アニメーション映画の回想 |
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1905年、4才の私はイスタンブール近郊のボスポラス沿岸にある両親の別荘で絵を描き始めた。最初に描いたのはボートだった。それというのも、黒海からマルマラ海へのパノラマがアナトリア山地を背景にまるで中国の巻物のように眼前に展開して、そこをボートが絶えず横断していったからだった。ボートの次はボスポラスのパノラマを描き、銃眼を備えた要塞(ルメリ・ヒサル Rumeli-hisar〔15世紀にオスマン・トルコが建造した要塞。イスタンブール北東7kmにある〕)や要塞を攻略しようと“走る”兵士たちをそこに描き入れた。私の関心は数本の線で描いたこの略画の動きを表現することだった。その後、7才までにはギャロップする馬を横から描くことができるようになっていた。ニュルンベルク製の小さな鉛の兵隊を入手したのはこの頃だ。そのデザインと“動き”の優雅さが――ドイツのデザイナーはこれを見事に表現することに成功していた――私にとっては素晴らしい絵画学校だった。その後、10才の頃、長兄がプラクシノスコープを作っているのは私は目にした。その機能は動きのイリュージョンを与えることだった。私はこれを真似て、小さなノートブックに動く物体を1コマ1コマ描いた。羽根が回転している風車や離陸・旋回・着陸する飛行機などだ。これが私の最初の映画だった。 20才の時、運命の助けでパリにやってきた私は、そこで“こうもり座”The Bat Theatre (ショーヴ・スリ Le Chauve-Souris )の舞台装置家・アイディアマンのセルゲイ・スデイキン Sergei Sudeikin に師事することになった(注1)。この劇団の俳優はデュマ Dumas の『くるみ割り人形』Casse-Noisette(注2) のテーマを発展させ、機械仕掛けの玩具の動きをパントマイムしていた。デュマはアンデルセン Andersen やE・T・A・ホフマン Hoffmann に影響を受けたのだが、彼らこそが玩具やオブジェアニメーションの真の発明者なのだ。私はまず彩色、その後に舞台装置や衣装を5年に渡ってデザインした。それから独学で版画を習得し、豪華本のイラストレーターになったのだが、この芸術を私は十年に渡り制作して成功した。だが、当時は芸術映画の時代だった。チャップリン Chaplin の初期映画や『カリガリ博士』、『嘆きの天使』Der blaue Engel〔1930〕、マン・レイ Man Ray の3本の映画〔『理性に帰る』(1923)、『エマク・バキア』Emak Bakia (1927)、『ひとで』L'Etoile de mer (1928)〕などだ。そして、マセレール Masereel の本を原作としたバルトーシュ Bartosch のフィルム『観念』L'Ideeが、自分の運を試してより広い観客に接触することを、ついに私に決心させた(その当時、フランスの豪華本の顧客は一万五千人以下であり、今ではさらに少ない)。 私はエルドラド(注3)の雰囲気――当時映画スタジオに囚われた人々が抱いていた――を恐れていた。劇団で私が学んだことは、集団創造において偶然が演じる役割だった。これはスタッフ1人1人の意図を歪めるのだ。漫画映画はコミック向きであって、私の版画の生命の本質である詩的雰囲気には適していないというのが私の考えだった。私はハーフトーンでグレー、そしてぼんやりした形態で画面を構成できる――しかもたった1人で――映画技法を発明しなければならなかった。私はミス・クレア・パーカーと協力してこの発明を成し遂げ、最初のピンボードを組み立てた。彼女はボストン生まれのアメリカ人で、後に私の妻となった。 我々2人はムソルグスキー Musorgskii の『禿山の一夜』を映像化し、同じテーマを我々より後にアメリカのウォルト・ディズニー Walt Disney やフランスのリガル Rigal が使用した(注4)。『禿山の一夜』は8分のフィルムとしては不釣り合いな成功をプレスで獲得した。新聞やレヴューはこの上なく輝かしい将来を我々に約束したが、パリのテアトル・パンテオン theatre Pantheon とイギリスのアカデミー・シアター Academy Theatreを除けば、このフィルムを注文した映画配給会社は1つもなかった。 我々は事前に配給が保証されない限り、これ以上アニメーションを制作しないことにした。つまり映画館用のコマーシャルフィルムに自らを限定するということだ。フランスにCFのマーケットは確かに存在したが、採算性は悪かった。我々はフランス初のカラー映画(ガスパーカラー)を制作し、品質面で業界の評判を直ちに獲得した。我々はこの分野では誰も先例がない映画部門を創立し――そう言っても構わないだろう――これに対して、沢山の進歩的で強力な広告主がより高額を支払おうと構えていた。