アレクサンドル・アレクセイエフジャンニ・ロンドリーノ Gianni Rondolino |
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バルトーシュ Bartosch の作品〔『観念』Idee〕が孤高の存在にとどまり、その思慮に富んだ教訓が直接の後継者をもつことはなかったことは前に述べた通りである。しかし、間接的にではあるが、1人の弟子がいた。彼は別の分野でアニメ史に偉大な1章を残すことになった。それがアレクサンドル・アレクセイエフ(アレクサンドル・アレクセーエフ Aleksandr Alekseev をフランス語式にしたもの)である。アレクセイエフ自身が次のように述べている。「当時の実験映画、特にレジェ Leger の『バレエ・メカニック』Le ballet mecanique 〔1925〕とバルトーシュの『観念』を見て、私は音楽を動きで表現しようと考えた。私はそれを漫画映画の特徴である線画とは根本的に異なるものとして思い描いた。私はどうしても(私の版画の本質である)明暗法や柔らかな輪郭や曖昧な形態でアニメートしたいと欲したのだ」 アレクサンドル・アレクセイエフのフィルムに取り組もうとするならば(たとえ簡単にでも)、それ以前および同時期の彼の様々な活動、つまり絵画、イラストレーション、版画、舞台美術などを無視するわけにはいかない。確かにアレクセイエフにとって、映画とは、鉛筆や彫版から生まれた静止映像に動きを与えることで、動かない線に閉じこめられた美術の表現の可能性を拡げるという要求として生まれたものだ。しかし、彼はその前に、イラストレーションについての新しい美学的コンセプトに従って豪華本のイラストレーションを制作していた。そのコンセプトとは、イラストがテクストの文章からの発想にとどまらず、ページからページへの流れや動きを秘めた連続イメージになっているというアイディアであった。言い換えれば、アレクセイエフのイラストレーターとしての活動の源には映画という新しいヴィジュアルアートが(多かれ少なかれ意識的に)あったのである。彼のグラフィック作品はこのことを詳細に示している。従って、距離をおいたところから眺めてみるならば、彼のエッチングはすでに動きの必要条件を含んでおり、現実の運動を断片の配列として表現している。 キネティック・アートの分野で10〜20年代になされた探究についてはすでに見てきた。この探究の多くは初期の抽象アニメーションの実験の中に合流した。しかし、アレクセイエフの場合はいささか異なる。彼が関係していたのは当時のフランス・アヴァンギャルド運動であり、同時代の芸術闘争に周縁的にではあるが参加していた。彼の芸術的自己形成は芸術家サークルや流派、グループなどあらゆる集団の外部でなされたという点で特異であり、技法面の実験は1人で行なっていた。その理由は、彼の芸術・人生経験、そしてつきせぬインスピレーションの源が演劇だったためである。 演劇とは見世物であり、また人間やオブジェ、コスチューム、舞台美術の運動でもある。造形芸術とはそういった運動を強制的に結晶化させたものであるが、それと同時に、複数のイメージの構成や時間的な継続という動的な可能性に向けて開かれてもいる。映画とは運動を表現するメディアであり、従って美を解明する究極の手段、つまり詩的表現である。総合と図式化については、アレクセイエフが20代にアーティストとして基本的に自己形成したときにすでに経験済みであった。時代的には、1921年にパリへやってきてから1932年に第1の技術的実験を「ピンスクリーン」でおこなうまでの時期である(アレクセイエフは1901年、カザンの出身である)。このピンスクリーンの実験は弟子のクレア・パーカーとともに始められ、彼女との人間的・芸術的な共同関係がアレクセイエフの芸術により成熟した成果をもたらしている。 長期の東洋航海の後、無一文でパリに到着した若きアレクセイエフは、演劇・バレエ界で活躍していたセルゲイ・スデイキン Sergei Sudeikin に入門した。