摂津源氏1

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経基(?〜?)
父 : 貞純親王、もしくは元平親王
母 : 源能有の女子か
男子 : 満仲満政満季満実満快満生満重 ・ (満頼
女子 : A(源元亮室)

系譜・生没年に疑問がもたれている。
『尊卑分脈』などでは、清和天皇の孫、貞純親王の子とされている。これに対し、星野恒氏は「源頼信告文」を根拠に、陽成天皇の孫、元平親王の子であるとした。星野説(陽成源氏説)が有利と考えるが、「告文」の史料性の問題もあり、現状では確定し難い。
生没年であるが、『尊卑分脈』は天徳5年(961)11月10日(4日とも)に45歳で卒去したことになっている。逆算すると、生年は延喜17年(917)となる。しかし、長子の満仲が延喜12年の誕生であるから、これでは合わない(満仲の生年にも疑問ありか)。ちなみに『勅撰作者部類』は天徳2年11月24日に45歳で卒去と伝え、これに従えば生年は延喜14年となるが、これも合わない。
ここでは管見史料から、9世紀末誕生、10世紀中ごろまで活動した、と考えておく。

初見史料は『将門記』である。そこには承平8年(938=天慶元年)2月に武蔵介であったと記されている。この時、武蔵国で足立郡司武蔵武芝と争い、調停に入った平将門の動きを見て、武芝将門が与したと思い京に逃げ帰り、将門の反乱と報告した。
この記述は『貞信公記』に裏付けられ、天慶2年(939)3月3日、将門の反乱と報告したことが記されている。『扶桑略記』天慶3年(940)2月8日条に、将門の乱鎮圧のための征夷使の補任記事があるが、そこで征夷副将軍に補され、再び東国に向かっている。しかし、征夷軍到着前に乱は鎮圧され、功績を上げることはできなかった。

将門の乱の平定後、大宰権少弐に任じられ、九州に下向した。この補任は藤原純友の乱に対するもので、追捕使次官も兼ねていた。また、純友の乱の平定後も権少弐の職にあり、『貞信公記』天慶9年(946)11月21日条には、対馬に国籍不明の大船が来着したとの報告を行ったことが記されている。権少弐は、外国船を警戒する警固使を兼ねる先例があり、この記事からその任にあったことが分かる。
古代史紀行〜源経基へ経基関係の史跡
年月日 官位 記事 出典
延喜14 誕生(勅撰作者部類説→天徳2・11・24)。
延喜16・5・4 父の貞純親王が薨去する。 帝王編年記
延喜17 誕生(尊卑分脈説→天徳5・11・10)。
承平8・2 武蔵介 判官代・足立郡司の武蔵武芝と争う。 将門記
天慶2・3・3 平将門の乱を言上する。 貞信公記
天慶2・3・9 経基の言上を受け、十一社祈祷・延暦寺修法が行われる。 貞信公記
天慶2・6・7 武蔵介 経基の言上を受け、武蔵密告使が補される。 本朝世紀
天慶2・6・9 密告のことにより一旦左衛門府に禁固される。 貞信公記
天慶2・6・28 経基の密告状が弁官に下される。 貞信公記
天慶3・1・9 従五位下に叙される。 貞信公記
天慶3・2・8 征夷副将軍に補されるが、到着前に乱は鎮圧される。 扶桑略記
天慶3・3・9 従五位下に叙せられ、大宰少弐に任じられる。 扶桑略記
帝王編年記
天慶3・11・21 藤原純友に対する追捕使次官に補される。 扶桑略記
天慶4・11・29 追討凶賊使権少弐・
警固使権少弐
豊後国で合戦し、賊首桑原生行を捕らえる。 本朝世紀
天慶9・11・21 (大宰)少弐 対馬に大船が来着したことを報告する。 貞信公記
天暦8・5・15 正五位下に叙される(天慶8か?)。 勅撰作者部類
天徳2・6・15 姓を源と賜る。 … 疑問 将門純友東西軍記
天徳2・11・24 卒去する。45歳(=延喜14誕生)。 勅撰作者部類
天徳5・6・15 姓を源朝臣と賜る。 … 疑問 尊卑分脈
天徳5・11・10 卒去する。45歳(=延喜17誕生)。 尊卑分脈
永承1 孫の頼信が岩清水八幡宮に告文を奉納する。その中に経基元平親王の子、陽成天皇の孫とある。 源頼信告文
恋の歌を詠む。 拾遺和歌集686・909
筑前守 子の満仲が出家する。 今昔物語集19-4
鎮守府将軍、又筑前・信濃・美濃・但馬・伊予等守、
武蔵守、下野介、正四位上、上総介、内蔵頭、太宰
大弐、左衛門権佐、式部丞、兵部少輔、左馬頭、
歌人、拾遺集作者、天性達弓馬長武略、号六孫王、
依為第六親王子也、
此王於西八条池為竜令住之云々、
尊卑分脈

