雑感2008

表紙へ

7/17
奈良国立博物館で開催中の「国宝法隆寺金堂展」を見に行ってきました.法隆寺は数回行きましたが,金堂の中は,暗くて,金網越しだし,シーズンは次から次へと人が来るので,じっくり見られないんですよね.というか,釈迦三尊像がなんとなく見えるぐらいですよね.四天王像がじっくり見られる機会は,めったにない,というわけで,新幹線でひとっ走り行ってきました.どうせ図録は重いだろう,ということで,博物館はラストにまわし,バスで元正天皇陵へ.ついで元明天皇陵から般若寺・北山十八間戸・聖武光明陵・東大寺・新薬師寺・元興寺を回り,国立博物館へ.その後,興福寺・率川神社・開化天皇陵へ.東大寺なんかは,もう信仰の場ではなく,観光・行楽の場なんですよね.大仏殿に入っても,脱帽する者は全くなし.それどころか,手を合わせることもなく,写真をパカパカとるだけ.カップルはイチャイチャキャーキャー言ってるし,思わず「俺は平重衡の生まれ変わりだ!」と叫びそうになってしまいましたが,火遊びするとおねしょする,というので自重.「法隆寺金堂展」でも,同様のキモチ.博物館に陳列されている諸仏は,信仰の対象じゃなくって,美術品・骨董品.まぁこれは日本だけの話じゃないんでしょう.みょうに盛り上がった伊の何とか大聖堂も,信仰の場じゃなくって,観光地だから落書きが一杯されてるんでしょうね.「信仰を持て」なんて言いません.ただ,今現在信仰を持っている人たち,さらに,信仰してきた過去の人たちのことを考えてほしいのです.まぁ私のホームページに来て,この文を読んでいるような好事家(褒め言葉)の皆様には,釈迦に説法でしょうが,ぜひぜひ,「寺社は遊び場ではない教」の布教活動を行っていただきたい,なんて思っています.まずは家族旅行をし,周りに聞こえるように,「太郎くん,仏様の前では帽子を脱ごうね」とか言ってみてください.

7/13
私は日本古代の官職制度に一番関心を持っています.ただ,お仕事の関係で,それ以外の勉強も,それなりにしなければなりません.先日,カルチャーセンターの講座のために,ちょっと仏教史の本を読みました.同じ古代史なのに,なぜあそこまで理解できないのか.なぜあそこまで眠気が誘われるのか.概説書なのに全く頭に入らないとは.昔は仏教に興味あったんですがねぇ.そもそも,興味があったから仏教系の高校へ入り,仏教系の大学へ進んだんだけどなぁ.「仏教」そのものじゃなくって,「仏像」や「寺院建築」が好きだったのかな.興味がある,ない,とか,得意,不得意,とかって,どこから線が引かれるものなんでしょうかね.私は,官職制度が一番とはいえ,古代史全般に興味があって,古墳やヤマト王権にも関心がありますし,平安時代の武士の台頭も関心があります.でも宗教史や経済史は苦手.興味がわかない.苦手だと,勝手に線を引いちゃっているのか,本当に向いていないのか・・・?

6/29
藤原京跡で不比等示す木簡、邸宅の存在裏付け(YOMIURI ONLINE 6/23)
藤原宮に威信示す旗なびく…「幢幡」支えた柱穴見つかる(YOMIURI ONLINE 6/27)
立て続けに藤原京関係のニュースがありましたね.幢幡は別の宮でも見つかっているし,まぁ藤原宮でも見つかったね,程度ですが,不比等の邸宅はイイですねぇ.場所が特定できると,イロイロと楽しみですよね.平城京の不比等邸も宮の東側に隣接していましたが,藤原京の場合もそうだったのかな.
藤原京遷都は持統天皇8年(694).『日本書紀』によると,同10年には公卿の第5番目に位置しているけど,それ以前の序列がよくわからないんですよね.てなわけで,不比等がいつごろから力を持ちだしたか,ということを探る上でも面白いのではないでしょうか.あとは,邸宅が発見されて,かつての長屋王邸みたいに,木簡がザクザク出てきて,大宝律令とか,さらには浄御原令の断簡まで出てきちゃったりしないかなぁ,なんてことを思うと楽しくなってきますね.さらには,発掘が終わったらそこにデパートを・・・.