スデイキンは長年にわたりロシアバレエ団、スウェーデンバレエ団(注1)、さらにその他の劇団で舞台美術・衣装デザイナーとして精力的に活動していた。アレクセイエフはその間にも美術学校に通い、豪華本のイラストレーターとして独立した後は(特に1926年から1930年まで)これに専念した。彼が映画の世界へ進んだのは、アレクセイエフ自身が書いているように、アヴァンギャルド映画の影響であった。とりわけレジェ――おそらくスウェーデンバレエ団時代に付き合いがあったと思われる――とバルトーシュ――後に友人となる――の映画だった。 アレクセイエフ芸術を特徴づける実験精神が映画の技法的可能性、中でもアニメーションへと彼を向かわせた。彼をそうさせたのは、彼以前のアヴァンギャルド運動から得た教訓だけでなく、彼の技術的・美学的・芸術的なオリジナリティのせいでもあった。綿密なリサーチの末(これにはかなりの時間がかかった)、アレクセイエフは1932年初頭にクレア・パーカー(後に妻となった)と協力して、「ピンスクリーン」と名付けた変わった独創的な道具を制作した。これは縦80cm横1mのボードに100万本の小さな穴が開けられ(1932年のピンスクリーン第1号では50万本だけだった)、その穴に同じ数で長さ数cmの鋼鉄製ピンが通されている。それぞれのピンは自由に長さを変えることができ、約45°の角度からボードに照明を当てて、ボード上の明るい表面に光と影を配置し、どのようなイメージでも形作ることができる。ピンの1本1本は画面上の長さに応じた長さの影を作り、影の集合が形の輪郭や明暗や遠近感を形成する。ピンスクリーンによる映像は1枚1枚映画カメラで撮影され、フィルムの1コマ1コマを構成する。これが最後には何千枚ものコマとなり、そこにはボード上のピンのポジションが少しずつ変わることで得られたイメージが表現されている。この結果が一種の「動くエッチング」、つまり「版画」アニメーションとなり、一枚画としての各イメージ、およびイメージのメタモルフォーゼやイメージ同士の対位法に関して驚異的な表現能力を可能にする。 この道具はコンセプトとしては単純であるが、実用化は難しく、多くの時間と労力を要した。「ピンスクリーン」はイメージを構成し、動かすという成果をもたらした。これはアレクセイエフが長年温めていたヴィジュアル・アートにおける技術上・表現上の根気強い探究のゴールであった。このゴールによって版画やデッサン、イラストレーションにおける実験を終えたアレクセイエフは(実際にはその後もこの活動は不定期に続行され、エッチングの新しいテクニックを応用してはいるのだが)、「動く絵画」の表舞台に登場したのである。 1年半の作業の末、アレクセイエフとパーカーは1933年にピンスクリーンによる第1作を完成させた(その後長年に渡り、この1作きりではあったが)。これはムソルグスキーの交響詩『禿山の一夜』の映画化であり、アレクセイエフ自身が語っている通り、まさに「音楽の動くイラストレーション」である。このフィルムはアヴァンギャルド映画がすでに下火になっていたパリで上映され、マスコミや評論家の間で大成功を収めた。だが、ある映画製作者は同じようなフィルムを12本作るという契約を申し出、アレクセイエフはこれを拒否した。当時アニメーションは――ハリウッド製に限らず――大衆、そして批評家の関心を呼んでいた。ウォルト・ディズニー Walt Disney の『シリー・シンフォニー』Silly Symphony は当時その詩情にあふれた洗練が評価されていたが、それ以外にもフィッシンガー Fischinger の抽象映画(その一つ『コンポジション・イン・ブルー』Komposition in blau は1934年のヴェネツィア映画祭で1等賞をとった)や、ライニガー Reiniger の影絵映画が大きな成功を収めていた。どちらもある点でアレクセイエフのフィルムと共通点をもっている。 