淡路国の史跡

常隆寺(淡路市久野々)


延暦4年(785)9月,藤原種継暗殺事件が起きた.
桓武天皇の同母弟の早良親王派が起こした事件であった.
桓武早良を捕らえ,山背国乙訓寺に幽閉し,淡路国に配流することとした.
早良は乙訓寺で絶食し,移配途中に大坂で死去した.
そのの遺体は淡路国に運ばれ,葬られた.

その後,怨霊への恐怖から,早良を慰めるための方策がとられた.
その一つが寺院の建立.
『日本後紀』延暦24年(805)正月甲申(14日)条に,
「奉為崇道天皇、建寺於淡路国」とある.
崇道天皇早良におくられた尊号で,
早良のために淡路国に寺を建てた,ということ.

その寺が,この常隆寺といわれている.
古くは「廃帝院霊安寺」と称したというが,「廃帝」というと淳仁天皇なのでは?

本堂の裏手を登ると奥の院があるらしいのだが,パス.

天王の森(淡路市仁井)


早良親王が埋葬されたと伝えられる場所.

『日本紀略』延暦19年(800)7月己未(23日)条に,
「詔曰、云々、宜故皇太子早良親王追称崇道天皇、
故廃皇后井上親王追復称皇后、
其墓並称山陵、
令近衛少将大伴是成、率陰陽師・衆僧、鎮謝在淡路国崇道天皇山陵」

とあり,
怨霊対策で,早良親王「崇道天皇」の号が贈られ,
親王の墓を山陵に認定し,
そのため,使者を淡路国に派遣したとのこと.

その後,大和国に改葬されることになった.
ということで,ここは陵墓に指定はされていない.
まぁ,ここが本当に埋葬地かもはっきりしていないのだが.

この解説板によると,この社の前の池は「早良池」というとか.

伊弉諾神宮(淡路市多賀)


イザナギ・イザナミ両神を祀る.
延喜式内社で,淡路国一宮.

イザナギが国生みを終えたあと,ここに隠れたという.
写真は拝殿.
この後ろの本殿の下に,イザナギの陵墓があるとか.

『日本三代実録』貞観元年(859)正月27日甲申条に,
全国267社に神階を与えた記事があるが,
その筆頭に書かれているのが,この神社.
この時,无品勲八等から,一品になった.
一位ではなく,一品.
位ではなく品を与えられたのは,
このときは伊佐奈岐命と備中の吉備都彦命(二品)だけ.

この神社の北に「郡家(ぐんげ)」というところがあり,
そこには郡家古墳があるということでしたが,
場所がよく分かりませんでした.

それから,この神社の東に「高島陵」という淳仁天皇陵候補地があるらしいが,
これもよくわからず.
事前にしっかり調べて,細かい地図を持って行かなきゃダメね.

大和大国魂神社(南あわじ市榎列掃守)


大和大国魂神を祀る.
延喜式内社で,淡路国二宮.
国府のある平地を見渡せる高台に立つ.

『文徳天皇実録』仁寿元年(851)12月壬寅(5日)条に,
官社に列したと記されている.

「一遍聖絵」には,ここの境内で念仏踊りをする場面があるとか.

おのころ島神社(南あわじ市榎列下幡多)


イザナギ・イザナミ・菊理媛命を祀る.
『古事記』の序盤でイザナギイザナミが国生みする前に,
作った島が「淤能碁呂(オノゴロ)嶋」

岩波思想大系の頭註によると,
「オノ」は「自ら」,「ゴロ」は「凝る」で,
「自ら凝り固まった島」という意味だとか.
そして,「神話における抽象的な島名であろう」と.

この神社は海に囲まれた島ではなく,
平地の中に小丘.
でも,まぁ島のような感じはする.

淡路国分寺塔跡(南あわじ市八木国分)


国分寺は,聖武天皇の時代,
全国に建立を命じられた鎮護国家のための寺院.
淡路国分寺の創建は明確ではないが,
奈良時代後半には,国府に近いこの地に建立されたようだ.

『日本霊異記』下巻25に,淡路国分寺が出てくる.
紀伊の漁師の2人が遭難し,ともに淡路に流れ着いた.
1人は紀伊に帰ったものの,
もう1人は,「このまま帰ればまた殺生を生業としなくてはならない」と言い,
淡路国分寺に留まって,僧に仕えたという.

写真は,塔の基壇を南側から見たところ.
塔跡には大日堂が建っており,心礎は堂の下にあるとか.

