連続性

 さまざまな映画ジャンルの中で、無条件に私の関心を引くものがある。それは総合によるフィルムである。

 運動が創造されるだけでなく、アニメートされる画面それ自体もメタモルフォーズの――まさに――各瞬間ごとに創造されるようなフィルムをそう呼ぶことができる。

 創造という用語が人間の創作、とりわけ映画にたいしてどんな点で適用できるのかを見極めなければならない。

 絵画では、スタイルはさておき、空想的生物の創造と不連続的要素の結合とを混同してしまうことが度々ある。例えば、ブリューゲルが奇想天外な化け物(人魚やミノタウロス〔ギリシア神話の牛頭の怪物〕のような)を表現するやり方にはぞっとさせられる。つまり、これは創作ではなく、特徴を組み合わせたものに過ぎない。牛−男は1個の統一体でなければならない。コラージュに不満があるのはこの点である。コラージュは、あらゆる創作から感じられる連続性を欠いている。こぶ付きの馬では、まだラクダとは言えないのだ。

 創作のプロセスでも空想の生物と同じことが言える。それは連続しているか、あるいは組み合わせに堕しているか、必ずそのどちらかである。後者では理性の産物が詩的創造にとってかわっているのだ。

 ある種の古典芸術には(例えば即興の雄弁術・詩・音楽・ダンスで)可能な限りの連続性があるが、彫刻・絵画・版画・デッサンではこの連続性は不明瞭なことを認めねばならない。後者では、多くの場合、アーティストの作業はステップに分かれている。例えば、版画では“…刷”〔試し刷、本刷、第2刷、etc.〕と呼ばれるものである。そして印刷の作業としてはそれぞれ不連続だが、(その結果としてできた)各刷の版画の間には連続性があってもよい。私はピンスクリーンで1枚の絵を完成させて1枚1枚撮影することにした。進行状況が(飛び飛びに)不連続になるのはしようがない。だが、それぞれのイメージの変化には連続する進展を与えることができるし、これによって『禿山の一夜』といったフィルムが可能になったのだ。

 油絵でも同様に、作画のそれぞれの段階と段階の間で、一種の連続性に達することが可能であり、画家が作画作業を全体的に進めようと努めれば、この連続性に到達することもできる。例えばスーラがその1例である(『サーカス』Le Cirque の現存する2つの画面がこの訓練を示している〔『サーカス』の習作のことか?〕)。従って、画家と画面の関係が進展する状況を映画化することは可能だと考えられる。肝心なのは、作画の進行が一段落する瞬間を決定し、その瞬間を1枚ずつ撮影することだけだ。だが、これは画家本人にも決めかねることだろう。

 造形芸術のアーティストは、本来なら連続していない特徴を連続させようと常に行動する。実際に不連続なのか、それとも見かけだけで奥底には連続性を隠し持っているのか?

 貝殻の形のリズミカルな特徴は、波動現象によって説明されている。これが複合振り子の振動写真と似ていることが、短編CF制作に後者を用いることを私に思いつかせた。これはクレア・パーカーとジョルジュ・ヴィオレの協力で企画しているものだ。

 まず、必要なのは振り子がトレースする“ソリッド・イリュゾワール”が、吊り糸の長さを少しずつ変化させるにつれてどう展開するかを分析することだ(注1)。この仮想的形態(これは肉眼で“トータライズ”することができない)が映写スクリーン上で展開していく様子は見事に連続していた。ところが驚いたことに、この進展の中で繰り返しが起きる場合を発見した。1つの形態の進展が終わり、それと行き違うように新しい形態が生まれ、それもやがて終わることになるのだ。吊り糸の正確な寸法が測定できないので、何か測り知れない関係が色々あるのだろうということで決着した。

 一方、トータライズした立体の形が発生してから消滅するその変化の間に、ある段階でこの形が決定的な形をとる瞬間が訪れる。昔の世代ならこれを“調和のとれた”と形容したに違いない。音楽の和音の場合と同じく、この段階は単純な関係を越えて起こるのだ。

 この決定的瞬間を知ることができないのは映写の特徴である(静止した芸術とは対照的だ)。肉眼はスクリーン上でひとつのイメージを全体から取り出して見ることはできない――たとえ観客がそのイメージがフィルムのどの場所にあるのか正確に知っていたとしても。肉眼に対するこの容赦ない絨毯爆撃から人が体験するのは、進行状況のみである。これには全てのコマが欠かせない。映画は意識にたいして一瞬でも停止することを拒む。意識の選択が可能になるのは、フィルムをばらばらに(1コマ1コマ)検討する場合だけだ。

 総合によるフィルムにおいて、造形芸術のように完全に連続した即興方法はまだ知られていない。デッサン・アニメもオブジェアニメも、事前に始めから終わりまで計算し確定した段取りに頼ることで、合理的に分解した展開に作品を還元してしまう。これは詩をパラドックスで代用することだ。

 他と同じく、映画でも、創造は1人の個人に限定されているというのが私の考えだ。ただし、決定済の目標によってあらかじめ段取りを決めておくのではなく、盲目のカキのように手探りで、動画を1枚1枚創造し、恐ろしく時間をかけることが条件だ。このとき、その結果は無意識を骨格とする有機体の様相を見せることになる。

 だが、ここで重要なのは内的生命や新しい総合であり、これを映画が与えてくれることは滅多にない――貝のすき間にじっと隠れている真珠のように。評論家の言葉がどのようなものであれ、果たしてこれは先駆者なのかどうか、まだその運命は明らかになっていない。しかし、マレーやマイブリッジによる最初の総合を思い起こすことは勇気づけられることである。


  "La continuite"〈原注〉「ラージュ・デュ・シネマ」誌 L'Age du Cinema 1961年第6号



1.〈原注〉(結び付けた)2個の振り子のそれぞれの時間は、振幅と無関係に“一定”である(等時性)。この結果、“トータライズ”した軌跡は非常に正確である。

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