『禿山の一夜』は美的な魅力にあふれ、繊細で斬新なテクニックを見せている。その意味でこの作品の登場は拍手をもって迎えられ、実験映画史・アニメーション史に名を残すことになった。だが、同時にこの作品は形とリズムのスタイルにおいて特異な性格を示してもいるのである。これはアレクセイエフのグラフィック作品にもすでに現れていたが、今やより完全な形で現れている。奇怪で刺激的なイメージが、ムソルグスキー Musorgskii の音楽の様々な調子(悲痛な、リリカルな、牧歌的な、ドラマティックな、悲劇的な…)を次々に表現する。これは光と影のコントラストから生まれ、見るものの前で次々に形をとっては変形していき、さながらきらめく夢幻的なイメージや幻想的なヴィジョンのように見える。あるときはリアルな、またあるときは擬人化された形態が、謎めいた1本の筋の中で形を変えていく。この制約も物語も全く存在しない物語の構造を緻密に支えているのは音楽である。そしてそのような様々な形態はスクリーンという平面に定着されて、作者自身の過去や記憶、ある時期の感情、幼年期、思春期の思い出など(これらは喜びと悲しみが入り交じっている)に深く根差した1つの存在を表現する。このフィルムにおける自伝的要素はストーリーよりもヴィジュアル面に現れており、灰色・黒・白の調子・陰影によって表現され、まるで次々に変化するフォルムや変奏されるテーマを通して生まれ出ているかのようである。イメージと音は互いに響き合い、類まれな表現力を備えた1つの詩的“連続体”をなしている。そのため、ムソルグスキーの曲の魅力はアレクセイエフのイマジネーションからほとばしる魅力と完全に一体化している。 アレクセイエフの芸術家としての自己形成は芸術家サークルや流派、グループの外で、一種の孤独な実験の中で行われたということはすでに述べた。彼の芸術を生み出したものとしては(むしろそれを通してにじみだしてきたと言うべきだろうが)、20年代のパリにおけるアヴァンギャルド運動と演劇の経験を付け加えるべきだろう。これらはロマン主義の伝統に発しており、本能と理性を対立させるという価値観が強力に支配している文化に由来する。それゆえ、〔ピンスクリーンという〕技術的プロセス(そのオリジナリティと独自性は見過ごされ、アヴァンギャルド映画の実験の路線に位置付けられてしまった)を使いながら、その現実の取り扱い方はデカダンティズムの範囲を越えるものではない。つまり、現実に対する見方としては、本質的には保守的なものである。 しかしながら、『禿山の一夜』が本質的にはそのように保守的なヴィジョンだったとしても(だが、その苦痛に満ちたイメージの何という悲哀!)、これは革新的な映画コンセプトを表現している。現実の現象をただ複製する手段(たとえその視点が個人的で批評的で、問題的であるにしても)というだけではなく、(具体的で目に見える現実の)生によって彼自身の夢想や苦悩、失われた世界への郷愁、錯乱した想像力が生み出した幻想などを表現する道具なのである。これはすなわちシュルレアリストが映画に対して抱いた考え方であり、マン・レイ Man Ray (『理性に帰る』Retour a la raison, 1923)からジャン・コクトー Jean Cocteau (『詩人の血』Le sang d'un poete, 1931)にいたる数多くのアーティストたちが20年代フランス映画の中で大胆不敵な作品群を生み出していた。これらは映画という新しい芸術に夢想の要素を与えようとする意図を持っていた。夢想(そしてフロイト主義)はアレクセイエフのフィルムにも満ちあふれている。各イメージ各シーンが夢とそのメカニズムを参照しているために、彼の作品は精神分析的解釈を必要とし、作者の内面を理解しない限り、その秘密を明らかにしないかのようである。 しかし、1933年といえば、アヴァンギャルド運動のエネルギーが政治および文化運動という別の分野に流れ込んでいった時代であった。