淡路国分寺瓦窯跡(南あわじ市八木国分)


国分寺の西側の畑が,
かつて国分寺の瓦を焼いたところ.
各地に残る国分寺瓦窯は登り窯で,
山すそとかにあるので,
こんなまっ平らな所にあったとは,ちょっと驚き.

ここから北西700メートルぐらいのところに,
国分尼寺跡があるらしい.

事代主神社(南あわじ市市市)


市戎とも呼ばれる神社.
その名から,このあたりに国府の市があったと考えられている.

諾宮神社(南あわじ市市市)


事代主神社のすぐ近くの畑のなかにある神社.
と言っても,石の祠が4つ並ぶだけ.
国司館跡と伝えられる.

丘の松(南あわじ市十一ヶ所)


事代主神社の北100メートルぐらいにある陵墓参考地.
淳仁天皇の殯(もがり)の地という.
殯とは,「喪上り」で,古代の葬送儀礼のこと.

淳仁天皇は,舎人親王の子で,
藤原仲麻呂に擁立されて即位した.
しかし,仲麻呂が敗死すると,
孝謙上皇によって退位させられ,淡路公として淡路に配された.

その死は,やや不自然.
『続日本紀』天平神護元年(765)10月庚辰(22日)条に,
「淡路公不勝幽憤、踰垣而逃、
(淡路)守佐伯宿祢助・掾高屋連並木等率兵邀之、
公還明日薨於院中」

と記されている.

この直前,称徳天皇は淡路の対岸の紀伊国に行幸し,
雅楽や雑技を催している.

これは,淳仁に対する挑発行為らしく,
淳仁はまんまと乗せられ,
幽閉されていた場所から逃げ出したものの,
国司の率いる兵の追撃にあい,
幽閉先に戻ったものの翌日に死去した,という.

野辺の宮(南あわじ市十一ヶ所)


淳仁天皇が幽閉されていた場所という.
いまでは小さな祠とゲートボール場.

『続日本紀』天平神護元年(765)2月乙亥(14日)条に,
「 勅淡路国守従五位下佐伯宿祢助、
風聞、配流彼国罪人、稍到逃亡、
事如有実、何以不奏、
汝簡朕心、往監於彼、事之動静、必須早奏」

とある.
罪人こと淳仁天皇が,幽閉先から逃亡したにも関わらず,
国守の佐伯助がそれを報告しなかったらしい.

さらに続きがある.
「又聞、諸人等詐称商人、多向彼部、
国司不察、遂以成群、自今以後、一切禁断」
と.
都の淳仁派,というか反称徳・道鏡派であろうか,
商人と偽って淳仁のもとを訪れるものが多くあったという.

惣社十一社(南あわじ市十一ヶ所)


野辺の宮の南に位置.
総社というシステムをはじめて考えたのは誰なんでしょうな.
ズボラなヤツめ.

淳仁天皇陵(南あわじ市賀集)


淳仁天皇は,天皇ではなく親王として淡路に葬られた.
『続日本紀』宝亀9年(778)3月己巳(23日)条に,
「勅、淡路親王墓宜称山陵、其先妣当麻氏墓称御墓、充随近百姓一戸守之」
とあり,光仁天皇の勅によって山陵とされた.

淳仁の陵の所在地には,いくつか諸伝があったが,
江戸時代にここだとされた.

平地にある小丘.
自然の丘じゃなくって,古墳だよね.
陵の北1.5キロメートルぐらいのところに,
西山北古墳という,淡路最大の横穴式石室を持つ円墳がある(行っていないけど).
その円墳に先行する首長墓なんじゃないかね.

古墳を再利用して,淳仁を埋葬したのでしょう.
ここが本当に淳仁陵なら.

当麻夫人墓(南あわじ市北阿万筒井)


淳仁天皇の母,当麻真人山背の墓.
淳仁陵の南に位置.

『続日本紀』淳仁天皇即位前紀に,
「母当麻氏、名曰山背、上総守従五位上老之女、
帝受禅之日、授正三位、後尊曰大夫人」
とある.

当麻夫人が,いつ死去したかは不明.
淳仁とともに淡路に配されたんですかね?

ここもどうやら古墳.
淳仁陵とことなり,墳丘の周りは見られる.
前方後円墳に見えた.

さらにこの南にも小丘があった.
これも古墳だろうねぇ.


〜参考文献〜