絵画から映画へ |
「街頭音楽家から聞こえるのは身振りだけ…」(ロマンス) 街角で絵筆を動かす画家のまわりに集まる人々は何に惹かれているのだろうか? ナイトクラブの素描家に視線が集まるのはどんな力によるのだろうか? 習作やスケッチが完成してしまえば、もはや同じ通行人の注意を引く力は失われてしまう。 ここから1つの説明が引き出される。生まれつつあるイメージとそれを生み出す身振りの関係である。 絵画・彫刻・書は作者の運動を永久に固定したものである。芸術家の中には「制作を見られるのが嫌いな」人々もいる。彼らは無礼者を追い払うだけでなく、作品の中でもタブローの下絵を上塗りでメーキャップして運動の痕跡を隠してしまおうとする。 自分の制作方法を語りたがらない芸術家がいる一方で、この秘密主義を支持するファンもいる。運動を隠すことも芸術作品の楽しみ方の1つだからだ。絵を鑑賞する人間にとっては、運動の手がかりが少ないほど神秘性も深まるのだ。とはいえ、その運動の本筋を見抜くことも不可能ではない(順序はともかくとしても)。 身振りとイメージの関係を知る第1歩としては、中国の書が適例である。なぜなら、書家の身振りは厳密な規則に基づいているからだ。書は四角形の垂直な筋道で構成される。イメージはそれぞれ数本の決まった線で構成される。線はベクトルであり、その角度と方向、位置と筆順は決められている。読者は書かれた順にしたがって読み取り、眼は“筆の動き”を反復する。印刷機械が発明される前は、ヨーロッパでも同じだった。読者の身振りは特に子供の場合に顕著で、子供は指の助けを借りて読む。大人は手を動かす代わりに、視線を動かす。 絵画も書と同じく、ベクトルの集合体である。しかし、絵画は読むのではなく眺めるものだ。目が動くことには変わりないが、その道筋ははっきりした必然性に従っていない。書と絵画の中間段階として中国の巻き物画が位置している。この場合、読解の順序は色々な方法で示される(例えば顔の向きで)。 ヨーロッパ絵画でも、ベクトルの向きを決定できる場合もある。重なりあった層を解読できるのは稀で、1つの層の中でベクトルの道筋を確定するところまでいくのは例外的である。現在エスキスがもてはやされているのは、それが運動をつつみかくさず表現しているからなのだろう(「ジェスチャーをエスキスする」という慣用句は御存じのことと思う)。 展覧会の客は、絵の表面で「筆の動き」を指でたどろうとする衝動に駆られて、警備員に制止される結果となる(私がこれを確認したのはラウル・デュフィ展のときだ。ずらりと並んだファンがパントマイムの光景を繰り広げていた)。 “礼儀作法”のことはおくとしても、視線をわずかに動かすことで、手を動かさずにすませることができる。各個人が他人とは関係をもたなくなるにつれ、このように視線を動かすことが多くなり、その結果、運動の秘密も大きくなった。 写真が発明され、1つの視覚形式を提示することで、視線の観念は片隅に追いやられることになった。 視線 regard は運動性という点で視 vue とは区別される。視線が時間的なものであるのに対して、写真のヴィジョンは瞬間的で、それ自体は動かないもの(1個の印象)としてとらえられる。写真の瞬間性は、我々の生きた経験とは無縁である。なぜなら、我々は方向・焦点・明るさ・ヴァルール・色彩のガンマが絶えず変化する中で生きているからだ。その上、我々は動きながら視点を変えるし(芸術家も同じ)、我々の視点は二重でもある。 視線の関心は間欠的だ。これはまぶたのまたたきのことではなく、心が空白になっている状態のことだ。絵画の前でずっと目を大きく見開いていながら、実は“無関心”の状態で見えていない、そのことを思い知るべきなのだ。 1つの部分・性質から別の部分へ関心が移っていくうちに、その結果として人は「何事にも無頓着」になる。チェス盤を前にしても、駒ではなく、四角形が水平・垂直・対角(ルークやオフィサーの動き)(注1)に並んでいる配置の方に関心が向くということもある…。 こうして遊牧民は星空をものの形に見立てたのだ。 フランス語では、文字を“読む lire”、絵画を“見る regarder”、映画を“観る voir”は別の言葉である。映画を“見る”ことは可能だろうか… そう、映写機をストップさせれば可能である。映写機を止めれば、同じような(だが完全に同じではない)イメージが続いている様子が“見える”。動かないシーンほど、“無駄な”イメージが多くなる。だが、もし同一のイメージを映写したとすれば、シャッターの存在は意識しても、動いている感じは受けない。従って次のように結論することができる。映画の運動とは、似たような――同一ではない――イメージを間欠的に連続させた結果なのだ、と。 