アレクサンドル・アレクセイエフとクレア・パーカー

セシル・スター Cecile Starr

 アレクサンドル・アレクセイエフは1901年、ロシアのカザンに生まれ、コンスタンティノープルで少年時代を過ごした。それから青年時代には極東中を旅し、続いてパリに到着した。彼は舞台装置のデザイン・美術に従事し、1920年代前半にはピトーエフやジューヴェ、コミサルジェフスキーの劇団、スウェーデンバレエ団, そして1936年にはロシアバレエ団で働いた(注1)。

 ステージ・デザインの乏しい収入に失望したアレクセイエフは、本のイラストレーションのために版画や木版を始めたが、レッスンを受けることができなかったので独学であった。彼の初期作品はボードレールやポー、ジロドゥ、モーラン、ゴーゴリ、プーシキン等の本、そして、1929年の彼の傑作、100枚のイラスト入りのドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』Brat'ya Karamazovy の3巻本などである。1970年にはマルローの小説2篇を収めた本がアレクセイエフのカラー・イラスト25枚入りで出版された。戦後のブック・イラストレーションの中には、12世紀のロシア叙事詩『イーゴリ軍記』Slovo o Polku Igoreve や『ホフマン物語』Tales of Hoffmann、『ロシア昔話』Russian Fairy Tales (1973年にアメリカで再版された)がある。

 「シネマ・クォータリー」誌 Cinema Quarterly 1934年秋号で、アレクセイエフとパーカーは自分たちが発明したピンボード・アニメーションを、版画に類似したフィルムを生む手段として解説している。これは「あらゆるトーンと明暗法の技巧」によって灰色のあらゆる陰影付けが可能であり、濃淡の輝きとデリカシーの点で、版画で知られている全てを越えることすら可能にするのだ。

 ジョン・グリアスンは、同じ号で彼らの処女作『禿山の一夜』のレヴューをおこなっている(注2)。 「…その形態にはソフトでぼんやりした特徴があり、カートゥーンにつきもののくっきりした線はまるで存在していない。形態は空間から出現し、別の形態に溶けていくように見える。立体的性質は簡単に得られるように思われ、アニメーションのモデリングは全体のスタイルを乱さずに導入することができる。このフィルムは技法的関心を別にしても、想像力に富む出来映えである。これを描写することは困難ではあるが、しかし、ワルプルギスの夜を想像してほしい。そこでは、アニメートされた足跡が霊的存在を示し、大鬼小鬼が幻想的に出没してとんぼ返りし、案山子が誰もいない丘の中腹で自分の影とファンダンゴを踊り、白馬と黒馬が高空を横切り、骸骨が歩くのだ。アニメーションはムソルグスキーの音楽に合わせている。あらゆる映画同好会はこのフィルムを見るべきだ。これは彼らが見たがっている驚くべき素晴らしい短編である」

 この映画は批評家には喝采で迎えられたが、映画同好会での上映では生活費を稼ぐことができなかったので、アレクセイエフはコマーシャルに転向し、彼のCFはヨーロッパ中の映画館で上映された。20年以上に渡り、彼は数十本のコマーシャルを制作し、それらは1〜3分の長さで、オブジェや模型、人形などをアニメートしたものだった。ソリッド・イリュゾワールをアニメートする方法を彼はトータリザシオンと名付けたが、この解説は後述する〔「映画的総合におけるソリッド・イリュゾワール」を参照〕。2・3人の協力者・アシスタントとのチームがこれらのフィルムでは要求されることがしばしばだったが、その中で、クレア・パーカーに加えて特に多かったのが、アレクサンドラ・グリネフスキーやエティエンヌ・ライク、 ジョルジュ・ヴィオレだった。音楽はアレクセイエフのコマーシャルフィルムで特別な要素であり、ショパンやチャイコフスキーといったクラシックから取られたり、プーランク、オーリック、ミヨーといった現代音楽家によって作曲された。

 戦争の間彼らはアメリカに住み、2分のピンボード・アニメーション『道すがら』を制作した。これはカナダNFBのためにフランス語圏カナダの民謡に合わせたものだった。その20年後、再びピンボードでゴーゴリの短編を原作とした『鼻』を制作した。アレクセイエフは20年代半ばにこの本にイラストレーションを付けたことがある。

 『展覧会の絵』(1972年)では再びムソルグスキーの音楽に合わせて、2組のピンボードを使用した。これは、大きい方のピンボードが静止して、その前をもう片方が回転するようになっている。

 『鼻』の制作中――他の長編と同様、完成に2年近くを費やしたのだが――アレクセイエフはオーソン・ウェルズの依頼で『審判』のプロローグとエピローグのために数枚のピンボードの静止画を制作した。静止画を撮影したものを提供して、オプチカルのオーヴァーラップの技術的操作はウェルズのスタッフに任された。

 その間もアレクセイエフはイラストレーションの仕事を続け、その大多数はロシアの作家の本だった。その中にはドストエフスキーの『賭博者』Igrok、『地下室の手記』Zapiski iz Podpolbya やパステルナークの『ドクトル・ジバゴ』Doktor Zhivago などがあり、ピンポード製の連作イラスト入りで全てアメリカで出版された。映画と同様、ここにもアレクセイエフのロシアの思い出から生まれたイメージを見ることができる――人気のない通りを見守る街灯、格子窓の家、中空を漂う雪片、黒衣の神秘的な男たち、見つめている無名の生き物。映画では、これらの同じイメージが現実的・幻想的な動きで生命を得るのだ。アレクセイエフはこう語ったことがある。「未来はアニメーションのものだ。アニメーションの黄金時代が間もなくやってくる」〔「アレクセイエフ・インタヴュー」参照〕

