大化の改新
7世紀の初め、中国では隋がほろび、唐にかわった。唐は、北朝から隋にかけて発達してきた均田制・租庸調制などを柱に、律令制をととのえ、強大な中央集権国家をつくりあげた。
唐の発展は、朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の3国にも大きな影響をおよぼした。3国はそれぞれ中央集権化をめざすために、朝鮮半島の政治の主導権をにぎろうとし、たがいに争った。さらに唐が高句麗への攻撃をはじめたため、緊張が高まった。
日本では、馬子のあと蘇我蝦夷が大臣となり、皇極天皇の時には、蝦夷の子入鹿がみずからの手に権力を集中しようとし、有力な皇位継承者の1人であった山背大兄王をおそって自殺させた。このようななかで、唐から帰国した留学生や学問僧によって東アジアの動きが伝えられると、豪族がそれぞれに私地・私民を支配し朝廷の職務を世襲するという、これまでの体制をあらため、唐にならった新しい国家体制をうちたてようとする動きが急に高まった。645年、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)は中大兄皇子とはかり、蘇我蝦夷・入鹿父子をほろぼした。そして孝徳天皇が即位し、中大兄皇子は皇太子となって新しい政府をつくり、国政の改革にのりだした。新政府では、中臣鎌足が内臣、唐から帰朝した僧みん・高向玄理が国博士となり、中大兄皇子をたすけた。
新政府は、中国の例にならってはじめて年号をたてて大化とし、都を難波に移した。そして翌646(大化2)年、4ヵ条からなる改新の詔を発した。それは、(1)皇族や豪族が個別に土地・人民を支配する体制をやめて国家の所有とし(公地公民制)、豪族にはかわりに食封などを支給する。(2)地方の行政区画を定め、中央集権的な政治の体制をつくる(3)戸籍・計帳をつくり、班田収授法を行う、(4)新しい統一的な税制を施行する、というもので、新しい中央集権国家のありかたがはっきりとうちだされている。政府はこの方針にしたがって改革を進め、こののち、唐を模範とした律令による中央集権国家の体制がしだいに形成されていった。
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