『行親記』3月

長元10・長暦元年(1037)
3月 9日 10日 15日 20日 27日
2月 4月

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〜 3月 〜

3月9日

【原文】
九日午、今日有(1)石清水行幸、而従昨有雨気、今朝暴風忽吹、陰雲已蒸、渡口之間、非無甚危、仍有事定行幸不定也、召(2)陰陽助時親令奉仕御占、無事可遂者、仍有(3)御禊、其後御出従(4)承明・建礼・朱雀門、〈東脇門、〉従(5)朱雀大路南行、従七条大路西於西七条辺雨降、凡今日暴風□雨、更不可言、供奉之人多損笠・衣裳等、(6)申刻、著御社頭、此間降雨忽晴、陰雲□□、有御禊舞人引御馬、(7)中宮大夫為勅使被候庭中座、御禊了賜□□、〈上卿(8)新権中納言定頼卿取之、〉舞人等料殿上人可分給也、而依無殿上人各取之、次参御所、〈於祓戸可有祓、而去不行云々、〉被奉(9)神宝等之後、引御馬三度、次(10)東遊、次音楽、〈(11)万歳楽(12)賀殿(13)陵王(14)延木楽(15)地久(16)納蘇利也、〉次走御馬、次(17)神楽、次使被帰参、次(18)権左中弁資通朝臣〈行事、〉被奏事由、退出給、今日上卿召(19)元命被仰可有賞由令申云、以所帯(20)別当職可譲弟子(21)清成者、即以資通朝臣被申其由、仰云、請以元命補(22)検校、以清成補別当、権別当(23)院救(24)法橋

【註】
(1)石清水
・・・ 石清水八幡宮

(2)陰陽助時親 ・・・ 安倍時親

(3)御禊 ・・・ 天皇が斎行する際には必ず行われた。

(4)承明・建礼・朱雀門 ・・・ 内裏・大内裏の門。承明門は、紫宸殿の正面に設けられた内裏で最も重要な門で、儀式や行幸などの時以外は開かれない。建礼門は、承明門の南側に設けられた門で、こちらも儀式や行幸の時以外は開かれない。朱雀門は、朱雀大路に向かう大内裏の正門で、宮城の門のうち最も規模が大きい。

(5)朱雀大路 ・・・平安京の中央を南北に走る道路。路面幅は約70メートル。

(6)申刻 ・・・ 午後4時。

(7)中宮大夫 ・・・ 藤原長家。この時、正二位、権大納言・中宮大夫。中宮大夫補任は、この年の3月1日(『公卿補任』長元十年)。

(8)新権中納言定頼卿 ・・・ 藤原定頼。この時、正三位、権中納言。

(9)神宝 ・・・ 貞観7年4月17日の石清水奉幣の際には「楯矛并御鞍」を奉った(『日本三代実録』)。ここでの神宝も、おそらく剣などの武器であろう。

(10)東遊 ・・・ 「あずまあそび」。東国の歌舞。東舞ともいう。

(11)万歳楽 ・・・ 唐楽の一つ。祝賀の宴などで行われる平舞の代表的なもの。

(12)賀殿 ・・・ 「かてん」。唐楽の一つ。承和の遣唐判官藤原貞敏が伝えたと言われる。

(13)陵王 ・・・ 唐楽の一つ。北斉の蘭陵王が、柔和な顔に異形の面をつけて戦いに挑んだという伝説に基づく。法会や祝事に欠かさず奏された。

(14)延木楽 ・・・ 延喜楽。高麗楽の一つ。延喜8年(908)、亭子院前栽合の時に、楽を藤原忠房、舞を敦実親王が作ったという。

(15)地久 ・・・ 「ちきゅう」。高麗楽の一つ。四人舞。

(16)納蘇利 ・・・ 「なそり」。高麗楽の一つ。通常は二人舞。陵王と並んで、雅楽の代表的なもの。

(17)神楽 ・・・ ここでは「還立の神楽」と呼ばれる、勅使が帰参した際に行う歌舞儀礼。

(18)権左中弁資通朝臣 ・・・ 源資通。この時、従四位上、権左中弁・摂津守。

(19)元命 ・・・ 971〜1051・8・29。父は豊前講師資高賢高か)か。宇佐八幡弥勒寺講師(『小記目録』)から、長和3年(1014)に石清水権別当となり(『僧綱補任』)、治安3年(1023)8月3日に別当となった(『小右記』)。別当職はここで譲るが、弥勒寺講師は永承2年(1047)に弟子戒信に譲るまで続けた。紀氏を称するが、真偽は不明(『石清水祠官系図』)。

