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この研究室では、地域振興や地域産業開発などを研究しています。
その成果として、地域政策関連雑誌などへ寄稿した論文を再掲します。
「人口減少時代の社会・経済と都市行政」
(東京都職員研修所・政策形成文庫『少子社会を考える』─1999,3)
現代社会研究所所長・青森大学社会学部教授・古田隆彦
〔21世紀は人口減少社会〕
21世紀の日本は人口減少社会へ向かっている。その背景には国内的要因と国際的要因がある。国内面では、いうまでもなく、わが国の総人口がすでに急激な減少へと向かい始めていることだ(図1)。国立社会保障・人口問題研究所の予測(1997年推計、中位値)によると、総人口は2007年に約1億2800万人でピークに達し、その後急減して2100年には6700万人になる。だが、1997年以降の出生数はすでにこの予測を下回っているから、今後はより低く推移し、参考推計値の「低位値」に近づく可能性が高い。その場合には、2004年に1億2700万人でピークに達し、2100年には5100万人になる。ピークの時期や最終人口の差はあるものの、いずれにしろ、21世紀の日本は確実に人口減少社会となり、人口増加が常態だった従来の社会とは対照的な社会に向かっていく。
もっとも、ここまで急激に人口が減りはじめると、当然その回復策として出生数の回復や外国人の受け入れといった諸政策が実施されることになろう。だが、結婚促進、妊娠奨励といった出生数の回復政策を採用したとしても、その成果は僅かなものだ。すでにスウェーデンやフランスなど西欧諸国が行った、幾つかの先例をみれば、膨大な税金を投入しても、さほどの効果はあがっていない。後述するように、人口抑制メカニズムという摂理が働いている以上、人為的な政策でいかに抗ろうとしても、その成果はたかがしれている。外国人の受け入れ政策についても、ドイツやスウェーデンの先例を見る限り、あまりに急激な導入は混乱を招くだけだから、実際に回復できるのはせいぜい一割程度、数にして500〜 700万人といったところだろう。
とすれば、さまざまな政策で人口を回復できたとしても、その数は限定的なもので、総人口の減少を食い止めるまでには至らない。
〔人口減少の本当の理由〕
人口が減少する、本当の理由は何か。それを正しく理解しておくことが、今後の社会を考えるうえで極めて大切である。
一般にマスコミや有識者などは、人口減少の理由として出生数の減少をあげ、さらにその直接的な背景として晩婚化、非婚化の急進をあげている。確かに直接的な理由はそこにある。
だが、総人口が減少するのは、出生数の減少に加えて、死亡数が増加するからである。出生数がどれだけ減ったとしても、死亡数が増えなければ、総人口が減るということはありえない。つまり、「少子・高齢化」ではなく、「少産・多死化」によって、人口が減少するのだ。
では、なぜ死亡数は増加するのか。それは平均寿命の伸び率が低下するためだ。そして、その背景には、栄養水準や医療水準の向上によっても、平均寿命がこれ以上大幅に延長することが無理になってきたという事情がある。言い換えれば、現代の経済・技術水準の限界のためである。
一方、出生数の減少原因である晩婚化・非婚化や夫婦間の少産化が進む要因は、生活水準の大幅な上昇が無理になってきたからである。経済が伸び悩み、所得の伸び率が落ちてくると、これ以上の生活の拡大は無理になってくるから、多くの人々は自分の生活や人生と結婚生活や子供を天秤にかけ、やはり自分を優先する生き方を選ぶようになってくる。その結果、子供の数を減らしていくのだ。
とすれば、人口減少の本当の理由は、現代日本を支えている諸条件の飽和化、言い換えれば「人口容量」の飽和化ということだ。人口容量とは、特定の国土を一定の文明によって利用した時、生存が可能になる人口のことである。
〔日本の人口波動〕
