小麦をめぐる冒険 ー均質と差異、あるいは伝統と現代ー 橋本 直
一、小麦をめぐって
母の四十七回忌 うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする 山頭火
昭和十三年に山頭火が食べたうどんは、どこから来た小麦でつくられたものだったろう。明治期には既に、国産または輸入でも石臼挽きのものを「うどん粉」といい、細かく機械挽きされた輸入ものを「メリケン粉」と呼んでいたという。自給率が一〇%に満たない現在では厳密にそんな意味分けはあまり機能してはいないだろうが、爾来「メリケン粉」という呼称は定着し、主として関西で強く残った。 そして、戦後の食糧不足のなか、アメリカから大量の「メリケン粉」がやってきた。以前見た資料映像には、小麦粉の消費を増やすためか、「パンを食べると頭が良くなります」というようなことを真面目に書いた新聞か何かの記事があった。たぶんプロパガンダだったのだろう。極論めくけれど、「飯米獲得人民大会」に二十五万人も集まったとかいう戦後の混乱期に育った世代の身体は、かなりの部分が「メリケン粉」でできている。 攝津幸彦が生まれたのは昭和二十二年一月。その前年から、小麦粉(というか物価そのものだが)の値段は急速に跳ね上がる。昭和二十年にはキロ四十銭ほどのものが、攝津が生まれた頃は十円、その一年後には三十五円、という具合だ。もちろんGHQの統制下での話である。
三島忌の帽子の中のうどんかな 攝津幸彦
この一句の背後には、うどんの原料である小麦粉が、既に「メリケン」であること自体が「三島」の死をもって表象するものと対立し、そして矛盾を抱えたまま一個の身体に融合する面白さがある。攝津ら団塊の世代は、三島がよりどころにしようとしたものを様々な形で受けとめつつ、しかしメリケン粉食って成長していたわけで、形は違えどそれぞれが精神と肉体をつくった源として、相反するものにもかかわらず、彼らの頭の中でとけあっているに違いない。ゆえに三島「忌」の帽子の中は「うどん」でなければならない。「コーク」とか他のものでは駄目なのだ。 さて、西国ではそのうどんや焼きそばやお好み焼きをご飯と一緒に食べてもいっこうに差し支えなかったが、関東に来てからは賤視されること久しい。そのうどん玉や中華麺(我が故郷では亜種である「ちゃんぽん」が主流だったが)なぞは、近所のなんでも売ってる雑貨商へ子供がお遣いに行かされるものであったと記憶する。帽子にうどん、と聞いたとき、初めにイメージしたのは、帽子に何玉かのうどんを入れて家に帰っていくお遣いの少年の姿であった。「豈」三十一号に高山れおなさんが書いている「義幸さんのネクタイ」で、こんな一節がある。「酒巻さんが以前『攝津俳句の背後には、関西という秘密が潜んでいて、それはついに関東人には理解しきれない』という意味のことを言っていた。」本稿の正否は知らず、異質なものの理解とは、まるで違うより、似て非なるものの方がはるかにやっかいなのかもしれない。
二、状況について
攝津の俳句は、読み手によって広くも狭くもなり、面白くもつまらなくもなる。多義多様性に俳句の未来を懸けたものといってもいいだろう。おそらく今回の特集でも、そのことは多く論じられるに違いなく、本稿もまたその例外ではない。攝津の句は、読み手を趣味的位置に置かない濃厚さを持っていて「高邁で濃厚なチャカシ、つまり静かな談林といったところを狙っている(「太陽」94年12月)」と本人も言っているくらいだ。私風に解せば、ハイブリッドな短詩型の実践というところ。 しかし、そのような論じられ方は、俳句の持つ豊かさ、可能性を示す一方で、深刻な危機でもありうる。「伝統」と呼ばれる俳句の手法の埒外にあるがゆえに、もし、わかりくくてあたりまえ、読者同士で共感できないのは仕方がない作家なんだというような論調へ流れ、自分の見解は出しておくが他の人はわからなくても良い、と割り切っているとすれば、差異性をうたっていながら均質化の中で生きてゆくのは仕方がないという状況を是認することと同じだ。それは、攝津の俳句にとって多分幸福ではない。「三島忌の帽子の中のうどんかな」この句は、そんなことすらも直感できているみたいだ。現代的差異性は「伝統」の顔をした均質性に再び大枠で飲み込まれてしまうのだろうか。 さて、私の問題意識の中心は遠くない未来、攝津の俳句が団塊の世代がいなくなると共に生気を失い博物館行きとなるのかどうかということにある。高い評価がある一方、未来は保証されたものではない。戦後生まれの俳人について扱った本や雑誌を見たときに、攝津が常に取り上げられているわけではないことや、早世したことや作品のもつ多様さのなかでも人口に膾炙した句に同時代性が際だっていることなどにその可能性を垣間見せていよう。それは俳句そのものにとって大きな損失だと思う。では、いかにして回避できるのだろうか。 例えば、多くの作家が既に忘れ去られてしまった自由律俳句で、なぜ山頭火が消えなかったのか、と考えてみる。いくつかある答えの一つは、間違いなくそこに大山澄太がいたからだ。山頭火を愛し、生活を助け、資料を残し、出版し、最晩年まで執念のように山頭火を語り、彼を哀惜し涙を流し続けた。ゆえに人と句が結びつき、山頭火は残った。例えば村上護の評伝は本当にすばらしいもので、名著の一つだけれど、それは他の誰かが絶対できない仕事ではない。だが、大山のしたことは他の人にはできない。今、攝津幸彦個人に関して、そういう無償の愛情や友情をもった人々が、攝津の魅力を語り、残そうとする努力は充分足りているのだろうか。彼がいかなる人であったかを語れる人はたくさんいるはずだ。その中から、いずれ攝津像が浮上し、多様の中の解釈で共有できる道筋ができるのではないか。私は、作家と作品は別、解釈は読者の自由だ、と思っている。だが、正否の問題ではない。攝津のことを語る語り部がいなくなれば、攝津の良さも歴史に埋没してしまうかもしれない。人と人、人と言葉の間にあえて「攝津幸彦のようなもの」を置いて分かち合うことは、今、ここにおいて意外なほどに切実に重要なことかもしれないと思っている。
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