摂津源氏の経歴

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〜頼国子(頼光孫)〜

頼弘(?〜?)
父 : 頼国
母 : 藤原信理の女子
男子 : 家光明助

系図史料にのみ見える。
頼国の長男で、「摂津源氏」の後継者のはずだが、『尊卑分脈』には「出家、住三井寺」とある。早世したか。
弟の頼綱の室に「中納言君」という女性がいた。『後二条師通記』寛治6年4月16日条より、この女性は小一条院(敦明親王)の女房であったことがわかっている。頼綱と「中納言君」の婚姻には、「小一条院判官代」の頼弘の存在があったのかもしれない。
年月日 官位 記事 出典
- - 讃岐守、従五下、小一条院判官代、
出家、法名、入寂、住三井寺、
尊卑分脈

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頼資(?〜1066?)
父 : 頼国
母 : 藤原師長の女子
男子 : 国宗長資致義基国資兼真国国貞国俊
女子 : A(源行実室・“下野”)

頼国の2男。長男の頼弘が史料上に全く姿を見せないことから、実質的には頼資が嫡子であったか。昇進の仕方もこの一族の典型。しかし、下野守在任中の康平5年(1062)12月に隣国の上野介橘惟行と合戦をしたため、佐渡へ配流(積雪のため土佐へ変更)。これにより、頼綱が一門のリーダーとなったのであろう。なお、合戦の原因は不明である。

頼資というと、藤原資房との関係が有名である。資房の日記である『春記』長暦3年(1039)10月3日条に頼資を「是予之内人也」と記している。彼の家人であったようである。しかし、たびたびミスがあり、資房も少々あきれ気味か(『春記』長久元年(1040)5月23日・同年12月29日条)。

また、斎院次官となった。この時の斎院は[バイ(示+某)]子内親王。姉妹の六条斎院宣旨(頼国女子I)と共にバイ子に仕えたということになる。この補任は、バイ子の父の後朱雀天皇に六位蔵人として仕えたことにより行われたものか。もしくは、頼国女子Iが先に仕えており、彼女のコネにより就任したか。

