第1章 アニメーションの起源


始まり

 19世紀、それは科学の世紀でもあった。

 物理学、とりわけ光学の分野で、多くのプロ・セミプロ・アマチュアの学者たち(この世紀の科学の進歩に貢献したのは彼らである)が網膜の残像の研究に夢中になった。1824年にロンドン大学で生理学を研究していたピーター・マーク・ロジェPeter Mark Rogetが『動体に関する残像』Persistence of Vision with Regard to Moving Objectsを出版した。ロジェの解説によると、映像は次の映像がやってくるまでの瞬間、眼の中にとどまっていることがつきとめられていた。運動の印象は記憶の中で一つのイメージが消え、その次のイメージが加わるために生じるのである。この現象はその後50年間にわたりさらに研究が進められた。

 1年後の1825年に高名なイギリス人医師ジョン・A・パリスJohn A. Parisは光学玩具の元祖であるトーマトロープthaumatropeを生み出した。これは円盤の両面に補い合う画像が描かれており、左右両端に糸がついている。糸で円盤を回転させると2つの絵が1つに溶け合って見えるのである。ベルギーの学者ジョゼフ・プラトーJoseph Plateauは1832年に光学玩具の元祖を発明した。これがフェナキスティスコープphenakistiscope(驚き盤)である。この発明品は円形の紙を軸で止め、その縁に連続した絵を描いたものである。一つの絵に注目し、円を回転させると、絵が動いているように感じるのである。その後50年に渡り、改良や応用や似たような研究が積み重ねられ、ゾートロープzoetrope、キネマトスコープkinematoscope、ファンタスコープfantascopeといった耳慣れないギリシア風の名前を持った器械が生まれた。これらは幻燈(ラテルナ・マギカlaterna magica)という古い遊びに物理法則を付け加え、この古くさい器械を興行の道具にしようとしたものである。連続して動く映像は生命を可能な限り忠実に再現するという人類古来の夢から生まれ、ついにその技術的解決を見たのである。世紀末にはアメリカのエディソンやヨーロッパのリュミエールが本物の映画を発明した。だがその前に、学者と職人の魂を持った一人の人物が価値ある成果を挙げていたのである。


エミール・レイノー Emile Reynaud

 エミール・レイノーEmile Reynaudは1844年12月8日モントルイユ・スー・ボワに生まれた。

 青年時代に精密機械工場で働き、その後は写真家アダム・サロモンAdam Salomonに師事した。サロモンはフランスに写真修正技術を伝えた人物である(この技術を始めたのはバイエルンのハーフェンステーグルHafenstaeglである)。レイノーは光学と機械に関する修練を、少年時代に母親から学んだ絵画の腕に付け加えた。母親は画家のルドゥテRedoute(“花のラファエル”、1759―1840)から手ほどきを受けたことがあった。

 1872年、科学啓蒙雑誌「自然」La natureのある号をたまたま手にした彼は、運動を光学的に再現する分野で達成された最新の成果を知った。知識と発明の才能に恵まれたレイノーは新しい器械の研究に取りかかった。ただちにその目的は果たされた。この仕掛けはプラクシノスコープpraxinoscopeと命名された。円筒形の箱を中心軸に固定し、その内面に一連の動きを描いた紙テープをセットする。円筒を回転させると、絵は軸上にセットした多面鏡につぎつぎに反射する。すると、この鏡を見る人間には絵が滑らかに動くように見えるのである。レイノーのプラクシノスコープは1877年に特許を取り、翌年のパリ万博で「選外優良賞」を受賞した。レイノーは小さな工房で子供の玩具としてプラクシノスコープの製造を始め、全ヨーロッパにむけて販売を開始した。

 だが、発明家であるレイノーは自分が無名のまま年金生活を送ることには満足できなかった。プラクシノスコープを仲間内の娯楽からより広い観客のための見世物に変えるという野心を抱いたレイノーは改良を続けた。一連の改善の結果(これらは全て特許を取った)、1888年にプラクシノスコープは発明者の望み通りになった。この年の10月、友人数名がレイノーの自宅試写会に招待された。そこで見ることのできたただ一本のフィルム『一杯のビール』Un bon bock こそ、この画家兼発明家の処女作であり、出来の方も満足の行くものだった。レイノーは12月までに再び特許をセーヌ県に申請し、1889年1月14日に第194482号として認可された。プラクシノスコープに加えた変更は単純なものだったが、新たに名称を「テアトル・オプティークtheatre optique(光の劇場)」に改めた。