これら戦前のCFは全てカラーのアニメーションフィルムであり、モノクロ専用のピンボードに戻ることはなかった。カートゥーンは決して使用せず、この技法は競争相手に残してやった。我々の初期のカラー作品は人形をアニメートしており、その美しさはディアギレフのダンサーさながらで、プーランク Poulenc 、ミヨー Milhaud 、オーリック Auric など、当時のフランスの作曲家たちが作曲してくれた音楽に合わせていた。その後、我々のダンサーはクライアントの商品そのもの――例えば靴や帽子――になった。初めの頃、CFは地方の映画館で喝采を受けていたものだ。我々は立体のオブジェアニメーションのチャンピオンになった。このような1、2分のフィルムに我々は何かしらの実験を導入することにし――ワンシーンでもあればよいのだが――創意に時間や予算を使うことを躊躇しなかった。その理由はCFがその形態の新奇さによって注意をひくべきだからだ。 この進展は第二次世界大戦によって中断された。我々は1951年パリで小さなプロダクションを再開し、そのとき、“トータリザシオン”と名付けた新しいアニメーション・テクニックの開発を開始した。静止した物体をコマ撮りする代わりに、複合振り子に連結した動いている物体をコマ撮りするのだ。我々は複合振り子でドライヴするロボットを組み上げ、カメラが1回の長時間露出をおこなう間に、このロボットがフィルムの1コマを描き出す。その後でロボットをリワインドし、同様の方法で次のフレームを描く。以下同様である。こうして得られた結果は斬新であり、特殊なケース、特に抽象的なシーンでは非常に有用だ。 我々2名で、もしくはスタッフ1名との共同作業で、年間制作数は1分のフィルム3、4本だったが、私にはそれで充分だった。スタッフの数を増やすことはフィルムの品質を低下させることになりがちである。プロトタイプを生み出すために必要な方法と大量生産方法の混同を避けることが重要だと私は考える。我々のCFは商業映画の大部分よりも比較にならないほど広く配給された。同じ人間がこれを何回も見るのも良くあることだった。従ってこのフィルムの品質は商業映画よりもずっと凝縮したものでなければならなかった。 実写映画を語る資格は私にはない。私の主要な関心はアニメーション映画であり、もっと伝統のある芸術――絵画や舞踏、音楽、彫刻、そして何よりも詩――で知られている傑作に匹敵する芸術性に達することも、アニメーションには可能なのだ。アニメーションフィルムが短いことは私には相対的な問題だと思われる。ショパン Chopin のプレリュードの多くは1分程度で終わってしまう。第7番は32.5秒しかないが、人はこれを一生記憶している。『モナリザ』Monna Lisa はルーベンス Rubens 工房で制作された巨大なカンヴァスに比べれば小さな絵だ。ルーベンスが偉大な画家であるのは、彼が全て自分で描いた小さなカンヴァスだけでの話である。そして1分しかないフィルムが終わって「短すぎて残念です!」と言われた時、私は喜んでこの言葉に耳を傾ける。 1943年、アメリカ滞在中の我々はカナダNFBのためにピンボード・テクニックで1本のフィルムを制作した。オリジナルのピンボードをパリに残して来なければならなかったので、新しいものを組み立てた。これはオリジナル版の50万本の代わりに、 100万本のピンから成っており、スーラ Seurat の木版画に似た効果を生むことを可能にした。 〈ピンスクリーンはモノクロのテクニックとして構想されたものだが、カラーフィルムを作ることも理論的には可能である。だが、このためには、『禿山の一夜』で使用したプロトタイプよりも、ピンが3倍細くて3倍密でなければならない。このようなピンスクリーンはまだ実用化されていないので、我々のカラー・コマーシャルは立体オブジェをアニメートして作られている(1975年アレクセイエフとパーカーによる追加)。〉(注5) 我々はピンボード第2号をヨーロッパに持ち帰り、これを使って『ドクトル・ジバゴ』の 200枚のイラストレーションを先頃制作して、この版は1959年にパリ、1960年にニューヨークで出版された。オーソン・ウェルズ Orson Welles のリクエストで、我々は同じテクニックを使って1962年に彼の映画『審判』(原作はカフカの小説)にイラストレーションを付けた ピンボードの最新作は『鼻』であり、これはゴーゴリ Gogol' の幻想的な短編集の1つを主題とした11分のフィルムである。『鼻』は『禿山の一夜』とは全く異なる。これは音楽を描写したものではない。鼻を失くした男に関するゴーゴリの夢を言葉を使わずに物語っているのだ。 『鼻』は画家の映画であり、ここでは光の動きがドラマティックな役割を演じている。 〈私が生まれたロシアでは、映画は“幻燈(イリュージョン)”と呼ばれていた。「今夜幻燈に行こう」と話したものだ。私がアニメーションに関心を持つ理由は、我々がそこで知覚していると思い込んでいる動きはイリュージョナルなものだからだ。