『行親記』3月

長元10・長暦元年(1037)
4月 1日 2日 3日 13日 18日 21日 22日 23日 27日
3月 閏4月

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〜 4月 〜

4月1日

【原文】
(1)平座如例、(2)右衛門督(3)左兵衛督被行、

【註】
(1)平座
・・・ 二孟旬や節会に天皇が出御しないときの略儀。

(2)右衛門督 ・・・ 藤原資平(986〜1067)。北家。父は懐平、母は源保光の女子。叔父実資の養子となる。この時、権中納言・右衛門督。4月27日より皇后宮権大夫を兼官することになる。補1-266、尊2-4・9。

(3)左兵衛督 ・・・ 藤原公成(999〜1043)。北家。父は実成、母は藤原陳政の女子。この時、参議・左兵衛督・検非違使別当・中宮権大夫。補1-276、尊1-120。

【解説】
4月1日、すなわち孟夏旬である。もとは、毎月1・11・21日に天皇が紫宸殿に出御し政事を視た後、群臣に宴を賜うことが行われていた(旬儀)。しかし、平安前期には衰退し、10世紀には4月1日・10月1日の年2回のみとなり、天皇の出御がない場合も増えた。

今回も出御はなく、「平座」となった。平座の時は、公卿は紫宸殿ではなく、宜陽殿に入り宴を行う。

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4月2日

【原文】
今日奉仕(1)宮御装束、昨日依日次不宜也、今日於宮有(2)奉幣使定、(3)殿下御々宿所、(4)大夫(5)権大夫〈皆束帯、〉被候宮御方片廂、先召(6)行親被仰可召陰陽師之由、即申(7)時親候由、被仰云、可有奉幣可令勘日時者、進日時勘文奉覧、次召紙筆被定使、定□〔文カ〕副日時勘文内覧殿、其後啓御前、次召(8)大内記孝親、以行親被仰云、可奉仕(9)告文、可載冊立之由者、〈依(10)宿衣所被伝仰也、〉即進上草先覧大夫、次覧殿□〔下カ〕、□〔今カ〕日有(11)斎院御禊定(12)御所卜定、即被定御前〔駈脱カ〕云々、〈御禊日来十三日、入御所(13)右近府、〉

【註】
(1)宮御装束
・・・ 中宮の更衣。衣装を小袖から袷に替え、調度品も替える。本来は4月1日。

(2)奉幣使 ・・・ 中宮立后の八社奉幣のこと。

(3)殿下 ・・・ 藤原頼通

(4)大夫 ・・・ 藤原長家

(5)権大夫 ・・・ 藤原公成

(6)行親 ・・・ 平行親

(7)時親 ・・・ 安倍時親

(8)大内記孝親 ・・・ 橘孝親(?〜?)。系譜不詳。長暦3年(1039)閏12月20日、文章博士となる(『春記』)。

(9)告文 ・・・ 神に告げ奉る際に記す文章。「維」ではじまる宣命体のものが多い。

(10)宿衣 ・・・ 宿装束。宿直のときに着用する服装。

(11)斎院御禊定 ・・・ 斎院が、賀茂川で御禊をする日時の定め。

(12)御所卜定 ・・・ 賀茂川で御禊を終えた斎院が潔斎をする初斎院の定め。

(13)右近府 ・・・ 大内裏の西北部に位置する。南に右兵衛府。東に図書寮。北に采女司・正親司がある。

【解説】
この日の記事は、中宮の更衣、中宮の八社奉幣の定、斎院御禊の定の3つの内容からなる。

更衣は、本文中にもあるように本来は前日の1日に行われるものであるが、日が良くないとの理由でこの日となった。中宮権亮である記主の行親は、当然これに奉仕したのであろう。

八社奉幣使の定めであるが、これは中宮が立后したことを石清水・賀茂上下・松尾・平尾・稲荷・春日・大原野・吉田の諸社に報告し、奉幣を行うものである。平安前期は、立后を山陵に奉告する儀があったが、一条朝から行われなくなり、代わって八社への奉幣使の発遣となった。並木和子氏は、山陵への奉告(告陵使)は天皇が主体となって行われるものであり、対して八社奉幣使は新中宮とその後見人が主体であったとする。また、告陵使から八社奉幣使への切り替えには、后は藤原氏の代表・象徴的存在として、藤原氏の神事を行わねばならない、という考えが誕生したことによる、という(「立后告陵使の成立と変遷」『古代文化』53-5、2001/5)。