 プラクシノスコープの多面鏡に映ったイメージはプロジェクターと補助鏡によってスクリーンに投影される。絵が描かれるのは円筒内の短い紙テープではなく、2つのリールから繰り出される布張りの長いテープであり、これは映画フィルムそのものといってよい。副プロジェクターを加えて、背景の(静止)映像を同じスクリーンに映写することで、器械は完成である。これは大変複雑で壊れやすく、非常に熟練した技師しか操作できないという根本的な欠点があった。そのかわり、停止・逆転映写も可能で、さらに音響効果も備えていた。実際のところ、技師は一種の映画“あやつり師”だった。アニメーション映画と人形芝居の結合である。

 レイノーはテアトル・オプティークを国内外の興行師や巡業のマジシャンに販売しようと考えた。そしてレパートリーを増やしたいと望む顧客を相手に新作フィルムのレンタル業を開業できると思っていた。これは幻想だった。あまりの高価格と器械のもろさ、取り扱いの難しさが客の意欲を喪失させた。

 したがってテアトル・オプティークの普及を望むなら、レイノー自身が映写技師を務めなければならなかった。1892年10月11日(試写の4年後)、レイノーはヴァラエティ・ショーを上演していた有名なロウ人形館のグレヴァン館Musee Grevinと契約した。

 契約の内容は、レイノー自身の操作でテアトル・オプティークを毎日上演し、レパートリーを毎年更新するというものだった。これに従い、レイノーは1892年10月28日に「光のパントマイム」pantomime lunineuseの第1回上映をおこなった。看板には『道化と犬』Le clown et ses chiens 、『哀れなピエロ』Pauvre pierrot 、『一杯のビール』のタイトルが出ていた。

 年を追って、レイノーは器械を改良した(小さなレバーをたたくことで、ピエロがくらう棍棒の音が出せるようになった)。光のパントマイムはとぎれることなく観客に供給された。上映が中止された1900年までにテアトル・オプティークは50万人の観客を魅了した。だが、1895年、グレヴァン館の数百メートル先でリュミエールLumiere兄弟が歴史的上映をおこなってからというもの、客足はとだえるようになった。レイノーはフィルムの制作時間を短縮するために新しいテクニックの応用を試みた。写真による複製技術を使って下書きを省いたのである。この職人気質の作業は現代のスピードには合わなかった。グレヴァン館は20世紀のあけぼのまでテアトル・オプティークの看板を掲げ、その後これを降ろした。

 1900年3月1日、光のパントマイムはイギリスの人形芝居とジプシー・オーケストラにさしかえられた。50代のレイノーは不屈であった。彼は立体めがねなどの新しい器械を実験した。だが、映画界は企業向きであり、零細な職人たちに対して圧倒的に優位であった。発明を売却したレイノーは経済的保証を失ってしまった。プラクシノスコープは将来性のないおもちゃになりさがり、テアトル・オプティークはこれまでの10年間買い手に二の足を踏ませてきた欠点を克服することができなかった。レイノーは次第に深い人間嫌いにおちいり、ついにある日、絶望のあまり手元のテアトル・オプティーク3組を破壊してしまった。それから彼は心血を注いだ細密画の長いテープを来る日も来る日もセーヌ川に投げ込みつづけた。1917年1月9日、レイノーはイヴリー病院で没した。

 「この器械は運動のイリュージョンを得るためのものであり、これまでの器械のように同じポーズを1回転ごとに反復するだけでなく、時間もヴァリエーションも無限で、本物そっくりの光景を生み出すことができるのです…」

 このいささかぎこちない言葉はレイノー自身のもので、テアトル・オプティークの特許申請の証言記録の一部である。ここにはテアトル・オプティークの本質が見事に総括されている。レイノーは自分が生み出した発明品の新しさを自覚していた。つまり、時間軸上の拡大であり、連続イメージに対して理論的には無限の領域を開くことになった。これ以後、「1回転ごとに」イメージが再現されるのではなく、イメージは一つの流れとなり、ストーリーを語るようになった。それまでに存在していたのは視覚の“チャイム”でしかなかった。つまり、イメージの繰り返しに過ぎなかったのである。レイノーのパントマイムによって、動画が作り出す芝居の方に関心は移っていった。観客はただ絵や写真が動くと言うだけでは(これは大変な驚きだったのだが)満足しなくなったのである。レイノーのフィルム(『哀れなピエロ』と『脱衣所のまわりで』Autour d'une cabine の2本が現存する)は絵の俳優が演じる喜劇そのものであり、あらゆる点で当時の演劇の風俗画である。例えば『脱衣所のまわりで』の洗練は世紀末の優美な趣味を凝縮し反映している。様々な要素(飛び交うカモメやおかしな海水浴客たち)を組み合わせた語り口は洒脱で、色彩感覚も非常に繊細である。

