『行親記』3月

長暦元年(1037)
5月 1日 8日 9日 15日 20日 25日 26日 30日
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閏4月 6月

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〜 5月 〜

1日

【原文】
五月一日、(1)季御読経始云々、〈当時最初也、〉(2)御前僧出自(3)月華門、経(4)後凉殿(5)承香殿等、自(6)弓場殿参入云々、(7)三十講始云々、

【註】
(1)季御読経
・・・ 季ごとに宮中にて大般若経を講読する法会。当初は四季ごとに行われていたが、元慶元年(877)より春・秋の2回となった。日数は天慶年間以降は4日間であった。式場は『延喜式』には大極殿か紫宸殿とあるが、清涼殿で行われることもあった。

(2)御前僧 ・・・ 季御読経を講ずるための僧侶。通例では100人であるが、60人の時や、120人の時もあった。

(3)月華門 ・・・ 内裏内郭門の一つ。紫宸殿南庭の西門。校書殿と安福殿の間に所在。

(4)後凉殿 ・・・ 内裏の殿舎の一つ。清涼殿の西、陰明門の東に所在。

(5)承香殿 ・・・ 内裏の殿舎の一つ。仁寿殿の北に所在。

(6)弓場殿 ・・・ 校書殿の東庇の北にあるが、後涼殿→承香殿を経て、となると、正月18日条にみえる「東射場」か。

(7)三十講 ・・・ 法華三十講。法華経1部28品・無量義経1巻・普賢観経1巻を講じる法会。比叡山で始まった。藤原道長が京中でも行い、のち道長と家司・受領との結びつきを強めるための行事となる。子の藤原頼通も、それを継承し行った。

【解説】
法会の吉日であったのか、内裏で季御読経が、摂関家で三十講が始められた。「当時最初」とあるように、天皇代替わり後、初の季御読経であった。

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8日

【原文】
八日、参(1)結政(2)外記実政先着、々座後申開殿内厨子封、〈於座末申之開厨子、取出鎰、開殿門、其後出仰、〉最末少納言座前有(3)狐矢等、(4)史生如忠云、有史生座末者、

【註】
(1)結政
・・・ 「かたなし」。結政所のこと。外記庁内の南に所在。外記政に先立ち、弁・少納言以下が政務書類を準備・処理する場所。

(2)外記実政 ・・・ 氏姓・系譜不詳。

(3)狐矢 ・・・ 狐の糞。

(4)史生如忠 ・・・ 氏姓・系譜不詳。尾張氏か。

【解説】
結政が行われた。結政は、政に先立ち弁・少納言・外記・史が政務書類を準備・処理すること。結政所は外記庁と渡廊でつながっており、東西13間ということが分かっているが、南北は不明であり、内部の構造も不明である。

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9日

【原文】
九日、(1)五巻日也、(2)内府参給、

【註】
(1)五巻日
・・・ 法華経第5巻を講読する日の意。第5巻中の「提婆達多品」には女人成仏が書かれ、巻中の文に従い薪行道を行う。

(2)内府 ・・・ 内大臣の藤原教通

【解説】
藤原頼通家の法華三十講の五巻日にあたる。この日、盛大な法会が催され、そこに頼通の弟の教通も参列した。

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15日

【原文】十五日、〈丙辰、〉今日(1)大宰推問使(2)左衛門権佐(3)右衛門尉成通〔道〕(4)縫殿属国順等、〉下向、従高陽院殿西(5)御倉町出立、有(6)反閇、〈人々会令〔合カ〕有少饗、但不送公所出立如何、〉(7)申刻進発之、随身〈(8)府生(9)番長(10)府掌(11)門部并五人、着冠・(12)・袴・(13)壺脛巾・胡●[ロク(竹+録)]等、乗移馬、〉次主典、〈(14)衣冠、〉次判官、〈冠・布衣・(15)深沓(16)看督□〔長カ〕□□〔人カ〕、着装束在後、随身調度懸棹取出如例、〉次使、〈冠・(17)柏夾(18)直衣・深沓・鹿皮(19)尻鞘、看督長四人着装束調度懸随身如前、〉次郎等、〈胡録〔ママ〕、十人、無(20)泥障、不着剣之、〉路頭見物之者、不可勝計、