実をいえば、日本の人口減少は初めてではない。歴史を振り返ってみると、日本の人口容量は何度か拡大を遂げ、それに伴って人口も何度か増減を繰り返してきた。実際に日本人口の推移を特殊なグラフの上に描いてみると、5つの波が読み取れる(図2)。
人口容量を変化させた最大の要因は、文明の変化である。新しい文明が開発または導入されて、日本列島の自然的条件の利用法が変わる度に人口容量は増加し、それに伴って人口もまた増加していく。だが、人口容量の拡大が止まれば、人口も停滞または減少していく。なぜ停滞に留まらず減少へ向かっていくのか。簡単にいえば、出生数も死亡数も一旦増減が始まると、その傾向は簡単には止まらないからだ。
このようなプロセスによって、日本列島ではこれまでに5つの人口の波が生まれた。具体的にいえば、旧石器、新石器、粗放農業、集約農業、加工貿易文明の5つが開発されたり導入された結果、これに基づいて石器前波、石器後波、農業前波、農業後波、工業現波という、5つの波が発生したのである(1)。この推移は、近代人口学の父、T.R.マルサスが『人口論』(2)の中で指摘した「人口波動(Oscillation)」に相当するから、「日本の人口波動」とよぶことができる。
以上の長期推移をみれば、今始まろうとしている人口減少が、5回目の人口容量の飽和化によることが容易に理解できよう。言い換えれば、加工貿易文明がもはや人口容量を拡大できなくなったためなのである。
〔人口抑制のメカニズム〕
人口容量の上限に近づいた時、人口が停滞する仕組みをもう少し説明しておこう。もし人口が上限を突破すれば、人間は大量餓死に至る。だが、人口は上限に達する前に、人口容量の範囲内で停滞し減少していくケースが多い。その理由について、R.G.ウィルキンソンは「餓死があるのかどうかを決定するのは、文化体系の偏差であって、人間の生理ではない」(3)という。つまり、文化が混乱している時には、人口がそのまま増えつづけて大量餓死に至るが、文化が安定している時には、人口抑制メカニズムが作動して餓死が避けられる、という意味だ。
ここでいう人口抑制メカニズムとは、人間が意志的、制度的、社会的に人口容量の制約に対応することだ。具体的には出生数抑制と死亡数増加であるが、双方に直接的抑制、間接的抑制、政策的抑制の3つの形態がある。
1)出生数抑制では、「直接的抑制」として妊娠抑制(避妊)や出産抑制(堕胎)など、「間接的抑制」として生活圧迫、結婚抑制、家族縮小、家族・子どもの価値の低下、都市化、社会的頽廃化など、「政策的抑制」として強制的出産抑制(例、一人っ子政策)、出産不介入(例、「産めよ増やせよ」政策の放棄)などがある。
2)死亡数増加では、「直接的抑制」として死亡増加の放置や不介入など、「間接的抑制」として飽食・過食による病気の増加、成人病の増加、性的伝染病の増加など、「政策的抑制」として姥捨て(老人遺棄)や強制間引き(嬰児殺し)などがある。
このような各種の人口抑制メカニズムを作動させて、文化の安定している限り、人間は人口を制御するのである。
それゆえ、日本の社会もまた、人口抑制を始めている。国土が狭く、これ以上人口容量の拡大が困難なために、安定した文化を持っている日本人は、人口抑制メカニズムを作動させている。つまり、今始まりつつある人口減少は、先進国の一つとして極めて正常な現象なのである。
勿論、こうした動向は日本に限るものではなく、広く先進国に共通している。例えば北欧、西欧諸国など国土の狭い先進諸国では、人口容量の飽和化に伴って人口抑制メカニズムが作動し始め、1970年代から人口停滞が始まっている。同様の傾向は1990年代から21世紀初頭にかけて、南欧から東欧諸国へと広がりつつある。
しかし、同じ先進国ではあっても、国土の広いアメリカ、カナダ、オーストラリアなどは、21世紀の中頃まで人口が増加していく。あるいは中国やインドがこれに追随しようとしている。その意味では、これらの国々は決して人口の「先進国」ではなく、人口増加の「途上国」なのである。
〔トリレンマへの対応〕
日本が人口減少社会へ向かう、もう一つの要因は、人口・資源・環境のトリレンマに陥りつつある地球社会へ対応していくためだ。