 絵自体もなかなかの出来だが、しかしそれ以上に動きを創造する能力には現在見ても驚嘆すべきものがある。「アニメーションとは動く絵ではなく、絵の動きである」これは50年後のノーマン・マクラレンNorman McLarenの言葉である。レイノーの絵は動いている瞬間に「美しく」なる。人物には生き生きとした力を与えなければならないことを、アニメーションの発明者であるレイノーは最初から理解していたのである。

 レイノーは彼のパントマイムに写真を使うことをずっと拒んでいた(写真が便利なことは明白だったにもかかわらず)。もともとは写真家だったレイノーだが、物質的現実をそのまま複製することは嫌っていた。彼はむしろグラフィック・アーティストであり、19世紀前半に「写真修正」技術を名人芸にまで高めたサロモンの忠実な弟子だった。サロモンはネガに機械的に手を加え、仕上がったイメージはもとの写真とは別物だった。つまり、グラフィック作品であり、絵画だったのだ。

 19世紀末にはレイノーも写真の使用を受け入れたが、それは作画作業を軽減するためでしかなかった。彼は二人の喜劇俳優、フォーティFootitとショコラChocolatを招いてそのジョークを再使用し、それから役者のガリポーGalipauxに彼の大当たりのナンバー「1本目の葉巻」Le Premier Cigare をカメラの前で演じてもらった。それからレイノーはイメージを1枚1枚選びだして修正した。グラフィック作業に対するその信念は生涯揺らぐことがなかった。大事なのは人の手だった。職人芸は芸術の父であり続けたのである。


フレーム・バイ・フレーム

 動く映像の分野では、運命の1895年に続く数年間は実写のカメラと映写機の時代である。ありとあらゆる技法や器材が実験しつくされた数十年間は終わり、それから探求は急速に息切れした。あれほどまでに探し求められてきた対象は、今や現実のものとなった。リュミエール兄弟の器械(同じ時期にアメリカのエディソンEdisonが同様のものを完成させた)は工業的科学的要求を十分に満足させるものだった。カラーや立体や音声の研究を追求する者もいたが、それはわき道でしかなかった。世間の荒波にさらされながらも、毎秒16-24コマのイメージを送り出すこの小さな器械は、巨大な経済的版図と社会現象を生み出した。人類は史上初めて世界と自分自身の動く姿を見たのである。

 アニメーションは再発明されなけばならなかった。何よりもまず、コマ撮りの原理が考案される必要があった。これによって動きのリズムをコントロールできるようになるのである。

 コマ撮りを発見したという主張は数えきれない。また、技法や細かなヴァリエーションについても同様である。カメラのクランクをいったん止めた後に再スタートしても、映写では途切れる印象はなく、その合間に被写体を交換することができる。この技法を最初に発見した人間は誰だろうか? おそらく、1895年8月にエディソンの下で働いていたアメリカ人アルフレッド・クラークAlfred Clarkである。彼は首を切られる女優を人形に置き換えた(『スコットランド女王メアリーの処刑』The Execution of Mary, Queen of Scots )。物体を最初にアニメートしたのは誰だろうか? おそらく、1898年にコマーシャル・フィルムでアルファベットの文字を動かしたメリエスMeliesである。クランクを止め、再スタートさせる前に絵を描き変えて、目にも止まらぬ早描きを可能にしたのは誰だろうか? おそらく、ジェームズ・スチュアート・ブラックトンJames Stuart Blacktonである(『魔法の絵』The Enchanted Drawing、1900)。しかし、これはアニメーションの名に値するものだろうか? むしろ「ストップモーション・テクニック」ではないのだろうか? また、カメラマンがクランクをストップするかわりにゆっくりと回して、早送りの映写を得た場合は何と呼んだらよいのだろうか?

 すべての関係はあまりに錯綜しており、これを一つずつ解きほぐそうとするよりも、いっそのこと一刀両断に解決した方がましである。もともと「コマ撮り(フレーム・バイ・フレーム)」のプロセスは、いっぱしのカメラマンなら専門技術として身につけなければならない雑多なスペシャル・イフェクトの一つだった。減速・逆転撮影と同様、この「トリック」はフィルムの走行を手触りで(すなわち体ごと)感じている人間にとって、特殊な才能を要するものではなかったのである。

