016 子どもと大人
人間界に、「子ども」という人種はおらず、「大人」という人種はいないものだと……それが、この年齢まで育ってしまったわたしの実感と言えます。
社会的生物である人間の、相互作用で形作っている既成社会に環境適応する部分が「大人」と呼ばれ、未発達で適応していない部分が「子ども」と呼ばれるだけ。どんな大人にも、シチュエーションによっては「子ども」となる部分があり、100%な大人という生物は存在しないはずです。
……いたとしたら、神経症かも。体の大きさが社会的標準に達するまでの年齢は、まちがいなく「子ども」ですね。社会的な自立ができないため、例外なく保護が必要ですから、彼らは文句なく「子ども」です。
社会が定めた法律による成人に達しない年齢の人たちも、まあ、ここに入ります。しかし、子どもが純粋無垢(むく)だと考えるのは、ただの社会的幻想だと思います。そう考えると、大人が善人になれて都合がいい(=大人と子どもの双方にとって利がある)ので、採用されている方便(ほうべん)ですね……大人になるとはどういうことかと、この年になるまでずいぶん考えてきました。
「児童文学」という、まか不思議なものに執着する運命にあったために、もしかしたら他の人間よりたくさん考えてきたかもしれません。現在、作家という職業のすみっこに存在していると同時に勤め人でもありますが、この勤めもまた、子どもと密接な環境にあるものだったりします(……とはいえ、教師ではありません。教師でないために得られる身体と思想の自由を、今もありがたいものに思っています……)。
そういうわたしの結論として、「大人」はどこにもいないと言いたいのです。
社会に適応せざるを得なくして、部分的に適応した人々がいるだけ。だれもが、子どもが育っただけの人間なのです。人間の成長はみな……人間でなくても、群をつくる生物はすべて、オオカミでもサルでも同じだと思いますが……社会的規範と本能的な自己保存の欲望とどう折り合いをつけるかの苦闘の歳月だと思うのです。
ときおり、「既存の社会的規範がまちがっとる」と言いだす世代が現れて、革命が起きたり挫折したりし、さらに苦しい生き様を選んだりしますが、ようは、折り合いをつける闘いが、いつの時代であっても個人にとってかなり厳しいことだからなのですね。社会的役割を、いやいやでなく、前向きにとらえられるようになると、とたんにすっと生き方が楽になるのはたしかです。「あんなふうに、すりきれた、くたびれた、つまらない大人にはなりたくない」と、ずっと思っていたものが、自分を絶対的な主人公に考えない生き方があるとわかったとたんに、肩の力が抜ける……その境地を知ることが、言ってみれば「大人」の扉かもしれません。
自分を生かすためには、自分のわがままではなく、他人のために、あるいは会社のために、あるいは家族のために、あるいは国家のために、あるいは地球のために、滅私(めっし)の気持ちで生きて働いたほうが気持ちがいい……そのほうが楽になる……と、本気で思うことができたら、それが「大人」の資質です。めでたく社会適応した生き物です。
おためごかしだとか、欺瞞(ぎまん)だとか、難癖をつけることは容易ですが、社会がそれを要請している以上は、それにのっかれる資質の人間であったほうが、現実に数倍は楽になれます。かくいうわたしも、40に至る人生のどこいらへんかでは、このことに見切りをつけ、自分が楽であるように 「大人」を選んできました。いったん適応ができると、余分なエネルギーを使う必要がなくなるからです。
ただ、なにごとにも過剰になる危険性はあるのであって、「大人」の過剰適応は、これまた恐ろしい事態をひきおこすようです。適応がいきすぎると、自分が善なる滅私の生き物であることが確信になり変わってしまうのですね。そうすると、パワーの少ない人はスポーツ新聞しか読まない「すりきれた」勤め人になってしまうし、社会的役割に不相応にパワーをもっている人は、我が子を支配する親になるとか、独善的な社会活動家になるとか、新興宗教家になるとかして、自分の本能的な欲求が見えなくなってしまうようです。
それでも、すべての人は子どもなのだと、わたしなどは感じてしまいます。年齢が上がると、積みあげた経験によって、突発的な事態に対するショートカットがたくさんできるから、尊敬される反面、修復可能な柔軟性をなくしている、というだけの違いでしょう。むしろ、過剰適応した人物より、いつまでも子どもをてらいなく表現できる人物のほうが、ストレスをためないだけ勝ちかもしれませんね。(……ここで、なぜか、現首相の顔が思い浮かぶ……)