 クレア・パーカーはアレクセイエフのフィルムと技術的実験・発明の全てについて、その協力者であった。2人は1941年以来、夫婦になった。クレアはボストンに生まれ、ウィンザー・スクールとブリン・マー大学〔ペンシルヴァニアの名門女子大〕に通い、マサチューセッツ工科大学とヨーロッパで絵画を学んだ。パリで彼女はアレクセイエフの『カラマーゾフの兄弟』のイラストに惹きつけられた(注3)。 彼女の言葉によると、そこに彼女は「モノクロの絵画のような、今まで見たこともない性質」を見出したのである。彼女は版画のレッスンを依頼し、2人で版画を動かす方法を探究しはじめた。彼らは共同してピンボード第1号を組み立て、続いていくつかのピンボードを制作した。ピンボードはピンスクリーンと呼ばれることもあり、ピンスクリーンおよび(または)ピンボードのフランス語での正式名称は、“l'ecran d'epingles”〔英語に直訳すると“the screen of pins”〕である。

 ピンボードでの彼らの作業では、クレア・パーカーが画面のネガ側を操作し、静止画・映画の全てのカメラ・ワークを担当している。彼女はまたサウンド・トラックの分析とシンクロにも密接に従事している。アレクセイエフがスタジオに不在の間に、彼女はカラーのアニメCFを演出した(注4)。 1936年には、その年のパリで開かれたルーベンス展のカラーアニメーションを撮影した。第二次大戦中にニューヨークにいた数年間を除いて、2人はずっとパリで生活してきた。アレクセイエフは帰化したパリ市民として、クレア・パーカーはアメリカ人として。2人はフランス、特にトゥールやアヌシーのフェスティヴァルでアニメーションフィルムと短編フィルム一般のために活動を続けている。

 彼らの仕事の実例は『ドクトル・ジバゴ』のイラストレーションの作り方を示した一巻物のフィルムで見ることができる(注5)。これはクレア・パーカーの心・眼・手がアレクセイエフの心・眼・手に即答するかのようなユニークな協同作業である。このような共感がなければ、あのような複雑なフィルムが制作されることは決してなかっただろう。イメージは確かにアレクセイエフのものだが、フィルムは必然的に努力の結合なのである。アレクセイエフはその“長編”で彼女に対等のタイトルを与えてこれに謝意を表した。これらのフィルムはそれぞれ完成に2年近くを要し、1日8時間、時には週7日間労働だった。

 彼がさらにこれを認めたのは、72才で『展覧会の絵』を完成させた時で、彼は冗談混じりにこう言った。「続けてムソルグスキーの曲の残りをフィルムにしたいものだ(曲の1/3がフィルムで使用された)。そうしたいのは山々だが、クレアにはその力がないだろうね」


  "Alexander Alexeieff and Claire Parker"『エクスペリメンタル・アニメーション』Experimental Animation (New York: Da Capo, 1988)



1.ジューヴェ(1887〜1951)はフランスの俳優・演出家。1913年よりヴィユー・コロンビエ座の監督となり、1922年からはコメディ・デ・シャンゼリゼ座でモリエールやジロドゥを演出する(ロッテ・ライニガーの『アクメッド王子の冒険』Die Abenteuer des Prinzen Achmed (1926)がフランスで公開され、6ヵ月のロングランを記録したのがこのシャンゼリゼ座である)。また、映画俳優として、『舞踏会の手帖』Un carnet de bal (1937)や『北ホテル』Hotel du Nord (1938) など、多数の作品に出演している。
 コミサルジェフスキー(1882〜1954)はロシア出身の演出家・舞台デザイナー。父はスタニスラフスキーの芸術・文学協会の設立にも参加した大歌手、姉のヴェーラも有名な女優である。ロシアで演出家となった後、1919年よりイギリスのストラトフォード・アポン・エイヴォンで表現主義的舞台装置を使用したシェイクスピア作品を上演。他にはチェーホフを主なレパートリーとした。
 この「ロシアバレエ団」とは、普通名詞として使っているのか、それとも固有名詞の方(ディアギレフの)なのかはっきりしない。仮に後者だとして、ロシアバレエ団は1929年ディアギレフの死とともに解散しており、年代的に考えると、ロシアバレエ団の残存メンバーによって1932年に結成されたモンテカルロ・ロシアバレエ団 Ballet Russe de Monte Carloのことか?
 また、ラルフ・スティーヴンスンの『アニメーテッド・フィルム』The Animated Film (London-New York, 1973)には、アレクセイエフが協力した演劇人として、ガストン・バティ(1885〜1952。ドイツ・ロマン主義やメイエルホリドから影響を受けた表現主義的演出が特徴)の名前も挙げられている。

2.グリアスン(1898〜1972)はGPO(イギリス郵政局)のフィルム・ユニットを経て、NFBの最初の責任者となり、記録映画作家の養成や製作をおこなった。マクラレンを見出した人物としても知られる。

3.『世界アニメーション映画史』(伴野孝司+望月信夫、ぱるぷ、1986)に「この〔『カラマーゾフの兄弟』の〕イラストを手伝ったのが、後に彼の妻となるクレア・パーカーである」(P.161) とあるのは、この箇所の誤読によるものか。

4.『線のハーモニーのエチュード』Etude sur l'harmonie des lignes (1937)

5.『ジバゴについて』A propos de Jivago(製作:Cinema Nouveau, Paris, 1960)

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