従って、『禿山の一夜』はすでに終わってしまった芸術実験を――アレクセイエフ本人は自分の憂愁に満ちた詩法とは無縁だと思っていたかもしれないが――まさに総括することになった。明暗法や柔らかな輪郭、曖昧模糊とした形態などのダイナミズム、そしてイメージと音の相互作用といったものは、(アレクセイエフが考案し、用いているテクニックの特異性はおくとして)前述したアヴァンギャルドからの引用である。つまり、『禿山の一夜』はアヴァンギャルドをまさによみがえらせ、あるいは再出発させたものである。実際、(作品のテーマ的・美学的構造の中だけでなく)その語法の中にもメランコリックな調子、自伝的なほのめかしをたどることは容易である。また、現実の夢想的・幻想的なヴィジョンや、オブジェ・人物のメタモルフォーゼ、精神の分裂と日常経験の拡大が生み出した不安などもまた先行するシュルレアリストたちまでさかのぼることができる(本来的にはデカダンティストのものであるが)。 ダダイスムやシュルレアリスムとは一線を画していたアレクセイエフは、独自の「世界観」を築き上げた(とはいえ、その作家たちや作品に親しかったおかげで彼らの近くにはいたのだが)。これはドイツロマン主義とロシアの文学・絵画・民俗的伝統(これは10月革命により消滅した)の流れを汲んでいる。ドストエフスキー Dostoyevskii やゴーゴリ Gogol'、ホフマン Hoffmann 、ポー Poe 、プーシキン Pushkin 、ボードレール Baudelaire (アレクセイエフは彼らのイラストを手がけている)が彼のお気に入りの作家たちであった。それも1回だけではなく、何回もくり返し取り上げている。そして、ロシアの巨匠たちのイコンや作曲家ムソルグスキー、さらに最大の源はおそらく彼の母国である無限に広がるオリエント――つまり「母なる大ロシア」の神話である。そのような様々な時代・場所の神話的ヴィジョンは厳しい芸術的・文化的経験により磨かれて、当時のアヴァンギャルド芸術家の誰とも異なるレヴェルに彼を位置付けた。とはいえ、これまで見てきたように、彼の作品にダダイスムやシュルレアリスムからの引用が多いのも確かである。そこからにじみ出るダダイスムやシュルレアリスムは、アヴァンギャルドの「思い出」ではあるかもしれないが、それと同時に作品の批評や解釈にとって欠かすことのできない参照事項でもある。 しかし、アヴァンギャルドの復興と言っても、それはアレクセイエフにとって学術的な作業ではなく、その対極であり、復元や再開などではない。せいぜいのところ、芸術・人生両面における自己確認作業が、自分のルーツや出発点がまさにアヴァンギャルドの中にあるという最終結論に達したということに過ぎない。だから、彼の力強い表現方法はアヴァンギャルド以外の経験にも負うところが大きく、要するに個人的な努力の結晶なのである。それは一つの現実に対する作者の執着を示している。その複雑さと独自性を表現できるのは、唯一あのピンスクリーンという表現方法だけであり、『道すがら』から『鼻』『展覧会の絵』までつづくアレクセイエフの作品群がそれを示している。これらは外的な文化状況とは無関係にトータルに構想され制作されたものである。そして、多少のヴァリエーションはあれ、共通のテーマと結び付いており、多くの点で『禿山の一夜』に帰することができる。『禿山の一夜』こそはアレクセイエフ芸術全体を解釈する上で欠かせぬリファレンスであり、まさにプロトタイプなのである。 『禿山の一夜』と『道すがら』(1943年にノーマン・マクラレン Norman McLaren の依頼によって、カナダNFBのために制作された)を分かつ十年間にアレクセイエフはCFを作りつづけた。各CFは洗練された形式とアニメーションテクニックによる多くの表現上・技術的成果を得たが、ピンスクリーンは使用されていない。その中で『眠れる森の美女』(1935)は取り上げるに値する。これは人形アニメーションであり、宣伝すべき商品は最後に登場するだけで、作品全体のクオリティを限定していない。