国連人口部の予測(1992年、中位値)によると、世界の人口は2000年の62億人から2025年の85億人を経て、2050年に 100億人、2100年に110 億人に達する(図3)。だが、食糧・資源・エネルギーの需給バランスや環境問題を考えると、現在の地球で実際に生存可能な人口はどうみても80億人程度だ(4)。
それゆえ、このまま人口が増加し続ければ、2020年代には大パニックに陥る。これを避けるには、先進諸国は率先して人口を抑制し、かつ食糧・資源・エネルギーの消費もまた節約し、かつ環境保全に努力しなければならない。つまり、21世紀の先進国とは、成長・拡大を続ける国ではなく、人口・資源・環境のトリレンマを解決すべく、人口減少と生活凝縮を進める国なのである。とすれば、先進国の一翼を担うわが国もまた、この方向をめざす義務があろう。
以上のように、国内的には人口減少の進行、国際的にはトリレンマの対処という二つの面への対応を考えれば、21世紀の日本が人口減少社会へ向かっていくのは、極めて当然かつ必然的なことだ。言い換えれば、21世紀の日本は、これまでの拡大型国家志向を大きく転換して、新たに凝縮型国家へ移行していくことが必要なのである(5)。
かくして、21世紀の日本は間違いなく人口減少社会となり、人口増加が常態だった19〜20世紀とは対照的な社会になる。そうなると、今や必要なことは、国家目標はもとより、経済、産業、生活、都市行政などの諸政策についても、人口減少社会に見合った方向へ転換していくことが必要になる。
〔ゼロ成長でも豊かになる〕
それでは、人口減少社会とは一体どんな社会なのか。経済面でいえば、例えGDP(国内総生産)がゼロ成長であっても1人当たり所得は伸びる。従来の人口増加社会では、増加する人口に対応するため、食糧・衣料・住宅などの原資、つまりGDPの拡大が不可欠であった。増え続ける国民一人ひとりのパイを確保するためには、全体のパイを増やすことが必要であったからだ。
ところが、21世紀の初頭から人口が減り始めると、GDPが全く伸びなくとも横這いでありさえすれば、1人当たりGDPは増加できる。13人で分け合っていたパイは、10年単位で12人、11人と頭数が減るにつれ、次第に分け前が増えてくるからだ。実際、現在のGDP約 500兆円が今後も維持できれば、1人当たりのGDPは現在(96年)の 397万円から、2020年には実質 412万円(1.04倍)、2050年には同 542万円(1.37倍)に増える。
そうなると、人口増加分だけGDPを伸ばさなければならないとか、生活水準向上のために、GDPを伸ばすべきだという議論は全く根拠を失う。さらにGDP拡大を至上主義とした馬車馬的な拡大社会を一旦棚上げにして、ともすればなおざりにしてきた環境問題、所得格差、地域格差、社会病理などを、ゆっくり修復・調整する機会も生まれてくる。他方、国際的にも、トリレンマに向かう地球社会を考えれば、わが国のゼロ成長化は大きな国際貢献になろう。
もっとも、こうした方向を実現するには、かなりの努力が必要だ。実際には人口減少に伴って需要面では購買力の減少が、供給面では労働力人口の減少や年齢構成の上昇で労働力の量的減少・質的低下が懸念され、当然、GDPの低下も起こりうる。そこで、こうした難問を克服するには、より少ない労働力で従来の生産を維持するため、1人当たりの労働生産性や付加価値生産性を上げることが必要になる。
前者を高めるためには、FA(ファクトリーオートメーション)やOA(オフィスオートメーション)など、ロボット化やコンピューター化が急務だろう。1人の労働者がそれらを駆使すれば、 1.5人分、2人分の仕事が可能になるからだ。
一方、後者を高めるためには、モノやサービスの価値を物量的なものから情報的なものへ、表層的な次元から深層的な次元へ、と変えることが必要になる。一例をあげれば、エレクトロニクスやバイオテクノロジーに見られるように、モノそのものの物量的価値よりも、電子や遺伝子など“情報搬送装置”としての価値を高めることだ。あるいは、商品・サービス・情報網の上に、必需的な“使用価値”だけでなく、カラー、デザイン、ネーミング、ストーリーなどの“記号価値”や参加、愛着、審美、信仰などの“心理的効用”を付加することが必要になろう。
