アレクセイエフ&パーカーとの対話

インタヴュアー:ニコール・サロモン、ジャッキー・ジュスト

 1979年12月、我々はアレクサンドル・アレクセイエフにインタヴューをおこない、これはASIFA機関誌「アニマフィルム」Animafilm のアレクセイエフ特集号に収録されることになっていた。シャティヨンの旧道にあるアトリエで早朝に開始されたインタヴューは夜まで続いた。アレクセイエフが回想の中でたどった道のり、クレア・パーカーと共同しておこなった探究と“彷徨”に関するいつわりのない話、芸術に関する鋭い考察――これらは別冊にする価値があると編集長と我々は判断した。彼のパリでの隠居生活――「現代の混乱したせわしない時間の外での生活」――は見せかけに過ぎない。つまり、アレクセイエフが喧騒と妥協から逃れていることは確かだが、厳格さと忍耐をもって2つの研究作業を追求していたのだ。それを明らかにしているのが、彼の最新作『三つの主題』とアニメーション・アートに関する論考である。

 この本では、対談の言葉を完全に――しゃべり方に至るまで――採録した。彼のわずかなロシアなまりの音楽性は欠けているが――これはアレクセイエフが重んじた抒情性を会話に与えていた――アレクセイエフを知っている者なら、誰でもそれを想像できるはずである…

ニコール・サロモン


 ジャンニ・ロンドリーノは「先行する版画を語らずしてアレクセイエフの映画を語ることは不可能である」と言った。

 これは正しい。しかも彼の想像した以上にだ。なぜなら、彼はその全部を知っていたわけではなかったからだ…

 私は2、3才頃に(ロシア語よりも先に)フランス語を話せるようになったのだが、それは父の任地であるコンスタンティノープルに住んでいたからで、ここでは誰もがフランス語をしゃべっていた。

 コンスタンティノープルの失われた楽園を再発見したいという夢に呼び寄せられるようにして、私はパリへやってきた。



版画

 25才のときだった。私は4、5年間美術を担当していた劇場を解雇され、急場をしのぐために版画をでっちあげることにした。まずは一番簡単だと言われている(ある意味では確かにその通りだ)木版画から始めた。それに、木版は出版社から特に好まれていた。その理由は、本文と同時に印刷可能なので余計な印刷費がいらないからだ。エッチングは手刷のために非常にコストがかかるのだ。したがって私は木版を習得した――というより習得しようとした。レッスンを受けることができなかったので、マニュエル・ロレ Manuel Roret〔マニュアル本のシリーズ名?〕の『版画家』Le Graveur を買い求めた。マニュエル・ロレにはこう書いてあった。

「版画の習得は、ピアノやクラシック・バレエの習得と同じである。5〜7才で始めるべきだが、遅すぎることはない」

 私は生活費にも事欠き、結婚して子供がいた。家族と自分が食っていくためには、今すぐにも収入が必要だった。

 どうすればいいのだ?

 私はまず板にドライポイントで穴を開けた。その結果がこれ(アレクセイエフ。ゴーゴリの『鼻』の版画を示す)、それからこれだ(別の版画を示す)。

 私は板に穴を開けた。8世紀に存在したニエロ版画を再発明していたとも知らず。点描の版画をニエロと呼ぶのだ。

 そうして、私はスーラの崇拝者になった。それはスーラの点描法や木炭画に対するもので、色彩はどうでもよかった。私は25才だったから、当然反抗的だった。先輩などくそくらえ! 私からすれば、アンリ・マティスは装飾家、パブロ・ピカソはカリカチュア作家だった〔アレクセイエフより、それぞれ32才、20才年長〕。彼らとその仲間たちは、例えばアンリ・マティスのコラージュがそうだが、平面的に描いていた。しかし、これは私にとって、楽器に例えるなら太鼓のような打楽器――良くてピアノ――だった。

 だが、私がやりたいのはその反対だった。後追いでは追い付くのがせいぜいで、彼らの得意ジャンルでは模倣追随するしかなく、追い越すことはできないからだ。彼らの平面に対抗して(私はこれを“平板な”tempere〔音楽用語の“平均律”tempere にかけた洒落〕絵画だと考えた)、グリッサンドの〔高さの異なる音から音へ連続的に移行すること〕ジプシー・ヴァイオリンでいくことにした。つまり、絵画用語ではグラデーションだ。私は点描法のおかげでこのグラデーションに簡単にアプローチできた。

 こうして、私は2冊の本のイラストを描いた。『女薬剤師』La Pharmacienne〔ジャン・ジロドゥ作、1926年刊〕ともう1冊だ。2冊を同時進行させて、交代で彫版した。2冊はほとんど同時に出版された。両者とも既に灰色の色調の上に黒を散らして、ヴァイオリンのグリッサンドに例えていたグラデーション――これが私には重要だった――を得ている。

 今度も技法を獲得し、発明しなければならなかった。学校や教師につく余裕がなかったからだ。…様々なテクスチャー(私には重要な)に富んだ装飾テクニックに打ち込まなければならなかった。結局、私は発明をやり遂げた。

 その約2年後、私はひどい飢えで死にかけていた。どうしようもない飢えで。だからといって手をこまねいているわけにもいかない。今のフランスなら餓死させてはくれないだろうが(たとえそれを望んだとしても)。

 そんな気はもちろんなかったが、とにかく死にそうなくらいのひどい飢えだった。妻子がいるだけに、事態は一層深刻だった。

 2冊の本が出版されて2年が経過したときの状況は最悪そのものだった。私は2年前に会った編集者に再び会いに行った。彼の名前はジャック・シフラン(注1)といい、私にこう訊ねてきた。

 「どうぞ…ああ、あなたですか? …エッチングはできますか?」
 ――ええ、できますよ…(嘘だった)
 「何か見せてもらえますか?」
 ――いや、持ち合わせがないんです。
 「何か持ってこれますか?」
 ――いつでしょう?
 「そうですね、月末では?」(月初めだった)
 ――はい、わかりました。

 「もしエッチングができればということなのですが、実は今ゴーゴリの『狂人日記』にエッチングを付けるロシア人を探しているのです。御持参の版画が良ければ、注文しましょう。必要な版画は17枚です」

 個人的事柄やその類の告白は避けることにしているから、私に言えるのは自宅に戻って泣きながらひざにくずおれたということだけた。とにもかくにも、月末には『狂人日記』の扉絵の銅版画を持参し――そして掲載された。

 またもや機略で切り抜けたのだ。だが、今回は穴を開けたのではまったくない。これはグリッサンドだ。私は一つの発見を成し遂げた。これは世界中で私だけに可能だ。私のやり方は誰も知らない。今後も知る者はいないだろう。それを知る2人は死んでしまったし。3人目のクレアは存命だが、明かさないだろう。私にとってはグラデーションこそが大事だったのだ…(例えば、今朝パリには濃霧がかかっていた。霧はそれが生む空気遠近法によってぼんやりとした形態をもたらしていた)。スーラ、そうスーラの曲芸師たちを例にとることにしよう。頭にマジシャン帽をかぶり、笛やクラリネットを吹いている男、縁台のヌードの娘2、3人を思い出して欲しい〔『サーカスの客寄せ』Parade du cirque(1887〜88)のこと〕。下からの小さな照明、フットライト、縁日の小さな舞台…スーラはその点描法のおかげで、決して断定しない。反対にピカソやマティスは「これはまさにそのものであり、それ以外ではない」と断言する。これは詐欺ではないのか。結局、芸術にはモラルの余地はないのだろう。だが、性格にはモラルの余地がたくさんある。臆病で慎重だが、曲がったことが嫌いな私の性格が、マティスやピカソのものごとを決めつけてしまうやり方ではなく、曖昧だが適切なスーラのやり方の方へ引き寄せたのだ。しかもそのうえ、いずれにせよ、公平であろうとするより、目上の世代に反抗しなければならないということの方が重要だった。必然性が(版画で点描の味方をした原因が)あったという言い方は正直ではない。結局、ここでも揺れ動くことは避けられなかったからだ。

 私のエッチングは全てジプシー・ヴァイオリンのグラデーションになっており、常にステンシルに反対の立場だった。この話を後で再び取り上げることを約束しよう。ピンスクリーンの話題になれば、そのときは私の理想とする表現プロセスの話に行き着くだろうし、人は何かに依拠しないわけにはいかないのだから。だが、これはもっと後で話すことにしよう。

 79才になり、振り返ってみれば、人生という地図の上で一本道を歩んできたような気がする。だがこれはまったくの偽りだ。私はさまよいつづけてきたのだから。

 この『狂人日記』の版画をよく見ていただきたい。そもそもの始まりは次のような次第だった。リヴォリ通りのアーケードを散歩していたとき(パリで装飾品が売買されるところだ)ガルニエ〔フランスの建築家。1825〜98〕のオペラ座のような窓ガラスが並んでいて、窓や玉縁の壁がダマスク織〔大柄の紋織物。緞子〕のように見えた。建築的な飾りに乏しいペテルブルクのアパートのシンプルなファサードを美しく面白く表現するためにこの仕組みを用いたことがある。これはパリならば最低の部類だが、玉縁にすれば美しく見えるのだ。

 通りすがりに、私はまたもや非常に面白いことに気付いた。モンパルナス大通りの南側歩道に立てば、北が見える。家々のファサードが見え(南から射す光線も)、背後から光線が射し、向い側の家の高い部分にガラスが太陽を反射しているのが見える。このためガラスは壁よりも明るい。

 低い部分では反対にガラスの方が暗くなっている。その理由はガラスが逆光になっている背後の家を反射しているからだ。ここには一種の光の対位法があるのだが、気付いたのはずっと後だった。これは確か26才の時で、後に静止画を芸術的に構成する上で随分役立った。

 『狂人日記』の後、モンパルナスのアーザン印刷所の職工長が私に話しかけてきた。本が出版された時だ。「ムッシュ・アレクセエフ」と(私を紳士扱いしてくれる人などいなかった。私は裸足のルンペンで汚いガキ――とるに足りない人間――文無しだった)。

 「注文の山であなたは大成功しますよ。すべての印刷物を、エッチングで注文された本を全部任せて下されば、この私が無料で試し刷りしてさし上げます。私自身の裁量で」

 私は承諾した。

 彼の予言は的中した。5、6年間――恐慌まで――私は金持ちになり、引っ張りだこの豪華本イラストレーターになった。編集者がこう言いに来たものだ。

 「ムッシュ・アレクセイエフ、本を1冊お願いしたいのですが」

 ――何の本かね?

