俳句と身体についてのメモランダム      

                     

 宮沢賢治の童話「どんぐりと山猫」において、山猫の馬車別当は、自然界と人間界をまたぐものにふさわしく異形である。

 「その草地のまん中に、せいの低いおかしな形の男が、膝を  曲げて手に革鞭をもって、だまってこっちをみていたのです。一郎はだんだんそばへ行って、びっくりして立ちどまってし まいました。その男は、片眼で、見えない方の眼は、白くびくびくうごき、上着のような半纒のようなへんなものを着て、だいいち足が、ひどくまがって山羊のよう、ことにそのあしさきときたら、ごはんをもるへらのかたちだったのです」

 その異形の馬車別当は、へたくそながら完全なる異世界の住人である山猫の代わりに、人間世界に葉書を書いてよこす。彼は、「近代文明の恩恵」にかろうじて片脚をつっこんでもいるのだ。
 この物語における馬車別当がどのような由来をもつのかは本稿の興味の枠外の話である。だが、幕末から明治初期、日本国中を旅してまわった異邦人の乗った馬車の前には、かならずと言って良いと思うのだが、確かに「異形の馬車別当」達がいた。彼らは馬車に乗って鞭をふるうのではなく、馬車の先駆けをして、いわば往路の露払いをしたのである。そのほとんどが欧米から来た客人達から見れば「異形」である彼らは、多く記録の対象として残っており、それによればふんどし姿の筋骨隆々であったり、前身に入れ墨をして任侠のような風体であったりする。維新で職をなくした武家の奉公人も多くいたようで、彼らなりの自分たちの仕事への高いプライドも持っていた。そしてその壮健さはおおむね上流の男が色白でひょろひょろして見えるのと好対照であったらしい。
 この馬車別当達は、当時の欧米人だけではなく、今日の我々から見てもやはりある意味で「異形」であった。それは単に褌にちょんまげだったとかいう外見の問題ではなく、彼らが、おそらくは最後に残った、いわゆる「ナンバ」的身体運動で走る能力を手段として生計を立てた最後の人々であったからだ。明治の街頭風景を書いた絵を見ていると、所々に馬車とその先駆けをする別当の姿を見ることができるが、彼らは右足なら右手が同じ方向を向いて走っている。その後、平民をいっぱしの兵士にできる身体を作るための国の政策方針によって、我々の身体は西欧風に改造されてしまっているのであり、いまだに学校の体育祭では、軍人のパレードのまねごとがその遺風として残るわけだが、あらためてフーコーなどを持ち出すまでもなく、権力による身体の支配統御は、精神の支配へとまっすぐにつながる。身体の変化は、精神を変えてもいるはずである。
 例えば芭蕉「古池や〜」の一句で様々な議論がなされているように、私たちは伝統文学などと言いつつ、割合気安く数百年の時空を越え、芭蕉ら近世の俳人と同じ土俵に上がっている。活字化されたものを扱い、頭の中で勝負する分には、そのようなことは案外にたやすいことである。しかし、その土俵、いわば俳句の理解の枠とその文脈の広がりに対し、立ちふさがってくる困難な障壁の一つが「身体」の再現と理解だろう。『奥の細道』の旅を旅行案内記として同じ行程を踏破することは困難ではないが、芭蕉がその道をどのような身体動作で歩いていたのかを正確には再現できない。今日からみての彼らの移動速度の尋常でない速さが、あの「芭蕉忍者説」の根拠の一つになっていたりするけれども、ただ歩くという動作一つとっても、ほんとうに正確なところはわからない。この身体の、近代以後の変容にともなう、精神の変容も勘定に入れなおして近世の句群を見るとき、我々の前に見えてこなかった、あるいは暗黙のうちに見ないふりをすることにしてきた何か、いわば、「身体の自然」が浮上してくるようなことは無いのだろうか。
 例えば、一茶と芭蕉・蕪村との大きな違いの一つは、身体動作や身体感覚を句に詠み込むことを、句風と感じられるかどうかの違いではないだろうか。それは、芭蕉が武士の出であることや、蕪村がその出自をおそらくは意図的に詳らかにしなかったことと違って、一茶がその出自から何からを記録していることと切り離しては考えられないように思われる。それは残された句数にも如実に表れ、芭蕉は約一千句、蕪村は約一千五百の句が残るのに対して、一茶は約二万もの句が残っている。

  きつゝきの死ネトテ敲く柱哉
  かな釘のやうな手足を秋の風
  かくれ家や歯のない口で福は内
  おとろへや榾折かねる膝頭

二万もある上に、語りきらないことが骨法でもある俳句で、数句を取りあげただけでそこから何かを敷衍して実証することは難しいけれども、これらの一茶の句からは、何か宙に浮いたような身体感覚を読み取れないだろうか。一茶は、生まれ育った環境である信州柏原の農民として生まれついた身体や、奉公にでた江戸での十数年間で、生きるために奉公先を転々としながら身につけた町人としての身体、そして、業俳として身分の上下様々な人士とつきあう中で身につけた身体、また、晩年郷里において近親者に見放されたという自意識の中の身体を持っていた。体の動かし方や言葉の使い方の一つ一つが、それぞれで大きく、あるいは微妙に異なっていたであろう江戸の封建社会の、上と下、内と外を、一茶は状況に合わせて縦横に行き来せざるを得なかったはずである。そこには、自意識としての身体や、他者が見た自己として自覚される自己の身体への感覚過剰が生み出す、様々な感覚の齟齬があったであろう。それはいわば、彼の内在する俳諧性の素地のようなものではなかったか。
 我々のほとんどは、今の普遍的に平均化されつつある身体感覚を前提として俳句を理解してしまっているだろう。しかも、それを無意識に江戸のテクストに広げてはいないか。しかし、そこは決定的に異なるはずである。江戸の人々から見れば、我々こそ異形の者たちであり、その意味では、我々の彼らへの理解は、山猫の馬車別当のごとき拙さを持って、彼らの異世界へ葉書を出しているに等しいのかもしれないのである。俳句の定型と季語の伝統形式で古典の中の人々と同じ土俵にあがった(あるいは近づいた)気になるのは、間違いとは言わないが、簡単な話ではないようだ。
 状況として、差異は二重に平板化しつつある。精神の平板に対し、もはや高度に鈍化したと思われる現代にあって、日本的な身体の差異は、例えば土方巽氏や甲野善紀氏の仕事のレベルでは、掘れば出てくる原石としてかろうじて残されているように感じる。また、近代において俳句と身体との関係に異なったレベルでやや自覚的であった俳人に、種田山頭火や波多野爽波等がいるが、彼らについてはまたいずれ論じてみたいと思う。

 

 

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