001 ファンタジーとは何か
・・・・・という問いほど、議論のむなしいものはないと、わかるほどには生きてきたという気がします。だれが何を指してこの用語をもちいているかは、話しあえばあうほど不明瞭になり、あいまいになり、煙にまかれたようなものになるんです。
それでも、特に、読書をはじめたばかりの若い年齢で、自分の好む作品に、ことさら「ファンタジー」あるいは「児童文学」あるいは「ヤングアダルト」などという名付けがされていることを知った人が、「ファンタジーって何? 児童文学って何? ワイエーって何?」と疑問をいだくのは当然だと思います。
わたしも過去にそういう人間でした。十代の後半になって、やむにやまれず、はじめて手に取った研究書のたぐいは英米児童文学論でした。そのころはまだ、ちまたでファンタジーというジャンルは成立せず、大きく扱っているのは英米児童文学研究のなかだけだったのです。
そこでは、作品をファンタジーとリアリズムという二項だてで分類していました。空想世界をとりあつかった児童文学と、現実をとりあつかった児童文学、というおおまかな分類です。しかし、細かく吟味しはじめると、一見わかりやすく見えるこの分類にも、わからないものがでてきます。つまり、ファンタジー同様、リアリズムも定義はあいまいなのです。たとえば、現実世界のみを舞台にして、極端にドリームの入っている、あるわけないだろうな作品と、架空世界が舞台にしろ、リアルで身につまされる作品とでは、どちらがよりリアリズムと言えるのでしょうか。
また、たとえば、歴史小説はどこまでリアリズムに分類できるのでしょうか。わたしもまだ若かったので、これらの疑問には必ず答えがあるにちがいないと思い、大学へ行って答えを見つけることにしました。児童文学サークルに入って学友と議論をし、講演を聴きに出かけ、卒論には児童文学ファンタジーを選び、卒業してからも、有志の読書会をしばらく続けました。
結果としてわかったことは、定義づけがむなしいということだけだったようです。定義づけをしなければ、分類しなければ、体系化しなければキモチが悪い・・・・・
そういう心性がまず、ファンタジーの本質を遠ざけるのだということだけは、さんざん試みてわかったような気がします。
語っても語っても、語りきれないもの。水の中で輝いていて、論理の網をどんなに細かくしても網の目からくぐり抜け、すくってもすくっても捕えられないもの。
そういうものがあるということを、まず認めなくてはならないのでした。二十代になってC・G・ユングの著作を読み、「象徴」と「記号」のちがいを述べているのに出会って、はじめて納得がいきました。「記号」が意味を限定するために作られたものであるのに対し、「象徴」は多面性のなかに対立する意味あいさえ含んでしまうしろもので、核をもちながらも変幻自在であり、 限定しようにもできないものだと語っていました。
わたしが好きだと思ったファンタジー作品は、この「象徴」の形態にそっくりでした。だから、ファンタジーとはしかじかのものである、という決定的な定義になど、初めから当てはまらないのです。
今ではわたしも、だれにでも通用するファンタジー論など不可能だとあきらめ、個人的な感覚と割りきって、勝手にこれはファンタジーだと思ったり、これはファンタジーじゃないと思ったりしています。
その上で、少しつっこんで言わせてもらえば、わたしの想定するファンタジーらしさのあるファンタジー作品は、最も顕著な特徴として、「要約できない」という特質をそなえているはずなのです。要約したとたんに、最も香気ある部分が失せてしまう物語。
無理に意味深いものを抽出しようとすると、あきれるほどチンプな主題になり、クチはばったい読書感想文がほとんど書けない物語・・・のはずなのです。
この基準のゆえに、同じように大衆人気を博しても、
エンデの「モモ」は、わたしにとってファンタジーではなく、
ローリングの「ハリー・ポッター」シリーズはファンタジーなのでした。あくまでも個人の見解なのですが。 ( 01/02/12 )
002 グリム童話を読んだ?
