古代の史跡をテーマごとにご紹介いたします
| その5・ |
| その4・ |
| その3・ |
| その2・ |
| その1・ |
近畿を中心とした政権は日本列島各地を支配下に入れていった.
最後まで統一されなかったのが現在の東北地方である.
7世紀中ごろ,飛鳥の朝廷は本格的な軍事侵攻をはじめた.
斉明天皇は阿倍比羅夫を将軍に任じ,日本海沿岸を攻略していった.
『日本書紀』斉明天皇4年(658)4月条に,
「阿陪〔倍〕臣〈名を欠く〉船師一百八十艘を率いて蝦夷を伐つ、
齶田・渟代二郡の蝦夷、望り怖じて降はむと乞う、
ここに、軍を勒へて、船を齶田浦に陳ぬ、・・・」
とある.
「齶田」は「あぎた」と読み,現在の秋田市付近である.
「齶田浦」は土崎港と考えられている.
その後,秋田は東北進出の拠点となり,8世紀には城柵が造営された.
古代城柵は,兵士が駐屯する軍事拠点であると同時に,
地域支配のための行政府でもあった.
(2005/11/26)
秋田市街地の西北の丘陵地(高清水丘陵)に所在.
外郭は約550メートル四方で,築地塀で囲まれていた.
『続日本紀』天平5年(733)12月己未(26日)条に,
「出羽柵を秋田村高清水岡に遷置す」とあり,
当初は「出羽柵」と称されていたことがわかる.
出羽柵には出羽国府があり,
このときに出羽柵だけではなく,国府も秋田に遷されたと考えられている.
『日本後紀』延暦23年(804)11癸巳(22日)条に,
「出羽国言す、『秋田城は建置以来四十余年、土地は●[土+堯]埆にして、五穀宜からず、
加以、北隅に孤居し、相救するに隣なし、伏して望むらくは、永く停廃し、河辺に府をさだめんことを』てへり、
よろしく城を停め、郡となし、土人・浪人を論ぜずして、彼の城に住める者をもって編附すべし、」
とあるように,9世紀初頭に国府は移転することになった.
しかし,その後も出羽国北部の支配の拠点としての機能は失われなかった.
8世紀後半,出羽国府の次官である介が,
秋田城務の専従官となり「秋田城介」と称されたが,
これは平安時代以降にも引き継がれていった.
国・市による発掘調査の結果,政庁や外郭,
四天王寺,水洗式厠などの跡が発見され,
現在,歴史公園としての整備が進められている.
ただし,現在はトイレ跡の見学はできない.
政庁跡

北側には護国神社境内,南側には人家があり,
全体を発掘・復元するのは時間がかかりそう.
写真は,政庁を東側から撮影したもので,
一見平地に見えるが,左側(南側)は急斜面になっている.
復元図を見ると,政庁の正門である南門は斜面との境.
削れてしまったか?
ちなみに,「芝生育成のため立ち入り禁止」と結界(ロープ)がはってあり,
撮影位置より先には進めませんでした.
外郭東門(復元)

現在,復元されている唯一の建造物.
3間×2間のいわゆる八脚門.
赤い染料が付くので柱には触らないようにとの注意書きアリ.
見てのとおり,城の外郭である築地塀も左右数メートルだけだが復元してある.
井戸跡

外郭の外側で発見された井戸.
柱跡が再現されているように,屋根つきの井戸.
井戸内から,「天平六年(734)」「(天平)勝宝五年(753)」銘の木簡が発見されている.
古四王神社

秋田城の南東に位置する神社.
斉明朝に阿倍比羅夫が建立し,桓武朝の坂上田村麻呂が再興したと伝えられる.
「こしのう」は「越王」とも書かれる.
境内内には田村神社という田村麻呂を祀る社もある.
秋田城復元模型

古四王神社の前にあるバス通り(旧国道)は,
政庁の南門跡と推定される場所を通っている.
したがって,この道は秋田城が造営されたときからあったと考えていいだろう.
古四王神社の土地は,高くなっており,
また平野部との境目である.
秋田城創建時は,見張り台のような施設だったかもしれない.
JR秋田駅より、秋田中央交通バス将軍野線・寺内経由土崎線で護国神社前下車
(古四王神社は寺内出張所前の方が便利です)
周辺地図をみる
丘陵を中心とした87.8haの古代城柵.
年輪年代法により,9世紀初頭に造営されたことが確認された.
これは桓武〜嵯峨朝にあたり,
征夷大将軍の坂上田村麻呂や文屋綿麻呂らによる「三十八年戦争」の時代である.
「払田」は現在の字名による命名で,
史料上に見えるどの柵に該当するのか不明.
雄勝城説・山本郡衙説などがある.
外柵南門(復元)

礎石建物ではないらしい.
瓦葺ではなく,板葺きの門.
外柵は東西に長い楕円形をし,約3.6キロメートルにも及ぶ.
この門が,正門となる.
南門から政庁があった丘陵を望む

外柵の内側には平地が広がり,
中心に丘がある.
その丘を取り囲むように外郭があり,
正面にある4本の黒い柱のところには外郭南門があった.
外郭は北側は材木塀,南側は築地塀だったようですが,
地震で崩壊し,南側も材木塀となった.
政庁跡

政庁などがある「長森丘陵」は東西に長い丘.
その丘の中心に政庁があった.
正殿を含めて7棟の建物があった.
柱の位置がポールで示されている.
東方建物群

政庁の東側からは,数棟の掘立柱建物が見つかっています.
出土品などから,日常の政務を行う場所と考えられています.
写真のように,建物が復元されています.
ただし,壁はナシ.
休憩所になっています.
北側斜面には竪穴住居が発見されている.
さらに発掘調査が進めば,
当時の名称や,支配の様子,柵戸の生活などもわかってくるだろう.
JR大曲駅より羽後交通バス千屋線で埋蔵文化センター前で下車
周辺地図を見る
参考文献(リンクをクリックすると,オンライン書店アマゾンのホームページが開きます)
秋田県の歴史散歩編集委員会編 『新版 秋田県の歴史散歩』(山川出版社,1989)
虎尾俊哉 『古代東北と律令法』(吉川弘文館,1995)
工藤雅樹 『蝦夷の古代史』(平凡社新書,2001)
塩谷順耳ほか 『秋田県の歴史』(山川出版社,2001)
秋田城・払田柵のパンフレット