しかし、今回の場合、やはりそれだけではないであろう。この時の中宮は藤原●[ゲン(女+原)]子で、その後見人は藤原頼通である。頼通には、ゲン子よりも先に立后した禎子内親王を牽制する意図があったのであろう。後朱雀天皇禎子内親王の間には、すでに尊仁親王(のちの後三条天皇)が誕生していた。入内したばかりでまだ子のないゲン子頼通としては、この奉幣使によって后としての地位を確固たるものにしようとしたのではないか。

さて、この日は陰陽助安倍時親による奉幣の日時の勘申、大内記橘孝親による告文草の進上が行われた。

斎院御禊の定であるが、この日は御禊の日時、初斎院の場所、前駈が定められた。これらは4月中に定められ、行われるのが恒例であった。御禊の場所は賀茂川で、川原には大蔵・主殿・掃部により幄が立てられ、山城国夫らによって掃除が行われた。また、検非違使・陰陽・木工も準備に当った。

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4月3日

【原文】
三日丙午、早旦、召(1)外記貞任令書告文、〈(2)賀茂紅紙、自余(3)黄紙、件紙請蔵人所之、〉入筥候、(4)巳剋(5)大夫〈束帯、〉被参、差(6)下部遣問時剋於陰陽寮、申云、(7)午一剋、即被仰可立御幣(8)等之由、此間以告文覧大夫、覧了啓御前、即返給置大夫前、依甚雨撒東面立(9)二間、東軒廊北第三間敷(10)葉薦、其上立案二脚次第置御幣、其北去五六尺敷円座為(11)宮主座、次供(12)御贖物(13)亮経輔朝臣陪膳、(14)大進行親〔盃カ〕供、次(15)宮主神祇大副兼忠捧大麻、候御膳陪膳伝進御前即返給、兼忠着座、御禊了宮主退出、次大夫召使等次第給之、随退出、小使等取御幣退出、少使等取御幣退出〔以上8字衍字カ〕(16)石清水〈使(17)右中弁経長云々〔朝臣カ〕、〉(18)賀茂上下(19)内蔵頭師経朝臣、〉・(20)松尾(21)権左中弁資通朝臣、〉・(22)平野(23)右馬頭師良、〉・(24)稲荷(25)散位隆光朝臣、〉・(26)春日(27)権亮邦恒、〉・(28)大原野(29)散位章信朝臣、〉・(30)吉田(31)左近少将定広〔房カ〕等也、〉、使立後雨止天晴、今日斎宮御禊也、即入御(32)大膳職、其儀如常、御前(33)参儀〔議〕右兵衛督〈有泥障馬、有馬副随身無(34)雑色、〉・(35)左近少将行経朝臣(36)右近中将俊家朝臣(37)左兵衛佐能長(38)右衛門権佐範国(39)左衛門尉維盛(40)右衛門尉季業(41)左兵衛尉正定(42)右兵衛尉真重等也、馬助・允・(43)所衆等、装束等如斎院例御禊、但無雑色・舎人等、件御前駈先々有近衛将監、左右衛門佐・尉也、而此度諸府相交如何々々、今日
(44)殿下令参給、但無御見物之、

【註】
(1)外記貞任
姓不詳

(2)賀茂紅紙 … 紅紙は、紅花で染められた紙。『延喜内記式』宣命紙条に「凡宣命文者、皆以黄紙書之、但奉伊勢太神宮文、以縹紙書、賀茂社以紅紙書」とあり、賀茂社への告文は紅紙を用いることとなっている。