 アニメーションがそれ自体として実質を備えるようになるのは、それが最初に使用された時ではなく、作品のベースになった時である。この意味でフィルムによる「最初の」アニメーションは(現段階では)1899年にイギリスのアーサー・メルボルン・クーパーArthur Melbourne Cooperが制作したコマーシャル・フィルム『マッチ・アピール』Matches: An Appealである。これはボーア戦争の従軍兵にマッチを送るよう市民に訴えかけたフィルムである。かつて考古学者C・W・ツェーラムC. W. Ceramが述べた別の基準によれば、一つのプロセスの「誕生」とは、それが最初に出現した時ではなく、新しい産業を生み出した時である。これに従えば、アニメーションの歴史は1908年、フランスのエミール・コールEmile Cohlのフィルムに始まることになる。

 とは言え、多くの「太古のアニメ作家」たちの貢献を過小評価してもよいことにはならない。アメリカのエドウィン・S・ポーターEdwin S. Porterは1903年に最初の西部劇『大列車強盗』The Great Train Robberyを「実写」で撮った人物として知られている。彼は有名な『テディ・ベア』The "Teddy" Bears(1907)の一シーンで見事なアニメーションを見せており、このシーンは熊の人形が滑らかにアニメートされていることでよく知られている。「トリック」の巨匠、カタルーニャのセグンド・デ・チョーモンSegundo de Chomonについては後述する。イギリスでは『画家の手』The Hand of the Artist(1906)の作者ウォルター・P・ブースWalter P. Boothや、ジェームズ・スチュアート・ブラックトンの名前も忘れてはならない。


ジェームズ・スチュアート・ブラックトン James Stuart Blackton

 ブラックトンは1875年にイギリスのシェフィールドに生まれ、10才で渡米した。若くしてジャーナリストになった彼は、1896年にトーマス・アルヴァ・エディソンThomas Alva Edisonにインタヴューするというチャンスをつかんだ。この会見中、ブラックトンは絵の趣味があることを打ち明け、エディソンはカメラの前で肖像画を描いてほしいと頼んだ。このエピソードからブラックトンの映画カメラマン・監督・プロデューサーとしてのキャリアが始まった。

 ブラックトンには「ライトニング・スケッチ」lightning sketches(アメリカ式の呼び名では「チョーク・トーク」chalk talk)の経験があった。これはヴァラエティ・ショーのナンバーの一種で、客の似顔絵を素早く描いたり、ユーモラスな絵を手早く描き変えるものである。英米におけるプロト・アニメーションの多くがこのライトニング・スケッチの映画版に他ならなかった。ブラックトンは『魔法の絵』The Enchanted Drawing(前述)の後も同じフォーマットを守り続けた。一番有名なものが『愉快な百面相』Humorous Phases of Funny Faces(1906)である。これは目を回し煙草の煙をくゆらす男、わし鼻のユダヤ人、輪をくぐる犬などが描かれている。画家の存在は手の出現によって暗示されるだけであり、まるで絵が自動的に描かれるように見える。1907年、ブラックトンは『幽霊ホテル』The Haunted Hotelを発表する。これは実写映画であり、コマ撮りの手法で幽霊ホテルの超自然現象が作り出されている。この作品は最高傑作というわけではないが、大ヒットを記録し、多くの模倣を生むことになった。エミール・コールの出発点もここにある(後述)。

 1909年以降、ブラックトンはアニメーションを作っていない。彼の映画人生にはその後さしたることもなく、1941年にロス・アンジェルスで没した。

 ブラックトンやその同時代のアニメーション作品は人々を驚かせるためにコマ撮りを使っていた。ブラックトンから真の意味でのアニメーションまではほんの一歩だった。その一歩を踏み出したのがエミール・コールである。


エミール・コール Emile Cohl

 エミール・コールEmile Cohlは1857年1月4日パリに生まれた。本名はクルテCourtetといい、その生っ粋のセーヌ人的かつパリジャン的な名前に誇りを持っていた。エミール自身の言によると、クルテ家は何百年間も現在のラ・ブルス地区に住み、最も遠い祖先は1292年のパリの台帳に登記されているということだ。宝石細工師の弟子や手品師の助手を経て、彼はとうとう絵画という天職を見出し、画家アンドレ・ジルAndre Gillに入門した。評判が高まっていくまさにその時に、エミール・クルテはコールというペンネームを使うことにした。その理由は、単にそのアルザス的なひびきが持つエキゾチックな感じが都合がいいと思ったからである。

 コールは様々な雑誌でカリカチュア画家として活躍した。とりわけ「現代の人々」Hommes d'aujourd'huiではヴェルレーヌVerlaineやトゥールーズ・ロートレックToulouse-Lautrecの肖像を描いている。コールの人気に気づいた「現代の人々」は、1894年に彼を表紙絵の専任者として抜擢した(署名は「ユゼ」Uzesとなっている)。

