頼光(948〜1021・7・19)
父 : 満仲
母 : 源俊の女子
男子 : 頼国 ・ 頼家 ・ 頼基 ・ 永寿 ・ 頼昭
女子 : A(源資通室) ・ B(源済政室) ・ C(藤原道綱室) ・ (D(大江公資室・“相模”))
初見史料は『小記目録』第17(闘乱事付刃傷・闘殺・謀殺・罪科)天元3年(980)閏3月19日条である。ここには「頼光等召名宣旨事」とだけあり、その原因などは一切不明である。
満仲の長子として、父の財産のいくつかを引き継いだ。その一つが摂関家との関係である。最初に見えるのが藤原兼家との関係で、永延2年9月16日の兼家の京極第新造に際して、馬30疋を献上した(『日本紀略』)。兼家の死後は、その子の道長に奉仕した。道長が金峯山参詣した際には水辺まで迎えに行き(『御堂関白記』寛弘4年8月12日条)、道長の上東門第が焼亡した際には任国の美濃から駆けつけた(同長和5年8月2日条)などということが見える。その中で最も有名なのが、再建された上東門第の調度一切を頼光が献上したことであろう(『小右記』寛仁2年6月20日条、『栄花物語』巻14・あさみどり)。これは、頼光ら受領クラスの財力の巨大さを示すものでもある。
摂関家のこの他の人物では、道長の異母兄の道綱との関係があげられる。頼光の女子が道綱の室となったことで、道綱は晩年を一条の頼光宅ですごした。
摂関家以外では、三条天皇との関係が注目される。頼光は即位前の春宮時代、春宮権大進・権亮をつとめた。在位中の長和4年に頼光が法華八講を行ったときには、捧物を下賜したように(『小右記』同年閏6月15日条)、両者の関係は続いていた。退位後、頼光は三条院別当となり、その崩御まで奉仕をした。この三条天皇とのつながりは、先にあげた兼家と頼光の関係によるのであろう。三条天皇の母は兼家の女子、超子である。頼光は兼家の推挙により春宮権大進となったのであろう。
このような頼光に対して厳しい見方をしていたのが藤原実資である。実資の日記の『小右記』には、頼光に関する記事がいくつか残っている。
寛弘8年8月11日条には、三条天皇が新造内裏に還御する際に、頼光が魚袋をつけて参上し注目され、藤原通任に注意されて「閑処」にて外した、とある。これは藤原資平が養父の実資に報告し、それを書き残したものである。
長和4年閏6月12〜16日条には、頼光の法華八講について記されている。この法会には娘婿である道綱以外にも、藤原行成・同兼隆などの公卿も参列した。これに対して実資は疑問と不満を記し、さらに三条天皇が捧物を下賜したと聞き「王威滅尽歟、可悲々々」と嘆き、内裏御読経の僧侶らが八講に行っていたため、遅参したということにも不満をもったようである。
有職故実に疎い新興の中級貴族だが、財力はあり、また道長という強力な保護者を持つ頼光を、実資はよく思っていなかった様子がわかる。
頼光といえば、「武士」であるが、現存する説話以外の史料でそれを示すのは『栄花物語』(巻5・浦々の別)のみである。長徳4年2月、藤原伊周左遷に際して平維叙・同維時・源頼親らとともに内裏を警固した記事である。もっとも、青年時代の史料がないため、頼光の武士としての面が本当にあったのか、どうか結論は出しがたい。
しかし、『古事談』(巻2・臣節)に「自分の子を蔵人にしようとした」とあることから、武力以外のもので朝廷における自らと一門の地位を確立しようとしていたのではないだろうか。
年月日 歳 官位 記事 出典 天暦2 1 − 誕生(→治安1・7・19)。 − 天禄1 23 摂津守 父満仲が多田院を建立し、頼光は文殊菩薩を造立する。…疑問 帝王編年記・