 「何でも構いません――お選びになる本にいたしましょう。代金をおっしゃってください。小切手帳がございますので、前払いにいたしましょう」

 私は郊外を去り、パリに宅を構えた。高級アパルトマンを借り、そこにはセントラルヒーティングにラジエーター、電話、浴室、エレベーターが備わっていた。

 私は全てを所有していた――車を除けば。車は珍しかった。車を持っているのはアメリカ人と決まっていた。

 私はうさんくさい外人…亡命ロシア人だった…

 私は自分の家具を取りそろえ、定期契約でメードを雇った。

 私は富に浸っていたとも言えるだろうが、幸福に浸っていたわけではなかった。私の不満はつのるばかりで、というのも、だんだんアーティストからアルチザンになっていくように感じたからだった。言うなれば、事前に結果が全部わかるようになり始めて、一定のレパートリーの繰り返しになったのだ。手段のレパートリー、技法の、アイディアの、私のイラスト・アートにアプローチするやり方のレパートリーだ。

 だが、アルチザンが自分のやることを知っているとすれば、アーティストはそれを知らないし、知るべきではないのだ。

 そのとき、私は重い急病を患い、3人の医者が協議して6ヵ月〜3年の命を宣告した。

 最善のケースとして、医者がだまされていたとして、私の運命が好転したとして、いずれにせよ、私はもはや働くことも、泳ぐことも、酒を飲むこともかなわなかった。要するに何もできない、人生の廃人が残されたのだ。

 彼らは間違っていた。6ヵ月後、私は回復に向かっていた。

 だが、この6ヶ月間を私はサナトリウムで過ごし、そこで人生や死、芸術の意味、自分の運命、あらゆる願望について熟考する時間を持った。私は太陽の動きを眺めて時を過ごした。太陽の黒点が動くさまを…この動きは人が考えるよりずっと速いのだ。だが、これが見えるようになるにはかなりの訓練が必要だ――太陽の移動を確信することではなく――実際にその動きが見えることだ。その域に達するには大変な力と意志が必要だが、私はそれに成功した。

 結局、6ヵ月後には医者の許しが出て、私はパリ遠郊のムランの近くに田舎家を借りた。ここは衛生的には申し分のない環境だった。全くノーマルな生活というわけではないが、それでも“サナ”よりはずっとましだった。そして、この頃、大通りでは黒人歌手のアル・ジョルスン〔世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』Jazz Singer(1927)の主演〕の映画がかかっていた。

 版画の経験で、私は1人の作家と既に出会っていた。すなわち、ハンス・クリスチャン・アンデルセン、『絵のない絵本』の作者だ。これは屋根裏部屋に住んでいる詩人が、窓ごしに現れる月に向かって、彼女(月)が前夜地上で観察した一番面白いことを訊ねるという話だ。あるときは国際的大歌手ジェニー・リンドがコロッセウムの廃墟で歌い、またあるときは農家の家畜小屋で上演する旅回りの大根役者一座の話だ。あるときはいたずら小僧に投げ棄てられて木の枝で一晩を過ごした人形の話だ。これは画家にとって格好のテーマだ。少なくとも『絵のない絵本』の前書きにはそう書かれている。従ってこの本のイラストを描きながら、言葉によって私たち画家にイメージを喚起しようとしている作家を前にしていることに気付いた。彼は私に自分の代わりを頼んでいたのだ。

 多くの作家と同様に彼自身も画家になりたかったのだが、それはかなわなかった。そのことを後悔した彼は、せめてそのイメージを他人に作ってもらいたかったのだ。彼が夢見たイメージを。(私は夢想 songer という言葉や概念が好きだ――フランス語では不幸にもすたれてしまった言葉だが――たった一つの表現を例外として:

「本気じゃないでしょうね! Vous n'Y songez pas!…」)


版画アニメーション…ピンスクリーンの誕生

 さて、30才になった私はムランとフォンテーヌブローの間に住み、恐る恐るではあったが、ときおり銅版画を再開することを試みていた。

 そして当時はアル・ジョルスンが映画で歌っていた…

 そのとき、私はたまたま「ラ・スメーヌ・ア・パリ」(現在では「ロフィシェル・デ・スペクタークル」L'Officiel des spectacles〔日本でいえば「ぴあ」に相当するパリの代表的週刊情報誌〕という名前になっている)という週刊誌を手にしていた。お勧め映画のリストに『観念』という名のフィルムがあり、タイトルの下にゴシック体で「版画アニメーション」と出ていた。

 この「版画アニメーション」の文字を見たときだった。「なんだって? そんなものがあるのか? しかもそれを発明したのが私ではないとは? 版画を全て発明したこの私ではないのか? 私のように版画できるのは世界中に誰もいないはずだ! 私の版画は誰にも似ていない。私には流派も師匠も関係ないからだ。それなのに版画アニメーションを発明したのは私ではないのか? そんな馬鹿な――私が版画アニメーションを発明するべきだ。とにかく、この版画アニメーションを見なければ。こいつは何だ?」

 この版画アニメーションを見たとき(これはバルトーシュのフィルムだった)、バルトーシュ本人と彼の妻にも会った。しかし、その日はまだ2人と友人になろうとは知るよしもなかった。

 競争意識はかなりいやしい精神と言っても良いし、尊敬にも羨望にも弁解にも値しない。だが、結局それが私の性格であり、版画アニメーションの探究に駆り立てたのは間違いない。

 しかし、版画アニメの発明は可能なのだろうか?つまり、バルトーシュのやったことは版画アニメではなかったのだから。彼の方法は御存じだろうか?

 バルトーシュは版画をもとに作った紙人形を動かしたのだ。これを作者のフランス・マセレールはリノリウム版画と自称していた。この凡庸な版画家は灰色を使わずに、黒と白だけで、太鼓を叩いているようなものだった(私からすればこれでも精一杯の譲歩だ)。私の版画ランキングで、F・マセレールは何の重要性もなかった。それにマセレールの――非常に静的な――版画は最初から硬直していた… そんなものをアニメートするなど論外だ。

 バルトーシュのフィルムで美しく素晴らしい要素、それは背景だった。だが、木やリノリウムの版画には見るべきものは何もなかった。

 『観念』がパリで上映されたとき、そこで私はバルトーシュに出会った。その冬、ムランとフォンテーヌブローの間、セーヌ上流の丘にある貸別荘の孤独な暮らしに、私はもう耐えられなかった。

 ある日、私は夕方6時頃に外出し、停車していたトラックにヒッチハイクした。こうして私はパリに到着し、ロテル・メディカル L'Hotel Medical に住みついたのだ!

 ロテル・メディカルとはどんなものか君は知るまい…

 ロテル・メディカルは7階建のホテルだった。建物は今でも残っている。コシャン病院 L'Hopital Cochin 〔14区、フォーブール・サン=ジャック通り〕の向かいだ。全面が緑色の煉瓦壁だから見分けがつく。この上の天井のような緑だ。当時は薬局で、1階の薬局の裏にはトレーニングルームがあった。

 その上の2階は水浴療法の設備とプールで、プールの上は紫外線灯室だった。紫外線灯室の上の2階分は芸術家のアトリエになっていて、踊り場には湯があった。

 何が言いたいのかわからないだろうね。当時のパリで、踊り場の湯ということの意味が。

 こうしてロテル・メディカルに逗留した私は、そこで版画制作を開始した。その頃、私は『ドン・キホーテ』Don Quixote のイラストを制作していた。これは息の長い仕事だったが、私は別荘にアクアチントの大きな箱を置いてきてしまっていた。

 アクアチントの中の灰色の粒子が私のヴァイオリンのグリッサンドを生み出す。私は今やこのアクアチントの箱を奪われていた。だが、生きるためには月に何枚も銅版画を作る必要がある。

 そのうえ誰も気づいていなかったが、恐慌が始まっていた。アメリカの恐慌は知っていたが、フランスはまだだった。人々にわかっていたのは、事態は改善ではなく悪化に向かっている――だんだん悪い方へ――ということだけで、世界経済史上に残る大恐慌になろうとはまだ知らなかった。

 というわけで、私はロテル・メディカルで版画制作に取りかかったのではあるが、しかし背景はどうやって制作すればよいのだろうか? アクアチントの箱は別荘に置きっぱなしで手元にないというのに?

