摂津源氏の経歴

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〜頼光子(満仲孫)〜

頼国(?〜1058)
父 : 頼光
母 : 藤原元平の女子、もしくは藤原忠信(933〜?)の女子(のち平惟仲(944〜1005)の養女)
男子 : 頼弘頼資頼実実国頼綱国房頼仲師光頼房頼任明円
女子 : A(藤原師実室・“美濃”)B(藤原為房室)C(源道時室)D(藤原顕家室)E(藤原良綱室)F(源隆国室)G(藤原定輔室)H(源朝任室)I(“六条斎院宣旨”)J(藤原盛綱室)K(藤原盛実室)

頼国関係の研究論文
年月日 官位 記事 出典
寛弘2・1・10 蔵人所雑色に補される 御堂関白記
寛弘4・4・26 文人 内裏密宴に文人として召される 御堂関白記
寛弘5・9・11 蔵人所雑色・
文章生
敦成親王(後一条天皇)の誕生に際し六位鳴弦をつとめる 御産部類記4
寛弘5・10・17 文章生 敦成親王家蔵人に補される 御堂関白記
寛弘6・1・10 進士・雑色 六位蔵人に補される 権記
寛弘6・7・7 蔵人 藤原道長第へ参り月奏判を請う 御堂関白記
寛弘6・9・11 蔵人 藤原行成に伊勢例幣の上卿とする勅を伝える 権記
寛弘7・2・2 蔵人 衛門府に織部司の御厨子を運ばせる 平455
寛弘7・3・20 蔵人 一条天皇の勅により藤原行成に後撰集を渡す 権記
寛弘7・7・17 蔵人 敦康親王の元服に伺候する 御堂関白記
寛弘7・10・5 蔵人 衛門府に不断御読経の花を仰す 平458
寛弘7・10・8 蔵人 衛門府に比叡山まで御誦経布施を運ばせる 平458
寛弘7・10・16 蔵人 衛門府に御誦経布施を仰す 平458
寛弘7・10・22 蔵人 衛門府に太伯星御祭の柘榴を仰す 平458
寛弘7・10・25 蔵人 衛門府に比叡山まで御経などを運ばせる 平458
寛弘7・11・27 斎宮恭子女王帰京の官符を伝える 権記
寛弘8・2・15 蔵人 藤原頼通の春日社参詣に随従する(頼同とあるが頼国の誤) 小右記
寛弘8・3・9 左衛門尉・
蔵人
石清水臨時祭の舞人をつとめる 宮寺縁事抄
臨時祭下
寛弘8・4・15 左衛門少尉 斎院御禊で前駈をつとめる際、藤原道長に馬を借りる 御堂関白記
権記
寛弘8・6・25 (一条院)判官代 一条上皇葬送で布施などの行事をつとめる 権記
寛弘8・7・9 右衛門尉(左か) 一条上皇の御骨の安置された円成寺に伺候する 小右記
寛弘8・7・17 左衛門尉 頼国ら、9日より円成寺に伺候している 権記
寛弘8・7・20 蔵人・
左衛門尉
円成寺に一条上皇の納骨所を造る際伺候する、その後、一条院に参る 小右記
権記
寛弘8・8・11 蔵人・
左衛門尉
藤原行成が、一条上皇の存命の時に頼国を通じて書写を命じられた仁王経などを奉納する、御読経結願で粥時の行事をつとめる 権記
寛弘8・12・16 蔵人 藤原行成が書写した御撰和歌集を献上する 権記
寛弘8 (左衛門尉・
検非違使)
従五位下に叙される 二中歴2
長和2・1・27 検非違使 明子女王の下人らが藤原懐平の随身を取籠する、藤原道長は下手人を頼国に付して禁につかせる 御堂関白記
小右記
長和2・1・30 宇佐使 源経頼に代わり宇佐使に補される 御堂関白記
長和2・3・30 検非違使・
舞人便所預
臨時祭の使の還りに見物の景成らが争い、頼国が禁固につかせる 小右記
