「清和源氏」の祖と言われる源経基。実は分っていることは極わずか。
そのわずかを関連史跡とともにご紹介します。
(2000/10/4)

経基の邸宅跡とも、墓所とも伝えられている神社。
経基の父は、清和天皇の第6皇子の貞純親王であった。
これにより経基王は「六孫王」と称されたと言う。
が、
経基の父は、陽成天皇の皇子の元平親王ではないか、という説がある。
元平親王は第2皇子。となると「六孫王」とはならない。
経基の出生には疑問が多い。
『尊卑分脈』は天徳5年(961)11月10日に45歳で卒去とする。
となると、延喜17年(917)の誕生となる。
だが、長男の満仲は延喜12年(912)に生まれている。
「六孫王」という称も、いつから付いたものか。
源経基という人物がいたことは間違いない。
はっきり言って、現存の史料では結論を出すことは不可能!
何とでも言える。
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それにしても、羅城門も近いこの地。
内裏通いにはちょっと大変そうです。
しかも、現在は北側を新幹線に削り取られ、
かなり窮屈な目にあっております。
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経基の確実な初見は『将門記』。
承平8年(938)2月、武蔵介としてである。
経基は、権守の興世王とともに国内から収奪を行い、
判官代で足立郡司の武蔵武芝と対立をする。
そして、平将門の介入となった。
興世王は武芝・将門と講和するが、
経基はこれを疑い、都に逃げ帰り、
天慶2年(939)3月3日、将門の謀反と報告をした(『貞信公記』)。
写真の称名寺は、経基の居館跡との伝承がある。
伝承の由来は不明だが、江戸時代以前には成立していた様子。
武蔵国府推定地である大国魂神社から、北に数分の所に位置する。
同社には、経基の子孫の八幡太郎義家や、
頼朝が奉幣などをし、崇敬をしたという。
このような、源氏とこの地域との強い結びつきから
経基の居館伝承が誕生したのであろう。
ここから馬に乗って、郎等率いて国府通いか。
いや、馬に乗る距離ではないな。
今度は超近距離通勤。
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将門の乱の後、経基は大宰少弐(ただしくは権少弐)に任じられた(『扶桑略記』天慶3年3月9日条)。
藤原純友の乱平定のための任官で、同時に追捕使次官を兼ねていた。
そして、翌年豊後国海部郡佐伯院で「賊徒」と合戦。
賊首の桑原生行を生けどりとした(『本朝世記』天慶4年11月29日条)。
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写真は、大宰府政庁跡。
今は単なるだだっ広い公園だが、
かっては「遠の朝廷」と呼ばれ、西国の中心地であった。
経基がここを訪れた時、当然堂舎が立ち並んでいた、と思う。
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「遠き所に思ふ人を置き侍て」
雲井なる人を遥に思ふには 我が心さへ空にこそなれ
『拾遺和歌集』恋4(909)に収められた経基の歌です。
いつ、どこで詠まれたかは不明です。
任国で、都に残した妻を思ったのか、
都で、任国で出会った恋人を思ったのか。
今日は東、明日は西。
そんな忙しい中でも、空を見ると愛しい女性を思い出してしまう。
まだまだ青いな経基くん。
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経基は、純友の乱の平定後も権少弐として大宰府に留まった。
大宰権少弐は、外敵の監視を行う警固使を兼ねることが慣例となっていた
(『日本三代実録』元慶2年7月13日条)。
経基も当然その任を負っており、
天慶9年(946)11月21日、対馬に大船が来着したことを京に報告している(『貞信公記』)。
経基が勤務していた警固所の所在は不詳である。
しかし、福岡市内には「警固」という地名が残り、
西鉄福岡駅の西側には、写真の警固神社が鎮座している。
おそらく、鴻臚館の東側の、この辺りにあったのでしょう。
監視のための望楼が備えられた施設でもあったか、
と勝手に想像していたら、
就職活動中とおぼしき、見目麗しき女性が現れ、
警固神社に熱心にお参りをして行きました。
彼女の願いは知りませんが、あれだけ真面目に祈っているんだから、
神様、かなえてやっても良いんじゃないですかね。
ちなみに私は神仏不拝なもんで、写真だけとって退散しました。
ところで、警固社の祭神って誰なんでしょう?
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源経基のその後は不明。
筑前守や鎮守府将軍、右馬頭などをつとめたと言われるが、
確実な史料は上記の天慶9年11月21日で最後。
経基の生涯でわかっていることは、本当に極わずか。
しかし、経基が将門の乱、純友の乱で経験したことで、
彼の子孫は「兵の家」となった。
そして、鎌倉幕府の成立に繋がる。
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参考文献
星野 恒 「世ノ所謂清和源氏ハ陽成源氏ナル考」(『史学叢説』第2集、冨山房、1909/9)
朧谷 寿 『清和源氏』(教育社歴史新書、1984/11)
根本隆一「摂津源氏と下総国」(『野田市史研究』11、2000/3)
『国史大辞典』第14巻 「六孫王神社」の項(朧谷寿氏執筆分、吉川弘文館、1993/4)
『大日本史料』 1編之10 応和元年11月4日条