| 長元10・長暦元年(1037) | |||||||
| 正月 | 某日(14日) | 某日(15日) | 16日 | 17日 | 18日 | ||
| 19日 | 20日 | 21日 | 23日 | 25日 | 29日 | 30日 | |
| 2月 |
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【原文】
〔前文欠く〕示云々加供文□□□□□□□□□□□□□□□先例□(1)所申不慥、仍(2)二通別巻加供□□□□□□籠一懸□□〔布〕施堂、一拝之後置布施、事了着(3)右近陳〔陣〕如例、(4)蔵人章□□〔召〕公卿其儀如例、但(5)公卿従階下参上、僧侶入(6)右兵衛陣、経(7)□〔後〕凉〔涼〕殿北・(8)承香殿北参入(9)弓場殿、今夜(10)高陽院文殿焼亡、于時(11)今一宮御此処云、
【註】
(1)所申不慥 ・・・ 治部省解・加供文・僧名文を申すところを行わなかった、ということか。
(2)二通別巻加供□□□□□□□ ・・・ 御斎会の加供文・僧名文のことか。
(3)右近陣 ・・・ 紫宸殿南庭西側の月華門にある。ここでは、月華門の北側、校書殿東庇南部の右近陣座のこと。
(4)蔵人章□ ・・・ 六位蔵人の藤原章経、藤原章祐のいずれか。六位蔵人が右近陣の公卿を召すのは恒例。
(5)公卿従階下参上 ・・・ 『西宮記』では、公卿は「行自壇上」とする。
(6)右兵衛陣 ・・・ 内裏西面の陰明門をいう。
(7)□凉殿 ・・・ 後涼殿と思われる。清涼殿の西、陰明門の東にある殿舎。
(8)承香殿 ・・・ 仁寿殿の北にある殿舎。
(9)弓場殿 ・・・ 校書殿の東庇の北にあるが、右兵衛陣→後涼殿の北→承香殿の北を経て、となると、正月18日条にみえる「東射場」か。
(10)高陽院 ・・・ 藤原頼通の邸宅。左京西洞院大路西・大炊御門大路北。後冷泉天皇等の里内裏となる。
(11)今一宮 ・・・ 親仁親王(1025〜68)。父は後朱雀天皇、母は藤原嬉子。長暦元年(1037)8月17日立太子。寛徳2年(1045)後冷泉天皇として即位。
【解説】
前部が欠けているが、頭書に「内論義」とあることから正月14日条と考えられる。内論義は御斎会の結願日(14日)に行われる年中行事。
御斎会は、正月8日から14日まで大極殿で行われる国家安泰・五穀豊穣を祈る法会。内論義は、天皇・公卿の前で僧綱が経典の論議を行ったものである。
恒例によると、この日は大極殿での講説ののち、大極殿東廊座で上卿が治部省解・僧名文・加供文を覧じる。そして、布施堂(小安殿)で衆僧に布施・拝礼をし、退出する。
ついで公卿は右近陣につき、饗宴が行われた。そして、蔵人が公卿を呼び、壇上より殿上座に参上、さらに僧綱が射場殿より参入し、真言・顕宗による論議が行われた。
しかし、註(4)にあるように階下から参上しているところを見ると、御物忌か。御物忌の場合、公卿は右近陣から階下より左近陣へ進み、僧綱は陰明門から北面を経て日華門へ進むことになっていた(『江家次第』正月丙・御斎会竟日・御物忌儀)。
【原文】
□□□〔十五日〕□□□□□(1)□□衛督・(2)左大弁被着、有申文請印、(3)南所申□〔文〕□□□□□(4)□□〔少納〕言家業勧杯、其後預申(5)菜料文□□□□□□卿抜箸被立、仍不申上、今日(6)史致親従朝候□□而奉公事、参(7)厨家、此間大弁参入、其後帰参着座、而上臈等□□然気色、仍入急所以着座、大弁被免云々、此事未知先例、又所為非〔以下虫損数字分アリカ〕
【註】
(1)□□衛督 ・・・ 『続々本』によると「右兵衛督」。となると源隆国(1004〜77)。醍醐源氏。父は俊賢、母は藤原忠尹女子。右兵衛督補任は長元7年7月8日(補任1-283・尊3-475)。