知る人ぞ知る、森茉莉(もり まり)の作品とエッセイを、つい最近になって読みました。
うーん、なんというおばあちゃんでしょうね。生きざまも妄念も傍若無人(ぼうじゃくぶじん)も、超一級ですな・・・・・思わず憧れながら、苦笑いをさせられるような。彼女の存在はそれとなく知っていたのですが、じつをいうと、わたしは国語国文学科を卒業しているにもかかわらず、森鴎外(もり おうがい)も夏目漱石(なつめ そうせき)も少しも面白いと思わなかった人間なのでした。いわんや彼ら以後の日本の文豪など、軒なみ無視して今日まで生きてきたもので、森鴎外の娘の作品を読もうと思ったことがなかったのでした。
「恋人たちの森」「枯葉の寝床」といった、どっひゃーな森茉莉の作品が、耽美小説の草分けなのかどうか、文学史的なことはわかりません。(はっきり言って)値うちも何もわかりませんが、作品の後にエッセイを読んで、小説のモデルが若きアラン・ドロン他の同性愛夢想だということを知り、あまりに深く納得できるので恐ろしい思いでした。
つまり、現在コミケで売られている乙女の同人マンガや小説と、完全に同根の発想をしていたわけですね。 明治三十六(1903)年生まれの森茉莉さんは。興味深く思ったのは、森茉莉が幼いころに、父(森鴎外)や母からグリム童話を語りきかされていたというエッセイの一文です。着物をきた明治の子どもたちがメルヒェンのメの字も知らなかったころに、独文に造詣の深い父親から、「雪白姫」(鴎外は必ず「ゆきしろ」と言い、「しらゆき」とは言わなかったそうです。)や「赤ずきん」などの話を聞いていたのでした。
児童文学ファンタジーというしろものは、結局のところヨーロッパで発生したものであり、根っから西洋文明に所在するものと言えます。児童という概念がそもそも、西欧育ちなのです・・・・・イギリス、ドイツ、フランス。
今日にいたる創作児童文学の根底には、西欧の昔話があり、いちはやくそれらを収集したグリム兄弟の著作があります。昔話をまねた教訓訓話の長い歴史があり、アンデルセンやキャロルの独創があり、創作文学へと動きだすのですから。わたしもまた、人生のごく初めのうちにグリム童話にふれて育ちました。わたしの年代あたりからは、ウォルト・ディズニーがアニメ化したバージョンのほうが先に入る人も多いかと思いますが。
現在は、日本人だろうとわれわれにも、「白馬の王子様が迎えにくる」というフレーズの意味がわかります。これはどう見ても西洋系の王子様なのですが、べつに違和感を感じていません。これはつまり、森茉莉のもつ心情なのです。グリム童話を聞いて育った人間の感受性です。
ファンタジーに対する感受性の根っこも、ここにあるような気がします。神話や昔話というものが、年月のなかで磨かれて濃縮してきた内容には恐るべきものがあるようで、原始的な力で幼い者の心に深く刻まれるようです。
グリム童話もその原始的な力をもち、異なる伝統文芸をもつはずの極東の島に生まれたわたしたちにさえ同じ夢を見させます。そのこととファンタジーには、必ず同根の何かがあるはずなのです。森茉莉は、そのエッセイに、「(グリム童話を聞いて育ったせいで、)いつか黄金の馬車の王子様が迎えにくることを夢見ていた」と書いています。実際のところは、白馬の王子様も、黄金の馬車の王子様も、グリム童話のどの話に登場するというものではなく、これが集合無意識的な妄想の妄想らしきところなのですが。
最後の長編「甘い蜜の部屋」のヒロイン、魔性の美少女モイラは、「アラビアのロレンス」のころのピーター・オトゥールがモデルだそうですね。(半分以上は自伝でありながら。)
思いっきり、同人根性だと思います。
深く敬愛したくなるおばあちゃんです。
三島由紀夫がほめようとほめまいと知ったことではありませんね。 ( 01/02/12 )
003 文豪はパスして
大学に進学するとき、国文科に進むか英文科に進むかで、ずいぶん迷いました。自分でも笑っちゃうほど数学ができなかったので、浪人せずに大学をめざすなら私立文系しか選択肢はなかったのですが、わたしが専門に進みたいと思う文学は、英米児童文学か、日本の古典文学の二つに一つであって、とっても極端だったのです。
一番肌合いのあう分野は英米児童文学で、ぜひとも原文で新作を読めるようになりたいと思ったのですが、わたしの英語力はわりとおそまつだったのでした。