つまり、これは実際には全く起きていないのだ。実写映画に余り関心がない理由は、これが実際に一度起きた動きを再現するものだからだ。言葉が文学作品の原料であり、音が音楽作品の原料であるとすれば、アニメーション映画の原料は動きである。具体的な形態が必要とされる理由は、形態(2次元にせよ3次元にせよ)なしでは動きを知覚できないからに過ぎない。“どのように”動くかということが、アニメーションの本当の目標なのだ。それ以外のもの、例えば形態や色彩の美しさは飾りであり、余計でさえある。〉(注5) あらゆる形式――音や色彩、ヴォリューム、そして何よりも運動――は意味を持っていると私は信じている。形式はそれ自体で意味があるわけではない。これに意味を与えるのは人間なのだ。人間の関心が異なるように、意味も時には異なる。意味が誤りや幻想であることもしばしばだが、これは精神それ自体の創造物であるがゆえに、精神が与える評価もなおさら高くなるのだ。 明快を期して、アニメーションよりもむしろ実写映画を例にとることとしよう(注6)。『チャップリンの黄金狂時代』The Gold Rush でチャップリンは本物のフォーク2本を本物の皿に載った本物のロールパン2本に突き立てる。チャップリンがフォークにカンカン・ダンサーの脚の動きを与えるまで、これらの物体には曖昧なところは全くない。観客が魅了されるのは“脚”が本物になるからではなく、本物らしくなるからだ。模倣芸術においては、リアリティに対する相似性と相違性がなければならない。人を楽しませるのはこの曖昧さなのだ。 アニメーションフィルムの中で私が愛するものも、運動とリズミカルなサウンドとの近親性によって観客のイマジネーションと感覚を呼び醒ますこのパワーなのだ。これはダンスの源に存在しており、テーブル上でチャップリン流の禁じられたスプーンとフォークの遊びをした幼年時代に、その姿を現していた。この遊びからアンデルセンはそのおとぎばなしを作り出したのだ。 だが、アニメーションで何よりも私が好きなものは、観客の思考・感情のテンポを支配する力である。スクリーンではたった1分しか現れない総合作業を4ヵ月以上もかけて構築するのは私の喜びだ。この1分の間、観客は1秒たりともその注意力を逸らすことができないのだ。 映画の配給方法が進歩して、読みたい詩や聞きたいレコードを選ぶように、映画ファンが自分の好きなフィルムを好きな時に見ることができるようになると私は信じている。このような時代になれば、映画の古典に関する考えが決定的に確立するだろうし、それによってこの新しい芸術が聖別されることだろう。〈その時は、私的ライブラリー同様に、公共のライブラリーも参照作品や詩を優先するようになることが理解されるだろう。〉(注5) その間にも、公的・私的なフィルム・ライブラリーとテレビが、いまだ配給・放送方法としては初歩的であるとはいえ、このような将来への道を準備しているのだ。 "Reflections on motion picture animation"〈原注〉「フィルム・カルチャー」誌 Film Culture 1964年春号。執筆は1956年。 1.こうもり座(1908〜38)はニキータ・バリーエフ Nikita Baliev (1877〜1936)がモスクワの同名のキャバレー Letutsaya Mysh' でプロデュースしたレヴュー。1920年のバリーエフ亡命と共にパリに場所を移し、ロシアの民謡・版画・兵隊人形などに着想したバレエやバーレスク、パントマイムを上演した。 2.『くるみ割り人形』の原作者はホフマンだが、フランスやロシアではデュマ父子の翻案(1845)の方がポピュラーであり、チャイコフスキーがバレエの台本に使用したのもデュマ版である。 3.ストラスブール大通りにあった“エルドラド劇場”l'Eldorado (1858〜1930)のことか? エルドラド劇場は「シャンソンのコメディ・フランセーズ」と呼ばれたカフェ・コンセールで、後に閉館して映画館となった。アレクセイエフは他でもこの名前を挙げている(※, ※※)。 4.ディズニーの『ファンタジア』Fantasia の公開は7年後の1940年である。リガル(1898〜1973)はフランスのアニメーション作家で、ロルタックの門下生。『サボール船長の船出』 Cap'taine Sabord appareille (1943)などの短編以外に、CFアニメを多作した。ヴァン・ニコラ社(アレクセイエフのCF処女作『眠れる森の美女』のスポンサーでもあるワイン会社)のクラシック音楽を題材としたCFシリーズで、『禿山の一夜』を使用している。 5.EAのみに所載。 6.EAでは『黄金狂時代』ではなく、アニメーションを例にとっている。「つぎつぎに大きくなる、一連の円を例にとろう。これはスクリーン上で前進する円の印象を与える。この印象は実際に起きていることには対応していないが、その成長の非現実的リズムのために、本物の円の前進よりも強い印象を与えるのだ」 |