多田院文書天元3・閏3・19 33 − 闘乱のことで召名宣旨をうける。 小記目録17 永延2・9・16 41 春宮大進 藤原兼家の二条京極第新造の宴で、駒30疋を貢上する。 日本紀略 正暦3・1・20 45 春宮権大進 備前守に任じられる。 小右記 正暦4・2・28 46 − 殿上賭射で前方人に定められる。 権記 長徳1頃 48 − 陸奥国に赴任する藤原実方に歌を贈る(実方はこの年9月27日に下向)。 実方集193 長徳1頃 48 − 上総国から帰京した藤原長能らを自宅に招いて宴を催す。 拾遺和歌集
1049長徳2・4 49 備前前司 平維叙・同維時・源頼親らとともに内裏を警固する。 栄花物語5 長徳3・5・15 50 − 藤原道長の催した競馬に勅使として参る。 小右記 長徳3・8・1 50 春宮大進 相撲節で為尊親王に饌を供す。 権記 長保1・12・6 52 − 藤原行成の子の見舞いに行く。 権記 長保2・2・3 53 (春宮)大進 東宮居貞親王の御射・蹴鞠に伺候する。 権記 長保3・3・28 54 春宮大進 美濃守に任じられ、同時に尾張守になった大江匡衡から書状を贈られる。 本朝文粋7 長保4・4・20 55 (春宮)大進 賀茂祭の東宮使を弟の頼親に代わらせる。 権記 長保5 56 − 女子A(源資通室)誕生。 − 寛弘1・4・20 57 春宮大進 賀茂祭に際して藤原道長より馬一疋を借りる。 御堂関白記 寛弘2・7・6 58 − 北辺の故源満季の家地に牝牛が放たれていたが、馬がそこに来たところ突然その牛が死んだ、という話を藤原道長に伝える。 御堂関白記 寛弘3・1・20 59 美濃(守) 頼光の解由状について定めがある。 権記 寛弘4・8・12 60 − 金峯山参詣の藤原道長を水辺まで迎えに行く。 御堂関白記 寛弘6・4・17 62 − 藤原道長が頼光宅に赴く。 御堂関白記 寛弘7・5・12 63 − 藤原道長家の法華三十講で非時を儲ける。 御堂関白記 寛弘7・11・2 63 − 藤原道長が頼光宅で修善を行う。 御堂関白記 寛弘7・11・4 63 − 藤原道長が頼光宅に赴く。 御堂関白記 寛弘7・12 63 − 過去の国司(美濃守)の例として名が挙げられる。 符宣抄8 寛弘8・4・18 64 春宮権亮 賀茂祭で東宮使をつとめ、その際に藤原道長より馬を借りる。 御堂関白記・
権記寛弘8・8・11 64 − 魚袋を着けて参入し、批判を受ける。 小右記 寛弘8・8・23 64 前但馬守 藤原行成の子の元服で酌をとる。 権記 寛弘8・10・19 64 − 正四位下に叙される。 権記 長和1・6・29 65 前但馬守 頼光ら藤原道長の親近者の宅に虹が立つ。 小右記 長和1・12・17 65 − 賀茂臨時祭で祭使を命じられるが、触穢により辞退する。 御堂関白記 長和2・6・25 66 − 藤原頼通が任大納言の慶賀で同道綱家へ向かうが、道綱は舅の頼光宅に住むため、会わず。 小右記・
本朝世紀長和3・4・18 67 内蔵頭 賀茂祭で内蔵寮使をつとめる。 小右記 長和4・4・25 68 − 藤原道綱が同道長の賀茂祭見物の桟敷を準備する、これは道綱家(=頼光宅)が賀茂に近いからである。 小右記 長和4・5・22 68 − 藤原道長家の法華三十講で非時を儲ける。 御堂関白記 長和4・閏6・12 68 内蔵頭・
美濃守法華八講を行う。 御堂関白記・
小右記長和4・閏6・13 68 − 法華八講に藤原道綱・同行成・同兼隆ら公卿が訪れる。 小右記 長和4・閏6・15 68 − 法華八講に天皇より捧物を賜わる。 小右記 長和4・閏6・16 68 − 頼光の法華八講所にいたことにより、僧侶が内裏懺法御読経に遅参する。 小右記 長和5・1・17 69 内蔵頭 後朱雀天皇即位の雑具の奉仕を命じられる。 御堂関白記 長和5・1・29 69 内蔵頭 三条院別当に補される。 小右記 長和5・2・8 69 内蔵頭 昇殿がゆるされる(四位還昇)。 小右記 長和5・2・10 69 − 春日祭使が藤原道綱家(=頼光宅)から出立する。 小右記 長和5・3・28 69 − 藤原実資と同資平が、賀茂祭で滝口が馬副をつとめる際の注意を話す。頼光あたりが滝口に馬副をさせそうだと実資は考える。 