 背景制作の方法を捜し求めたあげく、私はゴヤ(の自画像)から同じ向きの短線の束を借りることにした。ゴヤはボリヴァール帽をかぶった自画像を描いているのだが、その山高帽の仕上げをごく短い曲線でおこなっているのだ〔版画集『気まぐれ』Los Caprichos(1797〜98)巻頭の自画像のこと〕。

 エッチングには2本の線がくっついてしまう危険性がある。つまり、線が交差する部分にはワニスが飛んで、汚い斑点になりがちなのだ。そこでゴヤは、方向を揃えて、こころもち曲げた多数の短線を背景に用いた。私はこれが気に入った。「ラ・スメーヌ・ア・パリ」の版画アニメ事件が起きたのはこんな時だった。

 私は自分に言い聞かせた。

 「版画アニメを発明する能力・必然性を備えた人間がいるとすれば、それは私以外ではありえない。その環境はそろっているのだから」

 私は検討を開始した。

 自分の性格に変な点があることを今の私は自覚している(“心身相関性”というやつかもしれない)。私はベッドに入るとたちまち熟睡してしまう。79才の今でさえ、ひどい不眠症に悩まされてはいても、眠りにつくのは速い。

 私は遅く(というか非常に遅く)起きる。だが、短い時間、つまり横になった瞬間と意識を失う瞬間の間の短いズレのことだが、この一瞬は主観的には大変長く感じられる。『カロー風の幻想画集』Phantasiestucke in Callots Manier でE・T・A・ホフマンは同じ症状(何の症状だ?)を自分のものとして描写した(注2)。

 そして、横になり、水平の体勢で目を閉じたこの時こそ、本物の力がみなぎり、理性が働くようになるのだ。

 私は映画、それもトーキー映画の制作法について考えていた。

 とにかく、“エルドラド”の俳優たちの話は忘れてしまおう。それも全部! まず自動車を借りて、ステュディオ・エクレール studio Eclair(エピネイのどこかにある)に行く必要がある。1時間半かかるそうだから…

 私はある日ジャン・ルノワールの映画を見ていた。すると、白馬が出てきて雲の中で走っていた〔『マッチ売りの少女』La petite marchande d'allumettes (1927〜29)か?〕。私は疑問を感じた。「白馬のこの表現はルノワールの意図なのか? 本当にこんな風にしたかったのか? ルノワールには馬の身体の造りがわかっていないんじゃないだろうか? 結局彼は画家ではないし、止まった馬も描写できないにちがいない!」

 だから私にはアニメーションを習得する必要があった。

 確かにそうなのだが、しかし、アニメーションには、自分の指示に従うスタッフやアトリエなどが必要だ… 要するに資本が必要なのだが、私はそれをまったく持っていなかった。

 その上、このスタッフというやつだが、私は彼らの仕事が気に入らなかった。つまり、彼らの線は型にはめられているからだ。型通りの線、つまり太鼓のようなものだ。私には型通りの線の有用性が理解できなかった(同じ線を1本1本正確に繰り返す、あるいは同じように変形するためなら、セルを重ねて透かせばすむことだ)。これはカリカチュアにはあっているだろうが、私の版画のような詩的版画を作るには不都合だ。例えば、この『狂人日記』の版画には、街頭で傘をさしている人物が見える。これを型にはめられた線で描くわけにはいかない。したがって、アニメーションでも言わばグリッサンドする方法を見つけなければならなかった。

 1人で論理を展開する難しさとは、その時間内に論理の糸を見失わないことにつきる。この時間は現実にはほんの一瞬だが(客観的に言えば)、主観的には膨大な長さに感じられる。

 毎晩、私は思索を自らに課していた。「さあ、ベッドに入った。よし! おしまいだ。さらば『ドン・キホーテ』… さて、版画アニメについて考えよう」

 毎晩、私は熟考に熟考を重ね、少しずつ前進したかと思えば眠ってしまい、翌朝には前夜の思考の道筋を忘れてしまっていた。

 ついに、ある晩の10時頃のことだった(日付は忘れたが)。その時の5分間は、私の人生でもっとも論理が長くつながったときで、一瞬たりとも不注意によって中断されることがなかった。

 その夜、私は新しい段階に到達していた。私は自問自答した。

 「ゴヤのボリヴァール帽の線、これは毛軸がそれ ぞれ突き出ていて、その長さに応じてできた影だ。単一光源の光が同じ角度で軸に当たっている。

 版画の場合、線の太さを変化させる必要がある。それでは、この問題はどう解決すればよいだろうか?

 そうだ、円筒形ではなく楕円形のピンを使えば、光に対して回転させることで影は太さを変えるはずだ。

 しかし、大量のピンを同時に回転させるにはどうする?」

 この問題がいく晩も睡眠前の私の頭を悩ませていた。

 とうとう…答えが浮かんだ。「突起の長さを変えることだ――これなら一度にできる」 この瞬間、発明は完成し、私はそれが使い物になるということを知った。

 考察を終えた私は起き上がり、隣のアトリエに向かった。そこは友人エティエンヌ・ライクの部屋だった。

 私は彼をたたき起こして話しかけた。

 「…おい、やったぞ、僕は発明したんだ。版画アニメーションの作り方を発明したんだ」

 ――へえ、そう…ほんとかい?

 「ああ、聞かせてやろう」

 ――じゃ、ベッドの端に座って、そいつを話してくれよ。

 私はベッドの端に腰を下ろして話しはじめた。突然彼は私の腕をつかんだ。

 「ちょっと待てよ。君の話は隣のアトリエに筒抜けだ。あそこのドイツ女は多分スパイだぞ。彼女がセックスしている時の声が全部きこえるんだ」

 私はつぶやいた。「くそったれ…」

 当時、銀行家のレーヴェンシュタインが自家用機で殺されたり、バーチャ〔1876〜1932〕――靴屋から百万長者になったチェコの大実業家――が専用機の事故で死んだりしていた(暗殺だと考えられていた)。犠牲者の3番目はスウェーデンで暗殺された耐久マッチの発明者だった。

 私は思った。「私の発明は生まれたとたんにもう挫折してしまった」

 翌朝、私に会ったライクはこう言った。

 「何の話だっけ?」

 ――何でもないさ。

 隣に住んでいたドイツの女スパイはその朝連行されてしまった。やってきた巡回に尋問されて、彼女は狂乱していた。

 このアイディア、つまり“ピンスクリーン”のアイディアを抱いた私は自分の正しさを確信していた。これが上手くいくのは確実なはずだった。

 まず確かめなくてはならないことは、これでスーラの木炭画やゴヤの版画に匹敵するイメージ(これはどんなジャンルに属するのだろう?)を得ることが可能かどうかということだった。白地に立てたピンの影などでそんなことが可能だろうか? 私は画材屋に足を運んだ。モンパルナス大通りのアメリカン・アート・カンパニーという店だった。そしてこう言った。

 「“10号”〔55×46cm〕のフレームを下さい。それから型取用のロウも」

 ロウは黄土色だった。

 私は考えた。「裏側に木のフレームの厚さでロウを流し込もう。それからピンで穴を開けて、表側に通すのだ」

 次に私はオ・ボン・マルシェ Au Bon Marche〔世界最古のデパート〕に向かい、ピン売場に行った。

 「ピンはありますか? 3千本欲しいんですが」

 ――3千本のピンですか? でもどうなさるんです?

 「理由は聞かないでください。話すと長くなるので! 3千本のピンが必要なんです!」

 ――倉庫にあるかしら。在庫を確かめてきます。

 返事が返ってきた。

 ――はい、ピン3千本ですね、大丈夫です。

 これは3キロぐらいの重さだった。正確には覚えていないが(クレアが小躍りしたのは、私がこう付け加えた時のことだ。“キロ”kilo とは、要するにギリシア語の“千”のことではないのか、と)。

 さて、私のアトリエに3千本のピンがある。私は“10号”のフレームの後ろに型取用のロウを流し、背後からピンで穴を開けた。

 このとき、すこしインチキしたことを告白せねばなるまい。つまり、黒くしたい部分にピンを詰め込んだのだ。そして、下地の上に私は一種の人物画を描いた。さてこいつをどう照明しようか?

 私はスポットライトもフットライトも持っていなかった。私は夜になると、時々マッチをすって絵を一瞬だけ見ることにしていた。指を焦がしてマッチを投げ棄てると、イメージは消えてしまうのだった。

 この週のある日、私は次のような手紙を受け取った。

 「拝啓。編集の方からあなたの御住所をうかがいました。この手紙を書いているのは、私が芸術家が死後でなければ尊敬されない国から参ったということを申しあげたいからです。どうか私に版画を御教授下さい。私はクレア・パーカーと申すもので、ここに住所がございます。お会いして私の作品を見ていただければ幸いです」

クレア:まあ、私そんなこと書いたかしら…


アレクセイエフ:

 私は返事を書いた(およその文面を伝えよう。手紙を保管しておくべきだったのだろうが、まさかこんな結果になるとは思いもよらなかったのだ)。 「承知しました、マドモワゼル。来週の木曜日、午前10時にクロズリー・デ・リラ la Closerie des Lilas (パリの学生街カルティエ・ラタンにある文学カフェ)(注3)でお会いすることにしましょう。私の緑色のフェルト帽を目印にします」

 このクレア・パーカーが自分のアトリエ――まさにモンパルナスの――でこの手紙を受け取ったら、どうするだろう? 気取って歩きまわるかな!