(20)別当 ・・・ 宮寺務を掌る役職。

(21)清成 ・・・ 生没年不詳。父は元命、母は「鎮西松浦殿」。万寿2年(1025)に修理別当となった(『石清水祠官系図』)。のち、康平5年(1062)4月27日の行幸で検校に補任された(『僧綱補任』)。

(22)検校 ・・・ 別当の上で石清水宮寺の支配権を掌る役職。

(23)院救 ・・・ 989〜1041。父は仁清、母は不詳。長和2年(1013)に権別当に補任された(『石清水宮寺略補任』)。長和3年10月13日、元命らを殺害しようとしたとして訴えられている(『小右記』)。

(24)法橋 ・・・ 法橋上人位のこと。僧位の一つ。僧位は8世紀末以降に、伝燈大法師・同法師位・同満位・同住位・同入位という5階級に整理された。さらに、僧綱と凡僧を区別するため、9世紀半ば、僧綱の位階として新たに法印大和尚位・法眼和上位・法橋上人位が設けられ、それぞれ僧正・僧都・律師の階位と定められた。しかし、実際には僧綱以外の僧侶にも与えられるようになった。

【解説】
代替わりの石清水社参が行われた。本記正月30日条に行幸定が行われ、行事もその時に藤原長家(権大納言)・同兼経(参議)・源資通(権左中弁)・清原頼隆(大外記)・惟宗義賢(左大史)と定められた。本条では、兼経・頼隆・義賢が見えておらず、代わりに藤原定頼(権中納言)が見える。兼経定頼に変更されたのか。

当日、暴風雨となってしまい実行すべきか危惧された。陰陽助の安倍時親は問題なしとの「占」の結果が出し、実行された。
朱雀大路を南行するのは、石清水八幡宮へ行く際の通常の路程である。「従七条大路西於西七条辺雨降」の文は、七条大路で雨が降り出したので西に向かった、という意か?もしくは、誤字等あるか。
午後4時頃、無事到着し、恒例通りに舞人が馬を引き、神宝が奉られた。

石清水八幡宮別当の元命が検校、清成が別当、という行幸の賞による昇進があり、また権別当の院救には法橋上人位が授けられた。また、ここには見えていないが、俗別当・神主の紀兼任には従四位下が授けられた(『石清水祠官系図』)。

石清水の支配権争いには、激しいものあったらしく、註にも挙げたが長和3年(1014)に院救らが元命らを殺害しようとした、という事件があった。『小右記』同年10月13日条によると、元命が九州に向かう途中、讃岐国付近の海上で海賊に襲われたが、それは海賊ではなく、八幡宮司の院救定海らが企んだものである、とのことである。元命はこれを左大臣の藤原道長に訴えたのである。訴えがどのように処理されたかは記録にない。しかし、ここに見えるよう院救は依然として権別当の地位にあるので、無実と判断されたのであろう。
また、寛仁元年(1017)にも問題が起こっている。『小右記』同年7月16日条には、権別当の元命が別当職を望んでいることを別当の定清が愁いていると記されている。宇佐八幡の講師から石清水の検校まで上り詰めた元命。上り詰めるために、強引な手も使った、ということであろうか。

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3月10日

【原文】
十日、天晴、於(1)関白殿御宿所上達部有饗饌、其後被参御前、有御遊、上卿被候簾中、□□□□舞了、賜上達部以下禄、還御於渡暫令逗留、令眺望河水之眇々給歟、(2)酉刻還宮有(3)鈴奏、今日(4)滝口等凌礫〔轢〕滝口(5)延任、〈々々、(6)内府(7)御馬副也、〉内府依有所申給、後日滝口四人〈(8)則友・為親・則忠、〉除籍被下(9)召名云々、

【註】
(1)関白殿
・・・ 藤原頼通

(2)酉刻 ・・・ 午後6時。

(3)鈴奏 ・・・ 「すずのそう」。行幸の際に駅鈴を申請し、また返還することを奏上する儀式。内裏内での移動でも行われることがあった。

(4)滝口 ・・・ 蔵人所に属した宮中警備の武士。

(5)延任 ・・・ 姓不詳。

(6)内府 ・・・ 藤原教通

(7)御馬副 ・・・ 乗馬に付き添う従者。

(8)則友・為親・則忠 ・・・ いずれも姓不詳。

(9)召名 ・・・ 除目によって任官された官人の官位・姓名を記した文書。

【解説】
藤原頼通の宿所で饗宴が行われた。その後、後朱雀天皇のもとにて舞などが行われ、午後6時ごろ内裏へ還御された。途中で天皇が逗留した「渡」はどこか不明。「河水之眇々を眺望され給うか」とあるが、なかなか外に出られない身分というものを感じさせられる。