小右記 長和5・5・9 69 (三条院)別当 三条院の比叡山行幸で座主に菓子を献上する。 小右記 長和5・7・26 69 − 一条尼が入滅する。尼の婿である藤原道綱は今は頼光宅にある。 栄花物語12 長和5・8・2 69 美濃守 京都大火により美濃から藤原道長のもとに駆けつける。 御堂関白記 寛仁1・5・12 70 − 三条院の葬送のことを後朱雀天皇に奏上する。 御堂関白記 寛仁1・11・22 70 内蔵頭 行幸の料物が不足していることで藤原実資から指示を受ける。 小右記 寛仁2・1・3 71 内蔵頭 後朱雀天皇の元服に奉仕する。 御堂関白記 寛仁2・4・1 71 (伊予)新司 伊予国の大粮米を在京のまま検封する。 小右記 寛仁2・4・5 71 伊予守 藤原頼通から右近衛府大粮米使の拘留を解くように命じられる。 小右記 寛仁2・4・8 71 (伊予)新司 伊予国庁宣に不備があり返される。 小右記 寛仁2・5・22 71 − 藤原道長家の法華三十講で非時を儲ける。 御堂関白記 寛仁2・6・20 71 伊予守 藤原道長の上東門第新造に際して調度一切を献上する。 小右記・
栄花物語14寛仁2・6・28 71 − 藤原道長が上東門第に移る。調度は頼光が献上したものである。 小右記 寛仁3・2・18 72 − 伊予国から帰任し、藤原道長第を訪ね、馬などを給わる。 御堂関白記 寛仁4・4・7 73 − 源経頼が内蔵頭となり、頼光の先例を引く。 左経記 寛仁4・7・19 73 伊予守 藤原道長家の法華三十講で非時を儲ける。 御堂関白記 寛仁4・9・11 73 − 藤原道綱逝去の噂が頼光の辺所より聞かれる。 小右記 寛仁4・10・16 73 − 藤原道綱が薨去する、頼光は若い娘を老齢と知りながら婿に迎えたことを嘆く。 栄花物語16 治安1・7・19 74 摂津守 卒去する。 左経記・
多田系図治安1・7・24 − − 卒去する。 … 疑問 尊卑分脈 治安1・12・18 − − 藤原斉信第が焼亡し、妻らは頼光宅へ向かう。 小右記 寛治3・1・5 - 内蔵頭 内蔵頭の先例として名が挙げられる。 江記逸文 − − 備前介 定功過の例として名が挙げられる。 北山抄10 − − − 恋の歌を詠む。 拾遺和歌集
865− − − 恋の歌を詠む。 後拾遺和歌
集607− − 但馬守 任国の但馬国で歌を詠む(寛弘4〜7ごろか)。 金葉和歌集
659− − − 一条朝の武士として名が挙げられる。 続本朝往生伝 − − − 武者の項に名が挙げられる。 二中歴13 − − − 子(頼国か)の蔵人補任を望むが、藤原知章にはばまれる。 古事談2 − − − 内昇殿、歌人、武略長、通神権化人也、大内守護、
伊豆・信濃・下野守、上総介・上野介、摂津・伊予・美濃・尾張・備前・但馬・讃岐・伯耆・淡路等守、左馬権頭、内蔵頭、正四位下、冷泉院判官代、中宮進、春宮亮、内蔵極臈、左兵衛尉、兵部丞、尊卑分脈
頼親(?〜?)
父 : 満仲
母 : 藤原致忠の女子、もしくは源俊の女子
男子 : 頼成 ・ 頼房 ・ 頼遠 ・ 頼基
年月日 官位 記事 出典 − − 住大和国豊嶋郡、惣而以当流号大和源氏、
大和・周防・淡路・信濃等守、(右馬頭)、左兵尉、宮内丞、正四下、使、左衛門尉、従五下、叙留、
舎兄頼光朝臣卒去之後世人加武将四天王内云々、尊卑分脈
頼信(968〜1048)
父 : 満仲
母 : 藤原致忠の女子、もしくは藤原元方(888〜953)の女子
男子 : 頼義 ・ 頼清 ・ 頼季 ・ 頼任 ・ 義政
女子 : A(源為満室) ・ B(高階成佐室)
・ C(紀維貞室)
年月日 官位 記事 出典 − − 満仲三男也、
内昇殿、伊勢・河内・甲斐・信濃・美濃・相模・陸奥等守、鎮守府将軍、従四上、左馬権頭、冷泉院判官代、治部少輔、皇后宮亮、左衛門少尉、兵部丞、
源氏一流当代相続正統也、尊卑分脈
頼平(?〜?)
