『現代俳句』2000年3月号「青年部勉強会報告」

 

秋尾敏氏「子規の近代滑稽・メディア・日本語」(新曜社)書評                 橋本 直

 従来の正岡子規論の重点は、正岡子規の人物像や仕事の独自性をいかに描き出すか、という点にあったといえよう。たとえば、学究のものした子規論では比較的新しい、坪内稔典氏の「正岡子規創造の共同性」(九一年、リブロプート)は、「創造の共同性」という副題がつき、帯には「〈正岡子規〉は個人に非ズ」とコピーがついていて、子規を集団の中へ相対化するかのように受け取れ、意外性を感じさせるが、内容は基本的に従来の作家論のスタイルを踏襲したものである。

 しかし、それは子規論に限らず、また(三好行雄氏の言う意味での)作家論であろうと作品論であろうと、文学者についての著作は、共通して作家という個人への興味が強く機能しており、個人の資質や運命がいかに作品を生み出すことになったのかを描くことに重点が置かれ、それに伴って作品の読みの方向性も決められている。

 それに対し、作者と作品を鋭く対立させた七十年代以来のテクスト論は、理論としては大きい影響力を持ち、「いかに書かれたのか」の研究から、「いかに読めるのか」の研究へと問題の方向を変える力を持ったが、いまだ完全に作家と作品を切り離す力は持ってないように思われる。

 今回の秋尾氏の著作『子規の近代』は、はじめに子規という個人の資質を描き出す作業を行いつつも、テクスト論を視野に入れ、子規という個人への関心を極力抑え、明治の俳諧の世界を具体的に描き、子規の独自性をその差異の中から描出しようとしている点で独自である。

 すなわち、現在評価される子規の仕事は、すべて彼が時代に先んじていたのではなく、多くはすでに存在したものであることを指摘し、それではなぜ子規のみが俳句の革新をなしえたのか、ということを多彩な視点から描き出しているのである。これは、虚子以下の後世の人達によって神話化されてしまった子規の仕事の見直しとして、高く評価できるものだといえよう。本書における一貫した態度は、なかば神話化された子規像をなぞらず、亜流にもならず、明治の文学の世界の中で、子規を相対化して位置づけようとすることであろう。これを氏は文中において「メディアとしての子規」と表現されている。

 また、本書のもう一つの特色は、子規が徹底的に糾弾した旧派宗匠俳諧や、子規ら日本派とパラレルに存在し、活発な活動を行ったにもかかわらず、今やほとんど顧みられない諸派を、ニュートラルな視点から見直し紹介していることであろう。とかく子規の立場に引っ張られ、軽んじられがちな明治の宗匠俳諧であるが、立派な読みの対象にもなりうることを本書が示してくれている。今後このような平明で広い視野から明治の俳句・俳諧の世界を見つめ直していく先駆けであるといえよう。  秋尾 敏著『子規の近代―滑稽・メディア・日本語』(1999年7月30日発行、新曜社、本体2800円)    

 

戻る

ホーム

Copyright - S.Hashimoto