現代俳句にとって「ホトトギス」とは何か        

 

     百年前の話から        

 明治の雑誌「ホトトギス」は、今から見れば異常とも思える程に若者に人気があった。例えば、明治二十七年に静岡師範学校の学生であった十九歳の加藤雪膓は、旧派宗匠のもとで句作をしていたが、「日本新聞」を読んで子規に私淑し、しまいには仲間を集めて入門し、学生の身で静岡民友新聞の俳句欄の選者になり日本派の論陣を張った。それだけでもいまではありえないことで、かなり驚くべきことなのだが、さらに「ホトトギス」創刊のわずか二年後の明治三十二年に、社会に出て静岡の各地に散った二十代前半の彼らが、「ホトトギス」の衛星誌とでもいうべき俳誌「芙蓉」を創刊しているのである。
 この雑誌は、虚子の出した東京版「ホトトギス」に倣ったつくりで、カラー刷りの表紙の題字は正岡子規の筆によるもので、絵は下村為山というかなり立派なものであった。若さの勢いにまかせて出したものゆえに短命に終わったが、この雑誌を眺めていると、「ホトトギス」はそれ自身が地方の若者にとっても手の届く範囲にある文化のお手本でもあったことがわかる。「ホトトギス」の読者層はおそらく日本新聞の読者とかなり重なり、単独の力とは言いきれないが、その頃の「ホトトギス」は、彼らのような後の知的大衆のはしりともいうべき若者があこがれ、模倣したくなる文化(文学)を東京から地方へ運ぶメディアとしての役割をしただけでなく、そのものがまねされる対象でもあったわけである。なお、このグループには後に『進むべき俳句の道』(実業之日本社)で紹介される關萍雨や、『現代日本文学全集第三八篇 現代短歌集現代俳句集』(改造社)に名を残す久保田九品太(桂川)らがいた。
 また、『明治大正見聞史』の著者生方敏郎は、明治学院の学生であった明治三十二年頃、当時非常に話題となっていた徳富蘆花「不如帰」を読もうと思い、本屋が出してきた本をよく確かめず受け取ってから帰省の汽車に乗って、それが「ホトトギス」であることに気付いた。しかし読むと面白く、翌年の同じ頃には子規の『墨汁一滴』や『病床六尺』、『蕪村句集講義』を出る度に買うほど熱心な読者になっていたという。つまり、交通事故のように出会った読者でも惹きつけるだけのものを、百年前の「ホトトギス」は持っていた。
 しかし、子規の死とその後の時代の変化に対応した虚子の軌道修正によって、同好の士的集団だったホトトギスは合資会社として結社され、後には主宰が血縁継承制になった。そして現在では虚子の教えを第一とする集団として、やや内向きな印象も受けるが、それは先に述べた雪膓らのような、ことに大正期に世にあふれはじめた知的大衆のニーズを虚子が上手につかんだ結果でもある。現代において「ホトトギス」に人が集まるというが、驚くにはあたらない。大正期は現在の大衆消費社会の原型であり、虚子の方法が当時機能したなら、現在もよく人を集めうるはずだからだ。それは広い意味で人が俳句に何を求めているかということの現れであり、そのこと自体、良くも悪くも現代俳句の一特徴を形成しているにちがいない。
 「ホトトギス」は、その出だしは先に述べた通り熱狂ともいえる時代の中にいた雑誌である。それは雑誌媒体が真新しいメディアであった時代だったからでもあるのだが、今や整備された情報技術によって、紙に印刷されたメディアは時代遅れになろうとしている。今年はそのことを象徴するように俳句総合誌が立て続けに消えた。もしも将来的に「ホトトギス」が、紙を離れる日が来るとするなら、案外大胆に先祖返りする方向へ針を振ることもあるかもしれない。少なくともこの雑誌の遺伝子の隅っこには、そういう記憶が残されているのである。