【註】
(1)大宰推問使 ・・・ 安楽寺と大宰権帥藤原実成の闘乱事件を問い調べるための使。

(2)左衛門権佐 ・・・ 藤原隆佐

(3)右衛門尉成通 ・・・ 中原成道(?〜?)。系譜不詳。寛弘8年(1011)12月29日に准得業生となり(『権記』)、寛仁3年(1019)正月23日に検非違使の宣旨を蒙る(『小右記』)。このとき、右衛門志であった。長元元年(1028)の平忠常の乱に際して、追討使に補されるが、「小瘡」や母の危篤を称すなど、下向を嫌がっている姿が見られる。志から尉に昇進した時期は不明である。

(4)縫殿属国順 ・・・ 坂合部国宣か。国宣(?〜?)は、万寿〜長元年間に右少史で、それ以前に検非違使志であった(『日本紀略』長元元年5月26日条)。

(5)御倉町 ・・・ 内蔵町か。内蔵町は堀川大路の西、勘解由小路の北。高陽院殿の西北に位置する。

(6)反閇 ・・・ 「へんばい」。「返閉」「反陪」とも書く。身分の高い者が外出する時に邪気を払うための陰陽道の秘法。陰陽師が足で地を踏みながら呪文を唱え千鳥足に歩き、外出する者もその後を同じように歩む。

(7)申刻 ・・・ 午後4時ごろ。

(8)府生 ・・・ 衛府の事務官。文官の史生に相当する。『延喜兵部省式』武官分条では、左右近衛府各6人、左右衛門府・左右兵衛府に各4人の計28人となっている。

(9)番長 ・・・ 衛府の下級官人。近衛・兵衛の武芸に秀でたものを選び、それらを統率する役。『延喜中務省式』諸司時服条では左近衛に6人、左兵衛に4人(各々右はこれに准じる)とあり、左右衛門府については記されていない。しかし、『延喜左右近衛府式』番長駕輿丁条には8人とあり、『延喜左右衛門府式』剣緒青揩条には左右衛門府にも番長が2人いたことが記されている。

(10)府掌 ・・・ 衛府の下級官人。官掌・省掌に相当し、府の雑務にあたったものと思われる。設置時期・定員は不明。

(11)門部 ・・・ 左右衛門府の下級官人。宮城門(外門)を守衛する伴部。大化前代の遺制で、負名氏から選ばれるのが原則であった(足りない場合は三分の一までは他氏から取れる)。負名氏は山部・建部・的・壬生・大伴・若犬養・玉手・佐伯・伊福部・海犬養・猪使・靫丹比氏である。養老令制の衛門府は左右に分かれておらず、門部は200人であった(「養老職員令」衛門府条)。大同3年(808)7月20日に衛門府が廃止されると、門部は左右衛士府に分配された(『類聚三代格』巻4・同日官符)。弘仁2年(811)に左右衛士府は左右衛門府に改められた。『延喜中務省式』諸司時服条には左衛門府に「門部六十六人」があり、右もこれに准じるとあるが、『延喜左右衛門府式』剣緒青揩条には「門部一百人」とある。