(3)黄紙 … 黄檗で染めた紙。詔勅や宣命などに使用される。

(4)巳剋 … 午前10時ごろ。

(5)大夫 … 中宮大夫藤原長家

(6)下部 … 「しもべ」。検非違使庁の下級職員。罪人の放免されたものを採用。追捕や護送の任にあたる。

(7)午一剋 … 午後12時ごろ。

(8)案 … 丁重な扱いを要する品を置くための机。

(9)蔀 … 風雨をさえぎるための建具。薄板の両面に格子を組み、長押から吊り下げるものが一般的。

(10)葉薦 … 真菰の葉を編んで作ったこも。

(11)宮主 … 神祇官の職員で、卜部のうち事に堪えうる者をこれに任じた。

(12)御贖物 … 祓の具として用いられる人形や刀など。

(13)亮経輔朝臣 … 中宮亮藤原経輔

(14)大進行親 … 中宮大進平行親

(15)宮主神祇大副兼忠卜部兼忠(?〜?)。父は兼延、母は不詳。吉田兼好の直系の祖。尊1-24、『卜部氏系図』。

(16)石清水石清水八幡宮

(17)右中弁経長朝臣源経長(1005〜71)。宇多源氏。父は道方、母は源国盛の女子。補1-294、尊3-381。

(18)賀茂上下 … 賀茂別雷神社(上賀茂、京都市北区)と賀茂御祖神社(下賀茂、京都市左京区)のこと。賀茂の豪族賀茂県主氏の産土神が発展。国家に取り込まれ、平安遷都後は京の守護神となった。嵯峨天皇のとき、斎院が置かれた。

(19)内蔵頭師経朝臣藤原師経(1009〜66)。北家兼通流。父は登朝、母は藤原安親の女子。補1-297、尊1-53。

(20)松尾 … 松尾大社(京都市西京区)。祭神は大山咋命・中津島姫命。秦氏の造営といわれる。平安遷都後、「西の猛霊」といわれた。

(21)権左中弁資通朝臣源資通

(22)平野 … 平野神社(京都市北区)。祭神は今木神・久度神・古開神・比盗_の4柱。これらは桓武天皇の母、高野新笠の遠祖で、平安遷都の際、大和から奉遷した。

(23)右馬頭師良源師良(?〜?)。宇多源氏。父は朝任、母は源俊賢の女子。長元8年2月3日に右馬頭に任じられる。尊3-409。

(24)稲荷 … 伏見稲荷大社(京都市伏見区)。祭神は宇迦之御魂大神・佐田彦大神・大宮能売大神・田中大神・四大神の5柱。元々は五穀・蚕桑などを掌る神として信仰されていたが、平安期に東寺の鎮守とされてからはさらに広く崇敬を受けることになった。

(25)散位隆光朝臣藤原隆光(973〜?)。北家高藤流。父は宣孝、母は藤原顕猷の女子。上東門院別当であったことが『左経記』長元9年4月17日条に見える。この時もそうか。藤原頼通の「近習者」であった(『小右記』寛仁元年7月29日条)。尊2-60。

(26)春日 … 春日大社(奈良市春日野町)。祭神は武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売命の4柱。平城遷都の際、藤原不比等が氏神と崇める鹿島の神を迎え祀ったという。藤原氏の氏神社として崇敬を受けた。

(27)権亮邦恒 … 中宮権亮藤原邦恒(986〜1067)。北家良世流。父は邦昌、母は源任の女子。10月23日条に上東門院別当とある。尊2-148。

(28)大原野 … 大原野神社(京都市西京区)。祭神は春日大社と同じ。藤原氏の氏神社。平安遷都後、藤原氏出身の皇后が参詣するために勧請された。

(29)散位章信朝臣藤原章信

(30)吉田 … 吉田神社(京都市左京区)。祭神は春日大社と同じ。藤原山蔭の創始という。祀職は代々吉田氏がつとめ、のち吉田神道の根本道場となった。

(31)左近少将定房藤原定房

(32)大膳職 … 大内裏東部に所在。北に東雅院、南に大炊寮、西に醤院・主水司がある。

(33)参議右兵衛督源隆国

(34)雑色 … 蔵人所雑色。蔵人所の下級職員。定員は8人で、ここから六位蔵人に上る者が多かった(『禁秘抄』上)。

(35)左近少将行経朝臣藤原行経(1012〜50)。北家伊尹流。父は行成、母は源泰清の女子。補1-297、尊1-382。

(36)右近中将俊家朝臣藤原俊家

(37)左兵衛佐能長藤原能長(1022〜82)。北家道長流。父は頼宗、母は藤原伊周の女子。叔父の能信の養子となる。この時、五位蔵人・左兵衛佐。のち「三条内大臣」と号す。補1-294、尊1-60。

(38)右衛門権佐範国平範国

(39)左衛門尉維盛平維盛か。平維盛は、桓武平氏貞盛流。父は正度、母は不詳。尊4-23。

(40)右衛門尉季業 … 不詳。

(41)左兵衛尉正定 … 不詳。

(42)右兵衛尉真重 … 不詳。『左経記』長元元年6月24日(「右衛門尉貞重」とする)では、藤原時遠・平為行高階成章との合戦を企てたとき、その場に遣わされたとする。『小右記』同7月19日条(「左衛門尉真重」とする)では、釐務を停止されている。検非違使として時遠・為行を取り押さえることが出来なかったことによるか。これらと同人か。