この還御の際であろうか、滝口らが問題を起こした。滝口の則友・為親・則忠らが、同じ滝口である延任を凌轢した。延任が滝口兼藤原教通の馬副であることから考えると、天皇の警護ではなく、教通の列に着こうとしたのではないか。そして、それに対して他の滝口が、延任に直接行動をとったのではないだろうか。あくまで推測に過ぎないが。
「四人」が除籍とすることになるが、則友・為親・則忠と名が記されていないもう1人がいるのか。それとも、その3人と延任か。後者の可能性が高いか。

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3月15日

【原文】
十五日、依吉日(1)兼官之後初参(2)、〈用(3)、〉今日(4)(5)請印官符、〈留有憚文了、〉(6)新外記方賢初従庁事、

【註】
(1)兼官
・・・ 記主の行親の本官は少納言で、3月1日より中宮権亮を兼ねた。

(2)局 ・・・ 外記庁のこと。

(3)用晴 ・・・ 雨儀ではなく、通常の次第で行ったということか。

(4)官 ・・・ 太政官。

(5)請印 ・・・ 文書発給に際して内印(天皇印)もしくは外印(太政官印)を押捺すること。ここでは外印。

(6)新外記方賢 ・・・ 不詳。

【解説】
この日、外記政が行われた。ここで、官符への請印が行われるはずであったが、「憚り」があり、行われなかった。請印される予定であったのは、3月20日条に見える中宮関係の官符か。

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3月20日

【原文】
請印(1)(2)御封(3)仕丁・御頭(4)給料(5)御季御服・御同料官符、〈(6)法師文等相交(7)□□不可忌歟、〉

【註】
(1)宮
・・・ 中宮藤原[ゲン(女+原)]子

(2)御封 ・・・ 中宮の食封。「養老禄令」食封条は「中宮湯沐」とし、2000戸と定める。

(3)仕丁 ・・・ 雑役をつとめる者。令制の賦役の仕丁とは異なる。

(4)給料 ・・・ 年給。すなわち年官・年爵のこと。年官は、除目で所定の官職に所定数人員を申請する権利。年爵は、叙位で所定の人員の叙爵を申請する権利。中宮の年給は、叙爵1人・女爵1人、京官1人・掾1人・目1人・一分3人が基本であった。

(5)御季御服 ・・・ 季禄のこと。

(6)法師文 ・・・ 内容は不詳。3月9日の石清水八幡宮寺僧らの賞に関するものか。

(7)□□ ・・・ 虫損。何文字分が欠けているかは不明。

【解説】
新中宮に関する官符の請印が行われた。御封は宣旨で賜るのが恒例であるので、この後に出たのであろう。

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3月27日

【原文】
(1)石清水臨時祭也、(2)使(3)左宰相中将、〈良頼、〉(4)舞人四位四人、五位□〔四カ〕人、六位二人、使装束如去年冬、中将殿於(5)正方宅脱御装束云々、

【註】
(1)石清水臨時祭
・・・ 正月30日条(2)参照。

(2)使 ・・・ 勅使。『江家次第』巻6・石清水臨時祭に「代初以参議為使」とある。

(3)左宰相中将、〈良頼、〉 ・・・ 藤原良頼

(4)舞人 ・・・ 舞人の人数は、四位4人・五位4人・六位2人が恒例。

(5)正方 ・・・ 紀正方か。

【解説】
石清水臨時祭が行われた。式日は3月の午日である。この年は9日が午の日であったが、その日に天皇の代始め行幸があったため、この日となった。ちなみに27日は庚子。

使・舞人・陪従は2月中に定められ、調楽(歌舞の調習)・試楽(御前での試練)を行う。
当日は、まず内裏にて御禊を行い、次いで御前で宴・東遊・神楽を奏す。そして、使一行は石清水へ向かう。
社に着くと、まず各宿所へ着き、幣帛をそなえ、宣命を読み、それを神主に給う。そして、御馬を牽き、東遊・神楽を奏す、というのが大まかな流れである。祭使はこのまま宿泊し、翌日帰参することになっていた。

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