(12)襖 ・・・ 武官の袍である闕腋袍のこと。袖から下、両脇を明け開いたもの。

(13)壺脛巾 ・・・ 「つぼはばき」。脚半の一種。脛に巻きつけた時、壺形に見えることからこのように呼ばれる。

(14)衣冠 ・・・ 束帯の略装。下襲を省き、大口・表袴に代え下袴・指貫を用いる。

(15)深沓 ・・・ 革製漆塗りの立挙の深い沓。雨・雪の時に用いる。

(16)看督長 ・・・ 「かどのおさ」。検非違使の下級官人。追捕・獄直にあたる。『延喜左右衛門府式』検非違条では2人とある。

(17)柏夾 ・・・ 「かしわばさみ」。冠の纓を垂らさずに巻き、挟木で挟むこと。非常の場合に行われる。

(18)直衣 ・・・ 公家の平常服。宣旨で、直衣での参内が認められることもある。日常の場合は烏帽子を用いた。

(19)尻鞘 ・・・ 「しりざや」「しんざや」「しざや」。太刀の鞘を包む毛皮の袋。雨露などを防ぐために用いられる。鹿以外では豹・虎・熊・猪などの革が使われた。

(20)泥障 ・・・ 「あおり」。馬具の一種。泥はねにより衣服が汚れるのを防ぐため、下鞍の間に垂らす皮革。晴天・軍陣の際には邪魔になるため用いられない。

【解説】
大宰府に推問使が派遣された。この事件については正月25日条を参照のこと。
使の藤原隆佐以下、判官・主典・随身・郎等ら総勢20人以上に及んだ。判官の中原成道、主典の坂合部国宣はともに明法道の人である。

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20日

【原文】
廿日、今日被定(1)明法博士等勘申(2)前但馬守則理朝臣等罪名事、(3)右大臣以下諸卿於左杖被定申書、定文奏聞、〈(4)左大弁出之、〉件事去長元八年、但馬在任之間、依有官物負累、(5)□□〔品治カ〕宿祢衆長令申其弁間、〈篭停座云々、〉衆長依為(6)八幡別宮司、彼別当・(7)神人等為愁件事、率数百人来(8)国府近辺、即依有聞奪衆長并可入乱館内之造〔ママ〕、相防之間有中矢死亡之者、因之八幡宮以別当申旨有愁申、国司又進(9)国解、仍(10)彼年十二月、遣(11)右少史高橋文俊令推問彼此所申、即帰参奏日記等、其後宮寺称有所申、仍於京□□〔被カ〕推問、召遣在国司等之間、(12)先帝有晏駕之事、相次去年有限大事等指合、自以延引、今年三月召在国司等於官被勘問、任件日記等可勘罪名由、(13)前日諸卿有定申、仍令下勘罪名〔名字傍書〕随而法家進勘文、又有可定申之宣旨、仍所定申也、勘申者十一人之中、被処流罪者七人、可(14)贖銅者并退可被定仰者等四人云々、抑可配流之□諸卿又可定申者、被定申則理〈(15)土左、〉・(16)相奉〈伊豆、五位、〉・(17)成任〈佐渡、五位、〉・ゝゝ〈佐渡、六位、〉・(18)少野近則〈常陸、六位、〉・(19)不知姓重武〈安房、六位、〉・(20)尾張忠親〈隠岐、〉、
奏聞之後令造(21)官符、并可召(22)検非違使之由被召仰、(23)弁〈定親、〉検非違使等奉宣後、各向流人処々、先搦其身、待使官符等下向云々、官人某丸可向其所之由不仰云々、□惣仰之後、使等相議各向其所云々、又召仰(24)左右靱負司、令差上府生六人・門部十二人、〈毎門府生一人、門部二人也、〉即造上官符外記・史生入●[艸+呂]見少納言、〈在床子、〉見了、(25)外記実政覧右大臣、即(26)右大弁着結政行請印、其儀外記退出後大弁奉大臣仰、起座出自(27)敷政門(28)少納言行親(29)外記方賢相従〈使部持文、〉到結政、先少納言外記着本局座令出印、〈殿内自元開、〉史生来開封、使部取出印、宰相着座、〈左右大弁座中従西着南面、〉次少納言着、〈右中弁少弁座間従東着、〉外記着、史着、次史生持印盤着座、〈官符置印盤、弁史座中立敷莚、西面候、取印●[木+貴]〔櫃〕置長押上、〉請印官符、〈無請申等〉次史生取印盤退出、次外記出、次少納言起、次宰相退出、少納言外記還着本座、令封印退出、〈可有報条歟、今夜無之可尋之、〉(30)史致親請取官符、於(31)左衛門陳外分給使云々、
贖銅事給官符云々、可召位記之由被召仰弁云々、六位已下可着(32)[金+太]居作其事、先々載官符云々、雖相尋不尋得云々、定不載歟、国司請取任法自行歟、
結政、主殿寮(33)秉燭、外記座下部秉燭、史文利〔俊〕先日不禁国所進人、禁制宮人云々、仍被召問進申文、今日可恐申之由被召仰了、
流人等中有逃亡輩等云々、検非違使尋在所捕進之時、使可請也、其間使随身官符候京許也、
後聞遣佐渡二人、而一人其身見在、一人逃去、仍使於(34)大津申解文、仍給宣旨云々、且随身一人可下向也、