 私はつぶやいた。「クレア・パーカー、アメリカ人か。こいつは金持ちにまちがいない!…」


クレア:ブロンドで、しかも金持ちでね… 最初に手紙を受け取って、私は大満足だった。子供の頃、屋根裏部屋に(そう、思い出すわ)素敵な青い本があった。版画入りで(エッチングではなかったけど)、ロシアのことを書いた本だった。

 良くは覚えていないけど、オオカミやトロイカ、それに民族衣装の人々の絵が何枚かあって… それから私はロシア熱にとりつかれた。だから、アレクセイエフのイラストが好きになったとき、彼がロシア人だということがとりわけ興味を引いたの。

 私は本で見たロシア農民のような姿を想像していた。大きなあごひげを蓄え、もちろん老人で、破れたズボンに長靴の格好をしているものだと思っていた。だから、緑色の帽子に栗色の服と言われてかなり胸がときめいたわ。彼のような若者が隅に座っているのを見ても、それが本人だとは思わなかった…

 私が気づいたの、それともあなたから訊ねてきたのかしら?


アレクセイエフ:もうわからない…たいした問題じゃないよ…君は腕にポートフォリーを抱えていたね。

 残念ながら、彼女はブロンドじゃなかった…そのうえ、版画のレッスン料に大金が必要なことを話したら、そんな財産はないと言うんだ…

 結局は無料でレッスンを引き受けたのだが、それは彼女に学びたい意志があることがわかったからだ。

 私は自分に言い聞かせた。「私はこの若者を助けてあげられる。彼女は他の人間と同じように天才的な夢を持っているのに、障害や禁止のせいでそれを芸術作品として実現できないでいるのだ」とね。


クレア:私が描いたものを手渡したときに、何と言ったかを忘れているわ。

 彼は眺めてから、こう言ったの。「こいつはひどい、全然駄目だ…」


ジュスト:2人は出会う宿命だったのですよ。つまり、ピンを黒く染めることをパーカライジング〔鋼鉄の防錆法〕Parkerisation と言うのですから。


アレクセイエフ:そう、だが、一発の銃弾をパーカライズすることや、百発分パーカライズすることはできるし、どうにかすれば、1年後には1万発パーカライズすることもできる。だが、数十万本のピンをパーカライズするのは可能だろうか?

 ピンスクリーンの大きな難点は、このピンの莫大な数、つまりその取り扱いなのだ。

 我々はこんな風にして出会い、それからすこし経ったある日のこと(クレアには版画や銅版画で教えられる限りのことを伝授した)、私は彼女に版画アニメ制作の計画やその方法を打ち明けた。そしてクレアは引き受けてくれたのだ。我々は2人だけで作業をおこない、私が一種の発明家だとすれば、それを実行するのは彼女だった。


クレア:その意見には全然賛成できないわ。


アレクセイエフ:クレアにはプライドがあるから、虚栄心とか自慢癖にはおぞけをふるってしまうのだ。私はそちらの方向に影響を与えたはずなのだが。つまり、誇張や嘘、ある程度の詐欺がなければ、芸術家にはなれないのだ。しかし、こういう性格はクレアの性格や彼女の生まれた環境とは全く正反対のものだった。

 ピンスクリーンの出発点は要するにこういうことだった。他に言い残したことはあったかな? 面白い話はまだまだたくさんあって、例えば…

 クレアとの共同作業が始まってたぶん1年、いや1年半が過ぎたころに、現在はアヌシー美術館にあるピンスクリーンの製作にとりかかった。これは良い出来ではなかったが、我々は映画も工作も未経験だったのだ。“工作”という言葉は真面目に言っているのだ。我々は一生を通じて真剣に工作をしてきたのだから。結局、工作とは何だろう?… この言葉が低級だと考えられているのは不可解だ。農民は手作りで家や家具やキュロットやシュミーズを作るし、ランプもクワも全部工作して作られたものだ。そのうえ、農民は自分たちの墓も手作りで作ってきたのだ…。

 そうだ、照明の話をしよう。いよいよこのアトリエに搬入するときが来た。イヴォンヌ・シュヴァリエは以前私に2、3年の命を宣告した3人の医者の1人だったが、彼女はプロの写真家でもあった。私は彼女に助けを求めた。

 問題が山積していた。この“10号”の枠には小さな雪だるまが描かれており、まるでスーラの絵のように見えた(太陽光の下で見ても)… 完全な黒色には欠けていたが、好感が持てた。白黒ではあったが、きれいだった。だが、私にはわからない理由によって、写真ではそれを表現することができなかった。私は写真についても無知だったから(写真には興味がなかったし、今でも写真それ自体には関心がない。私にとっては複製手段だ)。

 そういうわけで、私はイヴォンヌ・シュヴァリエにこの小人の写真を頼んだ。彼女はそれをこのテーブルの上に寝かせて、周囲に3個のランプを置いた。3個にした理由はわからない(これは馬鹿げていると思った。理論的に言って、ピンの影は1本だけになるつもりだったからだ。しかし、写真を撮るのは彼女だった)。彼女は写真を撮影して、それが出来上がった。

 私は時々クレアに愚痴をこぼしたものだった。「本当に可能なんだろうか? これが成功すると26才の君になぜわかる?

 君はわかっているのか? 君が今全人生をささげているのはただの愚行かもしれないんだぞ?

 そうじゃないとどうしてわかるんだ?」


クレア:私にわかっていたのは、これが凄いアイディアだということだった。それに物理学は大好きだったから。

 初めてピンスクリーンを立てた日のことを覚えてる?


アレクセイエフ:ああ、大量のピンで重かったということは話しておかないとね。これが重いなんて想像できないだろう。我々のピンスクリーン第1号はこのテーブルの高さだった。このテーブルそのものの上に組み上げられていた。角型の鉄製フレームでできており、その上に1o径の穴50万個を開けた鋼板をひろげた。裏面は、型取ロウのかわりに、熱で溶かしたパラフィンで充たした。鋼板は工場で開けてもらったのだが、多少不規則な状態だった。

 1930年頃には、完璧な仕上げ、精密性、画一性、平面性が理想的な表現だと広く考えられていた。このような風潮は欧米のあらゆる技術で見られた。

 ピンスクリーン第1号には縦糸のようなものが見える。太い糸と細い糸が混紡になった中国の絹布や麻布のようなものだ。今だったらとても美しいと思えるのだが、あの時代には良くなかった。完璧に規則的なナイロン布こそが美しいと考えられていたのだ。だから、完全性というものが追求されていたし、その傾向は極めて強力だった。そして、愚かなことに、私自身もこの方向を向いていた。芸術家として、これがまちがった道であり、ピンスクリーンに縞があろうがなかろうが全く問題はないことを理解すべきだったのに。ピンが完全に均質に配置されていなくても何も問題ではなかった。重要なことは、そんなことではなく、芸術作品であるかどうかということだったのだ。

 我々はピントを外すことにした。


クレア:ルネサンス末期にラファエロが同じようなことを感じていたわ。レオナルド・ダ・ヴィンチもね。


アレクセイエフ:そうだ…だが、ファン・ゴッホでさえ遠い昔のことになってしまっていたのだ。

 そうそう、ピンの重量の話だった。このテーブル上で最初のピンスクリーン(アヌシーのものだ)を組み立てたとき、板でおおって寝かせたのだが、板の下には角の厚みの分だけ隙間が空いていた。我々はピンを通した(技術的問題から、片方だけが尖っていて、もう片方はまっすぐに切断されたピンだった)。手製のミニ・チャージャーを使い、尖った方を裏側にして全部の穴にピンを通した。こまごました発明がつねに要求された(それ以後も小さな発明は絶えることがなく、現在まで続いている。これは頭脳労働の骨休めになる。手仕事は大変良いことで、知的機能にとって抜群の健康療法だと思う。これはリラックスさせるし、訓練にもなる。手仕事とは素晴らしいものだ)。そう…さて、ピンを垂直に通して、それからスクリーンの下に予防のために木の板を10枚ほど置いた。セットしたピンが抜け落ちないように、そして垂直に保たれるように、この板をロウの布でおおった(ピンは40本を束にしてセットした)。この作業は長い期間、少なくとも数ヵ月を要した。材料や流し込む素材のリサーチにも相当の時間がかかった。

 最終的に、我々はもっとも妥当な素材にたどりついた。それはパラフィンであり、幅広い特性を示した。例えば、固まるとピンにまとわりつくことも傷めることもないし、その上、鋼鉄を良好な状態に保ち、錆を防止するのだ。また、パラフィンを溶かすにはほんの少し暖めるだけでよいので、ピンの膨張も回避できる。

 こうして我々のピンスクリーンはピンとパラフィンで充たされ、テーブルの上に寝かされていた。これを立てなければならない。何が起こるだろうか? 自重で壊れないだろうか? アヌシーのピンスクリーンは約100kgあるのだ。1年半の作業が台無しになるかもしれない。もし壊れたら…壊れなかった!… 板をおおうロウ布がピンにくっつき、ピンは木板にはほとんど接触しない状態で、強力な接着剤の効果を果たしたのだ。さいわい、板は1枚1枚別々で、分離可能だった(後年、アメリカでピンスクリーン第2号を作ったときは、最初から垂直に組み立てた。そして、ピンを押し込むのではなく、並べたのだ)。

 背面の合板を取り外すためには、板をばらばらにする必要があった。私は1枚1枚これをはがした。予測もつかないことばかりで、ピンの数が多いために問題の山だった。


クレア:実際にはピンではなく、最初のピンスクリーンは片側が切断された針でした。アメリカのピンスクリーンになると両端が尖ったピンになって、ただし、鋼鉄製ではなく、鉄でできていました。


アレクセイエフ:その40年後、クレアは小さなピンスクリーンを自分1人で組み立てることに成功した。これは“エピネット”と命名され(ここにあるやつだ)、モントリオールにあるものと共通点が多い。こちらはピンが約27万5千本で、モントリオールのものは約25万本だ。たいした違いではない。