父 : 満仲
母 : 源俊の女子
男子 : 頼盛 ・ 忠季 ・ 頼風 ・ 永寿 ・ 頼増 ・ 頼昭
女子 : A(藤原季仲室) ・ B(源資通室) ・ C(源済政室)
生没年は不詳だが、活動時期は10世紀末〜11世紀中頃か。
『尊卑分脈』に「満仲四男、為舎兄頼光朝臣子」とある。父の卒去時、若年であったため兄の養子となったのか。そのためによるか、系譜に混乱・錯誤が見え、頼平子と頼光子・頼範子などとの混同が生じている(重複者系図)。
初見史料は『御堂関白記』長和元年(1012)閏10月27日条。大嘗会御禊で東宮宣旨源扶義女子乗車の前駈を行う。この時すでに「五位」であった。
『小右記』長和5年()正月7日条に「(左馬)助頼平」とあり、『大日本古記録』では「源」と傍註を付しているが、このときの左馬(権)助は高階資平であり、『小右記』の誤記である。また、『小右記』寛仁元年(1017)11月23日条に「左兵衛尉頼□〔平〕」とあるが、これは別人であろう。すでに五位に昇った人物が、兵衛尉になるとは考えにくい。また『左経記』寛仁2年3月13日条に舞人としてみえる「頼平」も、別人であろう。
『小右記』万寿4年(1027)3月17日条に、前日の除目で大蔵大輔に任ずべしとなったものの、少輔の仲舒が上臈であると理由で頼平の昇進はお預けとなったことが記されている。この時、頼平も大蔵少輔であったのか(もしくは権少輔か)。しかし、同長元4年(1031)9月16日条には大蔵大輔と見えており、その後無事に昇進したらしい。
その長元4年9月16日、所充が行われ正倉率分所別当を補す際に、その候補として大蔵大輔である頼平と、同少輔の藤原為資が挙げられた。しかし、頼平は「有分憂之由、別功者也、仍強無件所々望云々」ということで、為資が別当となった。「分憂」とは国司を指す語であるから、頼平は大輔と国司(武蔵守か?)を兼任していたのであろう。国司としての功により、昇叙などの見込みがあるため、所別当は特に望まなかった。
年月日 官位 記事 出典 寛弘8 − 子の頼増が誕生する − 長和1・閏10・27 五位 大嘗会御禊で源扶義女子乗車の前駈を行う。 御堂関白記 万寿4・3・17 大蔵少輔か 前日の除目で大蔵大輔に任ずべしとなったものの、少輔仲舒が上臈であるため停止する。 小右記 長元4・9・16 大蔵大輔 正倉率分所別当の候補に挙がるが、特に望まず、少輔藤原為資が別当となる。 小右記 延久4・10 武蔵守 子の頼増が円宗寺法華会で講師をつとめる。 本朝高僧伝11
寺門伝記補録15− − 大蔵権大輔、武蔵守、治部丞、従五位上、
満仲四男、為舎兄頼光朝臣子、尊卑分脈
頼範(?〜?)