つまり、生産の比重をモノからコト(コトバ、デキゴト=サービス)へ移していくことだが、それは高付加価値化としてだけでなく、資源・環境問題への対応策としても必要な対応なのだ。それゆえ、これからの日本人には、そうした付加価値を生み出せる能力が求められる。
〔利点を伸ばし、欠点を抑える〕
社会面でも、プラス、マイナス両面でさまざまな変化が起こる。まず人口減少に伴うマイナス面を考えると、少子・高齢化の進行で高齢者の年金・医療・福祉など社会保障費用の負担が増加するし、また子どもの数が少なくなると、子ども同士や異年齢間の交流の機会が減少し、かつ両親の過保護などで、彼らの社会性の育成が妨げられるなど、青少年の弱体化も懸念される。さらに単身者や子どものいない世帯が増加すると、社会の基礎的単位である家族の形態が大きく変化して、家族形態がますます縮小していくおそれもある。
しかし、これらの危惧のかなりの部分は杞憂だろう。スタンフォード大学のP.エーリック教授によると、老人扶養費の上昇分は子どもの教育コストの減額で大部分が相殺されるし、健康水準の上昇で六五歳以上の働き手が増えるから、逆に減少していくケースも考えられる。社会的革新力の低下も、新しい考え方と経験のバランスをとる中年層の増加で十分補えるという(6)。
教授の考え方をわが国に当てはめると、例えば高齢者の定義を75歳以上にくりあげた場合、2025年のその数は1889万人(16%)で、現在の65歳以上の1900万人(15%)とほとんど変わらない。他方、生産年齢人口(15〜74歳)は8484万人(72%)で、現在の8716万人(69%)より 229万人減るものの、構成比では3ポイント増加する。
また、年少人口は1373万人で、現在より 598万人減り4ポイントも低下する。その結果、生産者比率の横ばいと教育コストの減少で、高齢者扶養をある程度まかなうことが可能になる。つまり、15〜64歳を生産年齢と考える従来の常識を改めれば、人口減少社会の慢性的な人手不足の下では、高齢者はもちろん、女性や弱者までもが一生一人前に働けるから、扶養負担も当然低下していく。
一方、人口減少のプラス面もかなり多い。人口密度が低下すると、環境への負荷が減少し、自然環境への侵犯が抑えられるばかりか、過去の破壊も復修される可能性が高まる。また大都市での住宅・土地問題や交通混雑の緩和も期待できるし、現在のインフラを適切なメンテナンスできれば、1人当たりの社会資本も増加していく。さらに密度の濃い教育が実現され、受験競争も緩和されるから、教育の質的充実化も期待できる。
食糧や資源面でも、過度の輸入を抑えて、自給自立体制が向上できるし、人口増加を支えるための生産拡大は不要になるから、生産優先社会を縮小して生活優先社会への転換が進展する。消費市場においても、永い人生経験で選択眼を肥やした人々が、その膨大な貯蓄を前提に、消費や流行の決定権を握るようになるから、“新しさ”や“流行”よりも“年季”や“伝統”の比重が上がるし、社会風潮でも“成熟”や“落ち着き”が主流になるから、成熟した社会が実現されていく。
以上のように、人口の減少する凝縮社会では確かに欠点も多い。だが、それらを克服していけば、利点もまた大きい。つまり、人口減少社会では、従来の固定観念を捨てて、できるだけ柔軟で自由な視点から諸問題に取り組んでいくことが必要なのである。
〔人口減少時代の有望産業〕
社会・経済構造が以上のように変わるとすれば、産業界もまた新たな対応を迫られる。そこで、今後伸ばすべき産業を展望してみると、次の6つの分野が浮んでくる。
