中大兄皇子の周辺で
 

 中大兄皇子と言えば、小学生でも「大化の改新」という歴史的事件を知っている。そして、受験勉強で645年に起きた事件であることをゴロ合わせで暗記した経験のある人も多いだろう。中大兄皇子と共にその大化の改新に貢献したのが中臣鎌足(後の藤原鎌足)であることも周知の事実である。
 しかし、中大兄皇子に対する評価は必ずしも肯定的なモノばかりではない。そこにまさに「血で血を洗う古代史」あるいは「古代天皇制における内紛」を見出すことができると思う。
 それでは、中大兄皇子の生きた時代を歴史教科書により引用してみよう。以下は、山川出版社の「詳説 日本史」改訂版(1985年3月5日)からの記述である。

 

大化の改新

 7世紀の初め、中国では隋がほろび、唐にかわった。唐は、北朝から隋にかけて発達してきた均田制・租庸調制などを柱に、律令制をととのえ、強大な中央集権国家をつくりあげた。
 唐の発展は、朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の3国にも大きな影響をおよぼした。3国はそれぞれ中央集権化をめざすために、朝鮮半島の政治の主導権をにぎろうとし、たがいに争った。さらに唐が高句麗への攻撃をはじめたため、緊張が高まった。
 日本では、馬子のあと蘇我蝦夷が大臣となり、皇極天皇の時には、蝦夷の子入鹿がみずからの手に権力を集中しようとし、有力な皇位継承者の1人であった山背大兄王をおそって自殺させた。このようななかで、唐から帰国した留学生や学問僧によって東アジアの動きが伝えられると、豪族がそれぞれに私地・私民を支配し朝廷の職務を世襲するという、これまでの体制をあらため、唐にならった新しい国家体制をうちたてようとする動きが急に高まった。645年、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)は中大兄皇子とはかり、蘇我蝦夷・入鹿父子をほろぼした。そして孝徳天皇が即位し、中大兄皇子は皇太子となって新しい政府をつくり、国政の改革にのりだした。新政府では、中臣鎌足が内臣、唐から帰朝した僧みん・高向玄理が国博士となり、中大兄皇子をたすけた。
 新政府は、中国の例にならってはじめて年号をたてて大化とし、都を難波に移した。そして翌646(大化2)年、4ヵ条からなる改新の詔を発した。それは、(1)皇族や豪族が個別に土地・人民を支配する体制をやめて国家の所有とし(公地公民制)、豪族にはかわりに食封などを支給する。(2)地方の行政区画を定め、中央集権的な政治の体制をつくる(3)戸籍・計帳をつくり、班田収授法を行う、(4)新しい統一的な税制を施行する、というもので、新しい中央集権国家のありかたがはっきりとうちだされている。政府はこの方針にしたがって改革を進め、こののち、唐を模範とした律令による中央集権国家の体制がしだいに形成されていった。

 

律令国家の形成
 

 孝徳天皇の末年、中大兄皇子は難波を去って飛鳥に移った。このころ朝鮮半島では新羅が統一にのりだし、660年、唐と協力してまず百済をほろぼした。百済ではそののちも豪族が兵を集めて唐や新羅の軍に抵抗し、日本に救援を求めた。日本はこれに応じて兵を朝鮮半島に送ったが、663年、白村江の戦いで唐軍に敗れ、朝鮮半島からしりぞいた。新羅はそののち、唐と連合して高句麗をほろぼし、676年には唐の勢力を追い出して、朝鮮半島の統一を完成した。
 敗戦後の緊張の高まった667年、中大兄皇子は都を飛鳥から近江に移し、翌年には即位して天智天皇となった。天皇は新羅や唐の動きに対処して国防の強化をはかるとともに、内政に力をそそいだ。天皇は、最初の令である近江令を定めたといわれ、また670年には全国にわたる最初の戸籍である庚午年籍をつくり、改新政治の推進につとめた。
 大化の改新以来、30年近くも鎌足とともに政治にあたっていた天智天皇が世を去ると、翌672年、天智天皇の弟大海人皇子は、天皇の子大友皇子を擁する勢力と対立して吉野で兵をあげ、美濃を根拠地に東国の兵を集め、大和地方の豪族の協力をえて近江の大友皇子の朝廷をたおした(壬申の乱)。乱後、皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。天皇は強大な権力をにぎって豪族をおさえ、官位や昇進の制度をととのえて彼らを官僚として組織することにつとめ、さらに八色の姓を定めて、豪族を天皇中心の新しい身分秩序に編制した。天皇は、律令や国史の編纂にも着手した。
 天武天皇のあとをついだ皇后の持統天皇は、中央・地方にわたる政治機構をととのえるとともに、国家運営の中心として、中国の都城にならった広大な藤原京を、飛鳥の北方にいとなんだ。こうして、大化の改新以来の律令国家建設の事業は、ようやく完成に近づいた。