けれども、得手ではなかったからこそ、必死に受験勉強をしたために、努力をそそいだかいのある課目ではありました。一方、国語はというと、これは模擬テストのなぐさめとなる課目でした。努力しなくてもなんとなく点が取れてしまうのです。受験勉強の息抜きとして、通学電車のなかで「徒然草」を読んでいたことを思い出します。そのくらい、一度も力んだことのない分野であり、それゆえに達成感も感じられない課目だったのでした。
いろいろ考えたすえ、「・・・・・たとえ、英語力を磨いても、胸をはって語るに足る日本人としての中身を身につけていなくては、外国人と会話して語るべきものをもっていないことになる。どちらを優先するのが正しいかわからないけれども、このわたしはまず、語るべき日本から先に学ぼう」と、思いました。
だれのアドバイスを受けたわけでもない選択でしたが、まちがってはいなかったと思います。ただ、そういう決心をして古典を学びに進学したのだとしたら、W大は、ちょっとまちがいでした。近代文学史に有名な雑誌があることからして察せそうなものですが、ここの十八番(おはこ)は近代文学なのです。
ところが、森鴎外も夏目漱石も、志賀直哉も谷崎潤一郎も、芥川も太宰も三島も川端も、だれ一人好きにはなれず読む気にもなれないわたしは、クラスメイトのなかで非常に肩身が狭かったです。3年の専門ゼミを選ぶ段になったら、全体の半数近い同輩が近代文学を申し込んだっけ・・・しかも、児童文学ゼミは存在しませんでした・・・・・しかたなく、上代文学ゼミを選びましたが。
卒論はかろうじて児童文学で書けましたが、じつをいうと、日本児童文学もまた苦手なわたしなのでした。と、いうわけで、いちおう国文科卒業のわたしですが、明治以降の文豪の作品に対する鑑賞能力はすとんと抜け落ちたまま、現在に至ります。わたしが心から許容できる文学作品は、遅くても樋口一葉どまりなのです。(・・・一葉の作品は文語体だからなのでしょう。)
場違いかと思いながら、かよった大学の毎日でしたが、結果的には実になっているようです。教育学部国文と文学部日文は、似て非なる学科で、文学部ならば2年から早くも専門講座に進むところを、教員教養を養成するべき教育学部の国文では、上代から現代までの文学講座をまんべんなく必修でとらなくてはならないのでした。
おかげで、3年になってもまだ必修単位が多く、高校みたいだと同輩と文句をたれていましたが、その必修講座で「古事記」を学び、「源氏物語」を学び、「平家物語」を学び、そしていやいやであっても、「こころ」や「暗夜行路」でレポートを書いたことが、現在のわたしを形成しているようです。
上代文学ゼミで「風土記」を読んだことも、そのゼミ旅行で飛鳥(あすか)へ行ったことも、自分の作品につながっています。それに、もしもW大に進学しなかったら、サークルで出会った友人たちにめぐりあわなかったわけで、「空色勾玉」を出版してくれた編集者のUさんにも出会わなかったわけで。 そうしたら、わたしは何も書いていないかもしれないのでした。
とはいうものの、今こうして、「ハリー・ポッター」の第3巻を原語で読むには気おくれする自分に気づくとき、やっぱりあのとき英文に進めばよかったかなあ・・・などと考えてしまうのでありました。 ( 01/02/13 )
004 作文と日記帳
小学校時代、わたしは作文が苦手でした。自分の感じたことを率直に文章に表す、という行為と、学校で書かされる作文とを同一視することはとてもできなかったです。他人の前で作文が読み上げられることに平気なクラスメイトがいることが、どうにも不思議でした。
どうしてあんなに恥ずかしかったのか、穴があったら入りたいほどいたたまれなかった気持ちをよく覚えていますが、あれはたぶん、教師に合格点をもらうため、ココロニモナイことを稚拙な形式で無理やり書いていたせいでしょう。
