平蔵が生きた時代
1746(延享3)−1795(寛政7)


誕生〜少年期

長谷川平蔵こと銕三郎(幼名)が生まれた前年の1745(延享2)年は徳川家重が九代将軍に就任した年である。同時に享保の改革で武家や庶民に倹約を強いていた八代将軍・徳川吉宗が将軍職から退いた年でもある。この頃から約50年余りの間に将軍の権威が最高潮に達するとともに貨幣経済が発達し、商人の勢力が台頭してくる。逆に武士と農民の生活が行き詰まってくるようになる。
平蔵の少年時代、最も大きな事件としては宝暦事件・明和事件があげられる。
1758(宝暦8)年、尊王論を説いた儒教学者の竹内式部ら尊王論者を京都から追放・弾圧し、1766(明和3)年竹内式部とも親交のあった尊王論者・藤井大和守直明(右門)や山縣大弐が捕らえられ処刑されている。約100年後に起こる明治維新の思想のさきがけを担った人物達であった。文化面ではこの頃、後世にももてはやされている「仮名手本忠臣蔵」が出版されている。


青年期

徳川家治が十代将軍に就任してから3年後の1767(明和4)年に田沼意次が側用人に任ぜられた。六百石の旗本に過ぎない意次が側用人になれた背景には家治が最も寵愛した側室・おちほと仲のよかった女性を妾にし、その妾を取り次ぎにおちほや他の大奥女中に金品を貢いだ為とされている。意次は大奥の権威を後ろ盾に政治の中心となっていく。享保の改革の禁欲的な風潮も薄れ、意次は経済拡大の路線をひたすら突き進む事になる。
有力農民に株仲間(今の株式会社)の設立を奨励し、営業の独占権を与える代わりに上納金(税金)を徴収したり、御用商人には銅、鉄、人参などの座を組織させたり、長崎貿易では銅座や俵物会所を設立して輸出を奨励したりと経済の地盤が変わっていった。このような急激な変革によって農村は商品貨幣経済に巻き込まれていく。領主は財政収入の増大を図り、物価の騰貴を招き、結果年貢が引き上げられて農民の深刻な反発を招く事になっていく。一方、都市では「遊んで食う」という風潮が漂い、銭がなければ盗めばよいという空気に染まるようになる。
田沼意次が絶頂期にあった1784(天明4)年、息子の意知が殿中で旗本の佐野善左衛門に斬られ死亡した。意知が先祖の粉飾をする為に借りた佐野家(田沼家の本筋)の系図と七曜日旗を催促しても返さなかったり、善左衛門を小納戸(財務官)に取り立ててやると偽って620両を騙し取った為ともいうが、いずれにせよこの事件は田沼家の賄賂政治を明るみに出した。一説には松平定信が裏で関与していたともあるが、ともかくこの事件を契機に翌1785(天明5)年、田沼意次は失脚する事になる。


火盗改メへ

1783(天明3)年、浅間山が噴火した。上野、下野、信濃、美濃、武蔵、下総の諸州に火山灰を降らし、また火山灰が成層圏に達した為、日光が遮られ、農作物は大凶作、田畑は壊滅状態に陥った。翌1784(天明4)年には諸国が大飢饉になり、疫病が流行する。さらに1785(天明5)年、今度は日照りが続き、大凶作。1786(天明6)年には江戸の大火。この間、農村では十数万人が餓死した。また、米をはじめ穀物の価値が騰貴する。商人は米や麦を買い占め、売り惜しんだ為、1787(天明7)年5月江戸市民がついに暴発。五日間に大店、商家八千余軒、米屋九百八十軒が打ちこわされた。江戸は無政府状態となった。発端は我慢の限界を超えた江戸市民が米の買い占めへの抗議を奉行所(曲渕甲斐守景漸、山村信濃守良旺)に訴え出たが体よくあしらわれ、追い返された事に始まる。

このように社会が大混乱の最中にある1787(天明7)年6月17日、30歳の松平定信が奥州白河藩主から老中首座に就任した。定信は、ただちに幕政改革にのりだし次々に改革案を打ちだしていった。
第一は農業政策。都市に流れていた農民を帰村させる「人返し」を命じ、出稼ぎを制限した。幕府は荒れ地を復旧し、農具を貸与し、飢饉に備えて米穀の貯蔵を命じ、倹約を奨励した。 
第二は商業政策。米の買い占めや酒造の制限、米相場の安定、株仲間による市場独占の制限である。、旗本や御家人の「札差し」(禄米の売買をした商人)からの借金を帳消しにする「棄捐令」を発布した。すると、札差は武士に対する融資を一斉に停止したので、武士の生活はさらに困窮に陥るという逆効果の結果になってしまった。
第三は封建的社会政策で、幕府は飢餓対策として、大名に対し一万石の禄高につき五〇石の米穀を貯蔵させる囲米を命じた。また「七分金積立法」により町費を江戸の節約させ、幕府も二万両を投じ、貧民対策として町人に低利融資を行った。
その他、無宿人対策の為の人足寄場設立、鎖国の継続、「海国兵談」や洒落本などの出版・言論統制を行った。天明末期から寛政初期にかけて打ち出された禁令は数知れない。贅沢を禁止し、二人に一人は隠し目付か隠密かという猜疑心の渦巻く時代であり、社会に圧迫感や閉塞感が蔓延した。この時代の有名な川柳に「白河の清きに魚もすみかねて、元の濁りの田沼恋しき」とある。

世情不穏のこの時代、一連の凶悪事件が幕藩体制に深刻な動揺をあたえつつあった。長谷川平蔵が火付盗賊改長官に任ぜられたのは松平定信が老中首座に就任してわずか四ヶ月後の事である。


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