真先に浮上するのは、人口減少が人口容量の飽和化に伴うものである以上、環境や資源に対応する産業だろう。続いて経営環境に変化に伴って、需要の縮小へ対応する産業や、労働力不足へ対応する産業が伸びてくる。一方、人口構造の変化により、少子化へ対応する産業と高齢化に対応する産業、そしてこれらの変化が促す家族の多様化に関連する産業が有力となろう。以下では各産業の凡その方向を示しておこう。
第1の環境・資源制約対応産業では、現在の環境をこれ以上悪くしないための環境保全対応、資源・エネルギーを節約する省資源・省燃料対応、すでに汚染された物質から身を守る汚染回避対応、環境を全体に改善していく総合的環境対応などに関する産業などが伸びてくる。
第2の需要量縮小対応産業では、量的に縮小していく消費市場を質的に補うため、高付加価値化をめざして、ハイテク応用による高機能付加、カラー、デザイン、ストーリーなどの高記号付加、神話や幸運などを乗せる神話付加、自作の満足や愛着を重視する効用付加などに関連する商品やサービスが伸びる。またTPOを重視した複数化、性別・年齢・地域を超える需要層拡大、業種や業態の転換などを推進していく産業も広がるだろう。
第3の労働力減少対応産業では、ロボット化・FA化やコンピューター化・OA化(を推進する機械化代替産業や、未利用労働力や外国人を活用するための労働力活用産業、そして高付加価値を生み出すための知的能力の向上に関する分野が伸びてくる。
第4の少子化対応産業では、すでに生まれ、今後も増えていく少子化世代に対応する消費・サービス産業と、出生数を回復させるため、結婚や妊娠などを促す、さまざまな産業が伸びてくるだろう。
第5の高齢化対応産業では、まだ元気で若々しい前期高齢者(65〜74歳)向けの産業と、介護や治療、そして葬儀や墓地などを生前に手配しようとする後期高齢者(75歳以上) 向けの産業が伸びてくる。
第6の家族多様化対応産業では、若年単身者や高齢単身者の増加に対応する商品やサービス、、今後増加する母子・父子家庭やステップ・ファミリー(再婚者同士の家庭)など、多様化した家族向けの商品やサービスが伸びてくる。
このように、21世紀の有力産業とは、人口減少に伴う凝縮社会化に積極的に対応していく分野なのである。
〔都市行政も発想の転換を〕
以上のような発想の転換は、産業界だけでなく、都市行政にとっても必要だろう。人口の減少する凝縮社会が到来すれば、大都市でも急速な進行する高齢化で、高齢単身者の保護需要が急増するなど、新たな問題が顕在化してくる。他方、過疎地域はますます過疎化するし、さらに広範な地域で過疎化・高齢化が進行して、防災自衛組織や福祉サービス・医療保険の制度的運営などの基礎的サービスが困難になる。産業も縮小するし、税収も減少するおそれもあるからだ。
こうした問題に速効的に対応しようとすれば、とりあえずは地域人口の維持・回復をめざして、出産や育児のための補助を増加させたり、外国人、とりわけ日系人の受け入れを積極的に進めることが必要だろう。だが、すでに述べたように、こうした政策の実施にはさまざまな困難がつきまとううえ、その効果もさほど確実とはいいがたい。
とすれば、むしろ人口減少を不可避と受け止めて、その利点を最大化し、欠点を最小化する方向へ目標を転換したほうが現実的ではないか。その方向とは、例えば次のようなものだ。
1)人口減少とゼロ成長経済が常態化する以上、都市の税収もまたゼロ成長となる可能性が強い。とすれば、今後の都市運営は伸び率ゼロの予算を前提に、行政行為の統廃合と新規・開発行為の選別を、より厳しく行う必要がある。
2)人口減少に伴う市民数の停滞と労働力減少に伴う公務員の減少が進む以上、業務範囲の適正化とともに、行政行為の高能率化が必要になる。
3)少なくなった人口で地域経済を維持していくため、OAやFA化へ対応でき、かつソフトな付加価値を生産できる知的人材を養成するため、教育整備や能力開発を重点的に推進することが求められる。
4)公務員の減少を生産性の向上で補う一方、地域産業の高付加価値化をリードするためにも、各自治体が率先してFA化やOA化を推進することが急務になる。