(43)所衆 … 蔵人所の職員。定員は20人。雑色よりも下位。『職原抄』は「五六位侍可然之輩補之」とする。

(44)殿下藤原頼通

【解説】
この日、前日に行われた中宮の八社奉幣定をうけて、奉幣使の発遣が行われた。厳密な考証が必要であろうが、使となっているのは、大体が頼通・彰子に近い人物のようである。

また、御禊のため斎宮が大膳職に入った。通常、供奉人は参議(勅使)・左右中将・左右兵衛佐・左右将監・左右衛門尉が各1人づつであったが(『西宮記』臨時5・斎宮)、今回は左中将に代わり左少将、左衛門佐に代わり左兵衛佐、将監がなく兵衛尉がつとめるということになった。行親はこれに疑問をもったようで「如何々々」と記している。

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4月13日

【原文】
十三日、斎院御禊、〈従(1)道成朝臣宅、入御右近衛府、〉従(2)一条大〔傍書〕東行給、還御之時自(3)二条大路西行、従(4)東大宮北行、従一条大路御右近府、御前(5)左大弁(6)左衛門佐経季(7)尉章経(8)右衛門佐貞孝(9)左兵衛佐代兵庫頭業任・尉、(10)右兵衛佐朝棟・尉、次□〔第カ〕使(11)右馬助親清、行列使(12)左馬允顕輔、所衆六人、(13)院別当左馬頭良経朝臣等也、行事(14)右衛門督(15)中宮大夫依有服親被改定、〉無宰相、今日供奉人無雑色、所衆等間有雑色、 (16)典侍候矣、

【註】
(1)道成朝臣
源道成(?〜?)か。醍醐源氏。父は則忠、母は仲忠(姓不詳)の女子。尊3-454。

(2)一条大路 … 平安京を東西に走る路。最も北側に位置する。

(3)二条大路 … 平安京を東西に走る路。大内裏の正門である朱雀門はこの大路に面する。

(4)東大宮 … 平安京を南北に走る大宮大路のこと。大内裏の東端に沿う路。

(5)左大弁藤原重尹

(6)左衛門佐経季源経季(?〜?)。宇多源氏。父は経相、母は藤原為盛の女子。尊3-409。

(7)尉章経藤原章経(?〜1066)。北家。父は藤原家業、母は大中臣輔親の女子。この時、六位蔵人・左衛門尉。尊2-194。

(8)右衛門佐貞孝 … 不詳。市川久編『衛門府補任』(続群書類従完成会、1996/8)によると、長暦元年の右衛門佐は3月5日まで源良宗、同日から藤原顕家としており、「貞孝」は漏れている。「右衛門佐代貞孝」か。ちなみに、権佐は平範国

(9)左兵衛佐代兵庫頭業任 … 姓不詳。『左経記』長元9年5月19日条にも「兵庫頭業任」と見える。ちなみに、左兵衛佐は藤原能長

(10)右兵衛佐朝棟源朝棟(?〜?)。醍醐源氏。父は守隆、母は不詳。尊3-462。

(11)右馬助親清 … 不詳。

(12)左馬允顕輔 … 不詳。

(13)院別当左馬頭良経朝臣藤原良経

(14)行事右衛門督藤原資平

(15)中宮大夫藤原長家

(16)典侍 … 不詳。4/18(8)の「御乳母三位」と同人か。

【解説】
3日の斎宮御禊につづき、斎院御禊が行われた。
斎院は、源道成宅にいたようであるが、同宅の所在は不明。一条大路から東行ということは、一条辺りか。斎院の行列は、一条大路から鴨川に出て、川辺で禊を行い、帰りは二条大路を通って大内裏内の右近衛府に入った。
『延喜神祇式・六』には、禊の際に、左右京職の官人が兵士以上を率いて迎える、山城国司が郡司を率いて京極路に候す、とある。

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4月18日

【原文】
十八日、(1)也、其儀如常、但(2)斎王不御、仍無行事、上卿以下行列使・次第使、蔵司〈(3)助定職、〉・近衛〈(4)右少将資仲、〉・馬司〈(5)右頭師良、〉・皇后宮〈(6)亮良経、〉・中宮〈(7)権亮邦恒、〉、有所々女□〔使カ〕典侍、〈(8)御乳母三位、〉祭使□□〔還立カ〕所無饗、相訪人々一雨宿衣、召官人以下給例禄別禄還遣了、中宮女使従(9)主殿寮出立、皇后宮使従(10)故織部令史是延宅出立、

