君との語りの為に・・・俳句の思想ノートA・・・ 橋本 直
猫A「いつか君は「俳句の思想」とは何か?なんて、そんな難しいこと俳句で言ってもしょうがない、と言った。そうかもしれない、と僕は思う。でも、語ることで考えがまとまるってこともある。これまでの俳句の様々な状況からその「思想」について語ることと、俳句のために新しい表現をもたらすための「思想」(と呼ぶのなら)について語ることでは、自ずと中身は違ってくるだろうけど、自分の身の丈に合わせて、今・ここにある状況を軸に語ってみよう。でも、最初にことわっておくが、僕は「思想」を云々するのが好きではないし、柄にあっているとは思ってない。そういうことに興奮を伴うコンテクストの渦に巻き込まれざるを得なかった世代にも属してないし。むしろ避けてきたんだ。君も僕もバブル期に青春期を過ごしたし、割と太平楽に生きてこれた方だ。だから、「俳句の思想」って何?と言われて今すぐ答えはないんだけれどもね・・・・・・。」
ある芸術を自らの表現の欲求の手段とするとき、どのような手段をとるにせよ、それぞれに「作品」としてまずあらわされ、その後その「作品」について、あとからあとからいろんな言葉がまとわりついていくものだろう。そのまとわりついたものがある程度普遍性を持って体系化されれば「思想」と呼ばれるものとなる、と定義しておく。そして、その体系の中心に作者がいるのならば、その個人の思想、例えば「子規の思想」などと呼んでもいい。さらにその個々の積み重ねが抽象・帰納されて「俳句の思想」と呼ばれるなら、それも間違いではないはずだ。理論的には、そこに俳句そのものの本質に内包される思想を抽出することが出来るだろう。
他方、何かしらの因子により既に体系的にできあがった「思想」の体現のために俳句を作ることもありうる。それは厳密には「○○思想による俳句」であって「俳句の思想」ではないはずだが、これを明確に区分するのは案外難しいかもしれない。
たとえば、欧米における俳句の流布の歴史から「禅」を切り離すことはおそらく不可能であろうし、俳句の思想と禅の思想を区分するのはおそらくナンセンスだ(日本とはやや異なる展開を見せる俳句。しかし、その欧米から入った「小説」や「詩」が日本で独特の展開をしたように、それもまたやはり「俳句」と見る)。
また、一個人の思想信条の発露としての一つの俳句作品があったとしても、読者がそれをその作者の意図通り理解することは簡単ではないだろう。それに読者自身における「思想」も問題となってくるはずだ。句会に端的に現れるように、匿名性の中で作品の解釈が読者にゆだねられるのが前提となっている俳句の場にあっては、むしろ読者側のものの考え方のほうが「俳句の思想」を考えるにあたってより重要な要素になるはずだからである。さらに、読者と作者の間に共通の前提として何らかの「思想」が存在する場合もまた想定されよう。
このように、俳句をとりまく「思想」の形について列挙してみた時点で、いくつもの論点を提示できるだろう。個と全体、作者と読者等々。すべてを扱う紙幅はないから、問題意識のおもむくままに具体論を進める。前記の俳句そのものの本質に内包される「思想」の抽出例として、例えば以下のような言い方がある。
「私見では、俳句は作者の意図や思いとは関係なしに読まれてきた。作者を離れることが俳句のとても大事な要素である。(中略)それは端的に、作者よりも作品が大事だ、という俳句の思想を示しているだろう。」(坪内稔典『俳人漱石』〈岩波新書赤838〉「あとがき」)
たしかに、例えば子規も漱石も虚子も、句会の中では無名の人となる。そこに俳句のとても大事なものがあることは間違いない。その意味では「作者より作品が大事だ」という指摘には異論の余地は全くない。しかし、もし「思想」として無名性を重んじ、作品より作者の位置が相対的に低いというのなら、近世に芭蕉の神格化がおこり、近代に子規の批判をまねいて俳句の近代化のエネルギーの源になったにもかかわらず、現代にいたるまで、虚子をはじめとする「作者」である結社主宰の神格化が維持され続け、かつ多数であるのはなぜなのか、という素朴な疑問がただちに浮かんでくるではないか。もし「作者より作品が大事」なら、原理的にそのような事態は起こらないのではないのか。これをふまえて説明しようとすれば、坪内の述べた「思想」の上位に、さらに作品を越え、作品を裁定すべく君臨する選者や主宰を置かねばならない。すなわち、「作者より作品が大事。でも、作品より選をする人が一番大事。」という構造の堅持。この場合は、それが「俳句の思想」ということになるのではないか。 このことをふまえて考えると、結社主宰のような独裁的な立場がいない、全く互選の集団の場合はどうなのか、ということを考慮に入れねばなるまい。全くの素人から俳句をつくりはじめて、ずっと平等互選の集団の中で過ごしてきたものならどうなのか。あるいは、そのような集団とは距離を置き、ずっと一人で創作し雑誌などに発表し続ける人だったら?前者も構造的に主体の弱さを前提に成り立っている。独裁者がいないだけだ。一人でやる道はどうかといえば、どんな世界にも純粋な送り手としての作家と純粋な受けてとしての読者なんてものはたぶん存在しない。「作者より作品が大事。でも、同じくらい作品より選をする人や読者も大事?」 このように考えてみると、はじめに定義を行った個の累積を帰納的に当てはめて「俳句の思想」とみるのは充分ではない。個人の思想を経て体系化する以前に、他者の創造への独裁的裁定や創造の共同性を経てでてきた俳句作品にはあてはめられない。それでは、「作品」にまとわりついたものの個々を解体し、その網の目の中から「思想」を抽出し立ち上げれば充分なのか?おそらく一時的にすべてを語り得たようであっても、また編み目からこぼれる何かが表象してくるに違いない。それはきっとこんな視座からの話でなくても・・・・・・
猫A「ああ、これだから思想はややっこしい。僕は自分の作句が、俳句が芸術の一部であるといった子規の定義の延長上にあると思っていた。君もそういってたはずだ。でも、「思想」をキーワードに改めて考え直してみたら、そんな簡単な話でもないのかもしれないね。ああ、そういやあ簡単な思想と簡単でない思想について君はどう思う?おや、井戸には行っちゃ駄目だってば。」
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