5)良好な自然環境、ゆとりのある社会環境、成熟した人間関係、安全な農産物など、人口減少のもたらす利点を最大に活用するため、都会人のために週末住宅や休暇住宅、週末農業や長期滞在型産業など、マルチハビテーションを積極的に推進することが望ましい。
6)工場誘致や観光開発よりも、情報化・ソフト化産業を担いうる人材そのものの誘致を積極的に推進することが有効である。
7)過疎化対応として、住民の居住地の集約化やサービス拠点の集約化・ネットワーク化などを推進し、福祉・防災のサービス水準を維持するとともに、いっそうの効率化をはかることが望まれる。
結局、以上のような政策とは、人口減少をマイナスと考えず、むしろ絶好のチャンスとして受け止め、積極的に対応しようとするものだ。さらにいえば、人口減少に伴う凝縮社会こそ、21世紀の世界をリードしていくという自覚を今一度確認することでもある。
(注)
(1)古田隆彦『人口波動で未来を読む』日本経済新聞社、1996
(2)T.R.マルサス、大淵寛他訳『人口の原理 第6版』中央大学出版会、1985
(3)R.G.ウィルキンソン、斉藤修他訳『経済発展の生態学』リプロポート、1985
(4)D.L.メドウズ他、茅陽一監訳『限界を超えて』ダイヤモンド社、1992
(5)古田隆彦『凝縮社会をどう生きるか』日本放送出版協会、1998
6()P.& A.エーリック、水谷美穂訳『人口が爆発する!』新曜社、1994
「凝縮社会への転換と地域行政の方向」
(地方自治職員研修,432号,1998年)
現代社会研究所所長・青森大学社会学部教授・古田隆彦
〔二一世紀は凝縮社会〕
二一世紀の日本は、凝縮社会に向かっていくだろう。凝縮社会とは、従来のように成長や拡大を目標とせず、縮小と熟成を求める社会である。
理由は二つある。一つはわが国の人口が急減していくことだ。国立社会保障・人口問題研究所の予測(一九九七年推計、中位値)によると、わが国の総人口は二〇〇七年に約一億二八〇〇万人でピークに達し、その後急減して二一〇〇年には六七〇〇万人になる。だが、一九九七年の出生数はすでにこの予測を下回っているから、今後はより低くなり、参考推計値の「低位値」に近づく可能性が高い。その場合には、二〇〇四年に一億二七〇〇万人でピークに達し、二一〇〇年には五一〇〇万人になる。
ここまで人口が減りはじめると、当然その回復策として出生数の回復や外国人の受け入れといった諸政策が実施されることになろう。だが、その場合でも、実際に回復できるのは、欧州先進国の先例を見る限りせいぜい一割程度で、数にして五〇〇〜七〇〇万人といったところだ。とすれば、二一世紀の日本は間違いなく人口減少社会となり、人口増加が常態だった一九〜二〇世紀とは対照的な社会になる。
もう一つは、地球単位で進む人口・資源・環境のトリレンマへの対応だ。国連人口部の予測(一九九二年、中位値)によると、世界の人口は二〇〇〇年の六二億人から、二〇二五年の八五億人を経て、二〇五〇年に一〇〇億人、二一〇〇年に一一〇億人に達する。だが、食糧・資源・エネルギーの需給バランスや環境問題を考えると、現在の地球で実際に生存可能な人口はどうみても八〇億人程度だ(メドウズ/ランダース『限界を超えて』ダイヤモンド社)。
それゆえ、このまま人口が増加し続ければ、二〇二〇年代には大パニックになる。これを避けるには、先進諸国は率先して人口を抑制し、かつ食糧・資源・エネルギーの消費もまた節約しなければならない。つまり、二一世紀の先進国とは、成長・拡大を続ける国ではなく、人口・資源・環境のトリレンマを解決すべく、人口減少と生活凝縮を進める国なのである。
以上のように、国内的には人口減少、国際的にはトリレンマという二つの面への対応を考えれば、二一世紀の日本が人口の減少する凝縮社会へ向かっていくのは、極めて当然かつ必然的なことなのである。
〔ゼロ成長でも豊かになる〕
凝縮社会とは、一体どんな社会なのだろうか。経済面でいえば、例えGDP(国内総生産)がゼロ成長であっても一人当たり所得は伸びる。従来の人口増加社会では、増加する人口に対応するため、食糧・衣料・住宅などの原資、つまりGDPの拡大が不可欠であった。増え続ける国民一人ひとりのパイを確保するためには、全体のパイを増やすことが必要であったからだ。