 コールは風刺画だけに満足するような男ではなかった。80年代から写真術にも熱中し成功を収めた。またライト・コメディを執筆し、ブールヴァールの舞台で上演された。なぞなぞや手品のようなささいな情熱については言うまでもない。コールは1907年まで映画にはタッチしていない。この年、彼はゴーモンGaumont社のオフィスを訪れたが、そこで働くためではなかった。ある映画が自分のイラストからアイディアを盗用したことに気付き、弁償金を要求しようとしたのである。プロデューサーはおとなしく従い、同時にトリック撮影のスタッフになってくれないかと申し出た。すっかりいい気になったコールはこれに同意した。

 この瞬間から歴史と伝説の境い目があいまいになる。伝説を信じるなら次のようになる。コールが映画の世界に飛び込んだのはブラックトンの『幽霊ホテル』がフランスで公開された時期と一致している。映画人たちはそのテクニックを知ろうとしてやっきになっていた。この謎を解き明かし、神秘の鍵を見つけたのがエミール・コールだったというのだ。このアメリカのフィルム(『幽霊ホテル』)が起こした反響は確かだとしても、コールにかんする事実関係については疑わしい。ともあれ、コールはこの仕事をやりとげ、わずか2、3ヶ月でフランス初のアニメーション映画『ファンタスマゴリー』Fantasmagorieを制作した。コールは質的な点でブラックトンの作品を陵駕した。本物らしさに気を使うブラックトンはいつも現実世界の側に慎重にアニメ世界を登場させていた。逆にコールはいきなりグラフィック世界に飛び込んで、現実の人間とは無関係なキャラクターを活躍させるのだ。

 『ファンタスマゴリー』は4分の作品で、1908年8月17日ジムナーズ劇場theatre du Gymnaseで公開された。観客はこの新しい見世物に拍手喝采したので、コールに新作アニメーションを依頼しようとプロデューサーたちが殺到した。1908年の末までにコールのフィルムはすでに5本以上を数えていた。この種の作業につきものの遅さやコールが利用できた初歩的な道具と技術のことを思えば、この数字は異例なものである。その上、彼は作画と撮影だけにかかりきりだったわけでなく、現像やプリントにも携わっていたのである。

 このように客観的に見て多くの障害があったにもかかわらず、コールは1923年まで制作を続けた。この時点でコール自らの手になる短編の制作本数は約300本にも達した。しかしこの数字はコールの記憶の誤りで、実際はそれ以上だったというのが確からしい。

 とはいえ、世紀初頭まで話を戻すことにしよう。1909年までに、コールはすでに40本あまりのフィルムを制作している。1910年にはゴーモン社をやめてパテPathe社と契約した。1912年にはエクレールEclair社に入り、フォート・リーにあるアメリカ支店に派遣された。そこでコールはマクマナスMcManusのマンガ・キャラであるスヌーカムスSnookumsをアニメ化し、これは初期の漫画映画の中で最も重要な作品の一つである。アメリカでコールは自分の技術をだれにも教えなかった。アニメはすでに周知の存在だったし、しばらく前から流行していたからである。アメリカ人のスタッフがコールのアニメ制作の秘密をわがものとした可能性も考えられなくはないが、それを証明することは不可能である。ただ明らかに、ライヴァルたちの技術を研究するのは形成期ではあたりまえのことだった。

 フォート・リーからコールが出した手紙の一節は、現地スタッフの仕事ぶりや制作側から支払われる報酬への賛辞に満ちている。

 年が経つうちに彼の心境は変化する。作業が合理化され経済性が確立したおかげで、アメリカ人はヨーロッパ市場でばらばらの映画作家たちに対して容赦なく競争を仕掛けるようになったのである。

 1914年3月、第1次大戦の開戦3ヶ月前にエミール・コールはパリに舞い戻った。

 戦争中コールはアメリカ時代に作っていたようなシリーズものを制作し、イラストレーター、バンジャマン・ラビエBanjamin Rabierのキャラクターを映画化した。すなわち『フランボー』Flambeauシリーズである。これは愛国プロパガンダ映画でもあった。全盛期のインスピレーションは涸れてしまったかのようだった。ほとんどすべての作品がシリーズもので、フォルトンForton原作の有名な『ピエ・ニクレ』Pieds Nickelesシリーズでは原作キャラの個性は失われていた。

