〜雑感・古代史コラム〜

藤原姓のはじまり(2006/6/19)
渋川廃寺と崇仏・排仏戦争(2005/5/30)
平将門の妻(2002/11/29)
国郡名の由来(2002/7/18)
 付・大伴→伴氏の改姓(2002/8/4)
藤原為房の室となった源頼国の女子(2002/2/15)
獅子座流星群(2001/11/16)
山背大兄王と大海人皇子(2001/7/8)
大監物永道輔範?(2001/4/25)

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藤原姓のはじまり(2006/6/19)

最初に予防線を張っておきましょう.
ちょっと妄想しました.
関連する先行研究は見ていません.
すでに論じられていたらごめんなさい.

『日本書紀』によると,
天智天皇8年(669)に中臣鎌足に藤原姓が賜られた.
これは史実なのだろうか.

鎌足の死後,藤原姓が『日本書紀』に出てくるのは,天武天皇2年(673)2月癸未条
しかし,これは天武の妻と所生子の記述なので除く.
次に出てくるのは,天武天皇14年(685)9月辛酉条である.
藤原朝臣大嶋が衣を賜った記事である.

大嶋は,鎌足の叔父の糠手子の孫.
壬申の乱後に処刑された中臣連金の甥である.
大嶋は,天武天皇12年(683)12月丙寅条では,中臣連大嶋となっている.

天武天皇12年12月と14年9月の間に,改姓したということになる.
天武天皇13年(684)10月朔に八色の姓が制定された.
翌月朔に,中臣連は朝臣姓を賜った.
その後,もしくはその時を機会に,大嶋が改姓をしたのではないか.


天武朝には有力氏族の改姓がほかにもあった.
たとえば物部氏.
当時の氏上は物部連(朝臣)麻呂であった.
麻呂は,天武天皇10年(681)12月癸巳条までは,物部連姓で記されている.
しかし,朱鳥元年(686)9月乙丑条以降は,石上朝臣姓となっている.

膳氏が高橋氏に改めたのも八色の姓の制定のころという.
蘇我氏が石川氏と称し始めたのも,このころから.

石上・高橋・石川は,
それらの氏族の,このときの本拠地名である.
膳氏の場合は詳細は不明だが,
物部・蘇我氏は本宗家が絶え,
石上・石川を本拠とする枝族が,それに取って代わった.

中臣→藤原も,これらの例と同時期であることを考えると,
同じことが言えるのではないだろうか.

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渋川廃寺と崇仏・排仏戦争(2005/5/30)

渋川廃寺の発掘調査報告書を見ました.
諸書にその名は良く出てくるわりに,詳細が書かれていることはない.
で,どの程度の規模の寺院なのか,どこまでわかっているのかが知りたくて,
国立国会図書館まで行ってきました.

渋川廃寺は,大阪府八尾市のJR関西本線八尾駅の周辺で見つかった古代寺院跡のこと.
この辺りは,物部守屋の本拠地で,
『日本書紀』用明天皇2年(587)4月丙午条には,
「阿都」守屋の別業があったことが記されており,
また,『日本書紀』崇峻天皇即位前紀丁未年7月条には,
「渋河家」というのが見えています.
「阿都」は,渋川に隣接する跡部のことで,
この2つは同一のものと見て良いのでしょう.

さて,報告書.
第2〜4次の報告書を見ましたが,本当にごく一部しか発掘されていないんですね.
数字やアルファベットが苦手なので,さーっと流し読みしただけなんですが,
創建瓦は7世紀の第2四半期ですか.
ということは,推古朝末期から乙巳の変前後.
物部の本宗家,滅びてるよ….
渋川廃寺=物部氏の氏寺

物部氏も仏教を受容していた

蘇我氏物部氏の対立は崇仏・排仏が原因ではない
というのは成立しないことになりますね.

だからといって,「崇仏・排仏論争が史実だった」となるわけでもありませんが,
やはり,あっても良いかなぁなどと思います.
蘇我氏が仏教を受け入れることで渡来人の支持・協力を得たように,
物部氏は国神への信仰で自己のグループをまとめようとした,
ということがあってもおかしくないのではないでしょうか.
などと妄想する今日この頃です.