なお、『春記』にはたびたび「外記頼資」という人物も現れるが、これはおそらく同名の別人であろう。
年月日 官位 記事 出典
長暦2・10・7 蔵人 弓場始の行事をつとめるが、延期されることを藤原
資房
から仰せられる
春記
長暦2・12・5 蔵人 資房のもとに参るが胎穢により着座せず 春記
長暦2・12・24 蔵人 御仏名において堂童子をつとめる 春記
長暦2・12・29 追儺の分配に奉仕する 春記
長暦3・1・1 蔵人 追儺の失について勘当を受ける、資房は「失なし」
とする
春記
長暦3・1・6 蔵人 叙位儀に奉仕する 春記
長暦3・1・7 蔵人 白馬節会に奉仕する 春記
長暦3・1・10 蔵人 資房から天台薬師例御修法のことを仰せられる 春記
長暦3・10・3 蔵人左衛門尉 後朱雀天皇の使として資房室の父(源経相)
見舞う、資房頼資を「予之内人也」と日記に記す
春記
長暦3・11・7 左衛門尉蔵人 内裏焼亡後、初めて天皇が南殿に御し、参列 春記
長暦3・11・12 蔵人右衛門尉
(左か)
去夜資房第へ参り、調楽がおわったことを伝える 春記
長暦3・12・5 蔵人左衛門尉 資房の仰せにより七所御祓勘文を奏す 春記
長暦3・12・6 蔵人 資房より御祓の日時勘文を渡される(行事か) 春記
長暦3・12・21 蔵人左衛門尉 入内する藤原教通女子に輦車宣旨を下すべきことを
仰せられる、また入内に際し青色袍に帯剣し陣外に
出ず
春記
長暦3・閏12・14 蔵人左衛門尉 内侍所御神楽の行事をつとめる 春記
長暦3・閏12・18 蔵人 御仏名の行事をつとめる 春記
長久1・4・24 蔵人 女騎の点定で行事をつとめる 春記
長久1・4・25 賀茂祭で資房に馬を提供する 春記
長久1・5・22 蔵人・検非違使 大殿に入った盗人2人を捕らえる 春記
長久1・5・23 先日2人の盗賊を捕らえたが1人は無実により釈放
する、資房は「頼資有阿容之気」と日記に記す
春記
長久1・5・24 左衛門尉 去夜、少将掌侍の従女中将典侍の従女に拷さ
れたことで、中将典侍(藤原相尹女子)を責し
たと資房に報告する
春記
長久1・6・9 蔵人 資房の仰せにより、源経季・橘資成を免ずべきこと
藤原頼通に申す
春記
長久1・6・13 資房より瀧口定清の勘当のことを仰せられる 春記
長久1・6・22 蔵人左衛門尉 国忌の行事をつとめる 春記
長久1・6・26 蔵人 資房より勘事の人々のことを仰せられる 春記
長久1・8・5 蔵人 資房より伊勢遷宮の金銀御幣は資成に行わすべき
と仰せられる
春記
長久1・8・8 蔵人 資房のもとに参り伊勢金銀御幣のことを談ず、また
去夜より病悩と申す
春記
長久1・8・13 先日、遷宮神宝調作之所へ向かう 春記
長久1・8・16 外記 夜、内裏に参入(別人か) 春記
長久1・8・17 病悩 春記
長久1・8・28 蔵人 故中宮の正日に奉仕 春記
長久1・9・6 蔵人 資房より祭主永輔らを召し遣わす 春記
長久1・9・9 蔵人左衛門尉 資房より焼亡した納殿の物を取り出す 春記
長久1・9・18 外記 例幣の定めがあるが宰相が参入しないことを資房
申す(別人か)
春記
長久1・9・23 蔵人 軽服のため参入してはならないと綸言を受ける 春記
長久1・9・29 国忌であるが軽服により参入しない 春記
長久1・11・13 蔵人 頼資の説により資房は憚服で参入する 春記・
改元部類
長久1・11・15 左衛門尉 五節御前試があるが軽服により参入せず 春記
長久1・12・6 左衛門尉 斎宮に遣わされる 春記
長久1・12・17 蔵人左衛門尉 斎宮より帰参する 春記
長久1・12・29 蔵人左衛門尉 御装束事の懈怠により勘当を受ける、資房関白
明年蔵人の労で叙爵の予定だと申し上げる
春記
永承3・3・2 散位 興福寺金堂落慶供養で堂童子をつとめる 造興福寺記
(永承6)・夏 斎院[バイ(示+某)]子内親王歌合に歌人として
出席する
歌合148
永承(4〜7)・
9・19
斎院次官 藤原頼通家蔵人歌合に歌人として出席する 歌合149
康平2・5・5 上野介橘惟行の訴えで佐渡へ配流される … 疑問 尊卑分脈
康平2・10・12 法成寺供養で掌燈の行事をつとめる 康平記
康平5・12・28 下野守 上野介橘惟行と合戦したことで定がある 百錬抄
康平6・12・18 前下野守 遠流となるが法家の申すところにより延引する 百錬抄
康平7・9・16 前下野守 惟行の館を焼き人民を殺害したことにより佐渡国へ
配流となる
扶桑略記
康平7・10・16 前下野守 佐渡国へ配流となる 清f眼抄
康平7・12・5 雪により佐渡国から土佐国へ配流地を変更される 扶桑略記
康平7・12・6 流人 雪により佐渡国から土佐国へ配流地を変更される [犬+解]眼抄
康平10・2・6 土佐国へ配流地を変更される 尊卑分脈
治暦2・7・2 流人・
前下野守
罪を免じられる 扶桑略記・
清●[犬+解]眼抄・
尊卑分脈
治暦2・8・24 卒去する 尊卑分脈
永長1・7・23 法師 過去の例として…別人か 中右記
下野守、使、左衛門尉、従五下、
依上野権介惟行訴、康平二・五・ゝ配流佐渡国、
同十年二月六日改配所遷土左国、
治暦二年七月二日勅免、同年八月廿四日卒、
尊卑分脈

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頼実(1015?〜1044)
父 : 頼国
母 : 藤原信理の女子
男子 : 頼季暹国

頼実関係の研究論文
年月日 官位 記事 出典
- - 蔵、従五下、使、左衛門尉、
配流土左国、
尊卑分脈

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実国(1020〜?)
父 : 頼国
母 : 藤原信理の女子
男子 : 行実国正行延

年月日 官位 記事 出典
- - 備前・土左・播磨権守、蔵、春宮大進、常陸介、使、左衛門尉、従四上、 尊卑分脈

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頼綱(1025?〜1097)
父 : 頼国
母 : 藤原仲清の女子
男子 : 明国仲正行延国直
女子 : A(頼子・白河院女房・“斎院御母”・“早参河人”)B(藤原師通室)C(盛子・“参河内侍”)D(藤原行実室)E(源能俊室)

頼綱関係の研究論文
年月日 官位 記事 出典
- - 三川守、従四下、蔵人、下総・下野(権)守、使、左衛門尉、
歌人、号多田、
永長二・七・十二出家、七十三才、
尊卑分脈

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国房(?〜?)
父 : 頼国
母 : 不詳
男子 : 光国光俊光忠
女子 : A(源信雅室)B(“宮美濃”)

国房関係の研究論文
年月日 官位 記事 出典
- - 信濃守、伊豆守、土左守、治部丞、正五下、正四下、
歌人、
尊卑分脈

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頼仲(?〜?)
父 : 頼国
母 : 不詳
男子 : 仲基