【註】
(1)明法博士
・・・ 明法生の指導や法曹活動に携わった官職。律令には見えず、神亀5年(728)に律学博士として設置。8世紀半ばに明法博士と改称された。定員は2人。

(2)前但馬守則理朝臣 ・・・ 生没年未詳。醍醐源氏。父は重光、母は行明親王の女子。尊3-448。

(3)右大臣 ・・・ 藤原実資

(4)左大弁 ・・・ 藤原重尹

(5)□□〔品治カ〕宿祢衆長 ・・・ 氏のところに虫損があるが、字の残りと、但馬国に品治氏が多いことから、判断した。生没年・系譜など不詳。

(6)八幡別宮司 ・・・ 石清水八幡宮は全国の社領に別宮と呼ばれる分社を奉っていた。この段階での但馬国の社領がどの程度か不詳である。弘安8年(1285)の『但馬国大田文』(『鎌倉遺文』21)には、国内の八幡宮領は13箇所に及んでいた。

(7)神人 ・・・ 神社の下級神職。社頭の警備や儀仗の役を務めたことから、武力を増し強訴や乱行を起こすようになった。

(8)国府 ・・・ 但馬国の国府は気多郡高田郷(兵庫県日高町)にあったが、遺構は発見されていないようである。

(9)国解 ・・・ 解は令に定められた様式で、下級の役所から上級の役所に提出する公文書。

(10)彼年十二月 ・・・ 『日本紀略』長元8年(1035)12月25日条に「遣官史左少史高橋文俊、推問但馬守源則理朝臣、依石清水宮訴事、射殺神民之由也」とある。