ところが、二一世紀の初頭から人口が減り始めると、GDPが全く伸びなくとも横這いでありさえすれば、一人当たりGDPは増加できる。一三人で分け合っていたパイは、一〇年単位で一二人、一一人と頭数が減るにつれ、次第に分け前が増えてくるからだ。実際、現在のGDP約五〇〇兆円が今後も維持できれば、一人当たりのGDPは九六年の三九七万円から、二〇二〇年には実質四一二万円(一・〇四倍)、二〇五〇年には同五四二万円(一・三七倍)に増える。
こうなると、人口増加分だけGDPを伸ばさなければならないとか、生活水準向上のために、GDPを伸ばすべきだという議論は根拠を失う。他方、トリレンマに向かう地球社会を考えれば、わが国のゼロ成長化は大きな国際貢献だ。さらに国内的にも、GDP拡大を至上主義とした馬車馬的な拡大社会を一旦棚上げにして、ともすればなおざりにしてきた環境問題、所得格差、地域格差、社会病理などを、ゆっくり修復・調整する機会も生まれてくる。
もっとも、こうした方向を実現するには、かなりの努力が必要だ。実際には人口減少に伴って労働力も減少するし、内需も縮小するから、GDPの低下も起こりうる。これを克服するには、より少ない労働力で従来の生産を維持するため、一人当たりの労働生産性や付加価値生産性を上げることが必要になる。
前者を高めるためには、FA(ファクトリーオートメーション)やOA(オフィスオートメーション)など、ロボット化やコンピューター化が急務だろう。一人の労働者がそれらを駆使すれば、一・五人分、二人分の仕事が可能になるからだ。
一方、後者を高めるためには、モノやサービスの価値を物量的なものから情報的なものへ、表層的な次元から深層的な次元へ、と変えることが必要になる。一例をあげれば、エレクトロニクスやバイオテクノロジーに見られるように、モノそのものの物量的価値よりも、電子や遺伝子など“情報搬送装置”としての価値を高めることだ。あるいは、商品・サービス・情報網の上に、必需的な“使用価値”だけでなく、カラー、デザイン、ネーミング、ストーリーなどの“記号価値”や参加、愛着、審美、信仰などの“心理的効用”を付加することが必要になろう。
つまり、生産の比重をモノからコトへ移していくことだが、それは高付加価値化としてだけでなく、資源・環境問題への対応策としても必要な対応なのだ。それゆえ、これからの日本人には、そうした付加価値を生み出せる能力が求められる。
〔利点を伸ばし、欠点を抑える〕
社会面では、さまざまな利点とともに欠点も予想できる。利点でいえば、人口減少で人口密度が低下する以上、環境への負荷が減少し、自然環境への侵犯が抑えられるばかりか、過去の破壊も復修される可能性が高まる。また大都市での住宅・土地問題や交通混雑の緩和も期待できるし、現在のインフラを適切なメンテナンスできれば、一人当たりの社会資本も増加していく。さらに密度の濃い教育が実現され、受験競争も緩和されるから、教育の質的充実化も期待できる。
食糧や資源面でも、過度の輸入を抑えて、自給自立体制が向上できるし、人口増加を支えるための生産拡大は不要になるから、生産優先社会を縮小して生活優先社会への転換が進展する。消費市場においても、永い人生経験で選択眼を肥やした人々が消費や流行の決定権を握るようになるから、“新しさ”や“流行”よりも“年季”や“伝統”の比重が上がるし、社会風潮でも“成熟”や“落ち着き”が主流になるから、成熟した社会が実現されていく。
一方、欠点としては、人口減少に伴って需要面では購買力の減少が、供給面では労働力人口の減少や年齢構成の上昇で労働力の量的減少・質的低下が懸念される。少子・高齢化の進行で高齢者の年金・医療・福祉など社会保障費用の負担が増加するし、また子どもの数が少なくなると、子ども同士や異年齢間の交流の機会が減少し、かつ両親の過保護などで、彼らの社会性の育成が妨げられるなど、青少年の弱体化も懸念される。さらに単身者や子どものいない世帯が増加すると、社会の基礎的単位である家族の形態が大きく変化して、家族形態がますます縮小していくおそれもある。