おなじみの童話のテーマによる一種のバレエである。アレクセイエフとクレア・パーカーに協力したスタッフは、人形アニメーション:エティエンヌ・ライク Etienne Raik (注2)、シナリオ:ジャン・オーランシュ Jean Aurenche 、音楽:フランシス・プーランク Francis Poulenc (注3)である。素朴な「添え物のお楽しみ」という制約の中で、このCFの中には20年代のアヴァンギャルド演劇やロシアバレエ団、スウェーデンバレエ団、入念な舞台美術、独創的なコスチュームなどの影響を見ることができる。これらはアレクセイエフがかなりの年数経験してきた世界に他ならない。 第2次大戦中、アレクセイエフとパーカーはアメリカへ移住し、1943年にはマクラレンの招きでカナダへ移って新しいピンスクリーン(100万本のピンを持ち、第1号よりも大きく、完成度が高い)による短編を制作した。このフィルム『道すがら』はカナダの民謡を映画化したシリーズの1つで、陽気な音楽のリズムに合わせて草原を跳ねていくリスを描写している。アレクセイエフの洗練されたテクニックはこのテーマに見事に具象的な形(印象派風の)を与えている。とはいえ、この作品はうわべだけの部分がいささかあるため、アレクセイエフ本来の表現からは離れたところに位置付けられるだろう。 1947年にヨーロッパに戻ってから、アレクセイエフとパーカーは再びCFの分野での活動を再開し、1951年には「トータリザシオン」と名付けた形態をアニメートするシステムを開発した。心臓部である複合振り子が、糸でつないだ金属球その他の物体を空間上に展開させる。適切に照明されたこの球自身が動いて、空間上に光跡を描くようにする。これを映画カメラで撮影し、フィルムの1コマに定着させて、一種の「ソリッド・イリュゾワール」が写真によってできあがる。球の動きを組み合わせ、撮影したコマの1つ1つを合計したものが、その「ソリッド・イリュゾワール」の一連の動きとなる。複合振り子によって、この形を適当に変えていくことで、ついには光輝く形態のアニメーションを作り出すことができる。この表現力には驚くべきものがあるが、技術的な困難から、「トータリザシオン」の応用は数本の短編CFに限られることになった。『煙』(1952)、『燃ゆる茨』Buisson ardent (1955)、『地球のエキス』Seve de la terre (1955)、『水』L'eau (1964) などがその例で、形式面で言えばアレクセイエフの作品の中で最も魅力的なものの一つである。 だが、アレクセイエフの創作の本流はピンスクリーンである。これを使って制作したのが、1959年のパステルナーク Pasternak の『ドクトル・ジバゴ』(フランス語版のイラストレーション。まるでページに定着された映画のシーンである)や、1962年のオーソン・ウェルズ Orson Welles の映画『審判』のプロローグとエピローグである。1963年にはゴーゴリの同名小説を原作とする『鼻』を、1972年にはムソルグスキーのピアノ作品中のいくつかのテーマに基づいた『展覧会の絵』をそれぞれ制作した。二者は形式的には全く異なる調子で作られており、前者はストーリーを物語り、後者は抒情的な作品となってはいるが、この2本は『禿山の一夜』と共に三幅対とも言うべき三部作をなしている。そこでは、アレクセイエフの人生経験・芸術体験と自伝的要素とがイマジネーション・リズム・象徴に満ちた輝く形態の中にはっきりと溢れ出している。 統一した作品の一部として考えれば、それぞれが長年の歳月を隔てて構想され、制作されたにもかかわらず、この3本のフィルムは作家アレクセイエフの創作の3つの異なる時期を反映している。1つは幼年期・少年期のドラマであり、もう1つはシュルレアリスティックでアイロニカルなヴィジョンであり、最後の1つが賢者の平穏とメランコリーである。そしてこれらはアレクセイエフの生涯の3つの時期にも対応している。すなわち青年期、壮年期、老年期である。