 どのピンスクリーンも寸法はほとんど変わらない。だが、完璧に製造されたピンスクリーンはおそらくこれが初めてだろう。モントリオールのものもそうで、表面の正確なネガ像が裏面に見えるのだ。

 さて、我々のピンスクリーンが立てられた。まず、両面にある大量のパラフィンを除去しなければならないことに我々は気づいた。次に問題が1つ生じた。(ブーガンヴィルやクックはどうやって航海に乗り出すことができたのだろう? 我々が始めた航海も彼らに劣らず危険なものだった。何が待ち受けているか知れなかったのだ) 私は自問した。

 「いずれにしても、このスクリーンの表面1/3は穴になっていて、この穴は黒だ。こんなもので本当に白色になるのだろうか? この穴を白で埋める必要があるのだろうか?」

 そこで私はピンスクリーン表面の鋼板を白のプラスティリン〔不明。プラスティシン(塑像用粘土)のようなものか?〕でおおった。これは大変な厄介者だった。

 こうして我々は立てたピンスクリーンを前にしていた。

 プラスティリンを洗い落としてみると、それが不必要であることがわかった。そう、白い部分はやはり白のままだ。上から光を強く当てれば、黒はいよいよ黒さを増し、白はさらに白くなったのだ。


クレア:まだ終わりではなかったわ… 『禿山の一夜』にオオカミや猪が走るところがあるわね。私は良く覚えてるけど、プラスティリンはまだそこに残っていた。これを取り除くときはぞっとしたものよ。ピンにはくっつくし、汚くてべとべとしていたのだから。


アレクセイエフ:そろそろピンスクリーンを見に行く頃合だろう。そこには新しい映像が見えるはずだ。『三つの主題』の映像がね。



『三つの主題』

 1975年から76年にかけての冬、77才になった私は考えた。「結局2年以内に私は死ぬことになるだろう(私にはそれがわかっていた)…それでは、その間私は何をすればよいのだろうか? 何もせずに過ごすのか?…そんなことは我慢できない! しかし、思いつく計画は全部――本のイラストにせよ、アニメーションフィルムの制作にせよ――長期計画だ。2、3年はかかるだろう。だが、それまで私は生きているのだろうか?」

 終わる見込みが立たないのに手をつけることはできなかった。私はずっとこんな恐怖につきまとわれてきたからだ。終了する確信もなく作品を開始することは、私には不可能だ。

 そうこうするうちに、ある夜、私はこの上にある天井が月光に照らされているのを眺めていた。月光はオランダ菩提樹の大木――クレアが植えて30年になる――を通り、微風がこの茂みを動かしていた。それにつれて天井の葉影が非常にかすかに動いていた…(この天井に何枚レンズがあると思う? 500枚ぐらいだろうか?)

 このレンズ全体の作用で、影は互いに溶け合い、ちょうど歪んだ鏡に顔を映したようになっていた。この動きはゆっくりしていて、この運動の中ではあらゆることが想像された(“こと”chose という言葉で私が言わんとしているのは、フランス語の中でこの単語が表現しているものだ。つまり、物質としての“こと”と、物質的存在ではない“こと”の両方を指している)。

 この動きは極端にゆるやかだった。そして、この夜、私は下らないアニメを作ることに人生を浪費してしまったという感傷にとらえられた。

 私はまさにこれをアニメーションとして作るべきだったのだ。天井が見せてくれた光景のようなものを…

 友人にこの話を打ち明けると、その話は別の人間に伝わり、その結果、制作費としてわずかばかりの補助金の申し出を受けることになった。

 私はあのぞっとする“シナリオ”というやつを作ったことがない(このやり方ではアニメーションを最初からがんじがらめにしてしまう)。そんな考えは最初からまるでなかったし、フィルムを仕上げている今この瞬間でも同じだ。このフィルムが『三つの主題』と呼ばれる訳は、単にムソルグスキーの曲から3つの主題を選んだからで、それだけのことだ。このフィルムは何も物語りはしない。道や森や運河沿いを散歩しているときに語るべきことなんてあるだろうか? 目に入るものはすべて“か・た・り・え・な・い”inenarrable という言葉の通りだ(似たような言葉でもう1つ私が気に入っているのが“筆舌に尽くせない”ineffable だ。私はフランス語を愛している…)

 こうして、私の計画はアイディアではなく、イメージから始まった。そのイメージは、おぼろげで、動いており、何よりも極度にゆっくりとしたものだった。ところで、ある時、78回転で録音されたポルカを45回転で再生すると、ポルカが葬送行進曲に変わってしまったのを体験した。また、反対の場合もあって、逆にすると荘厳な曲が脳天気な曲になってしまう。大部分のアニメーションは猛烈なスピードの印象を与える。これは作者の意図ではないのだが、結果として陽気な感じを与えてしまう運命にあるのだ。

 この理由は、制作の緩慢さが上映によって(想像もつかない比率で)加速されるためで、すべてのアニメーションフィルムは、この点で加速と見なされるべきなのだ。これを示すタイトルがいくつかある。それは『ロンドン−ブライトン5分間』Londres-Brighton en 5 minutes(注4)やORTFの短編『フランス1週間』Une semaine en France で、2本とも実写のコマ撮りだ。

 加速とは何か? 減速とは? この問いは2つの反対の定義で答えられる。例えば、スロー撮影に対して上映スピードが速ければ、結果は加速だ。あるいはその反対だ。

 しかし、アニメーションの中で減速を見た人間はほとんどいない。実行が困難だからだろうか?…

 線画アニメの支配的傾向がこの“滑稽さ”であること(これはほとんど不可避である)、そして、これは制御されなければならないということ(要所で意識的に使用することで)、これらのことに私は関心を持った。その結果、そよ風に揺らぐ影がゆっくりと“減速”して動く様子は、生命の抒情的状態のかっこうの例だと私は考えた。これは私にとって、“喜劇的な”状態とは対照的なものだった。

 私はそこに年長世代の巨匠たち(マティス、ピカソ、そしてその“一派”)の作品とは根本的に対立するものを見出した(私は初期の版画でもそうだった)。要するにこの2人は装飾家であり、カリカチュア作家だった。彼らと反対の立場を選択した私は、生まれては死んでいく生命たちの抒情性にひかれていた。この抒情性はゴシップや美化とは無縁なのだ。

 フィルムの話に戻ろう。私はかつて線遠近法が2次元映像でヴォリュームを表現する唯一の方法ではないことを指摘したことがある(これを話したのは、マルローと対談したときだった。彼は驚きもせず、「その方法は?」と質問してきた。私は刺青を例に出した。女性が脚にはく黒絹の網タイツのように、刺青は腕や上半身を“曲げて”、脚や尻をふちどる。テーヌ〔19世紀フランスの代表的文芸批評家・美術史家。1829〜93〕のいわゆる“空気”遠近法(注5)についても私は触れた)。

 映写によって線を高速で交代する以外に、運動(それに奥行きも)を表現するもう1つの方法がある。これを観察するのは簡単だ。この場で見ることができる。それはこの壁の上で、冬の晴れた日、庭に葉がないときだ。このとき、裸の枝やこの格子やアトリエの大きなガラス屋根などの影が壁に映っている。太陽とアトリエの間を薄雲が通過すると、壁の上の影が極めておだやかにゆっくりと動く。それは優美さに満ちており、線画アニメーションの動きとは対照的だ。

 ぼかしを使った、線画ではない動きの単純な例を挙げよう。

 スクリーン上に、左から右にいくにしたがって黒から白にぼかしがついている四角形を想像してみよう。同じ四角形のもう1つの動画を想像してほしい。後者の動画は右側が黒で左側が白、つまり1番目の動画とは逆になっている。多数のコマ(例えば48コマ)を間にはさみ、この2つの動画をオーバーラップでつないだとする。映写すると、影は左から右に移動する。この動きはゆっくりではあるがはっきりしたもので、連続していてぎくしゃくしたところがない。

 したがって、私には葉影の動きの魅惑的な遅さが重要だった。何年も前のこと、私は撮影の月日を記帳して、1日あたり8時間で見積もったことがある(実際はそうではなく、多分3〜5時間だろう。カメラの下で1日8時間もアニメートできるとは思えない)。この時、私は『禿山の一夜』が1年半を要したことに気づいた。結果として、この(上映時間8.5分と比較した撮影時間の)比率は3万5千倍の加速になる〔正確には約3万1千倍〕。

 サイレント時代の毎秒16コマで撮影したフィルムを現在24コマで映写するとものすごいスピードアップになるが、それと比べてみれば、3万5千倍の加速とはどのようなものか想像もつかないだろう(御存じのように、前者は1.5倍の加速に過ぎないのだから)。

 現代のアニメーションは、カウボーイが振り落とされまいと鞍にしがみついているロデオのような印象を与えるときがある。そうしてアニメーターは自分の“ラッシュ”を初めて映写したときに驚くことになるのだ。“滑稽な”アニメキャラの熱狂振りは、コマ撮りの宿命的な側面で説明することができる。

 私がアメリカで見た漫画映画は観客自身のカリカチュア――まるで残酷な怪物や動物のような――を見せることで満場の爆笑を誘っていた。人間性に対するこんな軽蔑がどんな結果をもたらすのかと私は考えこんでしまった。

 人間性や生命をグロテスクなものに還元するべきではない。これは芸術の役割ではない(フェザン〔フランスの漫画家。1918〜〕の素晴らしいカリカチュアは人間の苦悩や希望を笑いものにしてはいない)。

 これは私個人の反応で、その当否を探究しているわけではない――私はそう感じたのだ。このような漫画映画に憤慨するのは本当に私だけなのだろうか?