しかし、これらの危惧のかなりの部分は杞憂だろう。スタンフォード大学のP・エーリック教授によると、老人扶養費の上昇分は子どもの教育コストの減額で大部分が相殺されるし、健康水準の上昇で六五歳以上の働き手が増えるから、逆に減少していくケースも考えられる。社会的革新力の低下も、新しい考え方と経験のバランスをとる中年層の増加で十分補えるという(『人口が爆発する!』新曜社)。
教授の考え方をわが国に当てはめると、例えば高齢者の定義を七五歳以上にくりあげた場合、二〇二五年のその数は一八八九万人(一六%)で、現在の六五歳以上の一九〇〇万人(一五%)とほとんど変わらない。他方、生産年齢人口(一五〜七四歳)は八四八七万人(七二%)で、現在の八七一六万人(六九%)より二二九万人減るものの、構成比では三ポイント増加する。
また、年少人口は一三七三万人で、現在より五九八万人減り四ポイントも低下する。その結果、生産者比率の横ばいと教育コストの減少で、高齢者扶養をある程度まかなうことが可能になる。つまり、一五〜六四歳を生産年齢と考える従来の常識を改めれば、人口減少社会の慢性的な人手不足の下では、高齢者はもちろん、女性や弱者までもが一生一人前に働けるから、扶養負担も当然低下していく。
以上のように、人口の減少する凝縮社会では確かに欠点も多い。だが、それらを克服していけば、利点もまた大きい。つまり、凝縮社会では、従来の固定観念を捨てて、できるだけ柔軟で自由な視点から諸問題に取り組んでいくことが必要なのである。
〔地域行政も発想の転換を〕
こうした発想の転換は、とりわけ、これからの地域行政にとっても必要だろう。
確かに人口の減少する凝縮社会となれば、現在の過疎地域はますます過疎化するし、さらに広範な地域でも過疎化・高齢化が進行し、防災自衛組織や福祉サービス・医療保険の制度的運営などの基礎的サービスが困難になる。産業も縮小するし、税収も減少するおそれもある。大都市でも急速な進行する高齢化で、高齢単身者の保護需要が急増するなど、新たな問題が顕在化してくる。
こうした問題に速効的に対応しようとすれば、とりあえずは地域人口の維持・回復をめざして、出産や育児のための補助を増加させたり、外国人、とりわけ日系人の受け入れを積極的に進めることが必要だろう。だが、こうした政策の実施にはさまざまな困難がつきまとううえ、その効果もさほど確実とはいいがたい。
とすれば、むしろ人口減少を不可避と受け止めて、その利点を最大化し、欠点を最小化する方向に目標を転換したほうが現実的だろう。その方向とは、例えば次のようなものだ。
1)過疎化対応として、住民の居住地の集約化やサービス拠点の集約化・ネットワーク化などにより、福祉・防災のサービス水準を維持するとともに、いっそうの効率化をはかる。
2)公務員の減少を生産性の向上で補う一方、地域産業の高付加価値化をリードするため、各自治体が率先してFA化やOA化を推進する。
3)少なくなった人口で地域経済を維持していくため、OAやFA化へ対応でき、かつソフトな付加価値を生産できる知的人材を養成するため、教育整備や能力開発を重点的に推進する。
4)良好な自然環境、ゆとりのある社会環境、成熟した人間関係、安全な農産物など、人口減少のもたらす利点を最大に活用するため、都会人のために週末住宅や休暇住宅、週末農業や長期滞在型産業など、多住居住制を積極的に推進する。
5)工場誘致や観光開発よりも、情報化・ソフト化産業を担いうる人材そのものの誘致を積極的に推進する。
結局、こうした政策とは、人口減少をマイナスと考えず、むしろ絶好のチャンスとして受け止め、積極的に対応しようとするものだ。さらにいえば、人口減少地こそ凝縮社会の先進地であり、かつ二一世紀の日本と世界をリードしていくという自覚を今一度確認することでもある。
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