(2)左大弁 ・・・ 藤原重尹(984〜1051)。南家。父は懐忠、母は藤原尹忠女子。左大弁補任は長元2年正月24日(補1-278・尊2-425)。
(3)南所 ・・・ 外記庁の南舎のこと。結政所(かたなしどころ)ともいう。
(4)□□言家業 ・・・ 正月18日条から少納言の藤原家業(生没年不詳)と判明。北家。父は貞嗣、母は不詳。祖父有国の養子となるか。太皇太后宮大進・上野介を経て少納言(尊2-194・202)。
(5)菜料文 ・・・ 供御、または親王・学生などへの副食物の支給に関する文。
(6)史致親 ・・・ 右大史。姓は不詳だが、長和年間に津守致孝(右少史→右大史)、寛和年間に津守致任(右少史)がいることから、この致親も津守氏の可能性がある。
(7)厨家 ・・・ 太政官厨家のこと。太政官の厨房で、諸国の公田地子を管掌した官司。
【解説】
日時の部分が虫損により欠しているが、15日条と推測。
頭書に「政始」とあり、申文・請印・南所の語が見えることから「外記政始」が行われたことが分かる。
外記政は、南所に公卿・弁・少納言・外記・史が参着し、結政・申文請印を行った。外記政始において勧盃が行われるのも恒例。
【原文】
十六日、(1)節会、無音楽、(2)権大□□〔納言〕□□□□□被勤仕也、
【註】
(1)節会 ・・・ 女踏歌節会。毎年正月16日に行われる歌舞で、紫宸殿の南庭で舞妓が舞う儀式。
(2)権大□□ ・・・ 「大」字の次の字は糸偏が判読できるので、これは「権大納言」と判明する。藤原長家(1005〜1064)のこと。北家。父は道長、母は盛明親王女子。権大納言補任は万寿5年2月19日(補1-272・尊1-285)。
【解説】
この日は女踏歌の節会である。音楽が無いのは、御物忌か、後一条天皇の忌中によるか。
権大納言の次の欠字部分は、ともに行事をつとめた公卿の氏名・官職名が入るのであろう。
記事が簡素であるが、考えられるのが(1)行親が参列しなかった、(2)部類記として一旦加工され、また復元された(『陽明本』解説参照)ことによる記事の欠落・省略、という可能性が考えられる。
【原文】
十七日、(1)射礼、(2)民部卿被行云々、従(3)院被奉(4)御入内時御調度□於(5)関白殿、〈女御料云々、〉賜御馬於御使(6)行任朝臣云々、
【註】
(1)射礼 ・・・ 射場で大的を射る儀式。豊楽院もしくは建礼門前で行われるが、豊楽院儀は10Cごろに廃絶、天皇の出御もなくなった。
(2)民部卿 ・・・ 源道方(969〜1044)。宇多源氏。父は重信、母は源高明女子もしくは藤原師輔女子。この時、権中納言・民部卿。権中納言補任は寛仁4年11月29日、民部卿は長元8年10月16日(補1-259・尊3-380)。
(3)院 ・・・ 上東門院藤原彰子(988〜1074)。北家。父は道長、母は源倫子。一条天皇の中宮で、後朱雀天皇の母。万寿3年(1026)正月19日に出家、院号宣旨を受け、上東門院と号した(尊1-62)。
(4)御入内時 ・・・ この月7日の藤原●[ゲン(女+原)]子の入内をさす。ゲン子(1016〜39)の父は敦康親王、母は具平親王女子。藤原頼通の養女となり、入内。正月29日に女御(弘徽殿)、3月1日に中宮となる(尊1-60・紹運64下)。
(5)関白殿 ・・・ 藤原頼通(992〜1074)。北家。父は道長、母は源倫子。寛仁3年12月22日に後一条天皇の関白となり、後朱雀朝も引き続き関白・左大臣(補1-252・尊1-59)。
(6)行任朝臣 ・・・ 藤原行任(生没年不詳)。式家。父は有家、母は不明。阿闍梨頼豪の兄弟。『尊卑分脈』には「五条院判官代・下野守」とある(尊2-521)。
【解説】
射礼であるが、「云々」と伝聞になっているので、行親は参列しなかったか。
ゲン子の入内・立后については、『栄花物語』(第34・暮まつほし)・『今鏡』(第1・すべらぎの上