年月日 官位 記事 出典
- - (従五下)、土左守、蔵人、 尊卑分脈

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師光(国仲・国保)(?〜?)
父 : 頼国
母 : 藤原仲清の女子
男子 : 実俊盛実満隆

年月日 官位 記事 出典
- - (後拾金作者)、従五下、相人、信濃・相模守、蔵、
本名国仲、次国保
尊卑分脈

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頼房(?〜?)
父 : 頼国
母 : 不詳

年月日 官位 記事 出典
- - 加賀守、従五下、 尊卑分脈

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頼任(?〜?)
父 : 頼国
母 : 不詳

年月日 官位 記事 出典
- - - 尊卑分脈

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明円(?〜?)
父 : 頼国
母 : 不詳

年月日 官位 記事 出典
- - 僧、 尊卑分脈

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頼国女子A・“美濃”(1041〜1129)
父 : 頼国
母 : 不詳
夫 : 藤原師実(1042〜1101)
男子 : 藤原家忠(1062〜1136)・覚信(1065〜1136)・静意(?〜?)

後冷泉皇后の藤原寛子の女房。父の頼国が美濃守であったことから“美濃”と呼ばれた。頼国寛子の父の頼通に近侍していたことから仕えることになったのであろう。
寛子の女房となったことにより、その弟の師実の室となり、家忠僧覚信・静意をもうけた。この婚姻により、摂津源氏と摂関家の関係がより深くなったといえよう。

天喜4年(1056)の寛子主催の歌合に歌人として参加。『栄花物語』(巻36・根あはせ)に、その時の“美濃”の装束は「色々の錦の衣は、裏皆打ちたり。象眼の緑の裳、紺瑠璃の唐衣、これも大井河をうつしたり。皆置口して、袴同じ五重の打ちたる、上に二重文の表著」であったと記されている。そして、
「折りやせん 折らでや見まし 秋萩に 露も心を かけぬ日ぞなき」
という歌を詠んだ。

夫の藤原師実は藤原北家道長流の頼通(992〜1074)の子、道長(966〜1027)の孫。
摂関家との関係系図
年月日 官位 記事 出典
長久2 1 - 誕生→1129・1・30
天喜4・4・30 15 - 皇后藤原寛子の歌合に歌人として参加 栄花物語36・
歌合163
大治4・1・30 89 - 卒去、頼国の中女、元四条宮(藤原寛子)女房 中右記
康治2・7・27 - - 美濃・藤原師実室は長寿であったと藤原忠実が述べる 中外抄上
- - - 寛子に仕えていたことでその弟の師実に寵愛され、
家忠静意をもうける
栄花物語39
- - - 左大臣家忠の母は、頼国の娘である 今鏡5
- - - 源頼国 尊卑分脈(藤原家忠の項)
- - - 母美乃守源頼国 尊卑分脈(藤原家忠の項)
- - - 母同家忠 尊卑分脈(静意の項)

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頼国女子B(1045〜1133)
父 : 頼国
母 : 不詳
夫 : 藤原為房(1049〜1115)
男子 : 藤原為隆(1070〜1130)・同顕隆(1072〜1129)・同重隆(1076〜1118)・同長隆(1083〜1111)・僧侶(?〜?)

コラム「藤原為房の室となった源頼国の女子」
年月日 官位 記事 出典
- - 母美濃守源頼国女 尊卑分脈(藤原為隆の項)
- - 母美濃守源頼国女 尊卑分脈(藤原顕隆の項)
- - 母同 尊卑分脈(藤原重隆の項)
- - 母同 尊卑分脈(藤原長隆の項)

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頼国女子C(?〜1108)
父 : 頼国
母 : 不詳
夫 : 源道時(1045〜1120)

『尊卑分脈』には見えない。
『中右記』天仁元年6月8日条裏書に卒去の記事が見えるのみである。そこには「昔年為尼」とあり、夫の道時が存命のうちに出家していたことが分かる。
子は伝わらない。

夫の源道時は宇多源氏の経信(1016〜97)の子、道方(969〜1044)の孫。
年月日 官位 記事 出典
天仁1・6・8 60余 - 卒去する 中右記

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頼国女子D(?〜?)
父 : 頼国
母 : 不詳
夫 : 藤原顕家(1024〜1089)
男子 : 藤原基実(?〜1108)

『尊卑分脈』にのみ見える。藤原顕家の室となり、基実をもうける。
この婚姻は、女子Dの姉妹(頼国女子A)が後冷泉皇后の藤原寛子の女房であり、顕家が皇后宮権亮であった、ということで成立したのであろう。

夫の藤原顕家は北家実頼流の経通(982〜1051)の子、懐平(953〜1017)の孫。
年月日 官位 記事 出典
- - 母美乃守源頼国 尊卑分脈(藤原基実の項)