連続するイメージ(似てはいるが同一ではない)を1つのイメージに“融合”したら、どうなるだろうか? カメラシャッターを回転させたままフィル ムを停止させることは実際に可能で、その結果は“ストロボスコープ”である。これは写真の発明と映画の発明の中間段階にあり、マレーやマイブリッジの動物の運動研究によって明らかになったものである。未来派の多重化したバセット犬は大変馬鹿にされたものだ(注2)。だが、ギャロップする馬のスナップ写真を絵画に適用しようとすれば、それも同じように盲信的なことであった。カーリー神が同時にいくつものポーズをしていることやボッティチェリの絵画は、人間の視線の性質に関する観察と考察のたまものだったのである。 ボッティチェリの『ウェヌスの誕生』La nascita di Venere で、右からやってくる女を分析してみよう。彼女は“到来”している。その理由は、衣服のひだが“実際の右足”の前段階である2本目の左足を模しているからだ。1つ以上の段階が存在しており、3つのふくらはぎと3つの腿などが見える。 同じようなことが、ルーヴルの『レンミ荘壁画』Gli affreschi di Villa Lemmi〔図3〕の衣服について言える。複数の足が明らかに同一人物の一続きの絵であり、頭部でも同様である。“曖昧な点”もあるが、それはこの絵がストロボスコープではなく、この画家の意識の中の動画だったからである。下絵段階で、それらの中から1つだけを選択することを画家は拒んだのだ。 彫刻にひだが頻出するのは運動表現への願望によって説明される(凡庸なものを別として)。ロマネスク、ゴシック、あるいはバロックのドラペリーは、「特定の織物や布地から生じた」スタイルが原因なのではない。つまり、どんな布も決してそのようにモデルの上に垂れ下がることはない。ひだは衣服をまとう肉体の動きの表現を可能にしている。折り目のそれぞれはこの運動の各段階を意味しており、平行な折り目は動かない状態を造形する。全ては我々の視線と同調した分析によって動きを与えられる。 ボッティチェリが動きのある画題を対象にした画家の心の中の動画を再生させようとしているとすれば、ヴェロネーゼは画家のイマジネーションによる飛翔へと我々を導いている。すなわち、『カナの婚礼』Le nozze di Canaは7つの視点から同時に眺めたものである(カメラは俯瞰の視点から7個のアングルを選択している)。同様に、ブラックは主題を回転させ、そしてヴァン・ゴッホに至っては絵画自体を回転させている。 こうして、静止した作品が、主題の運動や主題に対する画家の運動、そしてタブローに対する画家の運動に関して、意識内に作り出される動画を理解させてくれる。 視線の秘密の中から、映画はクロース・アップの秘密を自分のものとした。普通の距離から主題にアプローチする代わりに、レンズは密着して、主題の一部分に視野を限定する(つまり、「注意を集中する」)。これは我々がブリューゲルの作品を前にして無意識におこなっていることだ。 エメルのフィルム(『ジォット』Giotto『ブリューゲル』Bruegel 『ゴヤ』Goya) を見るとき、我々は自分の視線の自由を彼に明け渡す(注3)。我々の眼は不動のまま、エメルの関心の動きに従う。彼はクロース・アップで強調したり、カメラを遠ざけることで関心を拡散し、あるいは近付けることで関心を集中させる。アップになるほど感情的重要性は大きくなる。ショットとショットを動画のようにつないで、運動に変える。こうして、エメルが『闘牛技』La Tauromaquia〔ゴヤの版画集(1816)〕から選択した“動画”は、私を笑いに誘う。エメルはアルバムをめくり同じシーンを僅かな差異で繰り返すだけでそれを動かす。動画の隔たりはアニメーションフィルムのコマの差異よりも確かに大きいが、エメルは“我々の解釈能力”を“引き出し”、運動を夢見させる。エメルのフィルムには人を虜にし全体を結合させる何かが存在している。これは未だかつて語られたことがなかったが、我々は今までの話でこれを確認してきたのである。 "De la peinture au cinema"〈原注〉「ディスク・ヴェール」誌 Disque vert, 1954年 1.ルークは前後左右にしか進めないので例としては不適当。また、後者(原語では "officier")がチェスのどの駒を指すのかは不明である。 2.ジァコモ・バルラ(1871〜1958)の『鎖につながれた犬のダイナミズム』Dinamismo di un cane al guinzaglio(1912)を指す。絵画における運動表現実験の話題では、デュシャンの『階段を降りる裸体No.2』Nu descendant un escalier No.2 と共に必ずといって良いほど挙げられる作品 3.〈原注〉ルチアーノ・エメルは1918年生まれのイタリアのドキュメンタリー作家で、美術映画のスペシャリストである。 |