6/22
ひと月近く放置していました.東大寺の荘園絵図が再発見された,というニュースの時に更新したと思っていたのですが・・・.月2回程度,カルチャーセンターで古代史の話をしています.「古代史の面白い話」ではなく,一般受けしないであろう古代史概説.昨日は,院政期の荘園をやる予定でした.「鹿子木荘の史料なんか信用しちゃだめだよプップクプー」という予定だったんですけどねぇ.院政期だけじゃなくて,それ以前の荘園の話もしなきゃいけない.てなわけで,大化前代の田荘から話をはじめたら,寄進地系荘園の話に行く前に時間終了・・・.配布資料の枚数はいつもと同じぐらいだったんだけどなぁ.どこでそんなに時間とっちゃったんだろうか?ま,里倉の話が受けたから良しとしよう.

5/21
邪馬台国に関する本をちょっと開いています.論争するのはいいんだけどねぇ.誹謗中傷まではいかなくっても,いちいち余計な一文をつけたりする人がいて,気分悪い.この史資料から私はこう思う.あっち説の某氏はこの点について説明していない.とかだけで十分だと思うんですが,これで科学的と言えるのであろうか,まったく不可解である,とか書き加えてるんですよねぇ.一般向けの本だから,そういったことを付け加えた方がウケる,ということかな.邪馬台国がどこにあろうと,正直知ったこっちゃないんですが,こんなんでは,まともに議論できないじゃないかなぁ.

5/4
4月のあたまに,パソコンを新調しました.vistaわかんねぇ!word2007わかんねぇ!と,もがきながら,なんとか頑張りました.
4月29日の夜,フリーズ.キーボードからの操作を一切受け付けないため,強制終了.その後,電源を入れてもwindowsは起動せず.マニュアルを見てもどうにもならないので,メーカーのサポートセンターに電話.修理へ出すこととなりました.5月1日に引き取られ,今日,4日に帰宅.メモリボードの接続の不具合がどうこうとのこと.ハードディスクは初期化されず無事でした.まぁでも,こまめにバックアップをしなけりゃダメですね.
あっと古代史に関することを書く場でした.薬師寺東塔が2011年ぐらいから解体修理らしいっすね.修理前に,もう一回ぐらい行く機会があるかな?

4/22
平安中期の「物忌札」、徳島市の観音寺遺跡で出土(YOMIURI ONLINE)
物忌(ものいみ)は,陰陽道による謹慎のこと,って説明でいいのかなぁ.怪異とかがあったとき,物忌札を門に懸けて,来訪者を拒んだりしました.『平安時代史事典』によると9世紀中頃から見えると.
鈴木一馨『陰陽道―呪術と鬼神の世界―』(講談社選書メチエ,2002)に,『貞信公記』承平元年(931)8月6日条が,物忌の記録としては「極めて早い方の例」として紹介されています.牛が内裏の役所のひとつに乱入する事件が発生しました.陰陽師が占ったところ,何者かによる呪詛であることが判明.史料には出てこないのですが,式神を牛に憑かせ呪詛したってことらしいです.で,その呪詛から助かるために物忌をしなさい,と.
今回の発見は,こういった文化が地方にも広がっていくことが示された,ってことで貴重ですね.9世紀後半に,出羽・武蔵・下総国府に陰陽師を置いたりしていますが,地元の人たちには,どの程度伝わったでしょうね.妄想するといろいろと楽しそうです.
それにしても,観音寺遺跡.まだまだ出ますねぇ.国府そのものの発見もしてほしいなぁ.

4/16
後期高齢者云々について.「75歳以上は,もう終わりってことか!」と怒っている人がいましたが,後期が最後ではありませんよ.縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分されています.古墳時代は前期・中期・後期・終末期.85歳以上は晩期高齢者,95歳以上は終末期高齢者,なんて言い出したら怒りましょう.
今回のことでは,藤子F不二雄の短編を思い出しました.タイトル忘れましたが,人口増加・食糧不足により,高齢者の切り捨てを断行するというもの.「もうワシらの席はどこにもないのだ」とかそういったセリフで閉められていました.予言しようと思って描いたわけじゃないでしょう.一種の警告のようなものだったんだと思いますけど,現実が近付いてきちゃいましたねぇ.