(11)右少史高橋文俊 ・・・ 系譜・生没年不詳。後段に「史文利」と見えるのも同人。

(12)先帝有晏駕之事 ・・・ 長元9年(1036)4月17日の後一条天皇崩御のこと。

(13)前日諸卿有定申 ・・・ 閏4月8日のこと。

(14)贖銅 ・・・ 実刑に代えて銅を支払わせる制度。皇親・有位者とその家族,70歳以上,16歳以下などのみが対象。支払われた銅は獄囚の衣食費用にあてられた。

(15)土左 ・・・ 『延喜刑部式』によると遠流。後出の伊豆・佐渡・常陸・安房・隠岐も遠流。

(16)相奉 ・・・ 源か。源相奉(?〜?)は陽成源氏で、父は兼房、母は不詳。尊3-361。

(17)成任 ・・・ 源か。源成任(?〜?)は清和源氏貞元親王流で、父は信成、母は不詳。尊3-58。

(18)少野近則 ・・・ 系譜・生没年不詳。

(19)不知姓重武 ・・・ 系譜・生没年不詳。

(20)尾張忠親 ・・・ 系譜・生没年不詳。

(21)官符 ・・・ 配流を決定したことが記された太政官符。刑部省・配流地へ下される。

(22)検非違使 ・・・ 護送は、『延喜刑部式』には左右兵衛が行うとあるが、やがて検非違使が行うようになった。

(23)弁〈定親〉 ・・・ 左少弁の平定親

(24)左右靱負司 ・・・ 左右衛門府の唐名。

(25)外記実政 ・・・ 系譜・生没年不詳。

(26)右大弁 ・・・ 源経頼

(27)敷政門 ・・・ 内裏の門のひとつ。綾綺殿と宜陽殿の間にある。

(28)少納言行親 ・・・ 平行親

(29)外記方賢 ・・・ 姓不詳。3月15日条に「新外記方賢初従庁事」と見える。

(30)史致親 ・・・ 左大史。津守氏か。正月15日(6)参照。

(31)左衛門陣 ・・・内裏外郭の建春門内にある。駒牽の際、ここで献盃の儀などが行われた。

(32)●[金+太] ・・・ 囚人につける鉄製の首かせ。

(33)秉燭 ・・・ 「ひんそく」「へいしょく」。夕方。燭を秉る時刻の意。

(34)大津 ・・・ 近江国滋賀郡の地名。現在の滋賀県大津市周辺。京都と東海・東山・北陸道を結ぶ交通の要所であった。

【解説】
前但馬守の源則理が起こした石清水八幡宮別宮神人らとの闘乱事件の罪名が定められた。
閏4月8日に明法博士らに罪名を勘申するように定められ、この日、決した。

この事件は、則理が在任中の長元8年(1035)に起こった。官物負累の問題で、則理品治衆長を捕らえたことに始まった。衆長は石清水八幡宮別宮司でもあったため、別宮の神人らが国府に押し寄せ、衝突となった。その際、射殺される者も出たため、八幡宮は官に訴えを行い、則理らも解を進上し、採決は中央に委ねられた。

そこで同年の12月、右少史高橋文俊を但馬国に派遣、さらに京において別宮関係者の推問が行われた。しかし、その翌年には後一条天皇の崩御、後朱雀天皇の即位などがあり、この問題は長元10年(1037)3月まで据え置かれてしまった。
そしてその3月、則理らを太政官において勘問し、閏4月8日に太政官で定めがあり、明法家に対して、先の高橋文俊の報告と合わせて罪名を勘申させることとなった。

この5月20日、法家から勘申があり、罪ありとされた者11人中、7人が配流、残りは贖銅等となった。流罪となった7人は、いずれも遠流で、土佐などに配されることとなった。

このことが奏聞された後、配流の官符が作られ、検非違使に配流地までの護送が命じられた。官符は右大臣藤原実資の裁可を経て、結政で請印された。また、則理らの位記を取り上げるように命じられた。

また、佐渡に配流が決まった2人のうち1人が逃亡し、その捜査が検非違使に命じられた。

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5月25日

【原文】
廿五日、有(1)僧綱召(2)源大納言被候陳〔陣〕(3)左中弁仰之、〈(4)僧都(5)頼寿(6)律師
(7)明快、〈已上(8)御持僧、〉(9)真範(10)山階権別当(11)已講、雖無闕至于御持僧、□有例被加任、至于真範依其理至所被任歟、〉此次(12)広算(13)内供(14)成典大僧都賜(15)七十五戸、〈同是御持僧也、而所申任依無其闕所給封戸歟、〉(16)浄土寺楽音院阿闍梨解文、(17)慶命僧正可放者、大納言召(18)内記被仰可草宣命由、〈(19)前々代初僧綱召、雖無僧正、猶以宣命被行云々、〉内覧草々後、依内御物忌書(20)宿紙被奏、以被清書、項〔頃カ〕(21)侍従宰相参入、大納言給宣命宰相、給之起座、出自敷政門、於門下賜宣命於(22)少納言行親、相議云、今夜已及深更、雖非穏便已非無例、明日可向者、仍退出了、

