俳句から遠く離れて・・・ないか?
いったい、「青年」とは、なんだろうか。そう考えるのは、初めてではない。辞書には、「青春期の男女」とか「一四、五歳から二四、五歳の男子」とかあるが、皆さんご存じの通り、これが組織内の話になったりすると、相対的に若い奴の集まり、くらいの意味に変わることになっている。実際、過疎化で悩む実家にある青年団は、辞書通りではやっていけない。同様に、私が関わっている、現代俳句協会にある「青年部」という組織も、委員には辞書の定義の年令に収まるメンバーは現在一人もいない。関わり始めた当初、「青年部」という呼称は変だから名前を変えてはどうかと進言したことがあったが、しかし、これに変わる言葉は日本語の中になかなかない。お笑いの世界の人がつかう「若手」という便利な言葉もあるが、これは組織名称には使えない。字義通りにこだわるなら「壮年」あたり持ってくるほうが、現実に即しているが、若いというイメージが消えるから使いにくい。阿部完市氏や、夏石番矢氏のような言葉に鋭敏な人でも、設立以来「青年部」という名で通したのは、伊達ではないらしい。とすると、何はともあれ、イメージとして若さが感じられることが「青年」であることの命ということか。
さて、実態としてはなんやかんやあるにせよ、一応まとまっていることに折り合いを見いだせる青年と、そうではない青年を隔てるとするならば、この十年の「ロストジェネレーション」以降の「青年」は、色々な意味で社会を変容させることになるかもしれない。例えば、今時の「青年」の主張は、かつてテレビの画面の中で見るからに優等生っぽい人やら、不良っぽい人達が口を大きく開けて話したある種健全なイベントではなく、ネット上の不特定多数が集まるコミュニティに匿名で書き込まれる形で主張されたり、ある日突然目の前に、無言で刃物を振り回す形でやってきたりする。しかも、他者にとってとてもわかりにくい。これはなんなのだろう?
この十年ほどの間に仕事上自分の見聞した範囲での感覚でも、今時の青少年は、個の能力の高低には関係なく、結構な割合で、経験までも長期に積み重ねるものとしてでなく短期に消費する対象としてしまう。東浩紀風に言うなら、「動物化」して、消費を中心としつつ複雑な人間関係の集合体である実社会にはコミットせず、コンビニとITを使うことで繋がっている感は保つ、という人々が多数いるのが、今時の若者であるらしい。簡単な例をあげるなら、ここ数年、青少年達は、エレベーターや電車の中の他者を、「世間」ではなく、ただ「空気」のように無化してしまう傾向があることなどあげられよう。しかし、ITは何でも目の前に持ってきてくれるようなイメージはあるが本当はそうではないし、介在する人間の汗は見えない。それに、繋がっている感だけでは基本のコミュニケーション能力は育たないから、他者の言葉に耳を傾けることができないし、他者に自分の言いたいことが充分伝えられない。イメージと本当の繋がりの間の突然やってくる落差に対し、経験による緩衝が働かないから、反動は独善的で極端な行動や思考に走りがちである。従って、人を傷つけることをあたかもゲームのようにやってくれる。私は以前、このように書いたことがある。
「自己と他者の関わり合いの希薄化、いや、個としての実感の希薄化こそ、俳句の未来にとって最も危うい状況ではないだろうか。高度資本主義経済の中で自由主義や個人主義が展開してきた現代の日本にあって、本来確固たる社会集団の中にあってこそ、その中で明瞭になるはずの個人は、集団の意識・存在感の希薄化に伴って、個としての実感までも相対的に希薄化され、さらに個人の内での心と身体の統一感までもが不安定の度を極端に増しているのではないのか。だからこそ、今、自らの体を傷つけること(例えばリストカット、体中にピアス、タトゥーをする等)や他者を安易に傷つけることで身と心のバランス/アンバランスを表現する人々が増え、映画「MATRIX」のような、仮想現実と現実が混在する世界観が容易に受容出来る状況が存在しているのではないのか。このような事態は、集団の共通理解と共感を前提とする従来の俳句の想定外のことである。この状況がどこへ向くかはわからない。今が一つの極とすればその大反動があって、人は集団主義、家族主義へと向かっていくかもしれない。それはもしかすると俳句にとっての天恵であるかもしれない(というより俳句がその片棒を担ぐ可能性は高い)が理想通りにはいかない気持ちの悪い世の中がくるであろうことは想像できる。しかし、すくなくとも社会の変化の方向が今のままであるならば、俳句と川柳を峻別するために前提としていた俳句の成り立つ基盤が弱体化していくことは確かなのである。さらに状況が進めば、もはや従来の意味での俳句は「古今伝授」のように一部の人々の間で特権化し受け継がれていくしかなくなるのではないのか。」(「俳句と川柳試論」 「鬼」14号、04年11月)
今見れば足りないところもある書き方だけれども、俳句というジャンルの固有性にこだわることの前に、それを成り立たせるはずの基盤が成り立たない世の中が来つつあることへの予感を書いたつもりだった。「NHK青年の主張コンクール」の後釜「NHK青春メッセージ」の放送が、歴史的な役割を終えたとして終了したのが、ちょうどこれを書いた二〇〇四年の春のことだったらしい。若者にとってチャンスは平等であるかのようなお祭り騒ぎを「世間」が共有できた時代は、そう長く続いたわけではない。
先の引用の後半に示した「一部の人々」は、現状で言うなら、比較的恵まれた人々に限られるだろう。それは、おそらくやれと言われればテレビで「青年の主張」ができてしまう「古風」を保っている人々でもあり、本人が実感しているかどうかは無関係に結果的にいわゆる「負け組」を排除している(と思われ攻撃の対象になっている)だろう。そして排除された側の青年の主張は、場合によっては、自傷や無差別殺人という形であらわれる。極論すれば、再び暴力と貧困の世界に背を向けて俳句を楽しむ世界が割と身近にやってきたけど、あなたどうします?ってことだ。
さて、私の「青年の主張」をするときが来たようだ。私は「世間」をもっとうまく機能させたいと思っている。限りなく伝統芸能、あるいはお稽古ごとのような場として特権化、権威化された中で「俳句」を作る人々がマジョリティを占める世の中が、あたかも理想の伝統世界のように思われ安易に固定化してしまうのなら、私はそれを常に言葉と行動でゆるがす側でいよう。だが、そう言うなら、その先で滝の如く主張すべきであるかもしれない核たる部分を活字化する漢籍的滑稽には、ここではのれない。
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