長和2・4・10 敦明親王の雑色長が春宮の小舎人らに殺害され、親王の訴えにより頼国が糺す 小右記
本朝世記
長和2・6・25 左衛門尉・
検非違使
藤原頼通の任大納言の慶賀で前駈をつとめる 小右記
本朝世記
長和2・9・29 宇佐使 藤原道長から女装束・馬を給う 御堂関白記
長和2・10・1 宇佐使
左衛門尉
宇佐使をつとめる 日本紀略
長和2・11・26 宇佐使 宇佐から帰京する 御堂関白記
長和2・11・27 藤原道長に小馬10疋・革などを献上 御堂関白記
長和3・2・22 左衛門尉・五位 解陣の序列で頼国(正五位上か)が従五位の右衛門佐の上に立つべきか論じられる 小右記
長和3・4・18 皇(太)后宮大進 賀茂祭で皇太后宮使をつとめる 小右記
長和3・6・18 (左衛門)尉・
五位
藤原頼任の昇殿がゆるされ、頼国らとあわせて検非違使の昇殿が4人に及ぶ 小右記
寛仁2・10・22 太皇太后宮大進 太皇太后藤原彰子が上東門第に行啓、従四位下に叙される 御堂関白記
小右記
寛仁3・8・11 太皇太后宮大進 内裏に乱入した抜刀の者を捕らえる 小右記
左経記
寛仁3・8・13 太皇太后宮大進 抜刀者逮捕の功により加一階され従四位上に叙される 小右記
寛仁3・8・14 藤原資平同実資に「頼国が賞されたのは藤原頼通の意によるものである」と述べる 小右記
寛仁3・12・27 太皇太后宮大進 太皇太后宮御仏名に奉仕する 小右記
寛仁4・1・22 藤原頼通の関白大饗で陪膳をつとめる 左経記
治安2・11・11 五節舞姫を出す(頼圓とあるが頼国の誤) 左経記
治安2・11・13 讃岐守 五節所肴物に奉仕 左経記
万寿2・10・20 藤原頼通に政事があることを申す 小右記
万寿2・10・21 讃岐(守) 受領功過定がある(長経の誤か) 小右記
万寿2 頼綱誕生
長元2・7・1 前讃岐守 造殿料物覆奏文を申す 小右記
長元4・9・25 讃岐守(前か) 上東門院の石清水などへの行幸に随従する(院別当か)女院の車は頼国が奉る 小右記
左経記
栄花物語31
長元8・5・16 藤原頼通の歌合に子(頼綱)が奉仕する 栄花物語32
長久2・2・27 地下四位 祈年穀奉幣使発遣の日、稲荷使が触穢を申したので代わりに行う 春記
長久2 女子A(美濃・藤原師実室)誕生
寛徳2 女子B(藤原為房室)誕生
永承5・3・15 美乃前司 藤原頼通の法成寺新造堂供養で左楽屋の幄を課せられる 春記
天喜2・2・23 (美濃)前司 任中に国内の権門の荘園や不輸租田から収奪する 平711
天喜6 卒去する 多田系図
承保3・4 孫娘(女子Fの娘)[テイ(女+是)]子内親王の乳母となる 栄花物語39
(美濃守) 子の頼綱を従えて美濃国へ下向する(1040年代後半か) 後拾遺734
紀伊守 連敏法師が歌を贈る 後拾遺1131
頼国の娘(女子A)は皇后藤原寛子に仕えていたことで同師実に寵愛された 栄花物語39
みのゝかみ 左大臣藤原家忠の母は、頼国の娘(女子A)である 今鏡5
服喪中に熊野山に参詣する 江談抄1
武者の項に挙げられる 二中歴13
殿上尉叙留の例として挙げられる 官職秘抄下
美濃・三川・備前・摂津・但馬・伯耆・讃岐・紀伊
守、左馬権頭、内蔵頭、正四位下、上総介、使、
左衛門大尉、皇太后宮大進、春宮大進、内蔵人、
左兵衛尉、文章生、
尊卑分脈