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平将門の妻(2002/11/29)

平将門の乱の基本史料として『将門記』があります.
物語ですが,内容は基本的に信用に足るものです.

が,冒頭部が欠しております.
ですから,将門は,いきなり源扶と戦っており,
「なぜ戦い始めたのか?」というのがわからないわけです.

で,その欠けている部分を補うのが『将門略記』
これによると,将門は「女論」により,伯父の平良兼と争うことになった,と.
「女論」とは,女性を巡るトラブル.
良兼の娘が将門の室となっており,それに関してトラブルが生じたのであろう,
といわれています.

じゃぁ,どんなトラブルか?
これがわかりません.
将門と駆け落ちした,という説もあります.
戦いの最中,将門妻良兼軍に捕らわれるのですが,
『将門記』には,「夫婦バラバラになってもラブラブ」とあります.
んでもって,そのは密かに逃げ出して,将門のもとに帰った,と.
これを見ると,駆け落ち説も納得できますかね.

しかし,良兼はなんで反対したんでしょう?
この結婚は,将門の父良持の遺領を手に入れるチャンスでもあった,
とか思うんですけどね.

さて,こんなイイ感じの将門なんですが,気になる伝承が….

「桔梗」という名の将門が,
を裏切って藤原秀郷と組み,将門を討った,と.
この裏切りの話は後代に作られたものでしょうから,
全く信じてませんが,なぜに,こんな話しが誕生したんでしょうね?

「超人的な力を持つ将門が,そう簡単にやられるわけがない」
「身内に裏切り者がいたんだよ」ってな感じですかね.

将門妻がきっかけで始まった将門の戦い,
それを終らせたのがだとしたら,
物語としたら,まぁ綺麗かな.

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国郡名の由来(2002/7/18)

大化改新によって,国・評(郡)・里制が定められた.
それ以前の国造の「クニ」が改められ,行政区画が再編されたのである.
その再編によって,新しい名称が付けられたが,
漢字表記は統一されず,同じ国でも色々な字が使われた.

和銅6年(713)5月2日『風土記』の編纂に際して,
「畿内七道諸国・郡・郷名着好字」(『続日本紀』同日条という命令が出された.
これにより,国・郡・郷名は漢字2字の表記に統一されるのである.

三野国美濃国は,もともと音が2字なので,
良い文字を選べば良いので簡単である.
上毛野国无邪志国のような,それまで3字で表記されていた国も,
上野・武蔵国と無理矢理2字となった.

今まで1字で記されていた国も,当然2字とされた.
粟国は,阿波国.これは音が2字なので,問題ない.
音が1字の名称が問題となる.
木国紀伊国津国摂津国となった.

しかし,表記が変わっても読みは旧来のままであった.
紀伊国「きのくに」と読まれ,摂津国「つのくに」である.
しかし,字に流されて「きいのくに」「せっつのくに」と読むようになったのである.

ちなみに,氏の名も(全てではないが)2文字になっていった.
多治比氏丹比・多治氏に,春日部氏春部氏のように.

地名を2字に統一というのは,中国の影響である.
氏の名は,このあと中国の影響を受け,漢字1字が流行るようになる.
源・平氏などがその例である.
大伴氏→伴氏も,その流れであろう.

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〜 大伴→伴について 〜

(2002/8/4)

末尾の大伴氏の改姓に関して,掲示板でいくつか質問を頂きました.
そちらで記しました私見をこちらにまとめておきます.

大伴淳和天皇の諱を避けたのでは?」と突っ込みを頂きました.
普通そう説明されますし,それが改姓の主たる理由だと思います.
『日本紀略』弘仁14年4月壬子条に「改大伴宿祢、為伴宿祢、為大伴宿祢触諱也」と記されております.
しかし,単にそれだけでは説明しきれないんではないかな,と.