 バルトーシュはその素晴らしい都市景観を制作するために、1932年の時点ですでに自分が発明したマルチプレーンを使っていた。彼はガラス上に塗った石鹸を220ボルト30ワット電球(これはとても微弱だ)で斜めから照らして霧を作り出した。そして、油絵から多層塗りの技法を借りて、1つの画面に最高18枚も絵の素材を露出した。『三つの主題』で我々はこの方法に従い、撮影する前に、楽譜に沿ったアニメーション・スコアを書いた。ルイ・ムシナック(注6)が“フレーム内モンタージュ”と名付けたものに注意しながら。

 すでにピンスクリーンで撮影した動きを加速・減速するためには、一種の自作オプチカルプリンターが欠かせないことがわかった。これを使ったのが、第1主題の背景に立っている2本のロンバルディア・ポプラの木の葉の動き、つまり、茂みの下の方をきらめかせる動きだった。これは速すぎる感じだったので、撮影したコマを互いにオーバーラップして繰り返し、シーンを引き伸ばすスコアを書いた。基本的には以下のようなものだ。(左側の数列は撮影するカメラのフレームナンバーを表わしている。横の各行には5つの数字があるが、これはオプチカルプリンターで投影し、カメラで再撮影する5枚のフレームナンバーを意味する)。

  1  2  3  4  5
  2  3  4  5  6
  3  4  5  6  7
  4  5  6  7  8
  5  6  7  8  9
  6  7  8  9 10
  7  8  9 10 11
  8  9 10 11 12
  9 10 11 12 13
 10 11 12 13 14  etc. …面白いかな?…
(フレームごとの露出は全露出の1/5だ)

 …その結果は…成功だ! これは1/2倍の減速だ(各フレームは倍増された)(注7)。

 牛の歩き(「ブィドロ」Bydlo)のところで、我々は移動する脚をその運動方向にぼかす方法を開発した。1番目のコマの上に、グラデーションが反対の2番目のコマをオーバーラップさせたのだ。結果はとても優雅で、気に入ってもらえると思う。それぞれの足の歩みはピアノのテンポに合わせて20コマになっている。実際の牛のスピードとは違っているが。

 『三つの主題』の第2主題では、目の前に垂直な壁があり、その上にデッサンが掲示される――まるで普通のデッサン展のように。だが、ここでデッサンはループで反復運動する。その結果、デッサンが連続するパノラマになる。

 『三つの主題』の第3主題にはムソルグスキー自身がタイトルをつけている。「サムエル・ゴルデンベルクとシュムイレ」Samuel Goldenberg et Schmuyle だ。

 この伝説は2人のユダヤ人の話だ。1人は金持ち、もう1人は貧乏人だ。

 私は懇願する声をシュムイレ(背が低い)の声、懇願される声を金持ちのゴルデンベルク(背が大変に高い)の声だと想像した。シュムイレは音楽家だ(ムソルグスキーのような髭づらの鳥である)。ゴルデンベルクは金を作る。彼はたぶん高利貸しの一種だろう。金を作る方法は何か? 仕組みは不明だが、方法は簡単そのものだ。つまり、自分の机をハンマーで叩くだけで、“金貨”を出現させることができるのだ。

 金貨がビタミン剤のように見えるのを防ぐためには、どうすれば良いだろうか? 金属は輝いている。では、“金貨”を輝かせるにはどうするか? きらめかせるには? 交互のコマで机にスーパーインポーズすれば良いのだ。この時、交代現象が起こる。

 その次に来る“複雑な利益のワルツ”と呼ばれているショットは、2つのシリーズの動画から構成される映画言語の重要性を証明した。この動画の一方は偶数フレーム、他方は奇数フレームに撮影され、交互になっている。この形式のアニメーションは秤のシーンで一番強烈な印象を与える。交代がはっきりと現れている部分のフィルムを複製しておくことにする。

 これを映写した結果は、期待したように交代して見えるかわりに、“金貨”と同じように点滅して見えた。理由は不明だ。とにかくも、このシーンは映画の映像統合作用におけるコマの残像の働きを非常に明確に示している。すなわち、残像の最短時間は1/10秒であり、2/48秒後にやってくる次のフレームを直視してスーパーインポーズされるまで、網膜上の残像は消えないのだ。この瞬間、1つではなく、2つのフレーム(残像と実像)が同時に見えている。

 このように2つのシリーズの運動が交代するフィルムが毎秒24コマではなく12コマ映写になっていることはすでに知られていた。私は残像現象の分析に激しい関心を持ったことを告白しよう。運動のイリュージョンという現象と同じく、ここに存在しているのは置き換えだけだ。私は「シネマ・プラティック」誌 Cinema Pratique 第75号で、マクラレンの非常に面白い『ブリンキティ・ブランク』Blinkity Blank の分析を報告したことがある。

 映写によって、揺らめく色調で構成された本物の油絵(例えば静物画)を実現するのは可能だと思う。その効果を考えるのだが…そんな実験を実行する時間がまだ私にあるのだろうか?



撮影スタジオにて

アレクセイエフ:(映写機をコマ送りして)

 このシュムイレという人物はピンスクリーンで描いた映像にスーパーインポーズした。ニューヨークで買ったこの機械(撮影に使っているものと同型の古いパテ・カメラを改造したもの)を使用するのはこれが初めてだった。私は人物(髭づらのシレーヌ――シュムイレ)を白紙に投影し、出来るだけ正確に目印をつけた。その後、カメラの中のネガを1コマ目に戻し、既にシュムイレが露出されたイメージに、ピンスクリーンで作った背景をスーパーインポーズしたのだ。こんな複雑なことに取り組んだのは、投影する小さな映像がピンの影の黒線で乱れないようにするためだった。実際は、どんなものに投影しようと構わなかったのだが。つまり、スーパーインポーズはいつだってできるのだから。

 例をあげれば、6秒間露出するとすれば(よくあることなのだが)、どんなものにでも合成できる――例えば、露出中に一定スピードで横移動する白糸の上にでも可能だ(コシノールのタイトルを見たまえ)。


クレア:ナイアガラ瀑布ね!


アレクセイエフ:明快かつ見事な解説だ。しかもアメリカ風だ!


ジュスト:数学用語でも言えますね。一平面を構成する一本の線上、と。


アレクセイエフ:正確に言えば、平面の定義は一直線の移動の結果である、だ。しかし、このような“映写スクリーン”の表面はどんなものでもできる。つまり、円錐でも波形曲面でもよい。我々は1952年以来、多くのコマーシャルでこれを利用してきた。例えば、コシノールのメイン・タイトルやネスカフェの『香り』Arome(注8)がそうだ。


クレア:このオプチカル・プリンターを現役復帰させた一番の理由は(一苦労だったけど)、プリントや現像について電話でラボに理解させるのが困難だったからです。


アレクセイエフ:ラボの人間は良く訓練されている。つまり、産業的な仕事向きになっているんだ。幻想を抱いたアニメーターが、“出来合いではない”ことをしようとやってくると、彼らは拒絶するようだ。経済条件は人間に深い心理的影響を与える…例えば、どんな望みが若手のアニメーターに“ニンジン”をぶら下げることになるのだろうか? 考えてしまうところだ。

 『三つの主題』の話に1つ付け加えたいのだが、第3主題は第1主題の反対になっている。つまり、第1主題は可能な限りの平滑性、最終主題は不連続性を追求しているのだ。


ジュスト:これはあなたの“最後の”フィルムではありませんね。もう1本、カラーのピンスクリーンを使って作るわけですから。


アレクセイエフ:いや、それはあまりにも複雑過ぎた。自分の力量に従って仕事するべきで、弱点と格闘して疲弊するべきではないのだ。自分の特質を高めるべきで、欠点と戦うべきではない。この忠告を若い作家に送りたいのだが、それは今の忠告に反する過ちをまさに私は犯してしまったからだ。

 我々2人は“秤”の12秒間を得るために17日間働いていた(万策尽きて、時間を節約しようという望みを捨ててから、随分経っていた)。その結果は矛盾したものだった。つまり、ヘルムホルツの“ダークグレー”(注9)は容易に得られるのだが、画面全体が振動するのはどういうことなのか?――あるときは右側、あるときは左側が振動するはずだったのに…

 これはおそらく失敗なのだろうが、失敗もためにはなる。(イブン・ハルドゥーン(注10)のような航海家にとって、カスピ海の真ん中に島がないことを確認するのは――その島を“アラティール”と呼んだ伝説には反することだったが――探検の苦労に報いるものだった)

 点滅現象は何に活用できるだろうか?