     「伝統」について    

 もしかすると意外に思われるかもしれないが、近世以来の俳諧の歴史において、宗匠は弟子の中から有能なものに後を託すのが普通で、血縁による継承をするということは稀なことであった。つまり、俳句の伝統にそのようなしきたりはなく、俳句結社の血縁継承は事実上近代になって虚子によって創始されたと言っても言い過ぎではないだろう。だが、今やそれがはるか以前からそうであったかのように、いわゆる伝統とか前衛とか無関係に親類縁者で血縁継承される俳句結社は後を絶たない。この点では現代俳句にとって『ホトトギス』が免罪符として機能しているように見える。
 美学者尼ヶ崎彬氏によると(「なぞりとなぞらえ」〈「模倣と創造のダイナミズム」山田奨治編 勉誠出版〉)、忠臣蔵四段目の判官の切腹の場面で、判官に「由良助はまだか」と聞かれた力弥が、「いまだ参上つかまつりませぬ」と遠く花道の奥を見て悲痛な声で言う場面の力弥の演技について、六代目菊五郎が中村勘三郎に「揚げ幕に仮に丸い穴をこしらえて、そこから向うを見てみな」と教えたという。勘三郎は心の中で揚げ幕の穴を想像し、そこから遠くをじっと透かして見るようにしてみたところ「形と心がいっぺんに」わかったという。これはすごいことだ。すなわち、外面の身体の仕草の型をなぞることで、内面、つまり心の型までも同時に理解しえたのである。血縁による身体の遺伝的類似性の上に、幼少のころから身につけて積み上げてきた様々な歌舞伎の役の所作と心情が、役者の身と心の文脈を形成していることによって、その中である一つの所作の型をなぞることで、その時の心の内実も湧き上がってくる。そして演技が完成するわけだ。
 歌舞伎の歴史は芭蕉以来の俳諧俳句の歴史とそう変わらない。その間に歌舞伎は濃密に自閉し、身体と心の型を練り上げてきた。だからこそ、ここで紹介されているようなことが可能になる。それは類型とか月並みとかいう前の、反復の美の土台であり、これこそ伝統というものであろう。一方、言語のみで勝負する俳句では、五七五という音数律持つけれども、その中にいかほど表現の型とそれを理解できる心身の文脈を保持継続できるのだろうか。文字通り身体運動が加わる歌舞伎と違って、言葉頼みの俳句においては、インフラとして理解の文脈がなければ、伝統と名付けられるものの実態は、かなり存在のあいまいな、あやしいものになってしまうだろう。またそこで文脈=有季と考えるならやや素朴にすぎる。もちろん季語季題は大変重要な働きを持つが、それは自然と人間の関係を性善説的にとらえた人の観念によってなり立ち、観念ゆえに長い目で見ればその一つ一つは案外にうつろう。例えば芭蕉の古池の一句でも、その季の具体化にいくつもの解釈が生まれるほど不安定なものである。この約百年の間保守を任じ、内側に閉じてきた結社ホトトギスに、引用した歌舞伎の逸話のような、日常の言葉から浮上し練り上げられた独自の伝統としての表現の型とそれに結びついた心身の理解の文脈の継続、いわば俳句の美学の土台とでもいうべきものはあるのだろうか。もしそのようなものがあるとすれば、それは現代の俳句にとって重要な資産の一つと言えるだろう。
 ところで、「ホトトギス」のホームページをチェックしてみると、縦表記の努力を拝見するのだが、現在あまたある俳句結社のホームページは多くが横書きである。先にも述べたが、今年続けて俳句総合誌が二つ消えた。紙に印刷されたメディアは徐々に時代遅れにさせられようとしているのに、ウェブ上での縦書きのインフラはさっぱり向上しない。いずれ遠くない未来に多くの俳人がモニター画面上での横書き表記選ぶことになるかもしれない中、「ホトトギス」が今後どのように横書きを容認していくのか、あるいはしないのかということは、いろいろな意味で興味ある問題である。書家石川九楊氏は『書と日本人』(新潮文庫)において、西洋のように絶対神のいない日本のような社会にあっては、縦書きすることが自省と自制を促し宗教の代替となっているので、それを崩せば「自省と自制を欠いただらしのない社会となることは目に見えて」いるという。ゆえにパソコンの横書きは「世界の趨勢というだけでは済まない文化的課題」と指摘している。一般論として「伝統」はナショナルなものによりかかって成り立つ。その性質として当然のことながら権威、権力、保守的なものと結びつきやすく、同時に排他的である。この指摘もその系の排他性と結びつきうる性質を持っていて、単純には首肯できないけれども、巷間よく言われる、字が人格をあらわすという信仰の根強さを考えれば、このような縦書き横書き表記への見解も一考に値する指摘ではないかと思う。ことの評価はしばし未来へ留保されるが、現在の「ホトトギス」は、ウェブ上の俳句縦書き表記へのこだわりに「世界の趨勢」には乗らないという「文化的課題」への取り組みを垣間見ることができる。

     おわりに    

 今回、編集部よりこのようなテーマによる執筆依頼を受けたが、後から同誌二〇〇六年一月号において、全く同じテーマで七田谷まりうす氏が担当執筆されておられるのを知った。氏は「ホトトギス」の存在感を「瀬戸物の茶碗」と良い喩え使っておられ、ぜひそちらもご一読いただきたい。その後二年に満たない間に付け加えるべき事項が加わったようにも思われず、さらに件の特集において、他にも諸先輩方が稿を寄せておられるので、今更わたくしが述べるべきことはほとんどないようにも思われたが、扱う範囲を極力絞り、あえて蛇に足を加えるようなことをさせていただいたことをお断りしておく。

 

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