自分の書いたことのわざとらしさに、とってつけた結論に、わたし自身との落差に、毎回身もだえしてしまうのでした。それでも、大人たちはそういうことを書いてほしがっているとわかっていましたから、なかなかにこすっからい小学生だったのでした。読むことはかなり早くに覚えたので、小学生とはいえ文章に関する鑑識眼はけっこうあり、われながら自分の作文には見どころがない・・・子どもらしい伸びやかな発想がないし、だれもが知っているたてまえに行きつく空疎な言葉が並んでいると、思っていました。小学生の作文や自由詩には、たくまざる示唆(しさ)に富んだ、目をみはるような作品があるものです。わたしには、あれがまったくできませんでした。自分には文才がないのだなと、しみじみ思いました。
もっとも、内気で恥ずかしがり屋な子どもだったことは確かで、自分の意見をひとに発表して自己確認するよりも、自分一人の秘密をもつことで自己確認をしたいタイプでした。絵を描いたり、マンガを描いたり、空き箱で人形の家を作ったりして、一人遊びの尽きない子でした。が、その一環として、「だれにも見せない秘密の日記」を書くことには、強い興味をもっていました。
興味はあれども、ごたぶんにもれず3日書いたら挫折・・・ということをくり返したのち、「毎日書こうとするからダメになるのだ。気が向いたら書くノートでいいのだ」と開眼したのが小学3年生の1月でした。ノートの表紙に、大きく「自由日記」と漢字で書きました。・・・以来、むらはあっても年に一、二冊のペースで書き続け、30年あまりのちの現在に至ります。
昔のノートを読み返しておもしろいのは、筆跡ですね。時とともにどんどん変わっていくわたし自身の筆跡。小学生時代の硬筆習字の字、中学生時代のまるっこい少女文字。高校時代の、大学時代の、現在とはあきらかにちがう筆跡。 忘れていたはずなのに、内容とあいまって、そういう文字を書いていた自分がまざまざとよみがえります。・・・・・読んでいるあいだは、現在の自分の字を忘れるくらいに、そのころの自分になっているのです。
同時に、こうして書いておかなくては100%忘れていたはずのわたしが現前に存在します。
わたしは、あまり執着のある持ち物とか特別にコレクションするアイテムのない人間なのですが、引っ越しのたびに、一番注意をはらって持ち運んできたのは、今ではタンスの引き出しいっぱいの場所をとるこれらのノートかもしれません。
こんなふうにして30年以上日記を書いてきたもので、今、ネット上にあふれるHP日記の存在を知っても、他人に読ませることを前提とした日記というものが、わたしにはあまり信じられません。わたしにとって、わたしの日記とは、だれも読み上げることのない、わたしによるわたしへの私信でした。自分が今どういう状態にあるかを、このわたしに問う作業なのです。
書くことがあふれてくるときは好調、自分自身と対話したくない状態だと、要注意信号です。そういうことも、書くうちにわかりました。
・・・・・最近、ちょっと要注意だったりします。(学校教育のなかの)作文を書くことの効用を、わたしはあまり信じられません。ものを書く作業は、かたちから入ると失敗すると思っています。自分自身と対話するという、あまりに内向的な作業がニガテな人ならば、私的につづった手紙なら、いくらか似た形式だと思います。ただ一人の人のために書く作業は、自分というかたちを楽に表せますから。
30年の日記のなかで、読み返して飛躍的に文章が進歩したと感じられる年月があります。
15歳と18歳。高校受験と大学受験の数ヶ月です。望むままに友だちと遊ぶことのできない、未来のただ一点へ向けてのプレッシャーの痛い、思い出としてはずいぶん苦しかった日々であるはずなのに、この期間のうちにわたしは、自分自身と向きあうことのコツを見分けたような気がします。
愚痴(ぐち)をならべても、へんに強がってもドツボにはまる、わたしにわたししかいない日々だったからです。受験の功罪がずいぶん言われているものの、自分の例をふり返れば、これらの試験の日々が、通過儀礼(イニシエーション=大人になるための儀式)のない現代においての、個人的な通過儀礼だったような気がします。だから、現代の若者諸君、苦痛をどうぞ過剰に恐れないように・・・・・ ( 01/02/23 )
005 通勤時間の恩恵
自分以外のもの書く人々のことは、まったくわかりませんが、わたしがもっともインスピレーションに富み、いくつかの作品をものす結果となった時間帯は、なんと通勤時間です。