初春)にも見える。
【原文】
十八日、(1)賭射於(2)東射場被行、(3)宣陽門壇下、従(4)堋下引幔、相対(5)□□□□□□〔温明殿西南軒カ〕同曳幔、近衛射手候(6)大〔太〕子廬北、兵衛在南□□□□□□□如常、但射手等出入従西幔門、左勝、(7)但無勝負楽、今日(8)侍従宰相着(9)射遺所、衛府佐・弁等遅参之間、与(10)少納言家業行事入内、〈入従宣陽門従幔門南行、〉
【註】
(1)賭射 ・・・ 「のりゆみ」。賭弓とも書く。毎年正月18日に、内裏弓場殿において左右近衛・左右兵衛が弓の勝負を行う儀式。
(2)東射場 ・・・ 詳細は不明だが、宣陽門の内側に臨時的に設けられたものか。解説参照。
(3)宣陽門 ・・・ 内裏東面の門。建春門の内側にある。温明殿の東側。
(4)堋 ・・・ 「あずち」。的をかけるための山形の土台。
(5)□□□□□□□ ・・・ 虫損だが、文字の残存、『大内裏図考証』により「温明殿西南軒」と推定。温明殿(うんめいでん)は、内裏の殿舎のひとつ。北半分は内侍所、南半分は神鏡が安置される賢所になっている。
(6)大子廬 ・・・ 皇太子直盧のこと。宜陽殿の東側の御輿宿にある。
(7)但無勝負楽 ・・・ 通常、左が勝った場合は羅陵王を勝負の舞として奏す。右が勝った場合は納蘇利。
(8)侍従宰相 ・・・ 藤原経任(1000〜1066)。北家。父は懐平、母は藤原佐理女子。のち藤原斉信の養子となる。この時、参議・侍従。参議補任は長元8年10月16日、侍従補任は同9年10月24日(補1-285・尊1-394、2-9)。
(9)射遺所 ・・・ 「いのこし」は、射礼で射られなかった衛府官人があらためて射る儀。場所は射礼と同じく建礼門前。上卿は参議一人がつとめる。この場合は藤原経任。
(10)少納言家業 ・・・ 正月15日条(4)参照。
【解説】
賭射が式日通り実施されている。しかし、場所は弓場殿ではなく、「東弓場」である。東弓場は、『日本紀略』天慶4年3月6日・同6年2月6日条にも見えるが、ここと同所かは不明。
儀式としては「如常」行われたようであるが、場所の都合上、射手の出入りする所が東西逆になっていたようである。恒例の場合は、安福殿の東側に堋が設けられ、紫宸殿前の南庭に射手が並ぶ。射手は西から東に並ぶことになっている(『年中行事絵巻』参照)。
また、16日の踏歌と同様、後一条天皇の崩御によるか、勝負楽が行われていない。
射遺は、順番としては賭射よりも先に行われるが、記主が直接関係しないためか、このような記載のみとなっている。
【原文】
十九日、有(1)政、(2)四条中納言・(3)右兵衛督・(4)左大弁被着、
【註】
(1)政 ・・・ 外記政のこと。正月15日条参照。
(2)四条中納言 ・・・ 藤原定頼(995〜1045)。北家。父は公任、母は昭平親王女子。中古三十六歌仙のひとり。父の四条邸を伝領し、四条と号す。この時、権中納言。権中納言補任は長元2年正月24日(補1-270・尊2-2)。
(3)右兵衛督 ・・・ 源隆国。正月15日条(1)参照。
(4)左大弁 ・・・ 藤原重尹。正月15日条(2)参照。
【解説】
外記政が行われ、藤原定頼が日上(ひのしょう)をつとめた。
【原文】
廿日、甚雨、有政、(1)四条中納言・(2)右大弁 、□□〔被着カ〕
【註】
(1)四条中納言 ・・・藤原定頼。正月19日条(2)参照
(2)右大弁 ・・・ 源経頼(976〜1039)。宇多源氏。父は扶義、母は源是輔女子。この時、参議・右大弁(・兵部卿・伊予権守)。参議補任は長元3年11月5日、右大弁補任は長元2年正月24日。兵部卿・伊予権守の補任時期は不明瞭(補1-280・尊3-386)。
【解説】
