| 上屋久町環境基本計画 | 第2部 屋久島の概況 |
屋久島、口永良部島の集落は、すべて直接海に面しており、ほとんどの集落に恵比寿がまつられ、古来、海が生活の場であったことを示しています。その中でも一湊(松山遺跡、岡遺跡)、宮之浦(火之上山・番所跡、寺山・旦那墓、唐船淵等)、楠川(楠川城跡)、安房(泊如竹の墓、唐船淵)、栗生(古墓群)等においては、歴史的資料となる文化財について、発掘作業が進められてきており、縄文遺跡で14カ所、弥生遺跡で15カ所が確認され、特に松山式、一湊式の土器は当地の名前がそのまま標準形式となり、学界・研究等に貢献しています。律令時代には益救神社が式内社であり、九州南部で最高に権威があり、屋久島は鑑真が上陸するなど早くから日本の南方に向いた玄関口としての役割を持っていました。その後も楠川城、宮之浦城等が築かれ、種子島氏と禰寝氏による争奪戦の対象となり、藩政期には代官が置かれ、海上交通の要衝地として、また、平木の生産地帯として重視されました。
また、この時期、宣教師であるジョバンニ・バティスタ・シドッティが恋泊付近に上陸しています。
口永良部島では島内の各遺跡から縄文式・弥生式土器が出土しており、中世期の津城城など種子島氏の出城が築かれるなど、黒潮をめぐる文化圏において、古来より避難港や貿易の交易所として重要な位置を占めていることが示されています。
これらは屋久島の歴史における貴重な財産として、また黒潮文化圏の中の屋久島の過去、現在、未来を考える上での重要な知見を与えてくれます。また、「岳参り」の儀や豊漁とのかかわりが強い恵比寿信仰、トビウオ招きなどの無形の文化的遺産と集落以外にも多く散在する古道や遺跡などの有形の文化遺産の両者が自然の遺産と融合し、歴史的文化的環境の保全に自然環境の保全が不可欠であるということが大きな特徴といえます。
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