  非常にボリュームのある内容なので、頭の痛くなった人も多いことであろう。しかし、この文章の中味は、黒岩重吾氏にかかれば多くの歴史小説が書かれるほどの内容である。蘇我・物部抗争を扱いながら蘇我馬子が出てくる作品として、「磐舟の光芒」、聖徳太子を扱った作品として「斑鳩王の慟哭」、蘇我氏の盛衰を扱った作品として「落日の王子・蘇我入鹿」、大海人皇子と大友皇子の争いである壬申の乱を扱った作品として「天の川の太陽」、大海人皇子の恋人である額田王を扱った作品として「茜に燃ゆ」、そして律令制度を完成させた藤原不比等を扱う「天風の彩王 藤原不比等」が既に著されており、その間の空白を埋めるかの如く、「中大兄皇子伝」(講談社)が発刊された。
  黒岩重吾氏によれば、中大兄皇子は「1500年前に聖域なき改革を断行した男」なのだそうである。月刊誌「現代」(講談社2001年7月号)によれば、中大兄皇子は当時の東アジアの情勢から国家存亡の危機をいち早く察知し、中央集権国家の確立と行政改革に乗り出したと言います。中大兄皇子は、壮大な公共事業を中止し、私地・私民を廃して、公地公民制を目指すという先見の明をもつ指導者であり、当時は反対者が多かったようである。その反対者を次々と倒しながら、強大な権力で達成していったために改革否定者も存在したのである。
  若き日の中大兄皇子は、舒明天皇(じょめいてんのう)と宝皇女(たからのひめみこ)の子として生まれ、蘇我蝦夷と入鹿親子の傀儡政権の憂き目に遭っていた。舒明天皇死後、蘇我氏のロボットとして即位が予定されていた古人大兄皇子の即位を阻止するために、宝皇女を皇極天皇として即位させた。その後、蘇我入鹿は、皇極天皇に接近し、大臣として実権を握り、専横を行おうとしたために、中大兄皇子と中臣鎌足によって暗殺されることとなったのである。
  蘇我氏の光芒については、先に説明した黒岩作品の「磐舟の光芒」、「斑鳩王の慟哭」、蘇我氏の盛衰を扱った作品として「落日の王子・蘇我入鹿」などを読んでその知識を補足したいが、蘇我暗殺にはもう1人のキーパーソンがいる。それは、蘇我臣赤兄(そがのおみあかえ)である。蘇我臣赤兄が、中大兄皇子のために間者的な働きをしたおかげで蘇我入鹿を倒せたという解釈もある。
  また、大化の改新は、その完成には非常な時間がかかった。645年の事件は、蘇我氏を倒すためのクーデターであり、その後の改革が完成するまでには藤原不比等が701年に大宝律令を発するまでに、50年以上の月日を要している。その藤原不比等は、藤原鎌足の子供であるが、黒岩氏は独自の解釈で、小説の中では中大兄皇子(天智天皇)の子供であるかのような記述をしている。入鹿暗殺が、母親である皇極天皇の眼前で実行されたため、そのショックから立ち直れず、弟である軽皇子(かるおうじ)が孝徳天皇として即位し、中大兄皇子の妹の間人皇女(はしひとのひめみこ)が皇后となった。中大兄皇子は皇太子として実権を握り行政改革に本格的に着手した。
  そのころ、弟である大海人皇子の妃として額田王が歌人としての才能を発揮し、中大兄皇子は額田王をどうしても自分の妃にしたくて、両者の間を引き裂いてしまうことになる。その後、大海人皇子を謀反の疑いで、殺そうとするが殺さず、後に息子の大友皇子と大海人皇子の争いにより、壬申の乱が起こることになるが、その当たりの詳細は「天の川の太陽」、額田王を扱った作品の「茜に燃ゆ」を読んで補足しておきたい。
  中大兄皇子の失政に目を向けると、「663年、白村江の戦いで唐軍に敗れ、朝鮮半島からしりぞいた。」という教科書の記述である。唐と新羅の同盟軍に滅ぼされかけた百済を救うという大義名分であったが、後の歴史家たちは無謀な出兵であったと評価している。
 とにかく、中大兄皇子の周辺は、古代史のエピソードに事欠かないのである。

(2001年6月16日)

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