この改姓を申し出たのは当時の大伴氏の最上位者であった大伴国道(左中弁従四位下)だと言われています.
国道の父は継人.延暦4年(785)の藤原種継暗殺の首謀者です.
この事件で大伴氏の主なものは連座となり,勢力を失いました.
この改姓は,諱に触れる,というのもあるのでしょう,表向きの理由として.
ですが,それ以上に起死回生を狙う大伴氏のスタンドプレーのニオイがしませんかね?

光仁天皇の諱に触れるということで,白髪部真髪部とされました.
それより前,藤原部葛原部に改められました.
というように,奈良朝では触れる時は字を改めていたわけですが,
1字にする,というのは,やはり流行か?と思ったわけです.

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藤原為房の室となった源頼国の女子(2002/2/15)

源頼光の子,頼国
この頼国は子沢山で,男子は11人もおりました.
そして,女子も多くおりました.
その中の1人,藤原為房の正室となった女性を紹介したいと思います.

この女性,本名は分かりません.
私は,勝手に「頼国女子B」と呼んでおります.
ここでは「B子」としておきましょう.

さてさて,このB子長承2年(1133)4月25日に89歳で卒去したことが,
『中右記』に記されておりますので,
生年は寛徳2年(1045)になります.
頼国の五男の頼綱万寿2年(1025)の誕生です.
B子は,頼国の子の中でも下の方ですね.

そして,B子藤原為房の室となります.
婚姻の時期は不明ですが,
2人の間の長子の為隆延久2年(1070)生まれですから,
1060年代末B子が20歳前半のことでしょうね.
頼国は,天喜6年(1058)に卒去しているので,
娘の婚姻は見ずに,でしょうね.

夫となった為房は,藤原師実家の家司を勤めていました.
B子の兄の頼綱師実の家司でしたから,
その縁による婚姻でしょうか.
となると,父の卒去後,頼綱家にいたのかもしれません.
B子も女房として師実家にいた,というのもありえないことではないでしょう.
妄想のし過ぎかな?

で,為房ですが,非常に優秀な人物で,
彼の父の隆方は四位で受領どまりでしたが,
為房は参議にまでのぼります.
ちなみに,為房の母は『行親記』の記主,平行親の女子です.
まぁまぁこのホームページに縁のある方なのです.

摂関家からも,白河院からも,鳥羽天皇からも信任が厚かった有能な為房
その正室となったB子は,為隆・顕隆・重隆・長隆
さらにもう1人出家して比叡山に入った子をもうけます(女子については不明).

で,長子の為隆の日記が『永昌記』です.
その中に,母であるB子に関する記述がいくつか見えております.
そのいくつかを見てみましょう.


天永2年(1111)7月1日条.
…自去半夜祗候相公(為房)大炊殿、母堂(B子)胸病被更発也、山座主仁豪令受戒、…


同5日条.
未明参相公第、老母被行七仏薬師読経、…晩頭結願、胸病更発、
仏力可疑哉、十二大願一而有虚歟、今夜宿留大炊殿、…


同11日条.
終日訪申老堂胸病、臨夕帰畢、増賢律師施験徳、…
律師退出之後、即以更発云々、
仏徳豈以可然哉、(為隆)全不被信受也、

この頃,B子は胸を患っていたようで,
大炊第で,天台座主の仁豪より戒を受け,「七仏薬師読経」を行い,
さらに律師増賢の祈祷を受けました.
しかし,病は良くなりません.
効力を見せない仏力に,為隆は不信感を持ち,不満を日記に書き残しました.


大治4年(1129)7月30日条.
…奉拝尊堂(B子)、示云、「生年八十五、所望者汝之在世、早以入滅」
厳命之至、涕泗成雨露袖、及艾焦胸、…


白河上皇の葬送で忙しい最中,
為隆は九条に住まう母のもとを訪れます.
B子が彼を呼んだのかもしれません.
この年の正月15日,次男の顕隆が58歳で薨去しました.
夫の為隆もすでになく,3人の子にも先立たれた85歳の老母,
「せめて為隆よりは先に逝きたい」と.

