「軽み」論争について ―「老い」を視座に― 橋本 直
昭和40年代末から50年代半ばにかけて山本健吉の「軽み」論をきっかけに様々な「軽み」論がおこった。雑誌に特集が組まれ、多くの俳人が山本説に反対し、知識の整理の必要性から井本農一、尾形仂ら国文学者が「俳句」等の誌上で「軽み」について解説的に論じもした。したがって、この頃の俳句雑誌を読めばあちらこちらで「軽み」の話題を目にすることが出来る。
山本は、まず「『軽み』の論―序説―」(昭和四十九)に持論を述べた。彼の有名なテーゼ「挨拶・滑稽・即興」のうち後回しとなった「即興」をその晩年に再考したもので、「即興」と「軽み」が重なるものとし、ヨーロッパの詩論における「ウィット」「エスプリ」とほぼ同義とみなし、俳諧・発句の方法論を超えて人生論的問題にもなるとしたものである。
が、四面楚歌と言っては大げさかもしれないが、その賛同者のあまりに少ないことを見た山本は、誤解が多いとしてその後も何度か「軽み」について書いており、結局のところ芭蕉のいう「物の見えたる光」にあたる「生命的なものへの志向」「ものの命の輝き」を「俳句の第一の指標」と見、「「軽み」とは「いのち」の自在に嬉戯する姿なのである。」とした。また、反対に「『重くれ』は『いのち』のこわばり」ともいった。
これはいわば芭蕉一人の営為をものさしとし、「重くれ」を人生のスケールの中の「若さ」に押し込めるような形でおとしめる一方、「軽み」を人生論までおし広げ、俳人の至るべき境地のように書いてしまったことになる。その「軽み」論は俳句作家達から賛同されなかった。山本の発言に反発する人々の考えは、多くが「軽み」を理念、方法の一段階と見ており、また、大衆化、月並化や老齢化にともなうレベルの低下への迎合を疑い、果たして俳句に何か新しいものをもたらすのか疑問を呈するもので、その状況を飯島晴子は「保守的な側の人も革新的な考え方の人も、別に相談したわけでもなんでもないのに、『軽み』一辺倒であつては現代俳句の実作者として困ると、みんな一様に答えが出て来ているところが非常に面白い」(『俳句研究年鑑』昭和52年12月)と指摘している。
そして中村草田男もその反対側の一人であった。その最晩年は文の発表は稀になったようで、そのころの発言は平成に入って刊行された講演集「俳句と人生」(平成12年)で読むことができる。草田男は「軽み」を「最高の境地」、「最高の目的」とは思えないとし、それが流行している状況は諦念にのった一種の「敗北主義」だとした上で、「われわれが芸術を作るというのは、もっと深い、もっと永久的な命のあり場を探って、そして身につけ、心につけ、一分一厘でもそういう世界を作品の世界の中で実現させようと考えるからです。」(「『軽み』について」)と述べている。このように、この二人に限ってみれば、俳句の「いのち/命」のありようをキーワードとして対立していることがわかる。山本における一個人の至高の境地の「いのち」と、草田男の永久なる芸術としての「命」。が、共に仮想の理想を信じればこそだ。
また、この「俳句と人生」の巻末、「万緑編集部」の名で書かれいる解説では、この「軽み」論争に多く字数を割き、山本の論が「俳壇に『おもくれ』や思想性の軽視といった風潮を生む原因となったともいえる」と批判し、「一美的範疇を、健吉が芭蕉文学の根本本質へと転化させ、その深い寂寥感と呼ぶべきものと同一視しはじめたこと、このことばかりは草田男はけっして承知しなかった」と解説し、事の本質を批評家と作家の観点の対立と捉え、山本の論は「詩の出現の母体である『おどろき』とは直接なんのかかわりもない」という。そして日本人の主体の問題であるにも関わらず「わたしたちはこの問題を依然放置したままにいる。」とも言っている。この主体の問いかけは、先ほどの「いのち/命」の理解の問題へとつながっていよう。だが仮想の理想を前提にする以上、宗教論争のような性質をもたざるをえない。
たしかに、詩が生まれる動機、根拠に「軽み」がその中核をしめるということは、現在唯今の私にも理解しがたい。しかし、「軽み」は「一美的範疇」でおさまる質のものでもあるまい。草田男から離れてみれば、この意見の対立は上記解説でいうように、批評家と作家の立ち位置の違いのみが生み出したものではない。ざっと調べた範囲で、ちょうどこのころ多くの戦後俳壇の主要作家は壮年にあり、79年、80年には、安東次男、飯田龍太、石原八束、金子兜太、草間時彦、佐藤鬼房、沢木欣一、鈴木六林男、三橋敏雄、森澄雄らが還暦を迎えていた。この論争の頃、戦後俳壇はまさに「老い」を意識する局面を迎えていたのである。山本はこのようにも言っている。「『軽み』の説が、芭蕉の最晩年に熱心に説いた教えであることに注意しよう。(中略)老境になっては、方法論議などつくづく莫迦々々しいと思うようになる。(中略)『軽み』とは、結局軽く生きることだった。生きる上で最大限に心の自由を保持することだった。(「『軽み』の論―序説―」)」しかし、戦後俳句に費やされた俳論の言葉の質、量の厚みを思うとき、この山本の言に首肯する戦後俳人が多数になることは想像できない。むしろ、この「老い」に対する山本論への反発が言外で強く作用してはいなかっただろうか。まただからこそ、賛成しないのに広く取り上げられもしたのではないか。
芭蕉にも影響を与えていると思われる能の美学において、その秘伝であった「花伝書」には「老後の初心を忘るべからずとは命には終りあり能には果あるべからずその時分々々の一躰々々を習ひ亘りて又老後の風躰に似合ふ事を習ふは老後の初心なり老後の初心なれば前能を後心とす五十有余よりは為ぬならでは手立無しと言へり為ぬならでは手立なきほどの大事を老後にせん事初心にてはなしや」云々とある。すなわち、若いときから能を体得してきた人であっても、老体には老体に似合う能があり、老年に至ってそれを知ることはやはり初心であるに違いない、ということ。「軽み」への理解はこの「老後の初心」がヒントになるのではないだろうか。もちろん、能は身体に関わる芸術であって、言語の領域にある俳句とはことなる。能役者や歌舞伎役者は、心身の型を練り上げることで血肉化した伝統を環境遺伝としても伝えることが可能だが、古池、鶏頭の句の解釈論争でもわかるように、文芸の領域においては言語で型を遺伝させることははなはだ困難である。芭蕉の美学としての「軽み」は、芭蕉一人にあっての「老後の初心」のようなもので、直接関わった弟子ならともかく、その「老い」を日本的自然観を前提とした老人の諦念へ一般化しても、芭蕉の真意には遠いだろう。例えば先日出版された長谷川櫂の「奥の細道を読む」も、山本と同じように「軽み」と老いの関係を芭蕉個人から一般化する手法をとっているが、上記の意味で、これには賛同しかねる。
Copyright - S.Hashimoto2007