3/24
前回書いた「高校日本史の『承和の変』が変」,には多くの賛同をいただいたので,調子に乗って,高校日本史の教材の変な点パート2を.
副教材に浜島書店の『新詳日本史図説』を使っています.その巻末に天皇系図があります.そこに「厩戸王の呼称について推古朝ではまだ大王号で,天皇号が成立していない説が有力.大王の子は王であるため,厩戸皇子ではなく,厩戸王である.天皇号始用は天武天皇からと推測される」と書いてあります.
これが不満.天皇号は天武からだとは思いますけど,「天寿国繍帳」もまだ微妙だし,絶対に天武からだ,とは言い切れないでしょう.あくまでも「有力」な「推測」にすぎないわけです.史料的な裏づけは不十分だけどどーしても「皇子」は使いたくない,「王」が良いの!というのなら,まぁこっちも大人ですから,折れないこともないっすよ.が,だったら,なぜ「厩戸王」のママは「穴穂部皇女」なんでしょうか?「天武(大海人皇子)」なんでしょうか?数年前の「聖徳太子はいなかった」ブームに乗って,中途半端な方針で取り入れちゃった,って感じに見えますね.

3/1
先日,代々木ゼミナールの「全国高2センター模試」なるものがありました.日本史Bの問題をみると,摂関期の藤原氏の「他氏排斥」の問題がでていました.応天門の変,安和の変,承和の変を古い順に並び替えよ,と.で,承和の変の文は,「承和の変で藤原良房は橘逸勢・伴健岑を失脚させた」.
この事件は,いつになったら正しく記されるんでしょうね.私がいま授業で使っている桐原書店の教科書では,承和の変は,「伴健岑・橘逸勢らが皇太子恒貞親王を即位させる陰謀を計画したとして,配流された。かわって藤原良房の甥道康親王(のちの文徳天皇)が皇太子となった。」と記されています.しかし,シェアナンバー1の山川出版社の教科書は,「ついでその子の藤原良房は,842(承和9)年の承和の変で北家の優位を確立する一方,伴(大伴)健岑・橘逸勢ら他氏族の勢力を退けた。」と記しています.
まず言いたいのは,伴健岑はザコ中のザコだということ.彼は,春宮帯刀舎人で,系譜不詳.首謀者なんかじゃなく,使い走りみたいなもんでしょう.中納言藤原良房が陰謀をめぐらして,春宮帯刀舎人を「失脚」させる必要がどこにあるのだ.
この事件は,嵯峨―仁明派による,淳和―恒貞親王派の排除事件と考えるのが,いまは普通なはず.
左遷・配流された者は60人以上となっていますが,そのなかで最上位者は,大納言藤原愛発.政界ナンバー3。藤原北家.冬嗣の弟で,良房の叔父.淳和の皇太子時代の春宮大進で,愛発の娘は恒貞親王の妃.職を解かれ,京外追放となりました.
その次の位は,中納言藤原吉野.政界ナンバー5.式家.淳和の皇太子時代の春宮少進で,淳和の后,正子内親王の皇太后宮大夫.大宰員外帥に左遷.
で,第6位の良房が大納言となりナンバー4となりました.
橘氏で左遷となったのは,春宮少進・正六位上の橘末茂が飛騨権守,主殿助・正六位上の橘清蔭が加賀権掾,肥後介・従五位下の橘真直が筑後権介.但馬権守・従五位下の橘逸勢は本姓を除き,伊豆へ配流.
橘氏の最上位者,大納言・正三位氏公は,従兄弟の逸勢の配流後も大納言の座にあり,のちに右大臣・従二位まで上りました.
伴氏で左遷・配流となったのは,『続日本後紀』に載せられている名は健岑のみ.当時,伴氏の議政官はナシ.
これでも,承和の変は伴・橘を追い落とすための他氏排斥事件と言い張るのは,何故なんだろう.伴健岑の子孫が,良房の評判を落とそうと陰謀を・・・.

2/10
2月8日朝刊各紙に,飛鳥の「真弓鑵子塚古墳」の石室の調査結果が出ていましたね.毎日新聞は1面でした.朝日新聞は,東漢氏説と蘇我稲目説を載せていました.
さて,この古墳.何度か行ったことがありますが,そんなに石室,大きかったっけ?という感じです.埋まってたのね.↓の「飛鳥の古墳(2006/8)」の一番最初に,古墳全景と石室の写真があります.そこにも書いてありますが,羨道が南北両方にあるという珍しい形.確か,初めて行ったとき,羨道の入り口付近に大型の蜂がウロウロしていて,石室内に入るのを断念したという覚えがあります.牽牛子塚古墳のすぐ近くなので,大化以降の古墳だと思ってました.考えてみたら,牽牛子塚とは,石室のタイプが全く違いますわね.稲目の墓とするのは,どうなのかなぁ.玄室はでかくても,墳丘の規模は,そうでもありませんしねぇ.プロの人の判断を待ちましょう.それにしても,まだまだイロイロ出てきますね.「有名になる前から知ってたんだよ」と自慢するために,もっともっと歩き回らなきゃね.あの辺りだと,マルコ山古墳とか,束明神古墳には行っていないんですよね.あ〜遺跡めぐりしたいなぁ.早く夏休みにならんかなぁ・・・.