それぞれの中には彼のロマンティシズムに帰せられる要素を見出すことができる。そして、どれも特定は容易ではないものの、1つのシンボリズムに満ちている。『禿山の一夜』(最も難解である)と比較して、『鼻』はより明快にゴーゴリの物語のグロテスクかつ風刺的なテーマを再び表現しており、自伝的指示はストーリーの合間や風景の中に散見されるだけである。また、『展覧会の絵』は第1作の本筋をなすドラマティックなモティーフであった記憶や夢魔たちを過去のおだやかなヴィジョンにとけこませている。 これら後期の作品群は、60〜70年代に生じた錯綜した時代状況・政治状況を考慮した議論に一旦立ち返った上で、改めて芸術面や文化面に戻るべきかもしれない。だが、本当のところはアレクセイエフが20〜30年代初頭に形成した詩法を継続し、深化させたものに他ならない。参照が必要であるとすれば、やはりもう一度アヴァンギャルドの歴史と、とりわけアレクセイエフの生涯や作品に影響するところ大であった19世紀の芸術・文化に立ち戻るべきである。アレクセイエフはアヴァンギャルド運動に対しては基本的にマージナルな関係をとったが、同時にアヴァンギャルドがまさにその革命的機能を使い果たした瞬間に彼の映画作品が始まったという事実は強調すべきである。批評的視点を考慮する必要がある。 なぜなら、アレクセイエフ作品に対する判断は以上のような関係、特に、一種の愛憎半ばした共感と反発の中で形成されたというその特異性を切り離しては考えられないからである。 このような観点からすれば、アヴァンギャルドの終わりはアレクセイエフにとって個人的・自足的な話法の誕生を告げている。しかし、この話法はアヴァンギャルドという新しい伝統とのつながりを残しており、彼が自分の内面の声だけで決めたものではない。このことはそれ以前の彼のグラフィック作品やイラストレーションが示していた通りである。この話法は一握りのテーマの繰り返しだけに限定された個人的経験から生じたものではなく、記憶や夢想、恋愛、失望、感情、情熱などに満ちあふれた慎ましやかな話法である。それは余りに内向的で、時代遅れ以外の何者でもない無用の長物だと思われるかもしれない。例えそうだったと仮定しても、もはやアヴァンギャルドの話法ではない。だが、よく観察することが出来れば、それは一時の流行を超越し、人間精神の分析的研究に向けられた内省的、ドラマティックなものだということがわかる。そしてわれわれの感受性に触れ、我々の生活体験の一部となるのである。 "Alexandre Alexeieff"『アニメーション史』Storia del cinema d'animazione (Torino: Einaudi, 1974) 1.スウェーデンバレエ団(1920〜24)はロシアバレエ団の成功に触発されて結成された劇団で、代表作にはコクトーの『エッフェル塔の花嫁花婿』、ピカビアとサティの『休演』などがある。 2.ハンガリー出身のアニメ作家(1904〜76)。ミュンヘンで装飾美術を学び、1924年にパリに移住、1935年よりアレクセイエフのCFに協力、1947年から単独でCFアニメーションを制作した。CF作品にはビックの『走る、走る』Elle court, elle court (1953)やエッソの『樹形』Arborescence (1956)、『アルカザン・サーカス』Alkathene Circus (1957)、『ジョニー・ウォーカー』Johnie Walker (1958)、『ナッツ』Nuts シリーズ(1961〜67)等がある。 3.後で出てくるオーリック、ミヨーと共に“フランス6人組”のメンバー。フランス6人組は1920年頃コクトーやサティを美学的支柱とした作曲家グループで、『エッフェル塔の花嫁花婿』の共同作曲や映画音楽(特にオーリック)など、ジャンルにとらわれない活動をおこなった。バルトーシュの『観念』『聖フランチェスコ』の音楽も6人組メンバーのアルテュール・オネゲルによるもの。 |