナ御馳走モ食フテ見タクナルカラ雑用ガホシクナル雑用ガホシクナルカラ書物デモ売ラウカトイフコトニナル・・・イヤイヤ書物ハ売リタクナイサウナルト困ル困ルトイヨイヨ逆上スル(十月十三日)
「墨汁一滴」の記事には、世間への見栄もあったか、食について経済的な憂慮があまり見られないが、こちらには子規の正直な気持ちが伺える。前日の記事に「夕虚子来ル 雑用借用論略定マル(十月十二日)」とあり、借金の話があったことがわかる。子規一人の正岡家家計にしめる食費は実に約40%もあった(註)のであり、状況は深刻であった。『子規全集』第十四巻の蔵書目録をみると、かなりの蔵書があったことが伺えるが、死を前にしてもそれらを売れない子規の姿には、やはり文学改良に命を張った人のプライドと執着があらわれている。そして、同時に負けないくらいの食い意地がわき上がっているところは、痛切ながら、おぼえず微笑ましい。子規の食はその生に通じて真のユーモアにあふれているといえるのではないか。
本稿では、子規と食というテーマにおいて最もよく知られているであろう柿の話や、ココアの話など既に他で多く紹介されているものは触れなかった。また、子規は随筆中に地方ごと、男女差などによる食べ物の好みの違いや個々の食物についての批評を多く書いていて、興味は尽きないが、それらについては他日を期したいと思う。
※子規の文章の引用は『子規全集』(講談社版)による。また、適宜旧漢字を常用漢字にあらためた。
註『仰臥漫録』九月三十日の記事に基づく
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