【註】
(1)僧綱召
… 僧綱を補任すること。5月26日条の解説参照。僧綱は、僧を統括する僧官。推古天皇32年(624)に観勒を僧正、鞍部徳積を僧都に任じたのが始まりである。僧正・僧都・律師・威儀師・従儀師で構成された。

(2)源大納言源師房

(3)左中弁藤原経輔

(4)僧都 ・・・ 僧綱の第2等官。貞観6年(864)、法眼和尚位を僧都の位階とした。大僧都・権大僧都・少僧都・権少僧都に分かれる。

(5)頼寿 … 988〜1041。延暦寺僧。父は藤原信理。この時、権律師から権少僧都になった。尊2-461。

(6)律師 ・・・僧綱の代等官.貞観6年(864)、法橋上人位を律師の位階とした。

(7)明快 … 985〜1070・3・18。真言僧。父は藤原俊宗。「梨本奏上」と呼ばれ、天喜元年(1053)に天台座主となった。尊2-295。

(8)御持僧 … 内裏清涼殿の二の間に宿直して天皇の安泰を祈る僧。

(9)真範 … 986〜1054・12・5。興福寺僧。父は平成昌。永承元年(1046)の興福寺焼亡後の復興に尽力したことで有名。

(10)山階興福寺のこと。

(11)已講 … 興福寺維摩会・宮中御斎会・薬師寺最勝会(三会)の講師をつとめた僧をいう。のち、法勝寺大乗会・円宗寺法華会・円宗寺最勝会(北京三会)の講師も含むようになる。

(12)広算 … 1013〜1080・6・20。天台僧。父は藤原広業。のち、平等院別当。尊2-195。

(13)内供 … 内供奉(ないぐぶ)十禅師の略。宮中で天皇の安寧祈願などを行う僧侶。真言・天台宗の高僧を補した。

(14)成典 … 959〜1044・10・14。東寺僧。父は藤原氏

(15)封 … 封戸のこと。封戸は、食封に指定された戸のこと。課戸の租の半分、調庸の全部が収入となる。寺院への施封は、『養老禄令』寺不在食封之例条には「五年以下」と、支給期間が定められていた。宝亀11年(780)6月戊戌には、期間を天皇一代に限るとされた(『続日本紀』同日条)。

(16)浄土寺楽音院阿闍梨 … 浄土寺は天台宗寺院で現在は廃絶。京都市左京区浄土寺町あたりにあったか。後一条天皇の遺骨が一時安置されたこともある(『左経記』長元9年(1036)5月19日条)。楽音院阿闍梨は不明(解説参照)。

(17)慶命 … 965〜1038。天台僧。父は藤原孝友。長元元年に天台座主となる。藤原道長の信頼を受けており、法性寺別当となる。尊2-192。

(18)内記 … 中務省の品官。詔勅の作成を行う。令制では大・中・少内記があったが、大同元年(806)7月21日に中内記は廃止された(『日本後紀』同日条)。

(19)前々代初僧綱召 … 長和元年(1012)3月14日の僧綱召のことか。このときは権大僧都に観教を任じただけであった(『僧綱補任』三)。

(20)宿紙 … 天皇の物忌みの際の奏聞に用いられる紙(高田義人「平安時代における宿紙と紙屋紙」『古文書研究』52、2000年)。

(21)侍従宰相藤原経任

(22)少納言行親平行親

【解説】
後朱雀天皇の即位後初の僧綱召が行われることになった。
頼寿を権少僧都とし、明快・真範を権律師とすることとなり、広算を内供とした。また成典は、上位に欠がないことから、封戸が下賜されることとなった。封戸数は、本記や『元亨釈書』25資治表6では「七十五戸」となっているが、『僧綱補任』では「七十二」となっている。
上卿は大納言源師房で、宣命が出来た後に参入してきた参議藤原経任が宣命使とされた。しかし、この日はすでに夜となってしまったため、翌日に実施されることとなった。