これには、いくつか条件があるとは思います。まず、電車・バス通勤であること。行きも帰りもけっこう早い時間帯に動くこと。殺人的ラッシュに会わずに行ける勤務先であること。・・・わたしにとって、一番つらかったのは大学への通学でしたね。コンタクトレンズをなくしたことがあるほどの混みようで、チカンに遭遇するのはザラでした。通学で精魂つきて、講座をさぼったこともあり。チカンを警戒したり、周囲にイライラさせられるうちは、恩恵の境地はとても望めないことです。
アイデアが浮かぶときは、例外なく心がからっぽになっているときで、現在と過去に自由に行き来ができるとき。けれども、家で何もしないでぼーっとしていても、意外とそうはならないものです・・・なぜだかわかりませんが。
どうやら、 自分で自分にぼーっとすることを許す程度の境地ではないということのようです。
体は動かしていたほうがよくて、しかも、現在していることから心が飛んでいった状態。・・・たぶんキケンなので、そう何分ものあいだ自分に許すわけにはいかない、限られた時間内であるべきなのです。だから、もしもわたしが自家用車で通勤していたら、わたしの作品は生まれなかったにちがいありません。この境地で運転する自分を想像すると、血も凍ります。どう考えても人身事故をおこしています。
通勤と散歩は、ぜんぜん違います・・・あたりまえか・・・とくに朝の通勤は、だれ一人として楽しくなんかないです。一度ベストの電車・バスを決定してしまえば、決まった時刻に決まった手順で目的地にたどりつくことを、雨の日も風の日も、眠い日も不機嫌な日も、黙々と延々とくりかえすことしかできないのだから。
毎日、判で押したように、決まった時刻に決まった場所へ出かける(しかも朝の7時台に・・・3,4年で卒業するという救いもなく。)という生活は、できない人には絶対できないことで、学生のうちは自分にも不可能だと思ってしまうものですが、わたしはどうやらできる人間でした。すると、異なる境地が開けてくるものなのです。
学生のころは、電車に乗り合わせる通勤サラリーマンの顔が大嫌いでした・・・・・今日の日にわくわくする出来事が待ちうけているとは、とても思えない、疲れて不機嫌な無表情で来る日も来る日も人生をすりつぶしている彼ら。自分がその一員となることにぞっとしたものでしたが。
うぶなわたしには理解できなかった盲点が、通勤という行為にはありました。ミソは「判で押したように」と、いうところにあります。あまりに毎日つまらない同じ行為をくりかえす結果、自分のしていることを忘れても、体はいつしか職場に着いている、ということが起こり得るのです。
同じ時間、同じ手順を連日行うのでなければ、ここまで無我の境地には至らないはずです。ちょっとでも目的地が異なれば、わたしの意識は外界に注意を払うことをうながすはずです。けれども、通勤は、体が勝手に覚えた行為でいっこうにかまわないのですから。
その結果、いつものように改札を通る、いつものようにプラットフォームを歩く、慣れきった行為の向こう側に、インスピレーションの世界がまたたくのでした。むかし、少しだけシュタイナーをかじったときに、彼が霊的修行として勧めていたいくつかの行(ぎょう)のなかに、「毎日決まった時間に決まったことを行う」というのがあったのを思い出します。それを読んだ時点では、「なぜ、毎日同じことをするのが霊的な修行なわけ?」と、まったくピンときませんでした。けれども後から考えてみると、通勤はまさにこの行かもしれません・・・・・そう思っても、たいしたなぐさめにはなりませんが。
それでも現在、通勤中のわたしは、わたしが一番信頼をおく直感をもっている自分です。通勤中にそれらしき感触があったから、今度のアイデアには脈があるかもしれない・・・・・などと本気で考えています。
バイト気分で就職したなげやりな勤め人のわたしですが。そして、いまだに現在の職業を本当には好きになれませんが。はっきり言って将来の希望も何もない勤めですが。つまり、学生時代に嫌悪した不機嫌で無表情な通勤電車の一員になっているのですが。
満18年を迎えるこの勤めを、いまだに辞めることができないのは、通勤時間のインスピレーションを失うことが怖いのではないだろうかという、恐ろしい考えにおちいってしまうわたしでした。 ( 01/02/25 )
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