 戦後になるとコールの才能の凋落ぶりはいよいよ決定的になり、もはや科学映画やCFを受注制作するだけになった。1938年1月20日コールは81才で没した。

 エミール・コールの映画活動で一番面白い時期は最初期であり、1910年にはそれは終わってしまった。ゴーモン時代のコールはファンタジーにあふれていた。この時期の映画が演劇気取りの演出だらけだった中で、コールは様式化と(文学よりも先行した)シュルレアリスムを教えたのである。彼のキャラクター達は自ら生成消滅し、無限にメタモルフォーゼし、傘に刺されても一滴の血も流すことなく、尻尾に目玉がある人面の怪物の餌食となる。コールは動画だけに満足しなかった。彼は人形や物体をアニメートし(マッチを動かした作品は有名である)、『動く扇』L'eventail animeにおけるように新しいトリックやフィルムの手彩色の研究もおこなった。

 同時期の他の作品が退屈に思える一方で、このような豊かなイマジネーションは今日でもなお興味を惹く。これはひとえにコールの単純ではあるが生き生きしたグラフィックのたまものである。アニメーションにおけるグラフィック的要素を強調する批評家は、コールの平面的ヴィジュアルファンタジーがアニメーション芸術の最初にして最高の例であると考えている。彼のフィルムはユーモアとコメディに緊密に結び付いている。例えば、ファントーシュが出るエピソードはちょっとしたコメディ仕立てになっており、キャラクターの対比や対立者(警官など)との葛藤や行き違いを土台にしている。コールの絵は量感よりも線を強調し、彼のコメディは心理描写よりもプロットを重視しているが、その作品は一つの飛び抜けた要素を示している。それはめくるめくトリックであり、これはマジシャンの山高帽から取り出されるウサギのように説明も論理的連関もなく飛び出してくる。この楽しさが彼の稚拙な(彼の腕前は確かだったとはいえ)絵の中にこだましているのである。コールが絵を簡略化したのはアニメートする線の数を減らすためであったが、いくら必要に迫られたからとはいえ、普通芸術家というものはなかなかこういうことができないものである。

 1910年以降の彼はゆっくりと下降線をたどるが、それでもなおコールは数本の佳作を発表している。最後の娯楽作品は『ファントーシュの家探し』Fantoche cherche un logement(1921)である。この作品で64才の老作家はあの幸福だった『ファントーシュたちのドラマ』Drame chez les fantochesや『ファントーシュの悪夢』Le cauchemar du fantocheの時代に彼が愛したキャラクターをよみがえらせたのである。ファントーシュに見守られながら、コールはアニメーションの世界から退いたのであった。


ジョルジュ・メリエス Georges Melies

 ジョルジュ・メリエスGeorges Melies(1861年12月8日、パリ生まれ)は奇術師で、ロベール・ウーダンRobert Houdin劇場を買い取り、マジックとヴァラエティショーの劇場主兼座長になった。リュミエール兄弟の上得意でもあった彼は1895年12月28日の歴史的上映に招待された。このイベントは彼に劇的な影響をおよぼした。すなわち、映画の監督・製作業に転じ、続く10年間に業界のリーダーになったのである。ドキュメンタリー映画の監督たちの中にあって、メリエスはイマジネーションの王国に目を向けた最初の人間だった。彼はまたカメラを使ったさまざまな効果を研究したパイオニアでもあった。これらの効果は、今日の映画言語に姿を変えることになるブレイクスルーを予感させるものである。

 メリエスのフィルムを今上映すると、アニメは使っていないにもかかわらず、まるでアニメーションを観ているような気になる。物語は不自然な書き割りの前で展開する。役者自身も仮面やコスチュームや変装に覆われることで、装飾の一つとしか見えない。加えて、キャメラもまた固定されている(キャメラは座席に坐る観客と同じであるべきだとの原則にしたがってメリエスは撮影した)。したがって、すべての動作はまるで人形アニメーションのように演じられたのである。メリエスの映画がそれ自身を否定することになる萌芽がここにあった。つまり、彼の映画の中にスタイル上の不調和があるとすれば、それは平面的な情景と立体の俳優のぎこちない動きとのコントラストにあったのである。とはいえ、メリエスは同様の映画の先駆けとなり、この矛盾は技術の進歩によって克服されることになる。キャラクターと背景(書き割りにせよ立体にせよ)はスタイル的にも同質のものとなり、動きはもはや俳優ではなく監督が作り出すものになったのである。メリエスの作品は実写とアニメーションの間に真の境界線がないことをもっとも雄弁に物語るものの一つであるだろう。