【註】
(1)祭
・・・ 賀茂祭。賀茂別雷神社・賀茂御祖神社の例祭。「葵祭」とも呼ばれる。式日は四月の中酉日。勅使・中宮使・東宮使などが華麗な装束で行列することで有名。

(2)斎王 ・・・ 娟子内親王

(3)助定職 ・・・ 内蔵助。姓不詳。

(4)右少将資仲 ・・・ 藤原資仲(1018〜87)。20歳。北家実頼流。父は資平、母は藤原知章の女子。この時、右少将兼備中権介。故実書『青陽抄』『節会抄』を記したといわれるが、いずれも現存しない。尊2-12、補1-323。

(5)右頭師良 ・・・ 右馬頭源師良

(6)亮良経 ・・・ 皇后宮亮藤原良経

(7)権亮邦恒 ・・・ 中宮権亮藤原邦恒

(8)御乳母三位 ・・・ 不詳。2月13日(52)の「御乳母」と同人か。

(9)主殿寮 ・・・ 殿舎の維持・管理を行う官司。大内裏の北部、達智門の南西に所在する。東に茶園、西に大蔵、南に大宿直所がある。

(10)故織部令史是延 ・・・ 不詳。宅の所在地、皇后宮との関係も不詳。

【解説】
この日は中の酉の日(辛酉)ということで、賀茂祭が行われた。しかし、まだ斎院娟子内親王は初斎院に入ったばかりであるため、斎院の行列はなかった。それ以外は恒例どおり行われた。

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4月21日

【原文】
〔廿〕一日、今日有改元、先下給人々(1)勘文令定申、〈(2)右大臣被参先奏勘文等、〉(3)挙周、〈(4)□□〔治暦カ〕(5)〔延カ〕寿、〉(6)忠貞、〈(7)大治(8)顕徳、〉(9)義忠、〈(10)長暦(11)承保〔承宝カ〕、〉以長暦可用之由定申云々、勅□〔定カ〕□也、(12)孝親作詔書、

【註】
(1)勘文
・・・ 年号勘文。新年号の候補を奏上する文書。年号の候補には、その出典(中国の古典)を付して奏上した。

(2)右大臣 ・・・ 藤原実資(957〜1046)。81歳。北家実頼流。父は斉敏、母は藤原尹文の女子。祖父の実頼の養子となり小野宮第を相続。先例に通じ、また藤原道長に対して迎合しなかったことで有名。日記『小右記』、故実書『小野宮年中行事』をのこした。この時、右大臣・右大将。尊2-4、補1-232。

(3)挙周 ・・・ 大江挙周(?〜1046か)。父は匡衡、母は“赤染衛門”。秀才・文章生などを経て、この時、式部権大輔兼文章博士(『元秘抄』3)。この後、1040・1046年にも年号勘申を行った。尊4-94。

(4)□□ ・・・ 虫損により不明。『二東記』同日条より「治暦」であることが分かっている(解説参照)。「治暦」は「暦数を週べる」の意がある(『大漢和辞典』3-17256-204)。のち、1065〜69年に後冷泉天皇の元号として用いられた。

(5)延寿 ・・・ 「よはひをのばす」「ながいきする」などの意があり、『漢書』に用例が見られる(『大漢和辞典』4-9569-107)。『改元部類』(応和〜建久)は、「延喜」とするが誤りであろう。また同書は、「延寿」は菅原忠貞の勘申とする。

(6)忠貞 ・・・ 菅原忠貞(?〜1040)。父は為紀、母は菅原雅規の女子。文章生・東宮大進・大内記などを歴任した。この時、文章博士(『元秘抄』3)。尊4-61。

(7)大治 ・・・ 「大いにをさまる」「よくをさまる」などの意があり、『漢書』に用例が見られる(『大漢和辞典』3-5831-1580)。のち、1126〜1131年に崇徳天皇の元号として用いられた。

(8)顕徳 ・・・ 「あきらかな徳」「徳をあきらかにする」などの意があり、『漢書』に用例が見られる(『大漢和辞典』12-43726-109)。中国五代の後周が954〜959年に元号として用いた。

