
天智天皇2年(663)の白村江の戦いで,日本は唐・新羅連合軍に敗北しました.
唐・新羅が日本に侵攻する危険が生じ,
防衛のために西国各地に造られたのが朝鮮式山城です.
鞠智城はその1つと考えられています.
史料上の初見は『続日本紀』文武天皇2年(698)5月甲申(25日)条で,
「令大宰府、繕治大野・基肄・鞠智三城、」とあります.
修繕させているので,これ以前には当然造られていたことがわかります.
『日本文徳天皇実録』天安2年(858)6月己酉(20日)条に
「・・・大宰府言、・・・又肥後国菊池城院兵庫鼓自鳴、同城不動倉十一宇火、・・・」とあります.
9世紀中ごろまではある程度維持されていたことが分かります.
不動倉とは不動穀を納めた倉のこと.
租として集められた稲は正倉に納められます.
正倉がいっぱいになったら国司・郡司が鍵をかけ,その鍵は中央で管理.
非常用の備蓄米ですね.
兵粮として貯えていたのか,施設があるから利用していただけなのかはわかりませんが,
その不動倉が鞠智城にあったのは間違いないわけです.
上の写真だと,八角鼓楼が目を引きますが,その脇に写っている建物が正倉です.
大量の炭化米が発見されているそうです.
天安2年の火災のものと考えて良いでしょうね.

↑池の尾門跡を城の外側から.
南西側の門で,谷間がキュっと狭くなる場所にあった.
ここから中に入ると広くなる.
門の復元はムリだろうなぁ.

6世紀初頭の前方後円墳.
全長44mと,それほど大規模なものではありません.
墳丘にあった石人は東京国立博物館にあるらしい.
この古墳の特徴は石室内部.

↑は,古墳の脇にある復元石室.
実際の石室内部は1日2回,決まった時間にだけ公開されています.
ちかくにある山鹿市立博物館で受付です.
わたしが行った時にはその日の公開は終わってしまっていました.
この写真の真ん中に◎ ◎がありますが,これが古墳の名称の由来.
乳房がチブサンになり,乳の神として信仰されたとか.
そうそう,市立博物館に行ったら,石室のポストカードもらいました.


チブサン古墳の西にある円墳.
円墳なんですが石室入り口の両側に前庭部があるのが特徴.
前方部が削られたのではなく,最初からこの形状らしいです.

古墳脇にある石室の閉塞石.
西南戦争のときに持ち出され,防御壁がわりにつかわれたとかで,弾痕が残っています.
命のやりとりやっているときには文化財など無意味.
文化財が保護されつづける世の中を守りたいものです.

岩原双子塚(いわばるふたごづか)古墳を中心にする古墳群.
大小13の円墳があるそうです.
県立装飾古墳館が隣接しております.
古墳館でいただいたパンフレットによると,岩原双子塚古墳は全長126m.
しかし,『熊本県の歴史散歩』(2010年,山川出版社)には107m.
20mも違っているなぁ.
パンフの方は周壕を含めたサイズなのかもしれませんね.
その県立装飾古墳館.
自販機で入場料を支払い入ると,受付の人が「いま3Dの映画が始まったところなので急いで」と.
素直な私は急いで映写室へ.
「磐井の乱」のドラマでした.
いやぁ今はやりの3D.
ヤリが飛び出すババンバン剣が飛び出すババンバン
と「鋼鉄ジーグ」の替え歌が出てくる感じ.
「熊本は有史以来,中央には従わないぜ」
それが県立装飾古墳館の公式見解なのだな.

「ワカタケル大王」の名が刻まれた鉄刀が出土したことで有名な古墳.
全長は61mと規模は大きくはない.
墳丘はかなり削られちゃったようで,
土盛をして前方後円墳の形を復元しています.
上の写真ですと,木が生えていない形が整えられているところが復元された箇所.
木の生えている丘がもともとの墳丘ということになります.

後円部に横穴石室があり,自由に入ることが出来ます.
「扉を開けっ放しにしないで」という注意書きがあります.
一人で入るとき,これが怖いんだよなぁ.
古墳に閉じ込められたらどうしよう・・・と.

九州自動車道の上にある古墳群.
写真は台地の一番端にある方形周溝墓群.

台地の奥(南)へゆくと円墳の群.
大小あわせて500基が確認され,77基が復元されている,とのこと.

九州自動車道から古墳群を守るための運動が起こり,
結果,古墳群の下にトンネルを掘ることになった.
高速道路の建設で破壊された遺跡も多々あるでしょうが,
そのおかげで遺跡が発見される場合もあります.

塚原古墳群の南南東にある寺院跡.
熊本交通センターからバスで鰐瀬まで約1時間.
600円ちょっとだったか.
白鳳期の寺院で,肥後では最古の寺院と言われています.
法起寺式の伽藍であったことが分かっています.

礎石のいくつかには文字が刻まれています.
江戸時代に二次利用されたようですね.

塔跡の南東にある瓦窯跡.
陳内の集落には方向と距離を書いた案内板が各所に出ているので安心です.
瓦窯跡は竹林を数分登ったところにあります.
穴の仲は怖いので,これより先には行っていません.
ここでは時代順に紹介するってことで,塚原古墳群を先に書きましたが,
実際には陳内のあと古墳群に行きました.
で,古墳群にある城南町歴史民俗資料館で「瓦窯跡に行ってきました」と話すと,
館の方が「大変だったでしょう.でも今の季節の方が良いですね.夏はマムシがいますから」と・・・.
夏に行かれる方は気をつけて.

現役の国分寺.
本堂の床下に講堂の礎石が残っているらしい.

国分寺の塔の心礎.
現・国分寺の東南の熊野坐神社にあります.
解説板では,もとの場所からは動いているとのこと.
でも,現・国分寺が講堂ですから,国分寺式の伽藍配置の常識からいけば,
この場所からそう遠くないところにあったでしょうね.
肥後国分尼寺は,水前寺公園を挟んで北東にあったようです.

神社はそんな古いものかどうか分かりませんが,
このあたりが肥後国府のウワサ.
肥後国府は二転三転したといわれています.
色々な説があるようですが,託麻郡→益城郡→飽田郡と移転したと.
「託麻国府」は現・国分寺の西方の熊本市国府本町あたりと言われています.
ただ,ここは白川の氾濫により,移転したと.
「益城国府」は,上の陳内廃寺の北方と言われています.
そして,「飽田国府」はこの二本木あたりと推定されています.
ただ,遺跡がちゃんと出ているわけではないので,今後どうなるかわかりませんけど.
〜参考文献〜