“浄土寺阿闍梨”については、りんろう様より円意ではないか、とのご指摘を頂きました。円意は、長元4年(1031)4月15日に慶命と合戦を行っている人物で(『小記目録』17・合戦事(6467))、今回の解文もその延長の可能性があるとのことです。慶命は、園城寺の戒壇設立に反対をしており、その関係で抗争がいくつか起こっていたようです。

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5月26日

【原文】
廿六日、向(1)綱所、入自(2)西寺西大門、(3)宰相先被参、(4)史季頼(5)外記〔脱アルカ〕(6)史生信成等候所司、装束綱所、以幄一宇立北屋前、〈此正庁所□□、〉中央立几子一脚、〈宰相料南面、〉床子一脚立几子東、〈(7)少納言料西面、〉平張辰巳角立床子一脚、〈史料、〉(8)前立床子一脚、〈宣命使料、〉其南立長床子二脚、〈僧料歟、〉先着帷座、次少納言立座着庭中座、乍居置笏於座右、読宣命、次起着初座、次相率退出、(9)綱掌等候申云、宣命先々置庭中床子者、仍給綱掌了、

【註】
(1)綱所
・・・ 僧綱所。このころは西寺に置かれていた。

(2)西寺 ・・・ 東寺とともに国家鎮護のために造営された官寺。

(3)宰相 ・・・ 藤原経任

(4)史季頼 ・・・ 右少史。姓不詳。

(5)外記 ・・・ この後に名が記されてあったか。

(6)史生信成 ・・・ 姓不詳。

(7)少納言 ・・・ 平行親

(8)版 ・・・ 儀式で庭上の列位を定めるために置かれた木の札。7寸四方で厚さ5寸。

(9)綱掌 ・・・ 儀式などを担当する僧侶。

【解説】
5月25日に定められた僧綱召がこの日、行われた。
宣命使として、参議藤原経任・少納言平行親らが、僧綱所がある西寺に参った。

僧綱召の次第は『延喜式』に見える。
『延喜太政官式』任僧綱条には、「凡任僧綱者、弁官預仰式部・治部等省、其日遣勅使参議、〈賜宣命文、〉及少納言・弁・式部輔・治部輔・玄蕃頭等各一人、共向僧綱所、〈僧綱所預設座、〉勅使以宣命文授少納言、少納言受而就座、宣制訖勅使以下還帰、〈若不遣勅使、直下符治部省、〉然後太政官牒送僧綱、」とある。

参議・少納言・弁・式部輔・治部輔・玄蕃頭等各1人が勅使がとして僧綱所に向かうことになっているが、今回は参議・少納言・史・外記・史生のみしか名が見えない。
宣命文は、少納言が読むことになっており、今回は本記の記主である平行親が行った。行親は少納言の座から庭中の宣命の座につき宣命を読み上げ、元の座に戻った。が、宣命を持ってきてしまったようで、退出後、綱掌が取りにきた。

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5月30日

卅日、(1)宮内膳御炊男申云、明日可供(2)忌火御飯、仍今日可造(3)忌火殿者、案此事、従昨日(4)土用為之如何、仍於(5)申案内於(6)大夫、〈(7)殿下・大夫今朝令参院給、〉大夫申云、殿下給仰云、件屋仮屋也、不(8)犯土可構成之由可召仰者、即召(9)木工属正忠仰其由了、聞案内、件屋十月晦日作之、十一月十二月今年六月二〔三カ〕度忌火、於此処奉仕、六月十二日壊之者、其期已定、不忌(10)大将軍王相土用等歟、(11)内膳・大炊(12)高陽院殿北門東脇屋、仍造其前、以(13)黒木為柱、葺板藩四面、以(14)切懸〔為カ〕戸、高与屏斎、其内居(15)地炉、〈木工寮同作之、〉(16)八足一脚、(17)切机一脚同渡之、仰(18)右衛門尉季任□〔朝〕、令掃除其所敷沙〔砂〕、今朝召(19)宮主兼忠宿祢、仰明日(20)御贖物、申云、仰付(21)〔卜カ〕部吉正、参(22)、召吉正仰此由、申云、(23)御巫宮主可進也、専吉正不可勤仕、仍差副(24)史生重孝遣兼忠許、兼忠令申云、御贖物吉正可勤仕、御巫兼忠可進者、謁院、女房案内忌火御飯并御賜物事、参宮申女房、