(9)義忠 ・・・ 藤原義忠(?〜1041)。父は為文、母は不詳。検非違使尉・大内記・東宮学士などを歴任した。この時、大学頭(『元秘抄』3)。大和守の時、吉野川で溺死した。尊2-539。

(10)長暦 ・・・ 「暦法の推算によつて、数百年間の年月閏朔を求めたもの」の意がある(『大漢和辞典』11-41100-897)。

(11)承保 ・・・ 「うけつぎたもつ」の意がある(『大漢和辞典』5-11852-197)。のち、1074〜77年に白河天皇の元号として用いられた。『二東記』同日条は「承宝」とする(解説参照)。

(12)孝親 ・・・ 橘孝親

【解説】
この日、新帝即位による改元が行われた。正式な日時はわからないが、これ以前に学者に対して新元号案を提出させ、大江挙周・菅原忠貞・藤原義忠がそれぞれ2つづつを勘申した。最終的に、義忠の申した「長暦」が選ばれ、1040年11月10日に「長久」と改められるまで用いられた。

この時の改元については、いくつか史料が残っているので、参考として次に掲げる。

長元十年四月廿一日甲子、(中略)先是左右大臣藤原頼通・同実資〕参候、被示云諸儒所撰献之年号可定申也、即範国令奏年号等、〈挙周朝臣治暦・延寿、義忠朝臣長暦・承宝、忠貞朝臣大治・顕徳也、〉仰云、可定申者、諸卿定申用長暦之由、右大臣又令奏、仰云、如定申可用長暦者、召大内記孝親仰詔書、孝親献草奏聞之後返給令清書、又奏下、召中務少輔頼成給之、(後略) 『二東記』長元10・4・21条)

長元十年四月廿一日改元、〈長暦、代始、〉
 権大輔兼博士江挙周 博士忠貞 大学頭藤義忠 大輔資業不進 『元秘抄』3)

長元十年四月廿一日甲子、(中略)右大臣・内大臣〔藤原教通〕中宮大夫〔同長家〕源大納言〔源師房〕左衛門督〔藤原経通〕権中納言〔同通任〕新中納言〔同信家〕二位宰相〔同兼頼〕左兵衛督〔同公成〕左大弁〔同重尹〕侍従宰相〔同経任〕着左仗、被下開元宣旨、諸儒択申字、顕徳・大治・承宝・長暦・長喜・私同等也、改長元十年為長暦元年、今日諸卿着左仗、開元詔書奉行、『改元部類』所収「不知記」)

改元が行われる理由には、(1)新帝の即位、(2)祥瑞の出現、(3)災異の発生、(4)易姓革命思想などによる。(2)の例としては、和銅(708〜15)・霊亀(715〜17)などがあり、奈良朝に多い。(3)の例も多く、長暦(1037〜40)→長久(1040〜44)は内裏焼亡・神鏡焼失により、長久→寛徳(1044〜46)は疾疫・旱魃により改元された。(4)の例としては、昌泰(898〜901)→延喜(901〜923)の例がある。昌泰4年=延喜元年は「辛酉」年であった。

改元の手順は、『江家次第』巻18・改元事によると、
・大臣が陣座において式部大輔・文章博士らに年号候補を勘申させ、候補全てを蔵人が天皇に奏上する。
・陣において2・3つまで絞込み、それをまた蔵人が奏上する。
・その中から1つを定め、内記に詔書の草案・清書を作成させる。
となる。
陣における絞込みの審議を「難陳」といい、字義や先例を検討した。

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4月22日

【原文】
今日(1)(2)〔竈脱カ〕神祭也、欲建竈神屋、仍昨日召(3)時親令勘申日時、并被問方角、日時明日(4)辰若午時、方北方有便者、欲作(5)高陽院、而依(6)大将軍遊行方有其忌、仍随定申作(7)縫殿寮南門内東脇、(8)木工寮作之、件御竈□〔神カ〕屋一宇、〈南面、〉東西北面作(9)切懸(10)酉剋、別納所安置御竈神御衣、以(11)宮主祭之、(12)御窪手〈飯田菜田菜作少窪手入之、〉明日御窪手奉御前、并高陽院殿、〈各飯菜一●[キ(木+貴)]〔櫃カ〕之、〉侍、〈飯二・菜二、〉殿上人参入食之、