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〜経基子〜

満仲(913〜997・8・27)
父 : 経基
母 : 橘繁古の女子、もしくは藤原敏有の女子
男子 : 頼光頼親頼信頼平頼範頼明頼貞 ・ (孝道) ・ 源賢頼尋
女子 : A(藤原頼親室)B(源敦室)C(藤原道綱室)

没年は『尊卑分脈』などは全て長徳3年(997)とするが、没時の年齢が史料によって異なる。ここでは『尊卑分脈』にしたがい延喜13年(913)の誕生としておく。しかし、父の経基の没年などの問題もあり、これも絶対確実なものとは言い切れない。

初見史料は『扶桑略記』天徳4年(960)10月2日条で、平将門の子が入京したという噂により、検非違使や大蔵春実といった「武勇人」とともにその捜索を行った。これ以前の活動は知ることが出来ないが、「武勇人」としての活動が出来、国家からもその役割が求められていたことが分かる。

そして、この後は受領や馬寮の官職を歴任していった。受領をつとめることで私財を多くわえ、また摂津国河辺郡の多田に私領を形成し、多田院を建立したことが知られている。満仲と摂津国・多田との接点は、現存する史料では、天元末から寛和までの摂津守時代のみである。『勅撰作者部類』は、天元6年(983)3月25日に摂津守に「還任」したとする。これ以前にも摂津守の任にあったことが伺えるが、正確な時期は不明である。

満仲の事績でもっとも有名なものは「安和の変」の密告であろう。満仲は、安和2年(969)3月25日に源連・橘敏延らの謀反を密告、それがもとで左大臣であった源高明は大宰府へ左遷となった。このような密告を行った理由としては2つのことが考えられている。

1つは、「武勇人」同士の勢力争いである。この事件で隠岐に配流となった藤原千晴は、秀郷流藤原氏で、満仲とほぼ同格の存在であった。千晴源高明を本主としており、高明とともに勢力を強めつつあった。満仲としてはライバルを蹴落とすために、この密告を行った、という説である。

もう1つは、摂関家との関係である。満仲藤原師尹・兼家いずれかの家人で、それらの命によりこの密告を行ったというものである。摂関家と満仲を結ぶ直接的な史料はないが、満仲女子Aが、兼家の孫の頼親の室となっていたり、満仲女子C兼家の子の道綱から求愛をされたりということから、何らかの関係があったことは推測して良いだろう。

晩年、多田において出家したが、それについては子の源賢の項を参照。
年月日 官位 記事 出典
延喜12・4・10 誕生(尊卑分脈は「王館」、多田院文書は「王家」、纂要は「多田館」において、とする … ともに疑問)。 尊卑分脈・
多田院文書・
系図纂要
延喜13 1 誕生(尊卑分脈の卒年から逆算→長徳3)。
承平5 24 源姓を賜る(「御歳廿四」の時とし、年月を記さず)。… 疑問 多田院文書
天暦2 36 子の頼光が誕生する。
天徳4・5・10 48 武蔵権守 自宅に強盗が入る(応和1・5・10と同内容)。 古事談4
天徳4・10・2 48 平将門の子が入京したという噂により、検非違使らとともに捜索する。 扶桑略記
応和1・5・10 49 前武蔵権守 宅に強盗が入り、自ら犯人を捕らえる。強盗は親繁王の指示で入ったという。 扶桑略記
応和3 51 正四位下に叙される。 … 疑問 系図纂要
康保2・7・21 53 左馬助 御鷹飼に補される。 村上御記
康保2・8・7 53 左馬助 甲斐駒牽に奉仕する。 北山抄8月
康保2・11・14 53 左馬助 これ以前に交野へ派遣され、新嘗会に間に合わなかったが、見参に載せられる。 西宮記11月
康保4・6・14 55 左馬助 村上天皇崩御による固伊勢関使に補されるが病を申す。 本朝世紀
安和1 56 住吉社に参詣し、霊夢を授かり多田に館を構える(58歳とする)。… 疑問 多田院文書
安和1 56 子の頼信が誕生する。
安和2・3・25 57 左馬助 源連・橘敏延らの謀反を密告し、弟の満季藤原千晴・久頼らを捕らえる。 日本紀略
安和2・3・26 57 左馬助 密告により源高明が左遷される。 扶桑略記・
百錬抄・
帝王編年記
安和2・3・27 57 密告により正五位下に叙される。 日本紀略
安和2 57 内裏昇殿をゆるされる。 系図纂要
天禄1・8 58 多田院を建立する(60歳とする)。 帝王編年記・
多田院文書
天延1・4・23 61 前越□守 自宅を放火され、数百件が延焼する。弟の満季が嫌疑人を捕らえる。 親信卿記
天延1・4・24 61 前越前守
摂津守
自宅に強盗が入り放火される。 日本紀略・
新国史
天延1・4・25 61 強盗が放火したことにより捜索あり。 百錬抄
貞元2 64 子の源賢が誕生する。
天元5・3・5 70 常陸介 兼馬権頭に任じられる。 小右記
天元6・3・25 71 摂津守に還任される。 勅撰作者部類
寛和2・8・15 74 出家する(尊卑・纂要は75歳、多田院は76歳とする)。… 疑問 尊卑分脈・
多田院文書・
系図纂要
寛和2 74 肥後に赴任する清原元輔の餞別の宴を催す。 拾遺334
永延1・8・16 75 前摂津守 多田の宅で出家する、ともに16人が出家、尼になる者30余人という。 小右記
正暦2・3・18 79 河原院の五時講に参列する。 続古事談4
長徳3・8・27 85 卒去する(多田院は86歳、纂要は88歳とする)。 多田院文書・
系図纂要
長徳3・9 85 満仲の追悼のため、藤原仲光が高野山に石塔婆を立てる。 高野春秋
長徳3 85 卒去する(85歳とする)。 尊卑分脈
武者の項に名が挙げられる。 二中歴13
一条朝の武士として名が挙げられる。 続本朝往生伝
摂津守 子の頼尋が釈王寺を開く。 本朝高僧伝50-4-5
院源の説教を聞き出家する。 元亨釈書4
摂津守・
左馬頭
源信の説経を聞き出家する。 今昔物語集19−4
昇殿、鎮守府将軍、武略長、歌人、拾遺集作者、
摂津・越前・伊予・美濃・信濃・武蔵・下野・陸奥等守、
左馬助、兵部少輔、武蔵介、正四位下、又上総・常陸介、
春宮帯刀、兵庫允、伊予目、左馬允、春宮亮、
当代源家武門正嫡、依住摂津国多田郡、号多田、建立多田院、
尊卑分脈