父 : 満仲
母 : 不詳
男子 : 頼綱 ・ 頼家 ・ 頼基 ・ 親弘 ・ 頼弘 ・ 永寿 ・ 頼昭
女子 : A
生没年は不詳だが、活動時期は11世紀前半と推定。
『尊卑分脈』に「満仲七男、為舎兄頼光子」とある。父の卒去時、若年だったため兄の養子となったようである。そのためによるか、系譜に混乱・錯誤が見え、頼範子と頼光子・頼平子などとの混同が生じている(重複者系図)。
初見史料は『御堂関白記』寛弘8年(1011)4月15日条と『権記』同日条。斎院御禊で前駈をつとめる際、甥の頼国と共に藤原道長から馬を借りた。この時、右衛門少尉であった。その後、長和3年(1014)正月10日に昇殿を許されたが、翌4年8月12日に「依不恪勤」ということで除籍。同年9月18日には宥免された(以上、『小右記』)。
長和5年正月29日には、三条上皇の院司(院蔵人)に補されているが(『小右記』)、頼光が三条上皇と近い関係にあったことによる人事であろうか。
これ以後、史料に姿を見せず、また『尊卑分脈』も官暦として受領をあげていないことから、これからさほど遠くない時期に卒去したのではないだろうか。
安田元久氏は、多田庄は満仲から頼範に伝領され、それが頼綱に渡ったとされているが、現存の史料からは断定しづらい。
安田元久「多田源氏の系譜をめぐって」(『武士世界の序幕』、吉川弘文館、1973/10、初出は1973/2)
年月日 官位 記事 出典 寛弘8・4・15 右衛門少尉 斎院御禊で前駈をつとめる際、藤原道長に馬を借りる。 御堂関白記
権記長和3・1・10 右衛門尉 昇殿をゆるされる。 小右記 長和4・8・12 右衛門尉・
検非違使精勤ならざるにより除籍される。 小右記 長和4・9・18 右衛門尉 宥免される。 小右記 長和5・1・29 右衛門尉 三条院蔵人に補される。 小右記 − − 非蔵、右近将監、使、左衛門尉、従五下、
満仲七男、為舎兄頼光子、尊卑分脈
頼明(?〜?)
父 : 満仲
母 : 不詳
系図史料にのみ見える。
『尊卑分脈』は「満仲五男也」とし、掲載順は頼範の後になっているが、「頼範舎兄」であるとしている。また、弟の頼貞とともに長兄頼光の養子になったという。これは、父の卒時にまだ若年であったことによるのであろう。
年月日 官位 記事 出典 − − 出羽守、従五下、山城介、或頼朝、
満仲五男也、此二人(頼明・頼貞)頼範舎兄、為頼光子、尊卑分脈
頼貞(?〜?)
父 : 満仲
母 : 不詳
系図史料にのみ見える。
『尊卑分脈』は「満仲六男」とし、掲載順は頼範の後になっているが、「頼範舎兄」であるとしている。また、兄の頼明とともに長兄頼光の養子になったという。これは、父の卒時にまだ若年であったことによるのであろう。
年月日 官位 記事 出典 − − 帯刀先生、
満仲六男、此二人(頼明・頼貞)頼範舎兄、為頼光子、尊卑分脈
孝道(?〜1010か)
父 : 満仲(実父は源元亮)
母 : 経基女子A
男子 : 政隆
年月日 官位 記事 出典 − − 為満仲子、越前守、正五下、左衛門佐、大和守、従五上、 尊卑分脈
源賢(977〜1020・6・18)
父 : 満仲
母 : 源俊の女子
没年月日は『僧綱補任』による。生年は『尊卑分脈』より逆算である。『尊卑分脈』は寛和4年6月18日に44歳で入滅とするが、これは寛仁4年(1020)の誤と思われる。幼名は「美女丸」。
初見史料は『僧綱補任』長和2年(1013)条で、この年の12月27日法橋位に叙位されたことである。出家の時期は不明である。良源に師事したというのが事実であれば、少なくとも寛和元年(985)の良源寂以前となる。
源賢に関するもっとも著名な話としては、『今昔物語集』19-4の「摂津守源満仲出家語」がある。
これによると、満仲は「世ニ並ひ无キ兵」であり、晩年になっても狩猟を行っていた。これを悲しんだ源賢は、師である恵心僧都源信に相談したところ、源信は自ら満仲のもとに行き出家させようと答え、覚運・院源とともに摂津国多田へ向かった。3人の高僧が多田で説経を行うと、満仲は「音ヲ放テ泣」、満仲の「鬼ノ様ナル心有ル」郎党らもみな泣きはじめた。満仲は出家を思い立ち、鷹鷲を放ち、武具などを焼き捨て、多田に寺院を建立した。そして、このとき満仲の郎党ら50人あまりもともに出家したという。
これはあくまで説話で、全てを事実とするわけにいかないだろう。
『小右記逸文』永延元年(987)8月16日条に「前摂津守満中朝臣於多田宅出家云々、同出家之者十六人、尼卅余人云々、満中殺生放逸之者也、而忽発菩薩心所出家也」とあり、世の人にとって意外な出家だったのには間違いないであろう。
保立道久氏はこの出家を、花山上皇の出家と関連するもと考えている。
歌人としても活躍し、『源賢法眼集』が残り、『後拾遺和歌集』にも2首が入っている。
年月日 歳 官位 記事 出典 長和2・12・27 37 天台僧 法橋に叙される。 僧綱補任 長和3 38 法橋 − 僧綱補任 長和4 39 法橋 − 僧綱補任 長和5 40 法橋 − 僧綱補任 寛仁1・12・25 41 法橋 法眼に叙される。 僧綱補任 寛仁2 42 法眼 − 僧綱補任 寛仁3 43 法眼 − 僧綱補任 寛仁4・3・22 44 法眼和尚位 御堂会の供養僧をつとめる。 左経記 寛仁4・6・18 44 法眼 入滅。 僧綱補任
尊卑分脈− − 法眼 秋の歌を詠む。 後拾遺和歌集374 − − 法眼 弟子にと思っていた稚児を他者にとられ、それを歌に詠む。 後拾遺和歌集1126 − − − 父の満仲に出家をすすめる。 今昔物語集
19−4− − − 号多田法眼、又号摂津法眼、後拾遺作者、
法眼、恵心僧都弟子、八尾住侶、
此子孫丹波国犬甘党并経師一流有之云々、尊卑分脈
頼尋(?〜?)