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頼国女子E(?〜?)
父 : 頼国
母 : 不詳
夫 : 藤原良綱
男子 : 藤原孝清

年月日 官位 記事 出典
- - 母美濃守源頼国女 尊卑分脈(藤原孝清の項)

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頼国女子F(?〜?)
父 : 頼国
母 : 不詳
夫 : 源隆国(1004〜1077)
女子 : A(藤原俊家室・“宰相の乳母”・“一条尼上”)

年月日 官位 記事 出典
- - - 尊卑分脈

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頼国女子G(?〜?)・・・疑問
父 : 頼国
母 : 不詳
夫 : 藤原定輔
男子 : 藤原高定

『尊卑分脈』にのみ見える。藤原定輔の室となり、高定をもうけた。

しかし、萩谷朴氏は高定の母ではなく、高定の室ではないかとする。
定輔の生年は不詳であるが、女子Gの父である頼国よりも年上の可能性が高い。寛弘5年10月17日、定輔敦成親王家侍者に補され、頼国は親王家蔵人に補された。この時、定輔の本官は主殿助であったが、頼国はまだ文章生であった(『御堂関白記』)。年齢差が開いている夫婦は特段珍しいものではなく、完全に否定するだけの証拠にはなりえないが、やや無理があることは間違いないであろう。

なお、萩谷氏は高定室の女子がのち、高定の卒後に源隆国と再婚したとし、またこの女子が『狭衣物語』の作者の“六条斎院宣旨”であるとする。

夫の藤原定輔は北家高藤流の説孝の子、為輔(920〜986)の孫。
萩谷朴「●[バイ(示+某)]子内親王を中心とする後宮文学圏」(『平安朝文学の史的考察』、白帝社、1969/2)
年月日 官位 記事 出典
- - 母美濃守頼国 尊卑分脈(藤原高定の項)

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頼国女子H(?〜?)・・・疑問
父 : 頼国
母 : 不詳
夫 : 源朝任(989〜1034)
男子 : 源朝実

『尊卑分脈』にのみ見える。源朝任の室となり、朝実をもうけた。
萩谷朴氏は朝任との年齢差が大きいことから,朝任の子の有章の室の誤りではないか,とする。

夫の源朝任は宇多源氏の時中(943〜1001)の子、雅信(920〜993)の孫。
萩谷朴「●[バイ(示+某)]子内親王を中心とする後宮文学圏」(『平安朝文学の史的考察』、白帝社、1969/2)
年月日 官位 記事 出典
- - 母美濃守源頼国 尊卑分脈(源朝実の項)

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頼国女子I・“六条斎院宣旨”(?〜?)
父 : 頼国
母 : 不詳

年月日 官位 記事 出典
- - (六条斎院宣旨)、(後拾作者)、 尊卑分脈

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頼国女子J(?〜?)・・・疑問
父 : 頼国
母 : 不詳
夫 : 藤原盛綱
男子 : 藤原盛国

『尊卑分脈』にのみ見え、藤原盛綱の室となり盛国をもうけたとあるが、疑問である。
同書には「上野介頼国女」とあるが、頼国は上野介には就任していない。まだ同書異本には盛国の母は「上野介頼盛女」とある。「上野介頼盛」は『水左記』承暦元年12月10日条に見えている。『水左記』には氏姓が記されていないが、おそらく源頼平の子の頼盛であろう。この人物は頼国の従兄弟にあたる。

藤原盛綱は北家良門流の貞職の子、惟規の孫。
年月日 官位 記事 出典
- - 母上野介源頼国 尊卑分脈(藤原盛国の項)

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頼国女子K(?〜?)・・・疑問
父 : 頼国
母 : 不詳
夫 : 藤原盛実
男子 : 藤原顕憲(1098〜1151)

年月日 官位 記事 出典
- - 母三河守源頼国女 尊卑分脈(藤原顕憲の項)

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〜頼家子(頼光孫)〜

家盛(?〜?)
父 : 頼家
母 : 不詳

年月日 官位 記事 出典
- - 勾当、 尊卑分脈

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満綱(?〜?)
父 : 頼家
母 : 不詳
男子 : 仲綱 ・ 恒満

年月日 官位 記事 出典
- - 従四下、伊豆守、 尊卑分脈

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満家(?〜?)
父 : 頼家
母 : 不詳
男子 : 清俊 ・ 光時

年月日 官位 記事 出典
- - 文章生、 尊卑分脈

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家通(?〜?)
父 : 頼家
母 : 不詳
男子 : 仲頼 ・ 俊清 ・ 頼重

年月日 官位 記事 出典
- - 従五下、駿河守、 尊卑分脈

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家基(?〜?)
父 : 頼家
母 : 不詳
男子 : 遠仲

年月日 官位 記事 出典
- - 肥後介、 尊卑分脈

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