最初の抽象映画

 美術史でもそうだが、19世紀末から第1次大戦までの時代は映画にとっても決定的な時期である。映画は欧米において芸術的にも産業的にも確立した。世紀始めにはパテ、ゴーモン、イタラItala、アンブロージオAmbrosio、エディソン、バイオグラフBiographといった新しい映画産業の大会社が旧来の大産業に匹敵する投資・収益を上げていた。常設の映画館がサーカスや地方市(アメリカではさらに店頭)にとってかわった。メリエスに始まり、ブライトン派からエドウィン・S・ポーターまでには映画のスタイルは確立され、グリフィスGriffithにいたって高みに達した(『国民の創生』The Birth of a Nationは1915年に制作された)。映画は新しい現象であり、映画作家は新しい人種だった。他分野や知識人からこの新しいメディアが賞賛されることはほとんどなかった。歴史も先生もモデルもなく、映画は新しく生まれた言語につきもののあらゆる問題を示していた。キャメラを扱える人間だけでなく、才能ある技術者や愛好家もまた必要としていたのである。

 このような状況は大学や美術界からは無視された。彼らは映画を演劇の粗悪なコピーに過ぎず、芸術的才能あるものはさけるべきところだとしか考えなかった。旧来の芸術の形式的・イデオロギー的秩序に反抗していたはずのアヴァンギャルド運動においても、非常に少数の例外を除いては同様の態度であった。フォーヴィスムとキュビスムはその大胆な革新でスキャンダルとなっていた。数年遅れて未来派は芸術のみならず思想・政治運動としても名乗りを上げた。ダダとシュルレアリスムはこの例にならった。ブルジョアのインテリから非難糾弾されることで、映画とアヴァンギャルド運動は平行する運命をたどり、この時代の人文的分野に分裂をもたらした。

 2者のつながりは偶発的なものだった。未来派、ダダイスト、シュルレアリストが映画を愛好したとしても、映画制作者側がファインアートに関心をもつことはなく、ましてやアヴァンギャルドなどなおさらだった。2、3の例外は別として、映画は大衆産業だったのである。

 技術的経済的制約もあり、アヴァンギャルドが産み出した映画は一部で成功した数本を数えるだけである。それはジンナGinnaの『未来主義者の生活』Vita futuristaやマン・レイMan Ray、フェルナン・レジェFernand Leger、クレールClair=ピカビアPicabiaのダダ映画、そしてブニュエルBunuel=ダリDaliの『アンダルシアの犬』Un chien andalou、『黄金時代』L'age d'orである。この作家達が映画に興味を持った理由は何だろうか? それは映画が運動をもたらすからだった。運動の探求は美術史の中に常に見られるが、印象派以降高まりを見せていた。静止した描写は写真にまかせて、生を捉える方向へ進んでいたのである。スーラSeuratは空気のゆらめきを描くことに成功した。一方、未来派は「ダイナミズム」を思想的・美学的信条としていたので、形態を無視してアクションを描いた。バッラBallaは『鎖につながれた犬のダイナミズム』Dinamismo di un cane al guinzaglio(1912)で走るバセットハウンド犬を、『ヴァイオリン奏者の手』Le mani del violinista(1912)で楽器上を素早く動く手を描いた。ブラガーリアBragagliaは「フォトディナミズモ」を使って1コマの中に一連の動きを合成した。同じ時代、マルセル・デュシャンMarcel Duchampは『階段を降りる裸体』Nu descendant un escalierを制作したし、例ならもっと挙げることができる。

 これらの美術的流行はみな運動の「造形的」コンセプトに基づくものである。新しい絵画や写真は運動の視覚的効果と心理的コンセプトを表現しようとした。ここから映画まではあと一歩だった。物体にせよデッサン・絵画にせよ、とにかくあらゆるものに動き(未来派の言葉を借りれば「ムーブメント」)を与えることが出来るアニメーションは、このようなデザイナー、彫刻家、画家たちの目的にもっとも近いメディアであった。アニメーションの歴史には画家との接触・進出がたびたびあるが(ピカソPicassoは自分の素描を映画化をアニメーターのジューリオ・ジャニーニGiulio Gianiniに一任しようとした)、逆にアニメーターのほうでもグラフィックアートや造形芸術の最新流行に注目してきたのである。50年代にはキネティックアートが誕生し、従来の造形美術とアニメーションとをつなぐミッシングリンクを埋めることとなった。今世紀の最初の40年間、ヨーロッパは文化的るつぼであり、さまざまな実験を行い、新しい原理を戦わせることが可能な環境だった。長期にわたり、ヨーロッパのアニメーションは偉大な才能を産み出してきた。逆にアメリカでは「実験映画」や「自主映画」が現われるのは30年代以降のことになる。