 例を挙げれば、点滅は作業の50%の節約になるのだ(注11)。



モデル・スコアの概略――アニメーションシート

 これは撮影“スコア”を書いて、そこに露出記録用の各パラメータに対応する欄で各フレームをチェックするために使う(各フレームに何回も露出するため)。撮影済の記号の後にチェックするようになっている。

 露出する前に、機材の各部が示すパラメータを露出予定のフレームに合わせる。 例:「垂直パン実行、加減抵抗器実行」、「水平パン実行、動画37に配置。露出」 露出した後、記録したパラメータをチェックして、次のパラメータを準備する。


シーン3・クロース・アップ〔LDの 36731〜37000 の部分か?〕――パラメータ
ネガに三重露出:
 背景、牛・アップ、牛・ミディアム

背景:
フレームNo.389から407 と 407から389 、ダブル
DPA 168.5cm DKA 58cm フォーカス31mm
露出合計40/10秒 マスク、フィルターなし
PV 定規上21cm PH 大定規上21.5cm

西向きの牛・アップ:
PH 開始・終了点にマーク コース最大92mm
動画 596で東縁からイン DK 60cm ペース:1mm
DK 75mm付近にアクセント スタート動画 P6
露出スタート4/10秒  PV 固定
ズーム・ペース 0.5mm
DPA 158.5 DKAスタート68
フォーカス一定:31mm
マスク+カルトン・ペース PH 7.5cm
終了地点小定規上33mm 反時計

牛・ミディアム:
DPA 158.5cm フォーカス固定
フレームK1、メーターのマーク地点でスタート
PH ペース 0.5mm
K21 にアクセント(+ブレーキ)
ペース15°から7°に変化
FO スタート K60、 FO 時間 100フレーム
マスク+カルトン(時計ペース2 3/4回転でPH定規に接触しないように注意)
PVメーター高さ大定規
遊び1mmスタート0mm水平小定規上
コース最大56mmまで
PH ペース 7.5°=0.5mm(4枚で30°)
(48枚で 360°=1回転、 120ペースで 900°)

用語集:
ダブル=繰り返し
DPA =映写機から映写スクリーンまでの距離
DKA =映写スクリーンからカメラまでの距離
フォーカス=スクリーン固定フレームからの後退距離
PH =水平パン PV =垂直パン
ペース=扱う要素(カメラ、ラック式パン棒、ネジなど)の移動距離
コース=扱う要素の全体コース
スタート=開始  縁=カメラフレームの縁
K75 =カメラのフレームナンバーが75
P21 =映写機のフレームナンバーが21
(露出はコンパーの露出計で決定する)
メーター=カメラに付属している垂直・水平パン用の2つのメーター(このメーターがカメラのパン移動を示す)
アクセント=動きの加速。例えば“ハンマーの一撃”のときに、“ペース”を大きくすること(“ペース”とは2枚の動画間の差異を意味する)
時計=時計回り  ブレーキ=停止前の減速




『禿山の一夜』

 1932年に『禿山の一夜』を制作していたとき、シーン中にどんな主題を登場させるかは私の担当だった。これは楽譜にそって、フィルムの仕上がり予定の順番で作っていた。一方、映画のスタンダードサイズのフォーマットはまだ確定しておらず、(これを決定する)第2回会議が開催される予定だった。そういうわけで、私は事前に光学サウンドトラックを作ることができなかった。これがあればさぞ参考になったはずなのだが。我々はストップウォッチを手にレコードを聴いた。ムソルグスキーは一種のシナリオを提供してくれていた。とても簡単なもので、例えば、「キエフの鐘が聞こえる」とか「教会の合唱が聞こえる」といったものだ。しかし、この“シナリオ”にはストーリーがまったくないので、私は必要な話を自分で想像した(多分正しいストーリーではないのだろうが)。私は真っ暗な部屋の中で曲を聞き、アクションを想像した。そこで私が心に描いたのは、理由はわからないのだが、金髪で裸の少年がベルゼブート〔キリスト教・ユダヤ教における悪魔の王子〕におびえ、走り続ける様子だった。このベルゼブートは悪の象徴であり、私がバサヴリュークと呼ぶ人物に変身する。これはスケートする悪魔で、自分の頭をカメラめがけて投げつける。切断された首をだ…

 この少年(私)とバサヴリュークの2人を私はゴーゴリの恐怖小説『イワン・クパーラの前夜』からとった。

 ゴーゴリのこの幻想譚は主人の娘に恋する農夫の話だ。金持ちの農場主は自分の娘との結婚を頭ごなしにはねつける。貧乏な農夫は悪魔と契約する。

 バサヴリュークは奇怪で不吉な人物であり、酒場にたむろするジプシーだ。彼は農夫に森の地下に埋まっている宝を教えようと申し出る。この宝を見つけるには。聖ヨハネ〔イワン・クパーラ〕祭の夜に森へ行かねばならない。というのは、羊歯の花が咲くのは1年中でこの日だけだからだ。そして羊歯の花が輝いている場所の下には常に宝が埋まっているのだ。

 聖ヨハネ祭の夜、農夫はジプシーに姿を変えた悪魔とともに出かけ、羊歯の花を発見する。

 悪魔は土掘りを農夫に命じる。鍋が見つかり、開けると宝で一杯だ…!

 この瞬間、悪魔は横にいる少年を短刀で刺すように命令する。この少年は農夫が恋する美女の幼い弟だ。悪魔の話では、宝を得るにはこの少年を殺すことが条件なのだ。これがゴーゴリの物語だ。

 ジェイ・レイダ〔エイゼンシュテインの紹介者として知られる人物〕の本を読んで、ムソルグスキーがこの曲に『聖ヨハネ祭の夜』と題する予定だったことを私が知ったのは、1970年になってからのことだった。私が『禿山の一夜』で悪魔におびえて走る少年を持ってきた理由はこれで判明した。その本『ムソルグスキー・リーダー』Mussorgsky Reader にはたくさんの注に混じって1つの大変長い注釈があった。それはキエフに住む若いコサックが、聖ヨハネ祭の夜にキエフ近郊の禿山で魔女のサバトに居合わせる話だった。男は魔女が悪魔と交わるのを目撃し…それからキエフ市が面しているドニエプル川で溺れることになる…

 この話は私の映画のラストシーンで牧人が川に沈む理由を解明してくれた。しかし、私はこの話をどうして知っていたのだろう? この注釈はゴーゴリの本に載ってもいなければ、見たこともなかった。この話を聞いたこともなかったのだ。笛を持つ牧人を入水させるように私に仕向けたのは何だろう? これはとても不思議でミステリアスなことだ。だが事実だ。何らかの方法で私の思考はムソルグスキーの思考と同じ歩みをたどったのだ。ゴーゴリの話は知っていた。確かにそれは怖い話だった。また、裸で走る少年はまさしく私自身だ。その理由は判明している。父が死んですぐ、ロシアからコンスタンティノープルに戻ったとき、1人の料理婦が私の胃腸の具合の見張り役となった。その家のトイレには1つの便座に3つの穴が開いていた。せっかちな料理婦は子供の私に言ったものだ。「さあ、さっさと片付けなさい。さもないと真っ黒おじさんがさらいにくるよ」 だから、設定としては黒い悪魔とはベルゼブートのことなのだが、裸の幼い少年(私)を追いかけているのはこの真っ黒おじさんなのだ。説明は以上の通りだが、当時の私にはそういったイメージを登場させた理由がわからなかった。


クレア:その若い牧人が溺れているとは思いもよらなかったわ。私にとっては、単純明快に、自分の影との出会いを意味していた。私自身を安心させるためかしら? フィルムを作っているときも溺れていると考えていたの?


アレクセイエフ:いや、違う。私が知っていた流れはボスポラス海峡だけだったし、ドニエプル川に入水した男のように、そこに一歩ずつ入っていくことなど問題外だからね。ボスポラスでは足が立たないから…

 『禿山の一夜』のもう1つの面、つまり精神分析については知らないだろう? 本物の精神分析ではないのだがね。これを成り行きで思いついたのは、『禿山の一夜』の、たぶん百回目余りの上映に居合わせたときだ。私があれやこれやのイメージを選択した理由はまだわかっていなかった。これらは私にとって幻想的なイメージであるには違いなかったとはいえ、様々な馬――例えば黒馬や白馬、よみがえる馬――や山中の魔女の輪、自分の首をはねて前方に投げ出すのっぽの男、戦う2人の魔女、美女と老婆…こういったものはみな何を言わんとしているのか? それを登場させた理由は? これについてはまったくわからなかった。約50回余りの上映の末に、私は次の解釈に達した。私は「何の話なんですか?」と良く訊ねられたものだった。私はムソルグスキーにしたがってこう返答していた。「夜と昼の戦いですよ。何でしたら善と悪の戦いと言ってもいいですよ」 これはインド・ヨーロッパの古くからあるテーマだ。それから?

 今の私にはわかる。

 2人の魔女とは? これは母だ。父がドイツのどこかで死んだとき、母は32才だった。私はその間、コンスタンティノープルの公園〔幼稚園?〕を回っていた。留守だった母が1ヶ月後に帰ってきたとき、母の顔は黒のヴェールにおおわれて黒かった。黒手袋をしていたので両手も黒だった(当時は今より喪服を見かけることが多かった)。3年間母は紫の服を着ることさえ許されなかった。客を招待するのも、自分から訪問するのも駄目だった。我々と食事するときも黒いヴェールをしていた。左手でヴェールを持ち上げ、右手でスープスプーンを運ばねばならなかった。母は癩病患者のように見えた。旅から帰ってきた母が私を抱きしめようと腕を開いたとき、私は母に脅えた。私は恐怖で失神せんばかりだった。母の性格はまったく変わってしまった。幸福で満ち足りた女性から、失望して、愚痴の絶えない、頭痛持ちの女性になり、気難しく、うるさく、頑固な人間になってしまった…要するに正反対だ。そして母から抱いたこの2つのまったく異なったイメージ、それが『禿山の一夜』で戦う2人の魔女なのだ。よみがえっては再び倒れる馬は、今にして思えば、父が死んでいないという、はかない望みを表わしているのだ。

 1931年、32年、33年はこうして過ぎていった…



『展覧会の絵』

 それから30年が経過し(1969〜70)、我々は次の“長編”である『展覧会の絵』にとりかかった。

 『禿山の一夜』については多くを語ってきたが、こちらについては話したことがない。残念だ… このフィルムには30年の間に発見したたくさんのことが詰まっているのに。この作品はずっと成熟して、奥が深く、豊かな作品だ。