母の「厳命」を聞き涙を流した為隆も,
その翌年,大治5年(1130)9月8日,61歳で薨去しました.
一人残ってしまった老母.
その心の内がいかなるものか,知る由もありません.

そして,長承2年(1133)4月24日
89歳で,ようやく夫や息子のもと行くことになりました.


親に先立つのは最大の親不孝,といいます.
私の場合,父が長生きしそうです.
100は軽く行きそうな感じです.
大変です.

それはともかく,
親を思う子,子を思う親,の姿が見られる良い史料だと思いませんか?

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獅子座流星群(2001/11/16)

「今年こそ」,らしいですね,
獅子座流星群.

この流星群,1998年2月に地球の公転軌道付近を通過したテンペル・タットル彗星の残した塵です.
同彗星は,98年にはじめて地球に接近したわけではなく,33年周期で来てます.
ということで,平安時代の例を見てみましょう.

『日本紀略』康保2年(965)2月7日条に,
「今夜、南方自坤至艮、客星出」とあります.
おそらく,テンペル・タットル彗星のことでしょう.

そして,同4年(967)9月9日条に,
「亥時流星如月、自艮亘坤、衆星西乱、終夜流散」と,
北東から流星があったことが記されています.
獅子座流星群ですね.
で,同月13日に大赦,19日に奉幣が行われました.

つづいて,長徳4年(999)正月26日に,彗星が現れました.
『帝王編年記』「寅刻、彗星見東方,長四尺許」とあります.
で,流星群は,長保4年(1003)9月に目撃されてます.
『日本紀略』同年9月6日条「終夜流星」
7日条「今夜自子時至寅、流星」とあります.
『権記』同6日条にも「暁信親云、有流星之事」と,
平信親と,この変異について語ったことが記されてます.

それと,『行親記』にも,
長暦元年(1037)の流星群についての記述があるのですが,
これは,「史料講読」でのお楽しみにしましょうか.
いつになるか分かりませんが.

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山背大兄王と大海人皇子(2001/7/8)

『日本書紀』は面白い史料である。
ああでもない、こうでもない、と遊べる。
というわけで、遊んでみましょう。

聖徳太子の子に山背大兄王という人物がいた。
彼は、皇位継承候補者であったが敗れ、蘇我入鹿らによって滅ぼされた。
その時の逸話が『日本書紀』皇極天皇2年11月朔条に見えている。

さて、滅ぼされる際、三輪文屋君という人物が山背に対して、
「詣東国以乳部為本、興師還戦、其勝必矣」と進言した。
一旦東国に逃げ、乳部を兵力として集めれば勝てる、ということである。
これに対して、山背は、「以一身之故、豈煩労万民」と答え、斑鳩寺に入り自害したという。

ちなみに、乳部は壬生部のことでで、
上宮王家の資養にあたった部民と考えられている。
『日本書紀』推古天皇15年2月朔条に、その設置記事が見える。
余談だが、壬生部の設置=厩戸皇子の執政開始、と私は考えている。

さて、本題に戻ろう。
皇位継承争いに敗れ、一族とともに山背が滅んだというのは、これは事実であろう。
しかし、一族の命と繁栄よりも民の命を優先した、
という部分は後世の作と見たほうが良いだろう。

この話を後代のものとするのならば、何故作られたのか。
山背が仏教興隆者と位置付けられた太子の子であったため、というのが通説である。
太子の子であったため、単なる政争に敗れたという話が、美談の如きになった、と。

しかし、それだけではないと考える。
ひっかかるのが、三輪文屋の台詞である。
文屋「東国の壬生部」、と言っている。
壬生部は、かなりの数が設置されていたことが確認できる。
20数ヵ国に及んでいる。
西国にも多い。
なぜ「東国」と限定する必要があったのか?