2/3
2月2日の朝刊各紙に,正倉院宝庫の内部が公開された,てのが載っていました.当然のことながら,私は中に入ったことありません.正倉院の本で,内部写真を見たことはありましたが.中は2層になってるとかは,あまり知られていなかった,かもしれませんね.校倉は,木の伸縮で中のものを守る,という俗説も,いまだに流布している様子.昭和24年の調査で,木は伸縮していないことが確認されているとのこと.
てなわけで正倉院の写真を探したら,ない.行った記憶はあります.遠いところから,写真を撮った記憶があります.2度以上,行ったはずです.いったい,いつ行ったのか?1度しか行ったことがない場所は,正確に何年何月とはいかなくても,大体覚えています.が,奈良とか京都の場合は,何度も行っているため,記憶がごちゃ混ぜになってしまいます.さらに,何度も行っていると,「前に撮ったから」と,写真を撮らない場合もあります.左上の写真は,2006年8月に行った時のもの.このときは正倉院には寄らなかった.それは覚えています.では,最後に行ったのはいつなんだろうか・・・.記憶もいーかげん.写真の整理もいーかげん.イカンねぇ.

1/20
カルチャーセンターで道長の娘たちの話をしてきました.年末に『人物叢書 藤原道長』が出たし,年始から東京・上野の東京国立博物館で,『御堂関白記』の自筆本が展示されたりと,私の年末年始は道長一色でした.
東博には正月3日に行きました.午後からライスボウル見る予定があったので,近世のあたりは,ちょっと飛ばしちゃったんですけど.時間があれば,もう一回行ってみようかなと.こういう,「字」中心の展示を見ると,やっぱり書道をやっておけば良かったなぁ,と思いますね.中国の書かなんかの展示の時も,同じことを言っていたような.今からでも全然遅くない,ってわかっているんですけどね.年金もらえる年齢になったら水墨画家になる予定なので,まぁ書道もその頃やろうかね.『後二条師通記』の自筆本は,今回はじめて見ました.ほとんど崩れてないので「読める!私にも読めるぞラ○ァ!」ってな感じの字でした.日記ですから,気合入れて丁寧に書いている,というのではないのでしょう.でも,読みやすい良い字だと思いました.書道の心得ないんですけどね.あぁいう字が書けるといいねぇ・・・.

1/6
地元(神奈川県)の古代史を勉強しよう!第2弾.神奈川県立歴史博物館の「東人の世界―発掘された神奈川県の奈良・平安時代―」を見てきました.国府・郡家・国分寺・官道・ムラの遺跡から出土した品々が並べられておりました.相模国府は,何度か移転をしたと考えられておりますが,そのうちの一つ,通称「大住国府」(平塚市)では大型掘立柱建物が出たとか.高座郡衙の遺跡も出ているんですね.現地に行って,見てみたいですね.墨書土器のなかに「∞」のような記号が書かれているものが,2つ展示されておりました.「呂」じゃなくって,記号なのかな?規模は小さく,ズラズラっと並べただけというような展示でしたが,勉強になりました.2月からは神奈川の古代寺院についての展示が行われるとのこと.これも行かないとね.

1/2
古代史をやっていると,年月の感覚がいい加減になります.学生時代,近代史の先輩のレジュメに付されていた年表は,年表ではなく月表・日表でした.1日に伊藤が誰かと会談をする.2日にまた違う誰かと会談をする.3日には御前へ・・・と.対して私は天智・天武朝なんてやってましたから,「この詔が出されて5年後に・・・」と平気で数年飛んじゃってました.
でも,考えてみたら5年って結構長いんですよね.「藤原兼家は頂点に立ったもののわずか4年で死去」,とかも,4年は「わずか」で良いの?と思ったりします.小泉内閣は5年半で「長期政権」と言われるのに.まぁ現代とは制度が違いますから,それを比較の対象にしちゃいけませんよね.さらに言えば,4年を「わずか」と思うか,「長い」と思うかは,それは人によって異なるんじゃないかなぁ,と.
何が言いたいか,というと,4年もの月日を「わずか」なんて言わないように,充実した1年1年をおくりたいなぁ,と.「あぁ1年が早かった」ではなく,「あぁ今年は充実していた」と,年末に言えると良いなぁ,なんて思っております.以上,年頭の所感でございました.