 このフィルムを始めるにあたり、かなり長い休止の後でもあり、作画と撮影は先送りして、小説にイラストをつけるときのようにこの作曲家の人生に関する資料を全部研究することにした。だが、私が入手できたのは(フランス語の本が)2冊だけだった。ロシアの本は1冊もなく、モスクワにさえもなかった。すでに撮影に入っていたとき、郵便配達夫がロンドンで発行された大判の本を届けてくれた。それが『ムソルグスキー・リーダー』だ。これはムソルグスキーの書簡集で、編集・翻訳はジェイ・レイダだった。これはラッキーなタイミングだった。

 このフィルムは内容ではなく形態から手をつけ、内容は後からついてきた。ピンスクリーンそれ自体(作ったばかりのもので、大きなピンスクリーンに比較すると小さくて扱いやすかった)をオブジェとして考えても良いのではないかと私は考えた。厚みがきちんと測り取られていて、裏面には表面の正確なネガが見えていた。これを軸を中心に回転させることで、ジャンプやダンスができるようになった。これは驚きを約束するようにおもわれた。それに私はリスクが好きだ(偶然まかせは嫌いだが)。実際に、映像が回転することで大きな古いピンスクリーンはおおい隠され、その後で見えるようになった。これは舞踏のシーン(曲中では「古城」)で、画面の両サイドを使わずに人物を出入りさせる斬新な方法を提供した。



コマーシャル

 1930年の大恐慌がフランスに失業をまきちらし、仲間たちも仕事を失ったとき、クレアと私はドイツやオランダで出現したばかりのカラー映画にトライしようと決意した。カラーができるのはアニメーションだけで、約5年間はアニメの独壇場だった。この5年を私は“アニメーションの黄金時代”と呼んでいる。このように“独占”できたのは、実写のカラー撮影が不可能だったからで、カラー用のカメラは存在しなかったのだ。だが、我々アニメーターはカラーフィルターをかけてコマ撮りし、白黒ネガに3回露出することでカラー制作することができた(実写では“縁どり”〔フリンジング。輪郭に色ズレが現れること〕を避ける方法がわかっていなかったし、オートクローム(注12)のフィルムがなかった)。

 クレアと私はサドゥール言うところの“数分の実験”を合計30本以上制作した。

 コマーシャルを制作していたとき、私は次のような方針を自分に課していた。

 ―― 一流の音楽を使うこと。我がフランスにはオーリック、ミヨー、プーランク(彼らは“巨匠の世代”に属していた)がいたが、アメリカやドイツ、オーストリアに匹敵するオーケストラはなかった。我々はクライアントに多少ともその代価を強制することができた。

 ――かのセルゲイ・ド・ディアギレフの“ロシアバレエ”に匹敵するものをスクリーン上に生み出そうとした。これはあらゆる芸術の絶対的権威だった。

 ――さらに、各フィルムにつき1つ新しい実験に挑戦することを課題とした。例えば、フィッシンガーが煙草を行進させたように単語を行進させることや、複合振り子で撮影すること(『地球のエキス』『ネスカフェ』『煙』)、トータライズした物体の表面に投影すること、等々だ。

 しかし、私は1回だけフィッシンガーの真似をしたことがある。それは『新星』Etoiles nouvelles のときだった。まあ、そうなのだが、しかし私はフィッシンガーの方法をいまだに知らないのだ。だから私は手間をかけて難しいテクニックをまるまる全部自分で考えださなければならなかった。その上、私は彼より上手くやってのけたのだ。というのも、楕円形のエジプト煙草の形がプレスしたパンタロンを連想させたからだ。〔フィッシンガーの〕ムラッティ煙草の金口のCMでは、輝く反射光がマーチの拍子を刻んでいたのだが(注13)。ファンデア・エルスト Vander Elst からフィルムの注文があったとき、私はこの埋め合わせをした。これは煙草のフィルムではなく(クライアントの考えでは、煙草を吸うことはもはや当然のことになっていたのだ)、葉巻のフィルムだった。複合振り子のアイディアを思いついたのはこのときだった。すなわち、音楽のハーモニーに似た視覚ハーモニーを探求するという熱望に私は焦がれていたのだ。

 アニメーションは物語にふさわしい映像言語だと昔の私は考えていた。だが、今はもうこの意見ではない。サイレント映画の歴史がその字幕によって証明したように、物語映画は言葉の助けを必要とする。サイレント映画と共に育った私にとって、サイレント映画はパントマイムなのだ。

 若い頃の私は将来実現するものを無意識的に、あるいは理論として想像していた。当時の私の世代は“師匠”の世代が練り上げた考えを真理として押し付けられていた。特に肝心だったのは、芸術では自分とは畑違いの分野を避けることだった。例えば、作家が日没を描写することは禁止されていた。これは画家の領分である、云々。

 音楽の“領分”または“次元”とは何か、という質問に対して、私の答えはこうだ。「感情をコミュニケート(あるいは表現)することである」

 文学の領分は何か、と聞かれたら、物語ることだ、と答えるだろう。

 だが、それではアニメーションの領分とは、と問われても、人は自分の精神の産物を愛するのだ――これは理解可能だから(そして人が完全に理解できるのはこれだけだ)、としか私には答えようがない。


クレア:感情の反応ぬきで芸術に夢中になることはありえないわ。つまり、これは何かしら人を感動させるものなのよ…


アレクセイエフ:おそらく『3つの主題』を見た後なら、もっと簡単に返答できるのだろうが…


  "Entretiens avec Alexandre Alxeieff et Claire Parker"ed. Nicole Salomon & Jackie Just, Entretiens avec Alexandre Alxeieff et Claire Parker(Annecy, 1979)



1.ロシア出身の出版者(1894〜?)。20年代末にパリで出版社を設立。美術書・豪華本・ロシア古典の出版・翻訳をおこない、1931年より小型豪華本“プレイアード双書”を出版する(2年後にガリマール社に吸収)。1944年のフランス敗戦でユダヤ人の彼はアメリカへ亡命、クルト・ヴォルフのパンテオン・ブックスに協力した。

2.『カロー風の幻想画集』(1814)中の一編『クライスレリアーナ』Kreisleriana の有名な一節を指しているものか?
「夢の中というよりむしろ睡眠状態に落込むまえに起こる譫妄状態の中で、とりわけぼくならたくさん音楽を聴いたのちなどそうであるが、色彩や音声や芳香が和合しているのに気づくことがある」(深田甫訳)

3.クロズリー・デ・リラは、19世紀以来ボードレール、マラルメ、ヘミングウェイ、ジイドなど数々の芸術家に愛されたカフェ。1910年前後にグレーズ、ジャック・ヴィヨン、デュシャン、レジェらキュビストたちの拠点でもあった場所である。

4.「映画的総合におけるソリッド・イリュゾワール」で引用された『ブライトン線をゆっくり進め』と同一フィルムと思われるが、その説明では“3分間”となっている。

5.透視図法による遠近法ではなく、遠くの物体の色彩を薄くし、青みを加えることで遠近感を出す技法。レオナルド・ダ・ヴィンチが開発した。

6.レオン・ムシナック(1890〜1964)はフランスの映画史家・理論家で、『エイゼンシュテイン』Eisenstein(1964)などの著作がある。映画におけるリズムを“内的リズム”(事物の動き)と“外的リズム”(画面の結合・連続)とに区別し、前者を“映画詩”を構成するものとして重視した。

7.このスコア通りでは減速されない。実際のフィルムでは減速になっているので、アレクセイエフの説明に誤りがあるものと思われる。

8.『香り』Aroma は30年代に制作したフランク・アロマ社のCFであり、アレクセイエフが制作したネスカフェのCFは『100%』(1956)である。

9.19世紀ドイツの大物理学者・生理学者(1821〜94)。エネルギー保存則の定式化、神経速度の測定、聴覚の共鳴説、色覚の3原色説などの様々な業績を挙げた。著書の『生理光学』 Handbuch der Physiologischen Optik(Hamburg, 1909)ではトーマトロープや回転円板、立体鏡などを使用した混色実験をおこなっており、この“ダークグレー”もその辺りを指しているのであろう。

10.アラビアの大旅行家イブン・バトゥータの誤りか? イブン・ハルドゥーンは『歴史序説』を著したイスラム最大の歴史家。

11.『ブリンキティ・ブランク』のように、1コマおきにスキップして作画枚数を12枚/秒にすることを指しているものと考えられる。

12.三色分解カメラによるテクニカラーは1932年に実用化されたが、(1)専用カメラが必要 (2)フィルム消費量が3倍 (3)プロセスが複雑、などの欠点があり、大がかりな製作にしか使用されなかった。
 アレクセイエフが30年代のCFで使用したガスパーカラーもテクニカラーのように白黒ネガに三色分解するタイプである。低感度のため実写撮影には不向きで、1931〜40年に専らアニメーション用として使用された。
 “オートクローム”は1907年リュミエールが開発し、30年代までは最も普及していたスチル用カラープロセス。白黒乳剤層とRGBモザイクスクリーン層(約10ミクロンの粒子状カラーフィルターの集合体)の二層構造になっている。映画用としては、フィルターパターンを規則化した(カラーTVに似ている)デュフェカラーが若干使用されたに過ぎない。

13.フィッシンガーのムラッティ煙草のCF『ムラッティの行進』Muratti greift ein!(1934)のこと。両者とも煙草を脚に見立てて行進させているが、公平な眼で見れば、フィッシンガー作品の方が技術的にも優れていると言えよう。

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