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頼家(?〜?)
父 : 頼光
母 : 藤原忠信(933〜?)の女子(のち平惟仲(944〜1005)の養女)
男子 : 家盛満綱満家家通家基

生没年は不詳だが、増淵勝一氏は1007年前後の誕生と推測している。
活動時期は11世紀前半と推定。
『尊卑分脈』頼範の子にも頼家をあげている。頼光卒時、まだ若年だったために叔父の養子となったか(重複者系図参照)。
頼家関係の研究論文
安田元久「多田源氏の系譜をめぐって」(『武士世界の序幕』、吉川弘文館、1973/10、初出は1973/2)
年月日 官位 記事 出典
長元6・2・16 蔵人所勾当・六位 藤原頼通の白河第宴遊に奉仕する 袋草子上
長元8・1・9 殿勾当 蔵人に補される 左経記
長元8・5・16 蔭孫 藤原頼通歌合に奉仕する 歌合123
長元8・5・28 祈雨使として丹生川上社へ遣わされる 左経記
長元9・5・17 蔵人左衛門尉
(右か)
後一条上皇葬送の行事所に伺候する 左経記
長元9・5・19 蔵人右衛門尉 後一条上皇葬送の際に東対の留守をつとめる 左経記
長元9・10・14 右衛門尉 検非違使に補される 平範国記
長暦2・9・13 源師房歌合に歌人として出席する 歌合124
長久2・4・7 源師房歌合に歌人として出席する 歌合129
(長久頃) 橘義清歌合に歌人として出席する 歌合132
永承1・2・19 石清水臨時祭で歌人をつとめる 年中行事秘抄
2月
永承2・夏 - 藤原道雅西八条障子絵合で歌人として出席する
永承3・3・2 散位 興福寺金堂落慶供養で堂童子をつとめる 造興福寺記
永承(4〜7)・
9・19
前越中守 藤原頼通家蔵人所歌合に歌人として出席する 歌合149
寛徳2・10〜
天喜2・7
藤原道雅障子絵合に歌人として出席する 歌合154・
袋草子上
天喜1 越中守 越中で「名所歌合」を催す、時期は正しいか? 歌合153
延久4・5・7 前越中守 鎌157
ゑちうのかみ 頼家宅で橘為仲が霰の歌を詠む(群書類従本は「備ちうのかみ」とする) 橘為仲朝臣集26
ゑちうのさきのかみ 橘為仲と歌を交わす 橘為仲朝臣集
103・104
歌人としてしかるべき人物だが、賀陽院歌合に歌人として選ばれなかった 袋草子上
和歌六人党の仲間から党のものとしての能力を疑われる 袋草子上
筑前守、従四下、蔵人、
歌人、
尊卑分脈

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頼基(?〜?)
父 : 頼光
母 : 不詳

生没年は不詳だが、活動時期は11世紀中頃と推定。
『尊卑分脈』頼範の子にも頼基をあげている。頼光卒時、まだ若年だったために叔父の養子となったか(重複者系図)。

系図以外の史料では、天喜2年(1054)秋に藤原兼房家の歌合に、歌人として出席したことのみが見える(『歌合』157)。この時、「別当」であったが何の別当かは不明。
年月日 官位 記事 出典
天喜2・秋 別当 藤原兼房歌合に歌人として出席する 歌合157
(筑後守)、散位、従五下 尊卑分脈

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永寿(?〜?)
父 : 頼光
母 : 不詳

『尊卑分脈』頼平の子にも永寿頼範の子にも永寿をあげている。頼光卒時にまだ若年だったために、まず頼範の養子となり、頼範卒後に頼平養子となったか(重複者系図参照)。

系図以外の史料では、永承3年の興福寺落慶供養の僧の中に、延暦寺僧として永寿の名が記されているが、この永寿と同人かは不明(『造興福寺記』永承3年閏正月13日条)。
年月日 官位 記事 出典
永承3・閏1・13 興福寺落慶供養の讃の僧を仰せつかる 造興福寺記
阿闍梨 尊卑分脈

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頼昭(?〜?)
父 : 頼光
母 : 不詳

系図史料にのみ見える。
『尊卑分脈』頼平の子にも頼昭頼範の子にも頼昭をあげている。頼光卒時にまだ若年だったために、まず頼範の養子となり、頼範卒後に頼平養子となったか(重複者系図参照)。
年月日 官位 記事 出典
天王寺別当 尊卑分脈

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頼光女子A(1003〜1095・10・25)
父 : 頼光
母 : 不詳
夫 : 源資通(995(1005か)〜1060)
男子 : 源師賢(1035〜1081) ・ 同政長(1038〜1097)

『中右記』嘉保2年10月25日条に「此暁備中守政長朝臣母堂卒去、年九十三、是故頼光朝臣女也、蔵人少将成宗祖母也」と見える。同書承保元年閏正月4日条の政長卒去の記事にも、「母故頼光朝臣女也」とある。

『尊卑分脈』頼平の子としても資通室をあげている。頼光卒時にまだ若年だったため、頼平の養女となったか(重複者系図参照)。増淵勝一氏は、藤原道綱室の頼光女子Cと同一であるとし、道綱薨去後に資通と再婚したとする。