前日に続いて外記政が行われた。この日も上卿は藤原定頼であった。激しい雨があったようだが、外記政は雨儀の場合でも、基本的には作法は変わらず、公卿の立ち位置や、沓を脱ぐ場所に異同がある程度。
【原文】
廿一日、今日(1)除目始也、依御物□〔忌〕□□□□候、有政〈(2)民□□〔部卿カ〕、(3)左□□〔大弁カ〕、〉政後有云候、(4)酉刻許有召、諸卿参上、〈□被着(5)儀〔議〕所、(6)内府(7)執筆給、〉
【註】
(1)除目始 ・・・ 県召除目(春の除目)。地方官の任命が数日に渡って行われた。
(2)民□□ ・・・ 民部卿ならば源道方。正月17日条(2)参照。
(3)左□□ ・・・ 左大弁ならば藤原重尹。正月15日条(2)参照。
(4)酉刻 ・・・ 午後6時ごろ。
(5)儀所 ・・・ 議所。「ぎしょ」「ぎどころ」。宜陽殿南廂東二間の部屋。
(6)内府 ・・・ 内大臣の藤原教通(996〜1075)を指す。北家。父は道長、母は源倫子。この時、内大臣・左大将。内大臣補任は寛仁5年7月25日、左大将補任は寛仁元年4月5日(補1-287・尊1-61)
(7)執筆 ・・・ 除目を担当する大臣をさす。担当大臣が、前日に除目決定者を大間書に記入するためこのようにいわれる。
【解説】
天皇物忌があったが、外記政の後、除目が行われ、22日に藤原良頼が兼周防権守、23日に藤原兼頼が兼讃岐守(以上、『公卿補任』長元十年条)、藤原泰憲が兼阿波守(同治暦元年条)、藤原資仲が兼備中権介(同治暦四年条)に任じられた。
【原文】
廿三日、(1)高陽院殿西有火、〈(2)少〔小〕舎人正近・(3)采女正正清等宅云々、〉
【註】
(1)高陽院殿 ・・・ 正月14日条(10)参照。
(2)少舎人正近 ・・・ 戸部正近(生没年不詳)。戸部延近の猶子。「延近依為聟為猶子、習笛典改本姓為戸部氏」とあるが、本姓は不詳(戸部系図)。戸部氏は笛の家であった。
(3)采女正正清 ・・・ 戸部正清(生没年不詳)。父は正近。白河院の北面をつとめたという(戸部系図)。
【解説】
高陽院殿の西側は、『拾芥抄』によると東宮町や神祇町である。もちろん、殿の真西とは限らず、実際の火災個所は不明瞭。
【原文】
廿五日、今日於(1)陣有(2)安楽寺申事定、可遣使者、其使(3)左衛門権佐□〔以下虫損2〜6字分〕、
【註】
(1)陣 ・・・ 陣定。内裏の左近衛陣、もしくは右近衛陣で、公卿が行う国政議定。下位の公卿から意見を述べるのが特徴だが、前例も重視。
(2)安楽寺 ・・・ 大宰府にあった寺院。創建年代は不詳。菅原道真の廟所で、同所の太宰府天満宮を支配し続けたが、鎌倉以降衰退。神仏分離で廃絶。現天満宮の祓所が安楽寺の講堂であったといわれる。
道真を祭るということで、賦詩が多く行われ、曲水宴は天暦元年(947)から見える。
(3)左衛門権佐 ・・・ 虫損により、名前が欠しているが、『略記』長暦元年5月15日条から藤原隆佐(985〜1074)とわかる。北家。父は宣孝、母は藤原朝成女子。この時、左衛門権佐・検非違使。左衛門権佐補任は長元5年2月8日、検非違使宣旨は同15日(補1-312・尊2-61)。
【解説】
長元9年(1036)3月の曲水宴の際、安楽寺と大宰権帥藤原実成が闘乱に及び、安楽寺が訴えをおこした事件。詳細は不明であるが、実成の郎等の源致親が安楽寺の雑物を盗み取ったらしい。
閏4月14日に定があり、使者(推問使)は5月15日に出立。長暦2年(1038)2月19日に裁定が出て、実成は中納言・大宰権帥の職を解かれ、致親は隠岐国へ配流となった(『百錬抄』長暦元・5・15、同2・2・19、『略記』長暦元・5・15、同2・2・19)。
【原文】