社会は、さまざまな人間で構成されてこそのものであるのであって、すべての人間が、年齢がきたから「大人」にならなくてはと思う必要はないでしょう。とくに、アーティストと呼ばれる人々は、大人になっては失われるものがあります……作家もそのなかに含めていいかもしれません……
けれども、「子ども」で人生をまっとうすることは、本人が生きづらいです。わたしが一個人として実践することは、だれにでもおすすめすることにはなりませんが、戦略の一つとしては、なるべく手っとりばやく、社会適応してしまうことです。
わたしは「児童文学」が書ける人になりたいと思ったもので、こういう道を選びました。
大人を知らなくては、子どもが何だったかを知ることはできないのです。
……大阪の池田小で起こった事件。8人もの低学年児童が犠牲になり、ショックはあまりあるものがあります。世間一般の反応をわたしも充分味わった上で、言いたいのですが、7,8歳の子どもには、どれほどひどい体験であっても、将来的には修復できる生物的可変能力があると思います。ダメージが深刻なのは、(もとは子どもだったが今ではどうにも融通がきかない)大人、自己管理能力があると思われている、教師や両親ではないでしょうか。 ( 01/06/17 )
017 ミステリと児童文学
セイヤーズ女史の探偵小説論のどこがおもしろかったといって、ミステリ小説が開花したのは、アングロ・サクソンの国で警察組織が確立されてからだと、はっきり指摘しているところでした。この論文は1928年のものなのですが。
ドイツでもフランスでもなく、英国でもっともミステリがもてはやされたわけについて、彼女自身もドイツの作家がイギリスに来て語った言葉をひいています。すなわち、
『……英国とフランスとドイツの国民性を比較して、
フォイヒトヴァンガー氏は人事全般の外面的な細部に寄せる英国人の関心の深さを指摘した。英国人は本を読むときでも物的な正確さを好む。ドイツ人やフランス人は、程度の差こそあれ、そんなものにはほとんど興味を示さず、むしろ心的な真実を求める。
したがって、指紋や血痕、日付、時刻、場所などにいちいち拘泥(こうでい)する反面、人物描写を大胆に簡略化する探偵小説が、フランスやドイツよりアングロ・サクソンの趣味により強く訴えるのも無理なからぬことである。』イギリスの趣味と言わずにアングロ・サクソンとことわったのは、そこにアメリカの一部が含まれているのだと思いますが。探偵小説の始祖がエドガー・アラン・ポーであることは明らかだし。
それにしても、この一文は、日頃わたしが児童文学やファンタジーを読んで、英国とドイツ・フランスの文学的嗜好の違いのようなものをひしひしと感じている部分と、ぴったりかみあうのでした。ミステリと同様、児童文学も、発達史においてまっ先に推進させたのは英国です。そして、英国児童文学を読めば読むほど、「外面的な細部に寄せる関心の深さ」をたっぷり味わわされることになります。
しかし、これが妙に子どもの視点と一致するのですね。あふれる好奇心でくだらないほど細部にまでいちいち目をとめるのは、子どものもつ特徴でしょう。人生経験の少ないぶん、観察眼の鋭さで表面からとらえようとする。イギリス人が子どもっぽいとはまったく言えませんが、そうしたものを好むお国柄に立って、もっとも早くから児童文学とよばれる創作が量産されるようになったイギリスなのかと、うなずいてしまいました。
ファンタジーもまた、イギリスのものは外面的な細部から描かれます。ドイツ・ファンタジーを読むと、どうにも観念的で、わたしなどは途中でついていけなくなるのですが、それは彼らが事象よりも心的な真実に関心を払うせいなのでした。ファンタジーは、もともとは、幻想文学としてドイツで発達したような文学であり、現実を越えて象徴的な観念をあつかうための小説ジャンルが、充分成熟した大人のために用意されていたのだと思います。充分心的に重く、充分深い思索をめぐらせるために。
ところが、英国児童文学がその流れのなかでファンタジーに手をつけると、最初のマグドナルドはけっこうドイツ的だったのに、どんどん外面的な細部に寄っていき、そちらのほうで成功を収めるようになるのでした。 でも、わたしは、「細部へのこだわり」と児童文学は、きっと切り離せないものだと思います。そちらを優先することで、思索としての深みを犠牲にすることになっても。
児童文学最古の作品が、もともとは子どものために書いたものではない「ロビンソン・クルーソー」だというあたりに、その例証がありそうです。