入鹿らが攻めてきた時、山背らは斑鳩にいた。
斑鳩は、飛鳥の北西に位置し、飛鳥から難波津への途中にある。
となると、西のほうが逃亡しやすいのではないか。

『日本書紀』は、歴史書であるが、ヤマト王権が倭を支配することの正当性、
天武天皇の即位の正当性を主張することが、編纂の目的の一つであった。

結論を言うと、山背の滅亡説話も、
天武の正当性を主張するために作られたものと考える。

『日本書紀』によると、天武(大海人皇子)は、
天智天皇10年に皇位継承権を放棄し、出家して吉野へ入った。
しかし、近江朝廷側は大海人の存在は危険であるとし、臨戦体制をとった。
この動きを聞いた大海人は、美濃に入り兵を集め、
甥の大友皇子を自殺に追い込み、勝利した。

東国に行かずに滅びた山背
東国で挙兵し勝利した大海人

「あの時、吉野を逃げて、東国に行かなければ、
こっちがヤラレてたんだよ、山背は行かなくて滅んだじゃない」

と、『日本書紀』は、天武天皇は、語っているように見える。
天武の正当性を主張するのは巻28(壬申紀)だけではない。

なぁんてことを妄想したりするわけです。
結構、説得力ありそうでしょう?
でも、全然実証的してないし、史料批判すらしてないわけで、
覆そうと思ったら、いくらでも出来ちゃう。

最初にも書いたように、『日本書紀』は遊べる史料。
言った者勝ち。
それも、よりセンセーショナルなことを言った者が勝ち。
って、ことで、上の文章、真に受けないように。

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「大監物永道輔範?」(2001/4/25)

「大監物輔範」という人物が、
『御堂関白記』(1)長和2年4月27日・(2)同5年11月9日条
『小右記』(3)長徳元年10月1日・(4)寛弘2年5月23日・(5)同8年正月16日・(6)同年8月16日条
『権記』(7)長徳3年10月1日・(8)長保2年10月15日・(9)同3年12月27日条に現れている。

赤字で示した条では、傍注で氏姓を「永道」と記している(『御堂関白記』・『小右記』は『大日本古記録』、『権記』は『史料纂集』)。
『平安時代人名辞典』(高科書店、1993/2)もそれに従い、「永道輔範」で項をたてている。
しかし、これは適当ではない。

ここでは、なぜこれらの校訂者が「輔範」の氏姓を「永道」と考えたのか、
またなぜそれが誤りだと言えるのか、述べてみたい。

「永道氏」の根拠となっているのは、(8)の史料であろう。
ここには、「大監物永道・輔範等各申障」とある。
『史料纂集』本は「永道」「輔範」を別人と判断し、その間に並列点(中黒)を付けているが、
『史料纂集』本刊行前は、これを1人の人物と考えたのであろう。
『史料纂集』本の校訂者は、「大監物永道輔範」の後の「等」「各」に注目したのだと思う。
「等」「各」が付くということは、「障を申した」のが人物が複数いたことを指す。
1人だけならば、この語句は用いない。

さらに史料(3)を見てみると、「大監物輔範重服、永道忌日、仍不参、又大監物申障」とある。
大監物の定員は2人である。
その2人の大監物が、「輔範」は重服を、「永道」は忌日を理由に、ともに参内しなかったのである。
「皆」の字がそれを物語っている。
「重服と永道氏の忌日によって不参」ではない。

「永道」は『小右記』長保元年12月5日条に、「一品宮以大監物永道有御消息」と、1人でも現れている。
この記事は「輔範」の姓だけを記したものではないだろう。

『大日本古記録』本の『御堂関白記』・『小右記』は、『史料纂集』本『権記』よりも前に刊行された。
その頃は、史料(8)を読み違え、「永道氏の輔範」と読んでいた。
『史料纂集』本の校訂者も、当初は先達に従い、(7)では「永道」と傍注をしたものの、
(8)でおかしいことに気が付いたのであろう。

『大日本古記録』本『小右記』の校訂者も(3)の史料で、おかしいことに気付き、
そこでは傍注を付けていないのだが、(4)〜(6)では先例に従ってしまっている。
先日、岩波書店から『小右記』が復刊されることをお知らせしたが、
訂正されているか、そのままか、どちらであろうか。

ちなみに「永道」の姓は藤原と推測されるが、「輔範」は不明である。

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