廿九日、□□□□□□〔今日主上渡御カ〕(1)□〔弘〕徽殿歴(2)綾綺・(3)仁寿・(4)承香等殿、従承香殿(5)西長橋渡御、(6)頭中将持御剣候御前、(7)殿下・(8)内府已下□相被候御共入御之後殿下已下着行(9)廂座給、 殿上五位已下居饗、〈机、〉盃酌数巡之後有禄、〈内府御料(10)源大納言執給、自余料殿上四位以下取之、殿上人料諸大夫取之、上達部料従(11)常□〔寧〕殿未申角取出諸大夫之伝殿上人、〉其後□□□〔上達部カ〕給女房禄〈件禄未□取出□□伝殿上人持参(12)上壷祢即従件所□□□□□□□伝取度御前(13)権大納言・源大納言・頭中将被候(14)台盤所分行云々、〉
次於弘徽殿南面給女官禄、殿下御座東廂、権大納言被候御前、源大納言已下被候南簀子、殿上人候長橋、次第召南戸下給□□□□□□前被下女御宣旨、即叙正四位下、(15)頭弁仰内大臣□□□已下藤氏上達部被参弓場、以頭中将被申慶賀、
【註】
(1)□徽殿 ・・・ 弘徽殿。内裏後宮七殿のひとつ。常寧殿の南西、登花殿の南に位置する。この時、藤原ゲン子の居所。
(2)綾綺 ・・・ 綾綺殿。内裏の殿舎。宜陽殿の北、仁寿殿の東に位置する。
(3)仁寿 ・・・ 仁寿殿。内裏の殿舎。紫宸殿の北、承香殿の南に位置する。
(4)承香 ・・・ 承香殿。正月14日条(8)参照。
(5)西長橋 ・・・ 承香殿と弘徽殿をつなぐ渡殿。『栄花物語』(巻34・暮まつほし)は「承香殿の馬道」とする。
(6)頭中将 ・・・ 藤原俊家(1014〜82)。19歳。北家。父は頼宗、母は藤原伊周女子。この時、蔵人頭・右中将・備後権守。長元8年(1035)10月17日に後一条天皇の蔵人に、同9年(1036)4月17日に後朱雀天皇の蔵人頭に補せられた。右中将補任は同7年(1034)2月8日、備後権守補任は同8年(1035)正月12日。この前年、頭弁藤原経輔を随身に打たせたため、一時簡を削られた。のち“大宮右大臣”と呼ばれた(補1-288・尊1-246)。
(7)殿下 ・・・ 藤原頼通。正月17日条(5)参照。
(8)内府 ・・・ 藤原教通。正月21日条(6)参照。
(9)廂座 ・・・ 弘徽殿の東庇。
(10)源大納言 ・・・ 源師房(1008〜77)。30歳。村上源氏。父は具平親王、母は為平親王女子。本名は資定王。寛仁4年(1020)12月26日に元服、源姓を賜り臣籍降下し、また名を師房に改めた。この時、権大納言。補任は長元8年(1035)10月14日。後朱雀天皇の春宮時代、大夫をつとめ、後三条天皇の信任もあつかった。のち“土御門右大臣”と呼ばれた(補任1−274・尊3−485)。
(11)常□殿未申角 ・・・ 常寧殿は後宮七殿のひとつで、後宮の中心。貞観殿の南に位置する。皇后・中宮の居所であったが、平安中期以降五節所が置かれ、居所は弘徽殿などへ移った。「未申角」は東南の角で、北庇間を指すか。
(12)上壷祢 ・・・ 清涼殿北二間の「弘徽殿上御局」のことか。
(13)権大納言 ・・・ 藤原長家。正月16日条(2)参照。
(14)台盤所 ・・・ 清涼殿の西庇に設けられた部屋。食物をもる盤を載せる台があったことからこの名で呼ばれた。女房の詰所。
(15)頭弁 ・・・ 藤原経輔(1006〜81)。32歳。北家。父は隆家、母は源兼資女子。この時、蔵人頭・左中弁・左京大夫・美作権守・造大安寺長官。長元7年(1034)10月20日に後一条天皇の蔵人頭、同9年(1036)12月26日に後朱雀天皇の蔵人頭に補せられた。左中弁補任は、同2年(1029)正月24日、左京大夫は同8年(1035)正月30日、美作権守は同9年(1036)正月29日、造大安寺長官は同2年12月21日。歌人としても著名(補1−290・尊1−313)。
【解説】