夫の源資通は宇多源氏の済政(975〜1041)の子、時中(941〜1001)の孫。
増淵勝一「源頼家伝考-和歌六人党の成立をめぐって-」(一)(二)(『立正女子大学短期大学部研究紀要』16,18、1972/12,1974/12)
年月日 官位 記事 出典
長保5 1 誕生、
嘉保2・10・25 93 卒去する、源政長の母である 中右記
承徳1・閏1・4 子の政長が卒去する 中右記
頼光朝臣 尊卑分脈(源師賢の項)

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頼光女子B(?〜?)
父 : 頼光(実父は頼平か)
母 : 不詳
夫 : 源済政(975〜1041)
男子 : 源資通(995(1005か)〜1060)

頼光女子A(=頼平女子Bか)が済政子の資通の室であったことは間違いないことから、系譜に何らかの錯誤があると考えられる。「資通室」を「資通母」としてしまったか。
『尊卑分脈』頼平の子としても済政室(頼平女子C)をあげている。頼光女子Bの場合、頼光卒時にはすでに資通をもうけており、他の子のように若年により叔父の養子となったとは考えられない。頼平の子が頼光の養女になった可能性も考えられる(重複者系図参照)。

夫の源済政は宇多源氏の時中(941〜1001)の子、雅信(920〜993)の孫。
年月日 官位 記事 出典
贈従三位、済政室、資道卿母、 尊卑分脈(頼光女子の項)
頼光朝臣 尊卑分脈(源資通の項)

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頼光女子C(?〜?)
父 : 頼光
母 : 不詳
夫 : 藤原道綱(955〜1020)

『尊卑分脈』には見えない。父の頼光が春宮大進・亮の時、道綱が東宮傅であったことで成立した婚姻であろう。これにより道綱は一条の頼光宅に同居していたことが、『小右記』長和2年6月25日・同4年4月25日・同5年2月10日・寛仁4年9月11日条に見える。
しかし、この夫婦には年齢差がかなりあったため、若くして未亡人となってしまった。頼光は「若き人に、おい給へりと知りながらあはせ奉りて、我女をそこなひつる」と嘆いたと『栄花物語』巻16は記している。
道綱は、これ以前に頼光の姉妹(満仲女子C)とも恋愛関係にあった。

増淵勝一氏は源資通室の頼光女子Aと同一とし、道綱の薨去後、資通と再婚したとする。

夫の藤原道綱は北家兼家(929〜990)の子、師輔(908〜960)の孫。
増淵勝一「源頼家伝考-和歌六人党の成立をめぐって-」(一)(二)(『立正女子大学短期大学部研究紀要』16,18、1972/12,1974/12)
年月日 官位 記事 出典
長和2・6・25 夫の藤原道綱頼光宅に住む 小右記・
本朝世記
長和4・4・25 夫の道綱頼光宅に住む 小右記
長和5・2・10 夫の道綱頼光宅に住む 小右記
長和5・7・26 夫の道綱頼光宅に住む 栄花物語12
寛仁4・10・16 夫の藤原道綱が薨去する、頼光は若い娘を老齢と知りながら婿に迎えたことを嘆く 栄花物語16

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頼光女子D・“相模”(?〜?)
父 : 頼光(実父は不詳)
母 : 慶滋保章の女子
夫 : 大江公資(?〜1040)

夫の大江公資清言の子、仲宣の孫。

文頭へ文頭

〜頼平子(満仲孫)〜

頼盛(?〜?)
父 : 頼平
母 : 藤原惟風の女子
男子 : 盛実 ・ 盛仲
女子 : A(藤原盛綱室)

『尊卑分脈』は「於任国死」と記す。任国は伊豆国か上野国か。

『尊卑分脈』には、「上野介頼国女」が藤原盛綱の室となり盛国をもうけたとあるが、同書異本には盛国の母は「上野介頼盛女」とある。「上野介頼盛」はこの頼盛であろう(頼国女子Jの項参照)。

藤原盛綱は北家良門流の貞職の子、惟規の孫。
年月日 官位 記事 出典
延久1・2・17 元太皇太后宮少進 陽明門院判官代に補される 江記
承暦1・12・10 上野介 源俊房を訪れる、息の喪により蟄居していた 水左記
承暦1 上野介 この年、上野介に任じられる、応徳元年までの9カ年つとめた 朝野群載26
従五下、伊豆守、大蔵権大輔、皇后宮少進、
於任国死、
尊卑分脈