【註】
(1)宮内膳御炊男 ・・・ 中宮職所属の炊夫か、内膳司の炊夫か。氏名・系譜不詳。

(2)忌火御飯 ・・・ 神事に先立ち食する清らかな食事。

(3)忌火殿 ・・・ 忌火屋。忌火をおこし食事を調理する建物。

(4)土用 ・・・ 立春・立夏・立秋・立冬の各前18日間のこと。五行説からうまれた暦注で、四季を5つにわけるために考え出された。土用中に犯土は忌むべきこととされた。

(5)院 ・・・ 上東門院藤原彰子

(6)大夫 ・・・ 中宮大夫藤原長家

(7)殿下 ・・・ 関白藤原頼通

(8)犯土 ・・・ 「はんど」「ぼんど」。土を掘ったり動かしたりすること。土用中に犯土は忌むべきこととされた。

(9)木工属正忠 ・・・ 不詳。木工属は木工寮の判官。

(10)大将軍王 ・・・ 陰陽道でまつる八将神の一。太白星(金星)の精で、四方をつかさどる。長暦元年は丁丑年なので、西の方角にいるらしい。この神のいる方角は「三年塞がり」といい、なにごとにも忌まれた。

(11)内膳・大炊 ・・・ 内膳司と大炊寮。

(12)高陽院殿 ・・・ 藤原頼通の邸宅。左京西洞院大路西・大炊御門大路北。後冷泉天皇等の里内裏となる。

(13)黒木 ・・・ 皮付きの丸太。

(14)切懸 ・・・ 屋外に立てた目かくしの板塀

(15)地炉 ・・・ 地面を掘って、床の下に作った炉。『延喜木工寮式』神事并年料供御条に「土火炉〈長三尺五寸、広二尺五寸、高七寸、〉」とある.

(16)八足 ・・・ 八脚机とも。脚が八本ある白木の机。神事に際して供物や官人の酒食などを載せる台。

(17)切机 ・・・ 切台盤のこと。食椀などを乗せる四尺の朱漆塗の台盤。

(18)右衛門尉季任□〔朝〕臣 ・・・ 検非違使・右衛門少尉橘季任。長元9年(1036)5月24日の後一条天皇葬送に際しても掃除行事となる(以上『左経記』)。神事などに際して「キヨメ」を行うことも検非違使の職務の一つであった。

(19)宮主兼忠宿祢 ・・・ 宮主・神祇大副卜部兼忠

(20)御贖物 ・・・ 祓の具として用いられる人形や刀など。

(21)下部吉正 ・・・ 下部は卜部の誤記か(“りんろう”様のご指摘により)。

(22)宮 ・・・ 中宮藤原●[女+原(ゲン)]

(23)御巫 ・・・ 「みかんなぎ」。神前に奉仕する女性。神祇官・中宮・東宮にそれぞれいた。

(24)史生重孝 ・・・ 不詳。中宮職の史生か。

【解説】
6月1日に中宮で忌火御飯が行われることになり、中宮大進の平行親に忌火屋を造作が命じられた。5月29日から土用にはいっており、また現在の忌火屋は今回まで使用し、6月12日に壊すことになっていたのだが、関白藤原頼通の指示により、高陽院殿に犯土せずに造ることになった。

宮主の卜部兼忠に御贖物・御巫を供するように命じるが、兼忠は御巫のみを行い、御贖物は卜部吉正が進することとなった。

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