この日、後朱雀天皇が7日に入内したゲン子のもとへ初めて渡った。冒頭に虫損があるが、後朱雀は渡御の際、綾綺殿→仁寿殿→承香殿、同殿西長橋を経て、弘徽殿へ入った。『栄花物語』(巻34・暮まつほし)によると、後朱雀は普段から昭陽舎(梨壷)にいたそうで、この日も昭陽舎から弘徽殿へ向かったわけであるが、内裏図を参照していただきたいが、後朱雀は遠回りをしている。これは昭陽舎の西側の麗景殿にいる女御禎子内親王を慮ってのことであった。
渡御にはゲン子の義父の藤原頼通らが随行し、饗宴がもうけられた。また、教通以下女官に禄が支給された。女房の禄で少々不手際があった。上壷祢に置いたままになっていたようである。長家・師房・俊家が台盤所に伺候していたのも、これの処理のためか。
ゲン子に女御宣旨が下り、また正四位下に叙された。この後、3月1日に中宮となる。
【原文】
卅日、有(1)石清水行幸定、三月九日壬午、〈当(2)臨時祭日延、至于祭以後日可被行、行事(3)権大納言・(4)右宰相中将・(5)権弁資通・(6)大外記頼隆・(7)大夫史義賢、〉又於(8)殿御宿所、(9)一品宮立后給雑事、権大納言・(10)民部卿被候、(11)章信朝臣執筆、
【註】
(1)石清水 ・・・ 石清水八幡宮。貞観2年(860)に大安寺僧行教が宇佐八幡宮を勧請したのが起源。以後、特に皇室の崇敬を受ける。また河内源氏が氏神とし、鎌倉幕府成立後に鶴岡に勧請したことも有名。
(2)臨時祭 ・・・ 石清水八幡宮で3月午の日に行われる祭礼。例祭の放生会(8月15日)に対して「臨時」と呼ぶが、恒例の祭礼。天慶5年(942)、承平・天慶の乱の平定がなった際、臨時に勅使を立てたのに始まる。儀式次第は3月27日条参照。
(3)権大納言 ・・・ 藤原長家。正月16日条(2)参照。
(4)右宰相中将 ・・・ 藤原兼経(1000〜43)。38歳。北家。父は道綱、母は源雅信女子。この時、参議・左近衛権中将。参議補任は治安3年12月15日、右権中将補任は長和6年3月。(補1-267・尊1-337)。
(5)権弁資通 ・・・ 源資通(1005〜60)。33歳。宇多源氏。父は済政。母は補・尊ともに「源頼光女」とするが、『中右記』嘉保2年10月25日条をみると、頼光女子は資通の室であることがわかる(詳しくはこちらを参照)。この時、権左中弁・兼摂津守。権左中弁補任は長元8年10月16日、摂津守補任は同9年2月27日(補1-295・3-387)。
(6)大外記頼隆 ・・・ 清原頼隆(979〜1053)。59歳。父は広澄。(清原氏系図)。
(7)大夫史義賢 ・・・ 惟宗義賢(生没年不詳)。この時、左大史で補任時期は不明。左大史としての初見は、『小右記』長元2年(1029)閏2月11日条。「大夫史」は五位の史のこと。
(8)殿御宿所 ・・・ 宜陽殿の北部にある大臣宿所をさす。
(9)一品宮 ・・・ 禎子内親王(1013〜94)。25歳。父は三条天皇、母は藤原道長女子の妍子。一品に叙されたのは治安3年(1023)4月2日のこと。以降「一品宮」と称される。宣耀殿・麗景殿に居す。長和2年(1013)10月22日内親王宣下。万寿4年(1027)3月23日、東宮敦良親王(後朱雀天皇)の妃となる。長元7年(1034)7月18日、王子尊仁(後三条天皇)を出産。延久元年(1069)2月17日、院号宣下を受け「陽明門院」と号す。陵は京都市右京区竜安寺内の「円乗寺東陵」で、後朱雀天皇陵に隣接(紹運61上)。
(10)民部卿 ・・・ 源道方。正月17日条(2)参照。
(11)章信朝臣 ・・・ 藤原章信(生没年不詳)。北家。父は知章、母は源斈女子。文章生、蔵人・弁官を歴任。この時、散位か(尊2-169)。
【解説】
代替わりの石清水社参の日程が3月9日と定められた。9日は、石清水臨時祭の式日であったが、行幸を優先し、臨時祭は3月27日に変更された。権大納言の藤原長家以下、担当者も同時に決められた。
また、禎子内親王の立后が定められた。正式な立后は2月13日となる。