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忠季(?〜?)
父 : 頼平
母 : 藤原惟風の女子
男子 : 季昌 ・ 忠信 ・ 季信 ・ 忠政 ・ 忠仲(忠兼) ・ 忠尋 ・ 兼源

系図史料にのみ見える。
年月日 官位 記事 出典
土左守、従五下、
檜坂、
尊卑分脈

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頼風(?〜?)
父 : 頼平
母 : 不詳

系図史料にのみ見える。
年月日 官位 記事 出典
皇太后宮少進 尊卑分脈

文頭へ文頭


永寿(?〜?)
父 : 頼平(実父は頼光か)
母 : 不詳

系図史料にのみ見える。
『尊卑分脈』頼光の子にも永寿頼範の子にも永寿をあげている。頼光卒時にまだ若年だったために、まず頼範の養子となり、頼範卒後に頼平養子となったか(重複者系図参照)。
年月日 官位 記事 出典
祇園別当阿闍梨 尊卑分脈

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頼増(1011〜1078・5・9)
父 : 頼平
母 : 不詳

園城寺22世の明尊の弟子で、蓮昭・済算らとともに「寺門良材」といわれた(『寺門伝記補録』長吏高僧略伝・明尊条)。時期不明であるが、「本寺(園城寺)博士」に任じられたという(同・非職高僧略伝・頼増条)。

天喜3年(1055)4月2日、明尊から伝法灌頂をうけ、延久4年(1072)10月25日に円宗寺で初めて行われた最勝・法華会で講師を勤め、その功により権律師に任じられた。この時、興福寺僧の頼真から「因明門義」を行わないことについてクレームがつき。議論になったが、法会に行幸していた後三条天皇が「待後勅間、因明論義暫宜停止者」と仲介に入った(『扶桑略記』)。
円宗寺は、後三条の御願で、延久2年12月26日落慶供養。この時は「円明寺」であったが、翌年改称。最勝・法華の二会は、法勝寺大乗会と合わせて「天台の三会」と称された。

永承3年(1048)の興福寺落慶供養の僧の中に、延暦寺僧頼増がみえるが、この頼増と同人かは不明(『造興福寺記』同年閏正月13日条)。
年月日 官位 記事 出典
永承3・閏1・13 31 興福寺落慶供養の僧に定められる 造興福寺記
天喜3・4・2 44 明尊から阿闍梨位灌頂をうける 寺門伝記13・15
延久1・5・19 58 法成寺での藤原道長供養の僧をつとめる 土右記
延久4・10・25 61 阿闍梨・
三井寺僧
円宗寺法華会で講師をつとめ、高座において権律師に任じられる 扶桑略記・
本朝高僧伝11
寺門伝記15・19
延久4・10・29 61 阿闍梨 法華会講師の功により、権律師に任じられる
(僧綱補任は11月29日とする)
扶桑略記
承保2 64 律師 この年から律師とみえる 僧綱補任
承暦2・5・9 68 律師 卒去する 僧綱補任・
寺門伝記15
尊卑分脈

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頼昭(?〜?)
父 : 頼平(実父は頼光か)
母 : 不詳

系図史料にのみ見える。
『尊卑分脈』頼光の子にも頼昭頼範の子にも頼昭をあげている。頼光卒時にまだ若年だったために、まず頼範の養子となり、頼範卒後に頼平養子となったか(重複者系図参照)。
年月日 官位 記事 出典
四天王寺別当 尊卑分脈

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頼平女子A(?〜?)
父 : 頼平
母 : 不詳
夫 : 藤原季仲(1046〜1106)

『尊卑分脈』にのみ見える。子は伝わらない。
夫の藤原季仲は北家経季(1010〜1086)の子、経通(982〜1051)の孫。しかし、夫の年齢が1世代ずれており、疑問が残る。
年月日 官位 記事 出典
季仲卿室 尊卑分脈(頼平女子の項)

文頭へ文頭


頼平女子B(?〜?)
父 : 頼平(実父は頼光か)
母 : 不詳
夫 : 源資通(995(1005か)〜1060)

『中右記』嘉保2年10月25日条に「此暁備中守政長朝臣母堂卒去、年九十三、是故頼光朝臣女也、蔵人少将成宗祖母也」と見える。政長は源政長で、資通の子である。また、同書承保元年閏正月4日条の政長卒去の記事にも、「母故頼光朝臣女也」とあり、資通室は頼光の女子であることは間違いない。頼光卒時にまだ若年だったため、頼平の養女となったか(重複者系図参照)。
増淵勝一氏は、頼光女子A頼光女子C頼平女子Cとする。

