映画的現象

「理性的・数学的自然学は常に少数の瞑想的精神の領分である」――フーリエ〔フーリエ級数で知られるフランスの数学者・物理学者〕

 1974年の時点で、映画という現象に関して何か新しいことを語ることは可能だろうか? 電灯と同じく、映画はあまりに日常と化してしまい――かつては祖先を正真正銘の奇跡として感動させたものだが――今や平々凡々なこの事実を研究しても全く無益だと考えてしまいがちである。

 だが、私は知性も教養もある多くの人々がこの奇跡を深く考えることもなく、いまだにその意味を全く理解していない光景を見てきた。1895年に最初の映画が上映された夕べと同じように。

 映画のシーンが現実化するときには、必ず2つの時間を経過している。

 第1の時間では、現実の出来事が写真によって機械的に分解されて原版となる“ネガ”が作られる。このネガからポジのコピーが作られて、これが第1の時間(分解)と第2の時間(合成)のさしわたしをすることになる。

 映画という合成は、静止イメージの集まりが、運動を備えるにいたる変容である。

 映画館でこの変容を見た観客は分解された現実の出来事が復元されたものを見ているのだと思ってしまう。分解という問題に関して注意しなければならないことは、この分解が正確に毎秒24コマのスピードでおこなわれ、出来事を復元するために合成も同じく毎秒24コマのスピードになっていることである。しかし、技術的理由により、出来事の全部を完全に記録することは絶対にできないことには注意する必要がある。従って次のような問題が生まれる。出来事全体を記録することなく、出来事の総体を記録するにはどうすればよいのか? フィルムの各イメージの間に小さな欠落を挿む、というのがその回答だ。

 さて、別の問題を提出しよう。この欠落の合計時間には重要性があるのだろうか? 答えは、「イエス! 非常に重要だ!」 欠落の合計時間は記録の合計時間と同じ、あるいはそれより長いこともしばしばである。その結果、映写されたコピーは出来事のせいぜい半分しか含んでいないが、観客はこれを出来事の総体として認識していると思い込んでいるのだ(1895年以来、ここで“解釈”が口を出してくる――「簡単なことだよ。残像によってイリュージョンが起こるのだ」… それが残像のせいであると説明しても、これはほとんど何も説明したことにならないし、現実はそんなに単純ではない!)。

合成

 周知のように、昔の映写機はみな撮影用カメラの複製品であった。カメラのシャッターと同じく、映写機のシャッターも規則的なインターバルで映像を通過させるための切り込みがある。だが、映写用のシャッターの開角度は180°に固定されている(注2)。その結果、シャッターの開放時間と閉鎖時間は共に1/48秒である。この事実から、映写時間1時間の間に、観客は暗黒のスクリーンの前で30分間を過ごしているという結論がただちに導きだされる。

 従って、映画という現象における残像の役割は過大評価されているというのが私の意見だ。残像は確かに映写が継続しているという偽りの印象を説明するが、その機能はそこまででしかない。残像がいかにして情報の欠落(撮影から漏れた部分のアクションの欠落)を補完できるのかは判明していないのだ。

 この疑問に答えるには映画の合成における例外的現象を検討する必要がある。4輪馬車の車輪が逆転することや、速いパンで格子の桟や窓がスリップすることなどだ。この3つの例外には共通の特徴がある。つまり、スポーク・桟・窓が連続して並んでいるために、それぞれの要素を互いに区別できないのである。6本スポークの車輪の加速を研究してみれば、コマとコマの間のスポークの差が30°を超えた時に逆転が起こることを簡単に証明できる(30°では車輪は静止しているように見える)。31°から回転は逆転し、それから減速して、60°で停止する。それからさらにこのサイクルが再び始まる。従って明らかになったことは:

 1)この異常は一種の“ロジック”に従う。

 2)この“ロジック”は努力を最少にしようとする要求に従う(注3)。

 3)この“ロジック”は常識より優先する(注4)。

フィルムの残りの部分

 立体写真やストロボスコープについては盛んに語られてきたが、それと同じように、我々は今、ある精神作用の紛れもない事実を扱っているのだ。

 この欠落部分から構成されるフィルムの半分は1時間につき30分間である。この存在が我々の知覚から逃れているのは確かに残像のせいであるが、残像の役割はせいぜいそれだけのものだ。

 欠落部分の重要性と関心はもっともっと大きいものだ。何故なら、映画という現象は悟性機能に開かれた窓のように思われるからだ。フィルムの“見える部分”を見ることで、この悟性が引き起こされる。 我々はこの見える部分の機能に関する研究を進めることにしよう。

フィルムの見える部分

 これはポジのコピーで構成されている。演劇の場合、観客の“視線”が自由に舞台を動き回るとすれば、映画の場合、全ての運動の選択権はカメラマンにある。

 映画では観客の眼は停止し、あたかも昆虫の触角や目が眩んだ兎の眼のように、眼前の動きの虜になってしまったかのようだ。観客はもはや微動だにしない――されるがままだ。観客はもはや見ない。“見えている”のだ。この暗黒の客観的合計時間の“30分間”に、観客の精神には何が起きているのだろうか? 観客は死んでいるわけではない! 眠っているのか? 違う――“見えている”のだから。何が見えているのか? 提示された以上のことが、である。世界を時間的・空間的に連続しているように解釈するという当然の要求に従って、観客はフィルムの目に見える部分に欠けているあらゆる様相を“発明”する。このように送り手と共謀することで、観客は映画に没頭することになる。フィルムの発明された部分は映画に特有の創造物である。この愛着は夢見る人が夢に対して抱くものと同じ性格を備えている。

結論

 意識が知覚できないほど速いスピードで続けて提示された多数のイメージは変容し、ただ1つの運動イメージに帰着する。

 しかし、この変容は視覚・解釈能力を観客に委ねることによって観客から自由な視覚能力を奪う。

 疑問が生じるかもしれない。主導権を奪われた映画観客は、選択自由なイメージの比較に基づく判断能力を保持しているのだろうか? 私を本のイラストレーションとアニメーターという二重活動へ導いた動機には、この疑問が関係していたのだ。


  "Le phenomene cinematographique"〈原注〉オリジナル手稿であり、日付と出版に関するノートを全く欠いた状態で発見された。執筆が1974年であることは明らかである。



1.〈原注〉最近のプロジェクターには90°の切り込みが2つある〔フリッカーを防ぐため〕。これも結果は同じである。

2.〈原注〉31°の順転より、29°の逆転として見える方を車輪は“選択”する。

3.〈原注〉イメージとして不条理であるにもかかわらず、車体の動きとは逆方向に馬車の車輪が回転するように“見える”。

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