子どもが求めるものは、究極的にはサバイバル……いやおうなしに生まれてしまったこの世界で、いやにならずに生きていくための、かなり具体的な方法でしょう。じつは大人だって同じかもしれません。その一番初歩の処方箋にあたるものが、目に入るささいな事物に驚きや好奇心を失わないことの提示だと思うのです。で、わたしは、そういう本ばかり探して読む人になっていて、
今現在ミステリが相当に好きなのもその一環だったのかと、なんだか納得しました。
日本も、最近の出版不況のなか、これほどミステリ系が強いところを見ると、東アジアのわれわれもかなり英国的感性を享受する国民なのかもしれませんね。
事物の外面的細部を喜ぶ文学といえば、「枕草子」なんて、それだけでできているようなところもあるし、意外とその資質はあるのかも。 ( 02/01/20 )
018 ファンタジーのきわどさ
「ダレン・シャン」の一巻を読んで、ひさびさに思ったことがありました。
ファンタジーとはきわどいものであって、けっしてお行儀よくはないのだと。正直言って、フリークショーがどうしても見たくて出かけていく話とは思いませんでした。
なんて教育上、よろしくないんでしょう(笑)。おまけに、主人公が盗みをする ストーリー展開なのだから。
それらが、ダレン少年のあっぱれな性質・・・・・友人のために自分を差し出す勇気・・・・・によって、帳消しにされているわけですが、いつの世にもいる道徳熱心な大人が目をつりあげるかどうかは、きわどいところにある物話だと思いました。
そして、ファンタジーとは、そういうものをもっているのが本当ではないかと。現在、空前のハリー・ポッター旋風で、分厚いファンタジーが本屋に山積みにされる傾向にあるけれど、えらい人は中身を読んでいないのだろうと、笑いたくなりますね。
その「ハリー・ポッター」も、日本のブーム直前に、魔法を肯定して魔法使いを英雄視する児童書はけしからんと、英米の一部で有害図書扱いする声が上がりました。きまじめなキリスト教徒にとっては、それも一面には言えることなのだと思います。
じゃあ、古典になりつつある「指輪物語」はどうなのだと思いましたが、時をこえて残るファンタジー作品は、きっと、どれも、批判を人気に押し切られる形で存続してきたのでしょう。
「ナルニア国ものがたり」であっても、真性のキリスト教徒にとっては、イエス・キリストの隠喩としか思えないアスランが「けもの」であるのは、どうにもひんしゅくものだったろうと思います。神学者の作品にしては、本当に大胆なのです。ファンタジー作品は、その本質として、どこかでだれかをひんしゅくさせる地雷を抱えるものかもしれません。本筋に力強い人間肯定や平和の希求があってこそ、そのきわどさから生還するのですが、本当に微妙なつなわたりで、それができてこそ個人の夢想が一つの作品に昇華するのかもしれませんね。
なぜだか、われわれは、そういう「きわどさの中のギリギリこっち側」に魅力的に輝く夢想を見つけてしまうのです。
安全健全、だれが見ても無難な物語世界は、人をゆさぶるファンタジーにならないのです。
もしかしたら、それが一種の、生命力の輝きだからかもしれません。・・・・・と、いうことを、つらつら考えてしまうのは、「空色勾玉」「白鳥異伝」「薄紅天女」を出版するにあたって、担当編集者も作者も、けっこう覚悟するものがあったからでした。
まじめに言い合いましたよ。クレームがくるとしたら、「左」だろうか「右」だろうかと。
日本神話は今でもそれほどタブー視される、扱いのあぶないものなのです。
特に、読書感想文を主流として教育に密着している日本の児童書のなかでは。
「空色勾玉」は、たぶん、二人とも若くて怖いもの知らずで経験のない人間だったからこそ、世にでた本でした。
幸い、大きなもめごともなく版を重ねてもらっていますが、「うちだったら出さなかった」という児童書編集者には複数会いました。
三冊め「薄紅天女」に至っても、出版した後で、数年早かったら認められなかっただろうと言われました。
児童書として、ささいなところまでクレームのつきやすい、少数民族問題と天皇家をよくもわざわざピックアップして・・・・・と。指摘されるまで、大胆とも思わなかったけれど、たしかにそうですね。ファンタジー手法だからこそ逃げきれる部分があるのもたしかです。
きわどさを求めて得ているつもりはないのですが・・・・・無意識だったという言い訳は成り立ちませんから、竜のひげを引っぱるきわどさは、ファンタジー世界の本質が呼ぶのだと言ってみるしかありません。
( 02/02/11 )