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満政(?〜?)
父 : 経基
母 : 橘繁古の女子、もしくは藤原敏有の女子
男子 : 忠重 ・ 忠隆 ・ 忠国
女子 : A(源重文室)

満正」とも(こちらの方が正しいか)。
『系図纂要』は天延元年(973)8月24日に卒去とするが、寛弘年間まで活動が見られるので、誤りである。

初見史料は『日本紀略』正暦5年(994)3月6日条。官位は不明であるが、平維時源頼親同頼信らとともに「武勇人」として召され、盗賊の捜索のため山々に派遣された。当然、郎党を率いての活動である。

藤原道長に接近し、たびたび馬を献上した。寛弘元年の時は「満正朝臣夜部入京」とあり、京外にいたことがわかる。ちなみに、京内の宅は一条にあったことが『御堂関白記』寛弘6年11月26日条に見える。

『続本朝往生伝』に、一条朝の代表的「武士」として兄満仲や甥頼光とともに名が挙げられており、「武勇輩」のはしりとも言える人物である。子は衛府官人となり、さらに子孫は美濃に留住し同族の国房と争った。
年月日 官位 記事 出典
正暦5・3・6 盗賊を捜索するため、平維時源頼親同頼信らとともに「武勇人」として召される。 日本紀略
長徳4・2・23 武蔵国の治国の功により従五位上に叙される。 権記
長保1・1・7 正五位下に叙される。 小右記逸文
長保1・12・26 藤原道長に馬10疋を献上する。 御堂関白記
寛弘1・12・27 入京し藤原道長に馬10疋を献上する。 御堂関白記
寛弘1・12・29 満正辺物」である某氏高・藤原為国藤原道長に馬を献上する。 御堂関白記
寛弘2・1・19 藤原道長に馬を献上する。 御堂関白記
寛弘5・3・27 (前陸奥守) 陸奥国の任終年金についての定めがある。 御堂関白記
寛弘6・10・26 一条の満政宅から火災がおこる。 御堂関白記
長元4・2・23 前陸奥守 以前の例として名が挙げられる。満政が陸奥守の時、砂金の代わりに絹を収めた。 小右記
使、鎮守府将軍、従四位下、陸奥・伊予・武蔵等守、治部少輔、左衛門大尉、兵庫允、左馬助、兵部丞、
号八島、又号村岡大夫、
尊卑分脈

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満季(?〜?)
父 : 経基
母 : 藤原敏有の女子
男子 : 満頼 ・ (到公)

生没年は不詳だが、活動時期は10世紀後半と推定。

初見史料は『日本紀略』安和2年(969)3月25日条。「安和の変」の記事である。兄満仲源連らの「謀反」を密告し、それを受けて、検非違使であった満季は前相模介藤原千晴とその子久頼らを捕らえた。
その後、天延元年(973)4月23日には、満仲宅に放火した犯人を捕らえるといった活躍をした。これは検非違使としてではなく、兄の宅にいた、もしくは近くにいたことによるのであろう。