【註】
(1)宮
・・・ 中宮藤原●[ゲン(女+原)]子

(2)御竈神祭 ・・・ 竈の神を祀る祭。『古事記』は奥津日子・奥津比売を竈神とする。

(3)時親 ・・・ 安倍時親

(4)辰若午時 ・・・ 辰は午前8時ごろ、午は午後0時ごろ。

(5)高陽院 ・・・ 藤原頼通の邸宅。正月14日条(10)参照。

(6)大将軍 ・・・ 陰陽道でまつる八将神の一。太白星の精で、四方をつかさどる。長暦元年は丁丑年なので、西の方角にいるらしい。この神のいる方角は「三年塞がり」といい、なにごとにも忌まれた。

(7)縫殿寮 ・・・ 宮人らの考課・名帳の管理や裁司に宮中の衣服の縫製を行わせる官司。内裏北側に所在。

(8)木工寮 ・・・ 土木建築をつかさどる官司。

(9)切懸 ・・・ 羽目板の一種。横板を羽重ねに張ったもの。目かくしとして建てる。

(10)酉剋 ・・・ 午後6時ごろ。

(11)宮主 ・・・ 宮主卜部兼忠

(12)御窪手 ・・・ 神などに供えるものを盛る具。「葉椀」とも書く。

【解説】
この日、中宮御竈祭が行われた。そのために、まず竈神を祀る竈屋を建てねばならず、安倍時親に日時と場所を選ばせた。当初は高陽院殿の内に設けることを望んだが、方角が悪いため縫殿寮に建てられた。そして、夜になり祭が行われた。

『延喜神祇式・三』臨時祭・中宮御竈祭条には祭祀料として、「五色薄あしぎぬ各一尺、倭文五寸、木綿一両、麻二両、鍬一口、米・酒各一升、鰒・堅魚各一斤、海藻一斤、塩一升、瓶・杯各一口」が挙げられている。

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4月23日

【原文】
改元之後有(1)、〈有申文、晴儀、〉

【註】
(1)政 ・・・ 外記政のこと。

【解説】
改元後、はじめて外記政が行われた。

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4月27日

【原文】
(1)内文(2)位記(3)請印、又有(4)直物除目等、(5)(6)御封(7)省符今日分遣、(8)頼家位記作兵部、召臨時叙位、雖武官可作□勤状歟、

【註】
(1)内文
・・・ 「うちぶみ」。内印を押して発行する文書。内印は天皇の印で、詔勅や諸国に下す官・省符に押される。

(2)位記 ・・・ 位階を授ける際に発行する公文書。授けられる位で形式が異なり、五位以上は「勅授」で内印(天皇印)を押す。六位以下は「奏授」で、太政官の奏聞によって授けられ、外印(太政官印)が押される。外八位以下は「判授」といい、太政官の判断で授けられ、これも外印が押される。

(3)請印 ・・・ 文書に捺印をすること。とくに内印・外印を押す場合は一定の手続きが必要であった。

(4)直物 ・・・ 「なおしもの」。除目の際、文書などに誤りがあった場合、それを訂正する儀式。

(5)宮 ・・・ 中宮藤原●[ゲン(女+原)]子

(6)御封 ・・・ 中宮の食封。「養老禄令」食封条は「中宮湯沐」とし、2000戸と定める。

(7)省符 ・・・ 民部省から各地に下される符か。

(8)頼家 ・・・ 源頼家(?〜?)か。源頼家は清和源氏で父は頼光、母は藤原忠信女子(のち平惟仲養女)。詳しくはこちらへ

【解説】
この日、内文・位記の請印、除目、中宮食封の省符の分遣が行われた。

叙位を行うためには、まず各司で勤務評定が行われる。評定者は各司の長官で、上上〜下下の9等で評価をし、10月1日に太政官(弁官)に提出する(外国は11月1日)。そして、式部・兵部省へ送られ審査され、2月11日に大臣が叙位予定者を引見する(列見)。さらに4月7日、叙位者決定案(成選短冊)を天皇に奏上(擬階奏)し、4月15日、叙位者を召し位記を給う(位記召給)。

この年は、改元などがあったためか、式日どおりに行われていないが、形式は従来どおりであっただろう。

この日の除目では、藤原資平が兼皇后宮権大夫に(『公卿補任』長元10年条)、藤原行経が兼播磨権守に任じられた(同寛徳2年条)。

頼家源頼光の子の頼家であるとすると、このとき従五位下に叙されたか。

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