父 : 満仲
母 : 不詳
系図以外の史料では、永承3年の興福寺落慶供養の僧の中に、延暦寺僧頼尋と東寺僧頼尋が記されているが、この頼尋と同人かは不明(『造興福寺記』永承3年閏正月13日条)。
そのほかでは『本朝高僧伝』50-4-5「京兆釈王寺沙門頼尋伝」が見える。同伝は「未詳何姓、或曰、摂津守源満仲之子」と記している。そして、頼尋は仁和寺の性信入道親王に随い伝法灌頂をうけたものの、「性嫌僧綱」ということで阿闍梨位で終わったという。そして、釈王寺を開いたという。
このことは『諸門跡譜』にも見えている。
年月日 官位 記事 出典 永承3・閏1・13 − 興福寺落慶供養の僧に定められる。 造興福寺記 − 阿闍梨 釈王院を開く。 諸門跡譜 − 阿闍梨 釈王寺を開く。 本朝高僧伝50 − − 阿闍梨、 尊卑分脈
満仲女子A(?〜?)
父 : 満仲
母 : 不詳
夫 : 藤原頼親(972〜1010)
男子 : 頼心(?〜?)
『尊卑分脈』にのみ見える。夫の藤原頼親は道隆(953〜995)の子、伊周(974〜1010)の弟。子の頼心は同書に「阿闍梨」とある。
年月日 官位 記事 出典 − − 母源満仲女、 尊卑分脈(頼心の項)
満仲女子B(?〜?)
父 : 満仲
母 : 不詳
夫 : 源敦(?〜?)
『尊卑分脈』にのみ見える。夫の源敦は仁明源氏の賢(?〜?)の子、光(845〜913)の孫。
年月日 官位 記事 出典 − − 多田満仲聟、 尊卑分脈(源敦の項)
満仲女子C(?〜?)
父 : 満仲
母 : 不詳
夫 : 藤原道綱(955〜1020)
『尊卑分脈』には見えない。満仲女子A・女子Bのいずれかと同人の可能性もある。
ここでは夫を藤原道綱としたが、正式に婚姻があったかは不詳。
永観元〜2年(983〜984)ごろ、この女子をめぐって道綱と藤原実方(?〜998)が競った。『大斎院前の御集』245〜248・『道綱母集』20によると、父の満仲は実方との婚姻を望んでいたらしい。しかし、最終的には道綱が選ばれた様子。これは、この女子が父の意向に背いたものか、父が方針を改めたのかは不明。
道綱は兼家(929〜990)の子で、師輔(908〜960)の孫。実方は定時(?〜?)の子で、師尹(920〜969)の孫。ということで、両者は再従兄弟であった。ちなみに道綱はこの後、長和2年(1013)以前に、この女子の姪にあたる頼光女子Cと婚姻をしている。
竹鼻績『実方集注釈』(私家集注釈叢刊5、貴重本刊行会、1993/10)
年月日 官位 記事 出典 − − 藤原実方より歌を贈られる。 実方集117〜120 − − 藤原実方と同道綱の2人から求愛される(永観1〜2年頃か)。 大斎院前の御集245〜248