アルナルド・ジンナ Arnald Ginna

 「1907年以来、私は映画の持つ動く映像としての可能性を理解するようになった」 これはジンナの回想である。「1908〜09年にコマ撮りできるムーヴィーキャメラはなかった。私はフィルムに直接描こうと考えた」 ジンナは作家かつ未来派の理論家であり、さらに西洋絵画史上恐らく最初の抽象絵画(『神経衰弱』Neurastenia, 1909)を描いた画家、そして未来派映画として公認された唯一のフィルム『未来主義者の生活』Vita futurista(1916、フィレンツェで未来派の主導者たちと協力して制作された)を撮影した人物である。彼はアニメーション映画の中でも全く新しいテクニックを創造した。これは25年後にレン・ライやノーマン・マクラレンによって発展させられることになる。

 ジンナの本名はアルナルド・ジナンニ・コッラディーニArnald Ginanni Corradiniといい、1890年5月7日にラヴェンナに生まれた。ブルーノ・コッラBruno Corraというペンネームを用いた弟のブルーノ(1892年6月9日ラヴェンナ〜1976年12月20日ヴァレーズ)とともに、ジンナは芸術についての独創的な理論を展開した。この兄弟によれば、諸芸術には相互的関係が存在する。すなわち、「音楽のモティーフ」が一連の時間の中で音が変化することで形成されるとするなら、同じように絵画においても映画的手段によって一連の時間の中で色彩が変化することで「色彩モティーフ」が得られるはずである。和音が固定された音(オルガンの鍵盤を押して音が出るように)であるなら、「色彩和音」(ジンナの命名)は後に「抽象絵画」と呼ばれるものを表わしている。ジンナは書いている。「点描主義は色彩和音や色彩シンフォニーを研究する上で出発点になる。というのは、絵画中の異なる点や部分は異なる音の連続に相当するからである。ここからわれわれはセガンティーニSegantiniの絵画のカラーエリアにアプローチすることができた。例えば、セガンティーニが描いたあるカラーエリアは高原の自然から正確に得られた色彩和音だった」

 ジンナがダイレクトペイントしたフィルムは4本ある。セガンティーニに基づく『色彩和音』Accordo di colore、『4つの色彩による効果の研究』Studio di effetti tra quattro colori、メンデルスゾーンMendelssohnによる『春の歌』Canto di primavera、そしてマラルメMallarmeによる『花々』Les fleursである。第1作は色彩和音を展開させた作品であり、2本目は補色(赤緑、青黄)の効果を研究したもの、そして後2作は音楽や詩を色彩に翻訳したものである。

 「1910年に作った実験フィルムはもう何年も見たことがない。誰か持っているのだろうか? 紛失したのか? それとも破棄されてしまったのか? おわかりと思うが、あまりに昔のことで、その間、色々な事件がおこり、あちこちの街を渡り歩いたものだ! だが、あれを重要視する人間はいなかった。あの実験、特にセガンティーニの作品に関する部分は色彩音楽、色彩モティーフ、色彩シンフォニーを作り出すために制作した。できたのは短い白黒のアニメーションに過ぎなかったのだが。一番最初の実験は小さな本で、たくさんのページをすばやくめくると動きの印象がもたらされるものだった。それから硝酸銀の感光剤がついていないセルロイドフィルムに手でそれを転写した。このフィルムはラヴェンナの光学器械商のマジーニから送られたものだ。すべてはまるで夢のような遠い過去の思い出だ。後になって、動く絵がついた小さな本が子供のオモチャとして売られていたのを知った」

 ジンナは芸術家としての活動をひっそりと続けたが、再び映画を試みることはなかった。彼は1982年9月24日にローマで亡くなった。


レオポルド・シュルヴァージュ Leopold Survage

 1914年頃、キュビストの画家レオポルド・シュルヴァージュLeopold Survage(スカンジナヴィア・ロシア・フランスの血が混ざっている)は未来派に呼応した。色彩のリズムに基づくフィルムを作ろうと、従来の手法を使ってコマ撮りをおこなった。「色彩のリズムは音楽を図示したり翻訳するものではない。音楽と同じ心理データに基づくとはいえ、それ自体で自立した芸術形式である」とシュルヴァージュはアポリネールApollinaireの雑誌「ソワレ・ド・パリ」Soiree de Parisに書いている。しかし、シュルヴァージュの長文だが思想的には弱い宣言の中では、ジンナと同じ領域が探求され、ほとんど同様の結論に達している。大戦はシュルヴァージュの映画的野心にピリオドを打ち、この映画が完成することはなかった。結局は数枚の準備用の絵画が残されただけであった。

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