長谷川平蔵という人物

幼名鉄三郎。長じて長谷川平蔵宣以(のぶため)となる。この人物は歴史上に存在する。その資料は極めて少なく、自伝も残していないが、彼が当時の英雄であったばかりでなく、以後の警察機構に与えた影響は大きい。ここでは簡潔にその人物像を説明したい。

生い立ち

1746(延享3)年、赤坂築地中之町(現.東京都港区赤坂6丁目)に生まれる。父は旗本、長谷川平蔵宣雄。母は長谷川家の知行地、上総から奉公に来ていた庄屋・三原氏の娘である。平蔵が3歳のとき、父宣雄に転機が訪れる。叔父の長谷川宣尹が宣雄を末期養子(死に際に縁組みされる養子)とし、家督相続の為、同時に養子とした宣尹の妹(宣雄からみれば叔母)と結婚させた。平蔵は生母から引き離される事になった。平蔵が5歳のとき、義母が他界している。義母が他界したその年、築地湊町の鉄砲洲(現.東京都中央区湊1丁目。JR京葉線「八丁堀」の近く)の屋敷に移り、長谷川家の嫡子として厳しく育てられる。古典的な学問を嫌う一方で大人顔負けの発言をする少年であり、剣術のほうは卓越していたらしい。

放蕩時代

平蔵が19歳のとき、父とともに本所三ツ目(現・新宿線「菊川」)に移り住む。この界隈は吉原と匹敵する岡場所である。既に旗本仲間から「札付きの悪」として有名になっていたが、この移住を機に「本所の銕」と呼ばれるようになった。
23歳のとき、十代将軍家治に拝謁する。いわゆる「御目見」と呼ばれるもので旗本として武士として公式に認められるという儀式である。通常は十代のうちに済ませる。この翌年、旗本・大橋与惣兵衛の三女と結婚し、二男三女を得る事になる。
平蔵27歳のとき、父宣雄が火盗改めから京都西町奉行に栄転した。平蔵も京都に付き従ったが、8ヶ月後に父が病死した。父は質素倹約を以て事に当たった為、当時贅沢三昧だった京都奉行所内の風潮を一掃し、市民に慕われていたらしい。平蔵は長谷川家の家督を相続し、元の本所三ツ目の屋敷に戻った。が、その放蕩ぶりは変わらない。小普請(無役の窓際族か辞令待ち)の閑職を与えられた後も岡場所通いを続け、父が蓄えた財産を使い潰してしまった。後年になるが、この時得た岡場所で働く人々、「無宿無頼」と呼ばれた流れ者やヤクザ者が将来、情報収集の強力な武器となる。

出世街道〜火盗改メ

小普請は長く続かず、1774(安永3)年、29歳で書院番士になる。翌年、進物番に。そして1784(天明4)年、39歳で最高位の御徒頭に出世し、布衣(部隊長格の証)の着用を許される。た。この順当な出世の理由には諸説あるが、本来、他人に秀でた努力家である事と、若年寄・加納遠江守久堅の後ろ盾によるものが大きい。
1787(天明7)年、平蔵42歳の5月、江戸で起こった打ちこわしの暴動を、先手組と与力75騎、同心300名を率いて鎮圧した。無政府状態と化した江戸を一気に回復させた手腕が時の老中・松平定信の目に留まり、火附盗賊改の加役に任ぜられる。加役とは先手組頭(戦時には足軽大将格)と兼任で火盗改の任も受け持つ事である。同年、9月助役に、翌年4月にいったん解任され、半年後の10月に本役として再任された。以後病床に伏して死亡するまでの8年間、火附盗賊改長官として任せられる。
平蔵は歴代の火盗改長官とは異なり、無用な拷問を避け、自白によって罪を認めさせた。また、若い頃から独自に培ってきた情報網を使い迅速な逮捕で市中の評判となった。神稲小僧や妖盗葵小僧の逮捕から、人足寄場の設置と歴史に刻んだその功績は大きい。



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