夫の源資通は宇多源氏の済政(975〜1041)の子、時中(941〜1001)の孫。
増淵勝一「源頼家伝考-和歌六人党の成立をめぐって-」(一)(二)(『立正女子大学短期大学部研究紀要』16,18、1972/12,1974/12)
年月日 官位 記事 出典
資道卿室 尊卑分脈(頼平女子の項)

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頼平女子C(?〜?)
父 : 頼平
母 : 不詳
夫 : 源済政(975〜1041)

頼光女子A(=頼平女子Bか)が源済政子の資通の室であったことは間違いないことから、系譜に何らかの錯誤があると考えられる。「資通室」を「資通母」としてしまったか。
『尊卑分脈』頼光の子としても済政室(頼光女子B)をあげている。頼平女子C頼光女子Bであるとすると、頼光卒時にはすでに資通をもうけており、他の子のように若年により叔父の養子となったとは考えられない。頼平の子が頼光の養女になった可能性も考えられる(重複者系図参照)。

夫の源済政は宇多源氏の時中(941〜1001)の子、雅信(920〜993)の孫。
増淵勝一「源頼家伝考-和歌六人党の成立をめぐって-」(一)(二)(『立正女子大学短期大学部研究紀要』16,18、1972/12,1974/12)
年月日 官位 記事 出典
済政朝臣室、 尊卑分脈(頼平女子の項)

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〜頼範子(満仲孫)〜

頼綱(?〜?
父 : 頼範
母 : 不詳
男子 : 範弘

『尊卑分脈』頼国の子にも頼綱をあげている(重複者系図)。いずれが実父かは確定し難い。
安田元久「多田源氏の系譜をめぐって」(『武士世界の序幕』、吉川弘文館、1973/10、初出は1973/2)
年月日 官位 記事 出典
尊卑分脈

文頭へ文頭


頼家(?〜?)
父 : 頼範(実父は頼光か)
母 : 平惟仲の女子
男子 : 家成〔盛〕 ・ 満綱 ・ 満家 ・ 家通 ・ 家基

『尊卑分脈』頼光の子にも頼家をあげている。頼光卒時、まだ若年だったために叔父の養子となったか(重複者系図)。
年月日 官位 記事 出典
越前・加賀・筑前(権守)、蔵人、正四下、
歌人、
尊卑分脈

文頭へ文頭


頼基(?〜?)
父 : 頼範(実父は頼光か)
母 : 不詳

『尊卑分脈』頼光の子にも頼基をあげている。頼光卒時、まだ若年だったために叔父の養子となったか(重複者系図)。
年月日 官位 記事 出典
尊卑分脈

文頭へ文頭


親弘(?〜?)
父 : 頼範
母 : 不詳

頼弘の誤写・重複か。
年月日 官位 記事 出典
尊卑分脈

文頭へ文頭


頼弘(?〜?)
父 : 頼範
母 : 不詳
男子 : 為綱

『尊卑分脈』頼国の子にも頼弘をあげている(重複者系図)。いずれが実父かは確定し難い。
年月日 官位 記事 出典
尊卑分脈

文頭へ文頭


永寿(?〜?)
父 : 頼範(実父は頼光か)
母 : 不詳

『尊卑分脈』頼光の子にも永寿頼平の子にも永寿をあげている。頼光卒時にまだ若年だったために、まず頼範の養子となり、頼範卒後に頼平養子となったか(重複者系図参照)。
年月日 官位 記事 出典
阿闍梨 尊卑分脈

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頼昭(?〜?)
父 : 頼範(実父は頼光か)
母 : 不詳

系図史料にのみ見える。
『尊卑分脈』頼光の子にも頼昭頼平の子にも頼昭をあげている。頼光卒時にまだ若年だったために、まず頼範の養子となり、頼範卒後に頼平養子となったか(重複者系図参照)。
年月日 官位 記事 出典
天王寺別当 尊卑分脈

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頼範女子A(?〜?)
父 : 頼範
母 : 不詳

『尊卑分脈』にのみ見える。婚姻関係などは不明。
他の頼範の子が、頼光頼平頼国の子と混同されていることから、この女子も頼光・頼平・頼国子を示している可能性がある(重複者系図)。
年月日 官位 記事 出典
尊卑分脈(頼範女子の項)

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