『御堂関白記』寛弘2年(1005)7月6日条には「故満季」とあり、10世紀末〜11世紀初頭には卒去したことがわかる。ちなみに、この記事には、「北辺の故満季の家地に馬が来たところ、そこに放牧されていた雌牛が斃死した」、という話を源頼光藤原道長に報告したものである。頼光が語っていることから、満季の遺領(の一部?)は彼に渡ったのであろうか。

満仲満政らと同様に、武力をもって朝廷・上級貴族に仕えた「武勇輩」であった。
満頼は、父経基の養子となった。致公は養子で、実父は醍醐源氏の忠賢である、と『尊卑分脈』は記す。理由は不明。
年月日 官位 記事 出典
安和2・3・25 検非違使 兄の満仲の「安和の変」の密告を受けて、藤原千晴・久頼らを捕らえる 日本紀略
天禄3 右衛門尉 大夫尉となる 二中歴2
天延1・4・23 右衛門少尉 兄の満仲宅を放火した嫌疑人を捕らえる 親信卿記
寛弘2・7・6 甥の頼光が故満季の家地に馬が来たところ突然そこにいた牛が死んだ、という話を藤原道長に伝える 御堂関白記
経基王三男、武蔵守、従四位上、治部允、兵庫助 尊卑分脈

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満実(?〜?)
父 : 経基
母 : 橘繁古の女子、もしくは藤原敏有の女子

系図史料にのみ見える。『尊卑分脈』には子が記されていないが、『小笠原系図』は「小田・小山・足助等之祖」とする。
安田元久氏は、「『尊卑分脈』における満仲の諸弟に関する記載は、満政満季を除いて、かなりの作為を認めねばならない」としている。
満仲弟関係論文安田元久「源満仲とその説話について」(日本歴史学会編『歴史と人物』、吉川弘文館、1964/11)
年月日 官位 記事 出典
経基王四男、陸奥介、下野掾、従五上、 尊卑分脈

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満快(?〜?)
父 : 経基
母 : 不詳
男子 : 満国 ・ 行頼 ・ 頼季

正しくは「満扶」か。
系図以外では、『類聚符宣抄』(第8・越勘事)寛弘7年(1010)12月官符に「(下野)前前司守源朝臣満扶・藤原朝臣亮明・大江朝臣佐理、不勘公文頻以卒去」と記されるのが唯一である。任期は不明だが、下野守在任中に卒去した、ということか。

安田元久氏は、「『尊卑分脈』における満仲の諸弟に関する記載は、満政満季を除いて、かなりの作為を認めねばならない」としている。
満仲弟関係論文安田元久「源満仲とその説話について」(日本歴史学会編『歴史と人物』、吉川弘文館、1964/11)
年月日 官位 記事 出典
寛弘7・12 (下野)前々司守 公文を勘せずに卒去した過去の例として名が挙げられる。 類聚符宣抄8
経基王五男、下野守、相模介、使、右衛門尉、従五上、 尊卑分脈

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満生(952〜973・7・24)
父 : 経基
母 : 不詳

系図史料のみに見える。『系図纂要』は「一ニ満成」と記し、天延元年(973)7月24日に22歳で卒去とする。
安田元久氏は、「『尊卑分脈』における満仲の諸弟に関する記載は、満政満季を除いて、かなりの作為を認めねばならない」としている。
満仲弟関係論文安田元久「源満仲とその説話について」(日本歴史学会編『歴史と人物』、吉川弘文館、1964/11)
年月日 官位 記事 出典
経基王六男、上総掾、 尊卑分脈

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満重(?〜?)
父 : 経基
母 : 不詳

系図史料にのみ見える。満仲満重の音がともに「マンジュウ」であることから、満仲の重複かと考えられる。
安田元久氏は、「『尊卑分脈』における満仲の諸弟に関する記載は、満政満季を除いて、かなりの作為を認めねばならない」としている。
満仲弟関係論文安田元久「源満仲とその説話について」(日本歴史学会編『歴史と人物』、吉川弘文館、1964/11)
年月日 官位 記事 出典
経基王七男、出羽介、従五下、 尊卑分脈

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満頼(?〜?)
父 : 経基(実父は満季
母 : 不詳

満季の子だが、養子となったと『尊卑分脈』に見える。理由は不明。
年月日 官位 記事 出典
従五下、下野守、上野掾、
経基王八男、実満季男、
尊卑分脈

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経基女子A(?〜?)
父 : 経基
母 : 不詳
夫 : 源元亮
男子 : 源孝道

『尊卑分脈』源孝道項に「母経基王女」とある。これにより孝道満仲の養子となったのか。
年月日 官位 記事 出典
経基王女、 尊卑分脈(源孝道の項)

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